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雪の下  作者: 海勢 真輝
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相方

   相方


「じゃあ、明日はホント頼むよ、二人とも。これからが勝負だからね。期待してっから。お疲れさん」

「お疲れ様でした」

「お疲れっした」

 バタン。と、楽屋のドアが閉まる。狭い楽屋の端と端になるべく離れて座る。

 どちらからともなく「フーッ」と溜息。煙草に火をつけて、携帯。無言の時間が部屋に溜まる。そして。

「ハル。頼むぜ、おい!」

 相方、どん北村のダメ出し。最近のパターン。

「今日のなんだよ。ツナカンさんがいいパス出してくれたのによ。バシッと決めろよ。最近おかしいぞ、マジで!」

「……」

 相方には目もくれず、スマホに視線を注ぎ続ける。

「ったくよ。やる気がねんならやめちまえよ!」

「やだよ」

「は?」

「やだっつってんだよ」

「なんだそりゃ。ガキかっつんだよ。ホントにおまえやる気がねんならやめてくれよ。迷惑なんだよ」

「……」

「はぁぁ……。かえっかな」

「お疲れ」

 荷物を持って立ち上がった相方にわざわざ背を向けて、言いながら右手を軽く上げてみた。苦虫を噛み潰したような相方の顔が、見るまでもなくはっきり見えた。

「ずっと言おうと思ってたんだけどよ。おまえ、なんか実家帰ってからおかしいぞ」

「……」

「なにがあったか知らねぇし、興味もねぇけどよ。けぇりてんならとっととけぇってくんねえか。ホントに迷惑、邪魔、ウザイんだよ!」

 ドン!

 ドアが凄い音を立てて閉まる。衝撃で体が震えた。

 お疲れ様でした。

 尻尾を振って甘える犬のよう、ドアの向こうで相方が気持ち悪い挨拶をしているのが聞こえてきた。


「フーッ」

 もう一息煙を吐き出した。そこにまだ残る相方の「残像」を消してしまうように。あるいは、よりはっきり浮かび上がらせるかのように。

「犬じゃなくて狸か」

 声に出さずにいられなかった。

 まさか隠しカメラもないだろうと思いつつ楽屋をぐるっと見回した。カメラに映る自分の姿から眼を背けるように、ラインを開く、新規のメッセージは何もないけど。

「ウザイ、か」

 俺はウザイって言葉がだいっ嫌いなんだよ! 

 そう言って突っかかってきた友人を思い出した。確かに、言われてみると嫌な言葉だ。


 あの短い夏休みから一月半、実際、ちょっとおかしい。

 舞台に上がっているとき、スタジオで、あるいはロケでカメラの前で、仕事をしている最中、テンションを上げていかなければならないところで「ふっ」と我に返ることがある。

 アクセルべた踏みで加速していって一気にトップスピード! と思ったら急ブレーキ! 

「ガスの元栓締めたっけ? 猫の餌入れてきたっけ?」

 そんな感じ。猫は飼ってないけど。

 そこから再び加速しようと思ったって上手くいくわけない。相方についていけるはずがない。周りのテンションに乗っかっていけるはずがない。

 お客さんと空気を共有できるはずがない、笑いを取れるはずがない。

 集中できていない。もっと上手くやらなきゃいけない。

 ――あいつらが見てるってのに。こんなんじゃ笑われちまう。笑わせねぇと。

 そのためにもっとコミュニケーションとらなきゃいけない。こっちが歩みよるんだろうが。夜、そう決意しても、翌日仕事場で一緒になるとなにも変えられない。

 眼を閉じる。

 前に伸びるレールは先で闇に呑まれる。

 九月も半ばを過ぎたのに、東京の夜はいまだ生ぬるい。

「地元じゃもう秋の匂いが野山に満ちてんだろなぁ」

 想いを込めて見上げた空は悲しいくらいケバケバしかった。地元に帰ったりしなければ、今日も「不快」を感じることなどなかったのかな。


 多くの人と、人の思いと、喧騒に溢れている大都会東京。

 人口密度と老人の孤独死があたかも反比例するように、周りに誰もいないから孤独なのではなく、人がいても心が触れ合わないことが孤独なのだ、この東京砂漠。

 誘いの電話もラインもこない、俯かないで歩いていこう、この東京砂漠。夜の砂漠をさらに地下へと潜っていく。


 地下鉄の臭い。最初に乗ったとき妙に得意な気持ちになった。独特の臭いを嗅ぎながら。「これで俺も『東京人』の仲間入りだ」って。

 ――あいつらきっと地下鉄なんか乗ったことなんねぇだろ。

 鼻でふっと笑ってみる。

 純粋で純朴なみんなの顔に混じって、どうにも固くてなにをしても食えない男の姿が浮かび上がってくる。

 竹切狸のような相方「ドン北村」の姿。


 出会ったのはこっちにきて初めてのバイト先だった。

 某ファーストフード店。夕方から夜中まで、営業時間中はハンバーガーを作って二十三時に閉店した後は掃除と次の日の準備。

 閉店作業は時間帯のこともあって十八歳以上限定、時給も割増になる。

 だいたい五人で行うのだが、高卒で一番歳下ってこともあり、みんないろいろとかわいがってくれた。

 学生もいればフリーターもいるし、昼間は普通にサラリーマンをしながら小遣い稼ぎにくる人もいる。

 他には同じように夢を追いかけて地方から出てきた人、ミュージシャンで夢はメジャーデビューって人、等々。

 食事や飲み会はもちろん、おねーちゃんのいる店とかいわゆる「風俗」なんかにも連れてってもらったり。

 東京という場所にストレスなく入り込めたのは間違いなくあの人たちのお陰だ。

 衝突したこともあったし、不愉快な思いをさせてしまったこともあった。恋愛、そして失恋も……。

 全部ひっくるめて、「はるまげどんのハル」の素地は、間違いなくそこで作られた。

 でも、「はるまげどん」の素がそこでできたわけじゃない。「はるまげどん」の相方はそこにはいなかった。


 毎日、閉店の三十分前に作業用のつなぎを着た人が店に入ってくる。

 お客さんではない。

 そのつなぎの人はカウンターの中にまで入り込んできて「おざーっす」と店員に挨拶をする。狸のように丸い顔をして、目が合うと「おざーっす」とペコッと頭を下げる。

 初めて見たとき、「なんだこの人は?」と怪訝に思った。「メンテさんだよ」、先輩が教えてくれた。

「メンテさん」は夜中、店の清掃とかをしながら朝番の人がくるまでお店の番をする人だ。たまにひょろっとした人だったけど、だいたい狸の人がきていた。

 ほとんど毎日バイトにいってたこともって、ちょっとづつ話をするようになった。

 おかしいのが顔だけではいことに気づくのに時間はかからなかった。

 仲良くなると、こいつがめちゃめちゃ面白い。それが相方「どん北村」こと北村俊彦だった。

「昨日見たっすか? やっぱ『がずあるがずえる』は面白いっすよね」

 北村はハルより二つ歳が上だった。

「見たよ! 若手じゃナンバーワンだろ。あいつらぜってぇーブレイクするぜ」

 会話はいつもお笑いの話から入って。

「北村さん、いいとこ教えてくださいよ」

「ジャンルは? ヘルス? ソープ?」

「なんでもいいんすけど」

 ハルは機材を拭きあげながら、北村は掃除の準備をしながら、話をしながらも要領よく仕事をこなしていく。

「えっとな、あそこ、あそこにあるんだ、いいところが」

「どこっすか」

「巣鴨」

「すがも! マジっすか! ゼッテーウソだよ。おじいおばあの原宿でしょ」

「マジだって」

「いったことあるんすか」

「いや。トゥナイトでやってた」

「トゥナイトって。北村さんどうやって見んすか、いつもここにいんのに」

「録画して見るにきまってんだろ」

「あれを録画してんすか?」

「おーい! トゥナイトバカにすんなよ。東京でのセイ活をエンジョイしようと思ったらあの番組は外せないだろ。チェックしとけよ、トゥナイトは」

「セイ活って、どっちの『セイ』っすか?」

「女性の『性』に決まってんだろ」

「北村さん、彼女は?」

「彼女なんかいねぇよ!」

「そんなのチェックしてるからできないんじゃないっすか」

「うるせぇよ!」

 いつもこんな話ばっかり。毎日北村がくるのが楽しみで、その狸のような顔が店に入ってくるともう顔が勝手ににやけてしまう。

「なに笑ってんだよ、この変態が!」

 まともに挨拶してたのは最初だけ。あとは会うなりそんな感じだった。

 そんな北村も、それから半年ほどで店を辞めてしまった。

 寂しくはあったが、だからどうしようということはなかった。お互いの連絡先は交換していたのでなんかあれば連絡がくるだろうし、こっちからもすればいいと思っていた。


 お互い連絡もないまま半年ほど経ったある日、突然北村から電話がかかってきた。久しぶりにちょっと会いたいということだった。なにか話があるからと。

 ピンとくるものはあった。東京にきて一年、苦しいながらもなんとか生活に慣れてきて、そろそろ動き出したいと思っていた。

「二人でお笑いやらないか」

 北村はちょっと笑ってた。しかし、その熱意、決意は充分に伝わってきた。

「はい」

 この瞬間、「はるまげどん」は誕生した。

 場所は北村のアパートの近くの某ファーストフード店。二階席の窓際。夕方の街に溢れる人々を、二人ともじっと見下ろしていた。


 地下鉄から地上に上がる。

 辛うじて明かりのある駅前から少しでも歩けば街灯もまばらな寂しい道。

 前を女性が歩いているときは要注意だ。痴漢か変態露出男かストーカーと間違えられないように細心の注意を払わねばならない。

 実際、前を歩いていたOLが後ろを振り向いた瞬間走り出すというようなことも何度かあった。


 相方のアパートの近くもこんな感じだった。暗い道を、激しいお笑い論を交わしながらよく歩いたっけ。

 事務所に所属しているだけで仕事もお金も入ってくるわけじゃない。

 バイトをしながらネタ作って、ライブして、ライブのチケットだって自腹で買ってそれを知り合いに買ってもらって、配って。

 帰りの地下鉄からいつも反省会。白熱しすぎて周りの人から変な目で見られて……。

 生活は苦しかったけど、考えてみたらあの頃が一番真面目で純粋だった。楽しかった。

 テレビとかに出られるようになって仕事も徐々に入ってきた。

 収入も増えて世間の人たちに少しずつ認知され始めたのがここ四、五年。真っ白なスケジュールが一つでも埋まるとそれだけで「やった!」って喜んだ。

 今は漸く月の四分の三くらい埋まるようになった。

 もちろん、こんなもんで満足しているわけじゃない。

 マネージャーさんも言ってた通り、むしろこれからだ。

 充分理解している。向こうだって理解しているだろうに、最近なんかおかしい。思い当たることがないこともないが……。


 去年の十一月、正月特番の撮影であるグラビアアイドルと一緒にロケにいくことになった。

「ヤッベー、ササミチと一緒だよ!」

 相方のアパートで、相方はそれまで見たこともないほど興奮していた。

「ササミチ? 誰だそれ?」

「おまえ知らねぇのかよ! 佐々美智代ちゃんだよ!」

 佐々美智代。二十二歳のグラビアアイドルで、ほとんど毎週なんかの雑誌に写真が載るという売れっ子。

「ふーん。知らんな。あれか、なんとかいうグループの一人か」

相方は確かにアイドルには詳しい。

 が、「ササミチ」を知らないというのでは不勉強のそしりを免れない。その頃、グラビアだけでなく、テレビなんかにも出始めていた。

 アイドルや女優とかには昔から興味がなかった。テレビや雑誌に出てくるような女性は現実味がなくて「好意」の対象になかなかならない。

「アイドルや女優のイメージDⅤDに金使うならAVのがましだ!」

 と大きな声で言ったことはないが、心の中では頑なにそう思っていた。自分がこの世界で働いている今でさえ、信念はぶれていない。しかし、だ。

「ほら、これ!」

 バサバサと手近の雑誌をめくる相方、それを手渡されたほうは。

「ふーん」

 確かにかわいい。それはむしろ当然だろう。

「『ささ』じゃなくて『さっさ』だろ。んーん。確かにかわいいな」

「うすっ! リアクションうすっ!」

 そう言いながらササミチのよさについて熱く語り始める。要するに、大ファンだった。

 相方の、「ササミチ」についての趣味論から性格論から高校時代のエピソードまで、聞いたそばからすっかり外部に垂れ流しながら、強いてその女子の気になった点と言えば。

 ――細身のわりに乳あるな。

 という、ビキニの胸の谷間だけだった。

 

 仕事も無事終わり、幾らか仲よくなって携帯の番号とライン交換もした。

 それからもちょくちょくラインや電話のやりとりをしていた。相方もしてると思ってたし。

 その年のクリスマス、彼女と一緒にいたのは彼女を「誰だ?」と言った方だった。

「売れっ子アイドル」という肩書きとは裏腹に、中身は普通の女の子だ。いろいろな悩みの相談にのってるうちに二人で会うようになり、なるようになった。

 相方にはすぐに報告した。始めはなんとも言えない表情をしたが、「他の男じゃなくておまえでよかった」、そう言ってくれた。


 付き合い始めてすぐに彼女のマンションに転がり込んだ。

 一応自分のアパートも借りたままにしていたが、ほぼ彼女の部屋で同棲状態だった。

 相方もその部屋には何度かきたことがあったが、じきに呼んでも断るようになり、こっちも呼ばなくなった。相方のその態度を、「やっぱりあんまりいい気がしないんだろう」くらいに考えていた。

 しかし、だからといってコンビの雰囲気まで悪くなったということはなかった。感じていた限り、むしろ以前より熱がこもっていた。

 仕事は順調だったし、ライブも大盛況でいつも満員だった。そしてそのうちに、コンビの仕事以外にピンでの仕事がちょこちょこ入るようになった。

 昔から運動神経には自信があったので運動系の番組に、相方はバラエティ番組のレポーターなどに。数はそんなに多くなかったけど、「いっぱしの芸人らしくなってきた」なんてお互いに言い合っていた。

 コンビでの仕事に違和感を憶えるようになったのはそれから少ししてからだったか。相方との間に「ズレ」を感じるようになった。

 初めはそんなに深く考えなかった。お互いにピンで仕事をするようになって、少し息が合わないんだろう、くらいに考えていた。

 そして、はっきり「それ」を感じたのは今年の五月。テレビのネタ見せ番組でコントをやったとき。

 相方のボケにつっこみを入れた、そのときの相方の顔、表情、視線。冷ややかなもの。本番中、全身に鳥肌が立った。

 本番終了後、楽屋でマネージャーに言われた。

「今日はなんかいま一つだったね」

 その言葉通り、お客さんの反応はいま一つ。こっちの手応えはいま二つ。

「今が大事な時期だから。一つ一つ、しっかりこなしていこう。まだまだこれからだよ、でかい波起こそうよ」

 マネージャーが腕をくねくねと波のように動かした。次の予定を連絡して、部屋から出ていった。二人残された楽屋の空気が、ナメック星に向かう宇宙船よろしく重くなる。

「なんだよありゃ!」

 マネージャーがいなくなるなり、相方が吼えた。

「は?」

 それが精一杯のリアクション。狸が本気で切れている。

「『は?』、じゃねんだよ! なんだよ、あの中途半端なつっこみは!」

「なにがだよ! 半端はそっちだろ!」

 確かに、中途半端だったのはこっちだ。あの一瞬、集中が百パーセントでなかったことを認めないわけではない。

「つうか、本番中にあんな顔すんじゃねぇよ! さらっと流して次につなげりゃいいだろうが!」

「なに逆切れしてんだよ。わけわかんねぇし」

「切れてねぇし」

「最近、おまえ気持ちが緩んでんじゃねんか。コンビの仕事、雑になってっだろ」

「なってねぇよ。そりゃそっちだろうが! おまえだってこないだボケミスって」

 お互いの誹謗合戦はそれから五分ほど続いた。

 正しい批判であれば甘んじて受ける。今までそうしてきたつもりだ。コンビがさらに成長するために必要だから。

 そのときはそれができなかった。図星をつかれたから、というのはあるだろう。

 が、それだけではなかった。

 いい加減、争いの不毛なことに相方も嫌気がさしたらしい。まとめの言葉を、やはり上から言ってきやがった。

「今が大事なときだって、わかってんだろうが、よぉ! しっかりしてくれよ、なあ!」

 すぐに出ていくかと思った相方は、しかしなかなか出ていかなかった。もちろん、視線も言葉も交わることはなかった。

 大きな溜息を一つ吐き出し、「お疲れ」と言って楽屋から捌けていった。

 狸のやつ、一本も吸わずに出ていったな。そんなことを思いつつ、煙草に火をつけ、大きくゆっくり煙を吐き出す。鏡に映った己の顔を、目をじっと見つめた。

 鏡から顔を背けると、ヤツの言葉が蘇る。

「グラビアアイドルと付き合ってるからって、勘違いすんじゃねぇぞ!」

 相方は、それまで刺すようだった視線をそらしながらこう言った。

「してねぇし。関係ねぇだろ」

 それこそ、お互いにとっての核心だった。

 逃げていった相方の顔を、逆に追いかけた。相手の目ではなく、口の辺りに攻撃的な視線を投げたが、相方が痛みを感じたかどうか。

 ――舞台上でのやつの目、あの目の底にあった冷たく鋭いものはこれだったのか……。

 舞台で見えた冷たさの底に、こんな熱いモノが練成されていた。極端な言い方をすればそれは「悪意」あるいは「敵意」。

「ダメ出し」というにはあまりに直截的で、あまりに辛辣だった、相方の感情。

「なんなんだよ、あの野郎!」

 マンションに帰ると、ササミチは既に帰っていた。日付も変わるような時刻である。

 食事は各自で済ませていたが、シャワーを浴びて一緒に酒を嗜むと、体の中で動き出す。

「最近たるんでるとか気を引き締めろとか、なんであいつにんなこと言われなきゃなんねんだよ」

「どうしたの? 珍しいね、キタさんの悪口なんて」

「ネタがすべったの全部俺のせいにしやがった」

 なんとなくテレビはついている。彼女はグレー無地の半袖ティーシャツにスウェット装備でもう寝る準備ができていた。ちょっと眠そうでもあった。

「ダメだったんだ、今日」

「ああ。マネージャーにも言われた。確かに、自分でもイマイチだと思ったけど、俺のせいとかじゃなくてさ、あいつだっておかしかったっつうの」

 相方のクソまずい態度を思い出す。

「思ってたんだけど、最近あいつちょっとおかしいよ。調子乗ってるっつうか、なんか俺のこと上から見てんだよ。年上だし、もともとあの人に誘われたんだけど、でも前はもっと、同じレベルでなんでも言えたのに」

 彼女は手に持ったグレープフルーツの缶チューハイをじっと見つめていた。それがいつもの彼女だった。

 こうして愚痴を聞くときの、彼女の横顔。きれいな曲線と唇のアクセント、少し上気した頬、潤んだ瞳、彼女の横顔が、たまらなく好きだ。

「ごめん。あんまり聞きたくないか」

「珍しいよね、キタさんのことそんな風に言うの」

 仕事の失敗とか、先輩後輩のことでの不満、街で声をかけられて「なんだ、違うじゃん」と言われたこととか、そんな話はよくするが、そういえば相方に対する不平は、ここまで感情のこもった愚痴は言ったことがない。

 ちょっと困ったような笑顔を浮かべた、彼女の髪を思わず撫でて、反対側の耳を優しくつまんだ。

「くすぐったい」と彼女はちょっと肩を竦めて笑ったが、こちらを見ようとしなかった。

「ハルが、ズルイんだよ」

 語尾を上げながら言った。

 え? 

「ズルイ」という言葉ほど状況によって受け取り方のかわる言葉も少ないのではないか。

「いろいろ持ちすぎてるから、キタさんが嫉妬するんだよ」

「いろいろ?」

「いろいろ」

 そう言って、彼女の横顔がまた、輝いた。

 ルックス、運動能力、遊び仲間、比べてみた。彼女が「いろいろ」に込めた「オンリーワン」にはっきり気づかないまま、艶やかな唇を奪った。チューハイで濡れた唇は一瞬冷たかった。

「ん」

 と喉が鳴った。グレープフルーツの残り香が仄かに鼻腔を通り抜けた。

 唇を重ねつつ、髪を撫でたその腕で彼女の肩を抱き寄せた。逆の腕で彼女の腰をとり、こちらに向きなおさせる。

 それまで無関心を装っていた細い腕は、缶チューハイをテーブルに置くと、漸く首に絡みつく。首に触れた彼女の肌はサラサラだった。

 ――ざまぁみろ、俺は今、ササミチと抱き合ってる、キスしてる!

 男の腕はティーシャツの胸を触った。生地の上から柔らかな膨らみを弄ぶ。掌はすぐにティーシャツをかいくぐった。

 シャツの下は、少しべとついていた。彼女の胸は抜群の柔らかさと美しさを兼ね備えていた。

 ――俺は、ササミチの胸を揉んでいる! ざまあみろ!

 首と擦れあう腕もべとついてきた。息が荒くなる。押し付けあう胸と胸、鼓動が鼓動を叩き合う。

 臨界点だ。欲望がメルトダウンを起こし、理性という障壁を崩壊させる。それは、性交ではない。唇を離し、じっと目を見詰めて。

「ミチ、俺のこと好きか?」

「うん。ハルは」

「うん」

「うんじゃわかんない。言って」

「好き、好きだ、大好き、チョー好き」

「うん、ミチも。ミチもハルのことチョー好きだよ」

 俺は、ササミチと愛し合っている! ササミチは、俺のものなんだよ! 

 彼女と抱き合うたび、心で叫ぶ。

 この夜は、いつもと少し違っていた。いつも叫びは「世の中の男ども」に向けられていた。

 彼女のグラビアを、DVDを見てシコシコしてる男ども、ざまあみろ、誰にも渡さない、彼女は、彼女の「乳」は俺のものだ!

 今夜は違った。

 確かに「ササミチ」とは人気も認知度も、ギャランティも釣り合わないだろう。

 でも、俺は勘違いなんかしていない。彼女と抱き合っている、このことは、妄想でも勘違いでもない。これは、リアルだ!

 ――ざまあみろ、この狸が!

「なんか言った?」

「なんも言ってないよ」

「エッチなんだから」

「なにが。確かにエッチだけど」

「変な顔」

「鼻をつまむんじゃないっつうの」

「ハルの鼻、好きなんだもん」

「鼻だけ?」

「うん、鼻だけぇ。電気、消して」

 まるで彼女の心に己の傷を刻み付けるかのように、男は女を抱きしめた。彼女の甘い吐息を、全て己の欲動で噛み砕くかのように。


 相方とは相変わらず微妙な空気。それをマンションの一室にも持ち込んで、彼女との関係も徐々に荒んでいった。

「いっつもいっつも『あいつあいつ』って。そんなにイヤならもうコンビ解消しちゃえばいいじゃん! バッカみたい。帰ってくれば愚痴ばっかり。あたしもう疲れちゃった」

 彼女に対して逆切れなどはしなかった。なるべく冷静に話をしようと努めたつもりだ。

 七月の帰省を挟みつつ。

「別れましょう」

 彼女のアパートを完全に追い出され、住み慣れた高円寺の安アパートに戻ったのが九月の頭。やはり落ち着く。

 後日アパートに届いた荷物の中にメッセージらしいものが……。どこにもなかった。

 独り身の寂しさをかみ締めながら日をめくり、いつしかカレンダーが十月になった。

「最近いきなり涼しくなった気がするな」

 一人きりのアパートでそんな独り言。涼しいづらない。心の中では秋など通りこして一足飛びに冬の訪れ。

「山のほうじゃそろそろ雪が降るだろう。かなり寒いんだろうな……」

 子どものころの町の寒さと今の気持ちが重なったらしい。ぼやけたような東京の空を見上げながら、ふっと郷愁にとり憑かれた。

「芸てのは、やっぱり道だろ。ザ・ストイック、か」

 秋という季節、いろいろなことを考えるにはいい季節……。ほとんど強がりだ。

 寂しさなんだか苛立ちなんだかが入り混じって、ドロドロに煮えくり返った坩堝のような心の器が少しづつ冷めてきたとき、そこに現れたのは傲慢で醜い己の姿だった。

 仕事上での相方に対する不満を彼女にぶつけていた。彼女を「征服」することで、仕事のストレスを発散したかったのかもしれない。

 それは最早愛や恋の一つの表現方法などではない。一方的な陵辱、レイプだ。横八無限のビックバンアタックだ。

「ぶつけていいよ、全部あたしが受け止めるから、ハル、大好き」

 彼女の言葉に甘えてしまった。年上の男がバカみたいに言葉通りなんでも曝け出しやがって、彼女もショックだったに違いない。

 ――彼女にひどいことをしてしまった。もう一度彼女に会いたい、会って話がしたい。

 ヨリを戻すまでいかないまでも、せめて一言謝りたい。

 そんな悩みを抱えながらもう一度、最後にもう一度連絡を取ろうかどうしようかと迷っていたとき、楽屋に置いてあった週刊誌に彼女が載っていた。

「フーッ」

 なんとなく、こうなることを待ち望んでいたのかもしれない。衝撃よりも、安堵の溜息だった、と思う。

 白黒でなおさらほんとに彼女なんだかはっきりしないピンボケ写真の載ったページを破りとると、捨てようかと迷うこともなく四つ折にして財布に入れた。

 アパートに帰り、記事を読んで一人、酒を飲んで涙を流した。

 記事を肴にして、焼酎の涙割りを、飲んで飲んで飲まれて飲まれて飲んで、飲んで、酔いつぶれて眠るまで~、飲んで~。

 やがて男は、静かに眠りに落ちていた。

 眠りこんだ男の頬の下敷きになったその写真が、涙と汗でふやけていた。

『サチミチ、六本木で深夜デート! お相手は若手イケメン俳優!』

 

 恥ずかしくて人に言えない「儀式」を済ませた翌朝、記事は燃やして灰を砕いて、風に吹き流そうとして、やっぱりゴミ箱にすてた。灰にはちゃんと水をかけた。

 そんなこと、別に相方にイチイチ報告することではなくないか。その手の噂は、特に人の不幸話は、この世界、すぐに人の知れるところとなるもんだ。

「おい、別れたんだってな。飲みいこうぜ」

または。

「おい、ササハル、あ、別れたんだっけ。いくぞ、合コン。もう数に入ってんだ」

 毎日こんな感じ。

 打ち上げ、合コン。仕事に飲みに、一日はあっという間に過ぎていく。年末年始の特番なども入り始め、失恋の前より仕事が増えていた。

 そんな中で、失恋のことについて、相方のほうから何か聞いてくることは一度もなかった。

 最近では仕事が終わってから二人で語り合うことはほとんどない。ネタ合わせのために、仕事の前に一時間ほど話をするだけ。

 ある時、マネージャーの松沢憲次、通称マツケンが小声で聞いてきた。

「なんかさ、キタちゃんがピンの仕事を増やしてくれみたいなこと言ってたんだけど、なんかあった?」

 内心、そこまで言うかと相方に驚きつつ、

「倦怠期っつんすか。他のコンビでもあるっていうじゃないですか」

「まぁね、もっと二人でがんばって欲しいんだけど……」

 マツケンは周りを確認し、声を一層落として言った。

「ぶっちゃけ、ホントここだけの話、キタちゃん、なんかあんまり芳しくないんだよね」

「え?」

 マツケンは北村より年上の三十後半。結婚して子どもがいる。

 メタボリックまではいかないが、百七十そこそこの身長に決して引き締まっていない体、優しさ溢れる目に柔和な笑顔で親しみやすさは抜群。芸人の中でもマツケンを悪く言う人間はいない。

「ある芸人さんから『からみずらい』って言われちゃってさぁ。いつもいつもじゃないんだけど、たまに空回りしてるみたい。はまるとはまるんだけどねぇ」

 ちょっと困った顔でそう言った。心配そうな顔をしても、相手にそれほど深刻に思わせない安心感がこの人にはある。

 現に、表情はすぐにいつもの明るい笑顔に変わって。

「ハルちゃんにはきてるぜぇ。正月特番の『芸能人きんにく系王位争奪戦』。事務所の枠なんかもあるから最終的にどうなるかわかんないけど、ハルちゃんも候補に挙がってるからさぁ。がんばって」

 話が終わると、マツケンは肩をぽんと叩き、グッと親指を立てて見せ、急ぎ足にその場を離れた。

 多分喫煙所に煙草を吸いにいくんだろうが、職業病とでもいおうか、常に急いでいる。

 正直、複雑だった。

 最近の状況から素直に、もっと露骨に喜んでもよさそうなのに、そんなに嬉しくない。むしろ腹立たしくさえあった。

 自分にでも相方にでもない。

「からみずらい」と言ったとかいう芸人だ。

 人の相方つかまえて、漸く売れ始めている芸人のマネージャーに向かって、「からみずらい」たぁ聞き捨てならねぇ。

 ――何様だ! どこのどいつだ!

 奇しくも、この日もピンでの仕事。

 フットサルの芸人選抜チームに選ばれて、俳優チームと戦う。ガチンコでやっていいとは聞いてるけど、そこはお笑い芸人、やるべきことはわかってるだろう。

「ハルさん、お願いします」

 スタッフの声がかかる。気持ちの切り替えもできないまま番組に突入。

 先発して開始のホイッスルを聞いた瞬間から立場だとか「お約束」だとかをすっ飛ばして走りまくる。

 ピンチを防ぎパスをカットし、ボールを奪う。獅子奮迅の活躍で前半だけでハットトリック達成! 

 で、後半は出番なし。芸人チームは「お約束」通り負けることに成功。終了後、相手チームだけじゃなく、仲間の芸人、スタッフの目までがなんとなく冷たかった。


 師走。東京の街にも冷たい木枯らしが吹き荒れる。

 クリスマス、そして年末年始に向けて、街のあちこちで季節の花よろしく光の花が咲き乱れ、道ゆく人々もどこかせわしなく、何かに背中を押されているようです。

 などという文句を、いつ街角レポートに出てもいいように頭の隅に準備だけはしておいた。話はまだない。

 まぁ、「原宿のカップルに突撃、クリスマスの過ごし方!」な仕事はまだ入ってこないが、年末年始特番の収録がいくつかあって、仕事自体は忙しく順調だった。

 録画モノが多いが、元旦朝一発目は、生放送でのネタ見せ。ネタはまだ決めてない。

 頭のてっぺんから足の爪先まで、皮膚の内側は仕事のことでいっぱいだった。

 相方のことばかり考えていた。

 独り身の寂しさよ。相方の肌が恋しい、ということでは決してないが。仕事のことに関して、相方についての悩みは消えない。

 スケジュールの調整で思いがけず一日オフになる。休みが欲しい、あんなことやこんなことをしたい、と思いつつ、オフになったらなったで無為に時間だけが過ぎていく。

 蒲団に仰向けになって、天井を見つつ、思っていたことは。

「あっちゃん、元気してるかな。ゲコは、車乗ってんのかな。無事に生きてんのか。雪、寒いんだろうな……」

 二人の顔が浮かんでくる。久しぶりかもしれない。相変わらず笑ってんな。


 一日は、ほんとに何為すことなく暮れていった。

 窓の外が茜色に染まる。開けると、冷たい風が部屋に吹き込んだ。喧騒、街の息吹が乾いた空気の中に揮発している。

 暮れなずむ街の、光と影の中、北風に向かってきっと面を晒した。

 ロールパンのような雲が夕焼けに染まる。太陽は勿論西にある。オレンジの帯がぐるり東京の街を取り囲んでいた。

 空の真ん中は既に藍色に染まりつつ。部屋を襲う北風は、まるで大したことはない。耳元でささやかに囁くだけで。

 囁く、運んでくる。雪にも負けず風にも負けず、寒さにも暑さにも負けない仲間がいる。必死に、何かを「捨てる」ことなく頑張る仲間がいるんだ。

 次に会ったときも、あいつらはきっと笑っているだろう。己の苦労とか、不安とか、苛立ちとか、そういったものを見せたりはしない。

 恥ずかしい場面を思い出してしまった。自分一人だけ頑張ってきたようなことを、みんなの前で堂々叫んじまった。

 あの頃に比べたら、幾らかましにはなっただろうか。

「まだまだだべ」

 朝からラインはきてる。誘いのラインは全て断った。

 誰にも会いたくない、わけじゃない。会わなきゃならないヤツがいて、そいつからのラインがきていないのだ。

 こちらからすればいい。何度も何度も考えた。できないまま、暮れなずんでしまった。

「腐ったみかんだな」

 例えが古いとよく言われる。田舎だから、TVプログラムも遅れているのだと。そうい輩には、

「ざけんな! 『タモリ倶楽部』だって関東時間でやってるし、テレ東だってリアリタイム(?)でみれるっつうの!」

 ときっぱり返してやる。

 東京に染まろうと頑張ってきた。そんなことばかり考えてやってきた。芸人として成功する=東京の人間になる、だった。

 何と何がイコールで結ばれるのが正解なのか、まだわかっていない。

 そんなことを意識する必要なんてないのかもしれない。何かを為した、その結果がイコールの先を見つけてくるのだろう。

 今はやるべきことをやらねばならぬ。とにかく、メールを送った。元旦のことで話がしたい、と。すぐに返事がくるとは思わなかった。


 結局、部屋の掃除も片付けも、借りてきたAVも観ないまま、オフが終わろうとしている。

 もうシンデレラの魔法が解ける時間だ。ガラスの靴を落として逃げろ。

 コンビニ弁当のゴミをテーブルの上に置き去りにして、住み慣れた蒲団に再び横になった。人生の三分の一は布団の中。今日に限っては三分の二を蒲団で過ごした。

 眼鏡をかけたドクターニッシーと、眼鏡つながりであっちゃんをニッシーの隣に座らせてみる。きっと包茎に関しての忌憚のないトークが聞けるだろう。ニッシーは美容整形の先生なのだ。

 相方からの返事を待つことなく、いつの間にやら眠りに落ちていた。


 相方からの返事は翌日にきた。

 それから、仕事の合間を縫って話し合いを重ねた。以前のように突っかかってくることはないが、どうも集中力を欠いているようだ。

「キタさん、最近ちょっとおかしんじゃね。まさか、アイドルと付き合ってんじゃねぇだろうな」

 お返しというより自分をネタにして空気を和まそうと思ったのだが、無視された。冷ややかな視線にはもう慣れている。

 ここんところ相方に元気がない。覇気がまるで感じられない。

 マツケンが北村に「ダメを出した」という話を聞いた。

 直接慰めるようなつもりは毛頭なかったが、元旦に向けて、仕事に集中していけばまた前向きになれるだろうがこの野郎! と思った。

 そう簡単に以前の、アイドルと付き合う前の自然な雰囲気になるのは無理だろう。しかし、そう気長に待ってはいられない。

 あっちゃんから手紙がきたのは、そんな十二月の、世にいうクリスマスイヴの日だった。

 クリスマスイヴである。そりゃ何かを期待する。去年のことだって思い出す。局でたまたますれ違ったりしても(向こうが)目も合わせないけど。

 郵便受けに封筒が入っていたときは、思わずはっとした。そんなはずはないと否定はした。茶封筒? とも一瞬思った。

 否定は期待の裏返しでしかない。躊躇いはもしものときの命取りだ。期待を動作に出すことなく、逡巡なく取れ、さなくば死……。

 宛名の「直江春一」の字を見た刹那、全てを理解した。

「様とかつけろよ」

 期待と現実の落差が言葉になって迸った。差出人を見るまでもない。

「きったねぇ字だな」

 手紙には近況と、「帰省」のときのことが書いてあった。すぐに返事を書き始めた。


『見る度に思うけど、あっちゃん、字きったねぇな。ひどすぎる。読みずらいし、なにより読みずらいし、とにかく読みずらい。なんとかしろ。

 あの時のことはあっちゃんが謝ることじゃない。ほんとみんなには申し訳なかったと思ってる。

 俺がガキだった。みんなにめちゃくちゃひどいこと言っちまって、本当に後悔してる。

 本当に、ゴメン。あっちゃんからみんなに言っといてくれ、次にいったときは俺がみんなに謝るって。

 雪、もうだいぶ積もったかい?

 ニュースで見たんだけど、今年は雪少なめなんだって? 

 記録的な大雪が降ったのは一昨年だっけか。「雪の犠牲者」って言葉がテレビで流れる度にドキドキしてたよ。幸い町じゃ一度もなかったみたいだけど。俺もなんだかんだ気にしてるんだぜ。

 あっちゃんも気をつけろよ、いい歳なんだから。

 ゲコにもな。ま、あいつの場合は言っても意味ないだろうけど。

 で、御雪舞の練習は順調なんか? 

 一月の十五日か。言われるまでもなく、俺もいけたらいきたいけどよ。実は十六日に大事なオーディションがあってさ、だからたぶん、』


 手紙はそこで止まる。

「いけない」。その一言が、どうしても書けなかった。

「御雪舞か……」

 最後に行われたのは今から二十二年前、小学校五年のとき。

 その翌年、梅雨からの天候が不順で、記録的な凶作に見舞われた。農業に対する依存度が今以上に高かった町で、年明けに舞など舞っている体力はなかった。気力もなかった。

 一度疲弊の極に達した町が元気を取り戻すまでにはそれ相応の年月が必要だったろう。

 その七年後には町を飛び出し、そしてさらに十四年が経った。

 その間、何度か声はあがるも実現には至らず、漸く二十二年目にして復活の目を見る。復活の中心にいるのがあっちゃんだった。

 そして二十二年前、最後に舞を舞ったのが、小学校五年の「直江春一」だった。「御雪舞」に一方ならない思い入れがあるのは当然。

 ――最後に舞ったのが俺なら最初に舞うのも俺でありたい。あいつらと一緒に、成功させたい。

 そう強く思っている。

 現実的にはやはり無理だ。次の日のオーディションは春から始まる新番組のオーディション。

 土曜八時、バリバリのゴールデン。今度はこっちが舞など舞ってられる状況じゃない。

 舞が始まるのが大体夕方からだから、それから東京に帰ってくることなど不可能に近い。その日泊まって翌日の朝帰ってくる……。

 いやいや、そもそもオーディションに参加するこが目的なんじゃない。合格しなけりゃ意味がない。

 当然そのための準備をしなけりゃならないし、だいたい前の日だって仕事だろうが。

 見ろ、いけないのは明々白々。「いけない」、そう書いて返事を出せば済むこと。そう書いて出さなきゃいけないことだ。

 こっちでがんばることをみんな望んでいる。土曜のゴールデンに出るチャンスなんてそうそうあるもんじゃない。

 オーディションに受かればみんなメチャクチャ喜んでくれる。無理して御雪舞に出るよりずっと……。

 あいつらだって帰ってくるなんて思ってない。あっちゃんの手紙にそう書いてある。理屈の上でも気持ちの上でも、充分納得しているはずだ。

 納得しているはずなのに、返事を出すことができない。書くことができない。

 時間はまだ少しある。その時になれば、手紙を出すだろう。

 書かなきゃいけない状況になれば、どうしたって書かなきゃいけないんだから。「いけない」って。

 仕方ない。仕方ないっていうか、いかないでこっちでがんばるほうがいいんだから。みんなにとって、それが一番いいんだから……。


 お役所よろしく面倒は後回しにして、見せかけのすっきり感で仕事に励んだ。

 そして一週間、大晦日、カウントダウン! 

「ゼロ!」

 明けましておめでとう!

 冴えなかった去年のことなんかとっとと忘れて新しい一年をがんばって最高の年にしようぜ!

 恒例の年越しバラエティ、芸人やらタレントさんやらと、お客さんも一緒になって新しい年の幕開けを祝った。

 胸の底から熱いものが込み上げてきた。

 去年はいろいろなことがあった。辛いことのが多かったか。

 それらをみんな切り捨てたわけじゃなく、「いい思い出」と「いい経験」という形で今後に活かしていくのだ。

 相方のこと、地元の仲間たちのこと、自分のこと、全てを噛み分けてここから最高の人生にする、そのスタートの年!

そんな予感に胸膨らませていた。


 今年の正月は忙しい。元旦朝一発目のネタ見せは上手くいった。というか、半分はご祝儀だろう。

 そこから三が日スケジュールがびっしりだった。

 睡眠、食事は移動中。東京だけじゃなく、地方にも飛んで三日間で九州から東北までを網羅する。四日五日のオフがあってその後沖縄と北海道にもいくことになっている。日本縦断、ぶらり途中下車……、できず。

 

 正月二日の昼ごろ、収録が終わって楽屋に戻ると、そこにマツケンが待っていた。

「お疲れっす」

 ハルの挨拶に返事もせず。雰囲気がいつもと違うことには気づいたが、それは忙しすぎるせいだと思った。

「『がずがず』の『える』が、死んだ。自殺だって……」

「な」

 音になったのはそれだけだった。

 一瞬、笑おうかと思った。ギャグかと思った。

 咄嗟の機転でそれを望んだ。どっきりで隠しカメラが仕掛けられてて、バンと入り口が開いて死んだと聞かされた二人が「わぁー」とか言いながら出てきて……。

 こなかった。仕掛け人のはずのマツケンも表情を変えない。

 相方は頭を抱えて椅子に座ったまま蹲っていた。

 二人とも、じっと床を見たまま動かない。床など目に入っていないかもしれない。

 そんな二人を、恐ろしく冷静に見ている自分がいた。

 ひょっとして、二人ともグルなのか。そんな考えが、いつまでも離れない。


『お笑い芸人〔がずあるがすえる〕の〔える〕、自宅マンションの屋上から飛び降りる』


「がずあるがずえる」、通称「がずがず」。「ある」と「える」のコンビで三、四年前までは超一線級のお笑い芸人だった。

「はるまげどん」を結成したころから徐々に頭角を現し、そして大ブレイク。一週間のうちで「がずがず」を見ない日がないという状態が暫く続いた。

 遊び方から女性関係、傷害事件に借金に、そっちのほうでも話題にならない日がないくらい。とにかく凄まじい勢いだった。

 しかし、絶頂期は長くは続かない。勢いが鈍ったと見えた途端、一気に落ちていった。

 余りの我がまま勝手ぶりから業界人に敬遠され、芸人同士からさえ疎まれた。

 仕事が減り、露出が減った。人々の記憶から徐々に消えていった。

 ネット上に死亡説が流れてもワイドショーすら見向きもしない。芸人の間でさえ、実際生きているのか死んでいるのかわからない状態だった。

 そして「自殺」。

 生きてはいた。が、死んだ……。

「家族の話だと、年明けのカウントダウンが始まる直前に煙草を買いにいくつって部屋から出てったみたい。で、暫くしたら救急車とかがきて外が騒がしくなって……」

 痛みをこらえるように、マツケンが声を絞り出す。こんなに痛そうなマツケンは初めてだ。「負」の感情にこれほど露なマネージャーは初めてだ……。

 マツケンと「がずがず」はこの業界では同期だった。

「がずがずとタメをはれる芸人をマネージメントするのが俺の目標なんだよねぇ」

 数年前、一緒に飲んだとき二人の前で顔を赤くしてそう言ったのを覚えている。嬉しそうに語るマツケンを見て、なんだかこっちが恥ずかしかった。

 うちみたいに小さい事務所で申し訳ないけど。そう言って、二人をはっきり見て笑った。

 がずがず全盛時代。まだまだ駆け出しのお笑い芸人にとって、そこは遥かに高い、目標だった。


 状況的に自殺でほぼ間違いなかったが、一応警察が入っていろいろ調べたらしい。三日がお通夜、葬儀と告別式が四日。

 三日、正月らしく富士山の麓でのロケだった。

 富士山をバックに、湖のほとりで海パンいっちょで冷水風呂に入るという、これもある意味冬の風物詩的な仕事だった。

 これが昼過ぎに終わると今度は都内に戻って夕方からまた生放送に出て、その後はラジオに出演、スケジュールを消化して解放されたのは夜中の二時だった。つまり、日付は既に四日になっていた。


「じゃあ、ゆっくり休んで」

 マツケンの笑顔はいつもとまるで変わらない。グッと親指を立てて出ていった。

 楽屋に二人きりになり、ふっと一息つくまで四日がどんな日か思い出せないくらい、マツケンの様子は平常通りだった。

「キタさん、明日どうすんの? 明日っつうか、もう今日か」

 一瞬の間が空いた。北村のその間はしかし、迷っている、という間ではなさそうだった。

「俺は、いかない。いかない」

「いかないんだ」

「おまえいくの? だって、直接世話になったわけでもねぇし。逆に、いったら向こうが迷惑なんじゃね。あんた誰、みたいな」

 自分も同じような道筋で考えていた。だから意外だった。

 相方は「いく」と言うと思っていた。いかないにしても「いきたいけど」と言うと思っていた。

「おまえもいかんほうがいいんじゃね」

「なんで?」

 この「なんで」は条件反射といっていい。相方と逆をいきたいという。

「得るものなんてねぇだろ。時間と金の無駄だって」

「無駄じゃねぇだろ。無駄ってなんだよ」

 既に理性的な反論ではなく。部屋の反対側にいる相方に向き直る。

「得るものってなに。意味がわかんねんだけど。なに言ってんの」

 こっちをじっと見返している、狸の目を、その目の奥に向かって。

「あ? 他にやることあんだろうが」

「あるよ。わかってるよ。それとこれとは別だんべ」

 相方が、呆れた、という様子で体ごと視線を外した。

「勝手にしろよ。同情するような真似して、みっともねぇ。いろんな意味で『死んだ』人間に媚売ったってしょうねぇだろうがよ。そのかわり、また前みてぇに帰ってきて腑抜けんなよな」

「はぁー」

 抑えられなかった。

 吐き出す直前、相方が話し終わったほんの一秒、自分の後ろにはっきりと感じた。

 ゲコに聞かされた情景がパッと浮かんだ。ほんの一瞬だったが、それは稲妻のように脳裏を照らし、焼きついた。

「ハルてめぇいい加減にしろよ」

 ガガと椅子が床をこする、立ち上がったのは二人ほとんど同時だった。

 コントでもできないほどドンピシャのタイミング、内心ちょっと可笑しかった。

 もちろん、そんなことおくびにも出さない、相手に大きく歩みよったのは北村の方。

「おめぇさっきからなんなんだよ! 俺はよぉ、俺たちの将来のために言ってんだよ。ずっとそれを考えてんだよ、てめぇと違ってよ!」

「俺だって考えてるよ」

「考えてねぇだろうが。偉大な先輩の葬儀にいって自己満足か。逃げてんじゃねぇよ。脇目も振らずに打ち込まなきゃ、俺たちだっていつああなっちまうかわかんねんだぞ」

「仕事とかじゃなくてさ、命だろうが。人が死んでんだぞ! 『ああ』ってなんだよ」

「俺たちには直接関係ねぇだろうって。自殺した人間全員にお焼香しにいくんかよ。死に物狂いでやんなきゃいけねぇのはこっちだぞ。身内の人になんて言うんだよ。お笑い芸人ですってか」

「そうだよ。そう言うよ」

「バカか。あの人たちは芸人たちから干されたんだぞ。それをお前がいったら、どう思うと思ってたんだよ。誰も喜びゃしねぇよ。わかんねぇのかよ! えるさんとその家族の気持ち考えろって!」

 正論だ。その「正論」が鼻につく。癪に障る! 北村のくせに!

「ずいぶんまともな意見じゃんないすか、北村さん」

「なに?」

「マツケンに聞いたぜ。からみずらいって言われたって。あんた恐いんだろ、見るのが。自分の未来の姿見るのが、ああそうか、俺たち、じゃなくて、『俺の』だろ」

「ああー!!」

 言葉にならない叫びをあげて、北村が突っ込んできた。

 ガン! ダダン! 背中から強か壁に押し付けられた。

「いてぇなこの野郎!」


 相方、すげぇ顔で睨んでやがった。狸が、あんな顔を持ってやがったのか。

 正月の東京は、静かだ。都心でも、夜の街を彩る電飾もトーンを落としているようだ。車通りも少ない。

 まるで、この東京に自分一人しかいないかのように。初めてではないな。孤独感が、むしろ寒くはなく、包み込むように、妙に居心地がよかった。


「おい!」

「ちょっ、キタさん!」

 パッと入り口から誰かが飛び込んできて、二人の間に割って入り、さらに相方が引き離され、体が壁から起こされて。

 落ち着いているつもりだった。入ってきたのは後輩とスタッフ、さらにマネージャーのマツケンまで。

 その場はすぐにおさまった。深夜でもあり、野次馬もいなかった。

「煙草吸って帰ろうと思ったら、なんか音が聞こえたからさぁ、びっくりしちゃったよ」

 マツケンは二人に笑顔を見せてそう言った。

「すいませんでした」

 相方がみんなに一つ頭を下げて、部屋を出ていった。

 いつものリュックを背負っていったかは見なかったが、帰ったのだろう。いや、背負っていたような気がする。後に何も残っていなかったし。


 楽屋にマツケンと二人きりになった。後輩もいつの間にかいなくなっていた。

「すいません」

 口から言葉は出てきたが、マツケンの顔を見ることは簡単ではなかった。

「話せる?」

 優しい言葉だった。きっと、いつもの笑顔より優しい顔をしてるに違いない。

「ちょっと、時間をください」

 気持ちが昂ぶっていたわけではなかった。

 整理がつかない。なにから、どこまで、話していいのか。

 それよりなにより自分の口を塞ぎたかったのは……。

「まぁ、いいや。今日は終わろう。ずっと忙しいから疲れてるんだよね。連休だからしっかり休みなよ」

「あの」

 漸く顔を上げた。マツケンは下を向いてハンドバッグをごそごそしていた。

「いいいい。いいから」

「すいません」

 こっちを見てないマツケンに頭を下げ、そのまま俯いてマツケンのズボンの裾の辺りをじっと眺めた。裾と黒い革靴の隙間から見える赤い靴下、温かそうだ。

「また後でさ。別に怒ってないから。なんて言うのかな」

 バッグを探る手が止まった。一瞬言葉を切って、何かを思い出すように。

「羨ましいっていうか。なんていうか、青春だよね、うん、青春。古いかな」

 再び手を動かして、バッグからタクシーチケットを取り出した。

「はい、これで帰りな」

 そこで目が合った。思い描いた通り、涙が出るくらい柔らかい表情だった。

「なんて顔してんのよ。しっかりしてよ、うちのエースなんだから。ちっさい事務所だけど、二人に頑張ってもらって面白い芸人さん集めないといけないんだからさ」

「はい」

 次の「すいません」は、言葉にならなかった。そう言えばキタちゃんにタク券あげなかったけど、大丈夫だったかな、後で連絡してみよ。そう一人で言うと、こっちを見て小さく頷いた。そしてもう一度、頷いて。

「帰ろう。あ、もうこんな時間だし。うん、帰ろう」

 二人で連れ立って楽屋を出た。出たところで「あ」と声がした。見ると、さっき止めに入った後輩が立っていた。マツケンは、

「いいよいいよ、僕はキタちゃんに連絡してみるから。じゃあ、気をつけて帰ってね。じゃあまた」

 そう言って、こっちになにも言わせずにさっさと離れていってしまった。

「ハルさん、大丈夫すか? なにがあったんすか?」

 赤い色のフレームをした眼鏡をかけて、長髪で洒落た服を着たこの後輩を見ると、なんだかあっちゃんを思い出す。眼鏡だけじゃなく、顔つきもどこか似ている。

「なんでもねぇよ。なんつうかアレだ、若気の至りってやつだな、うん」

「いやいや、三十すぎたオジサンが、なに言ってんすか」

「年齢じゃないんだよ、気持ちよ気持ち」

「まあ、なんでもいいんすけど。ハルさん、ちょっといきましょうよ」

「やだよ」

「はやっ! て、どこかわかってんすか?」

「どこ」

「風俗いきましょうよ、風俗」

 すぐに返事をしなかったのは迷いがあったからではない。少しの「間」に笑顔を浮かべて、後輩に対する感謝の気持ちを、言葉にはしなかったが。

「今日はいいや。わりぃな」

 どこにもいく気分ではなかった。すぐに一人になりたかった。

「ラーメンでも食いにいくか」

「おっす! ごっつぁんです!」

 局の近くでラーメンを食べて、後輩と別れた。

「だってどうすんの、お前。帰るなら途中までタクシーで一緒にいけばいいだろ」

「いや、俺、風俗寄って帰るんで。渋谷のほうまでいってみます」

「歩いていくのかよ」

「はい。大丈夫です」

 じゃあ、と言って元気いっぱいスタスタ歩いていってしまった。

「なんだあいつは」

 おかしなやつだ。

 風俗に誘ってくれたこと、あいつなりの気遣いだと思っていた。元気のない先輩を励ましてやろうという。だからラーメンを奢ったのだが……。

 ただ単に風俗にいきたかっただけかもしれない、しかも、あわよくば風俗を奢ってもらおうと狙ったか……。気分が紛れたことは確かだった。

 すぐにタクシーには乗らず、こっちもぶらっと歩き出した。後輩の元気な姿を思い出して、今の自分の力のなさを笑ってみた。


 正月の東京は、車も少なく、煌びやかな電飾も普段よりトーンを下げていた。

 年末の賑わいから一転。今日、この時間、「お店」がやっているのか心配になる。

 そもそも、「いく」なんて一言も言っていない。いくつもりもなかったのに。

 ――あいつ、すげぇ顔で睨みやがって。狸め、あんな顔も持ってやがったのか。

 相方の顔が浮かんだ。真剣な顔だった。恐れを覚えるほどに。自分の姿が浮かんだ。恐れを覚えている、その姿を。

 ――みっともねぇ、ほんとみっともねぇ男だ、情けねぇぜ。

 マツケンに、後輩に、自分は決して孤独などではないはずだ。こうやって元気づけてくれる人たちが近くにいる。

 それでも、いや、それだからこそなおさら余計に、孤立感は強くなる。

 それは、彼らに対する裏切りだ。彼らに話していないことがあった。

 状況から見て、相方が襲い掛かってきた、悪者のように思っているかもしれない。相方がとっとと出ていってしまったことで、相方は彼らに誤解されたままになっている。そう。

「誤解だ」

 今でさえ誰にも言いたくないことを、相方に、ある意味最も言うべきでない人間に言った。しかも、完全な悪意を持って。

 最悪だった。結果から考えれば、全てがまるで計算されていたかのようだ。

 相方に襲いかからせるために、そして、その現場を他の人間に見せるように。

 年が明けたばかりの街を、まるで世紀末の廃れた町を歩くがごとく、項垂れて歩いた。

 ふと見上げれば高層ビルの群れ。真っ暗な夜空に道を作っている。どこまでも続く夜空を区切るという、悪、大罪だ。

 どいつもこいつも、夜空を犯して生きている。俺は、押し潰されたいのだ、下敷きになりたいのだ。

 あんなことを言いたいわけじゃなかった。相方の、死んだ人間に媚を売る、という言葉、発想が許せなかった。

「命」をそういう風に捉える人間性だ。一瞬浮かんだのは、包丁を振り上げる父親と、その父親から母と弟を守るまさおの姿だった。

 赤みがかった照明の室内で、恐怖も忘れて父親と対峙するまさおの必死の表情だった。

 相方に、お前のどこが死に物狂いなんだと言いたかった。

 それは生半可なもんじゃない、「死」とリアルに向き合わなければ、死に物狂いなどわかるわけがないだろう、と。逃げてるのはお前のほうだと、言ってやりたかった。

 いや、それはある意味で言ってやれた。それはしかし、最悪の言い方で。

 完全に負けていた。「えるさんと家族の気持ち」を引き合いに出された時点で、まるで自分のことしか考えていない自分は負けていた。まさかの逆転負けだった。

 冷たい北風が吹きぬける。辺りの街路樹がザザザァァと鳴った。

 ふっと体が浮き上がる、まばらな光の間を、どんなに舞い上がたってあのビルを超えることさえできない、自分はちっぽけな人間だ。

 もとはと言えばえるさんが死んだりするからいけないんだ。こんなに苦しく、寒く、孤独なのはえるさんが死んだせいだ。

 死ぬことはなかった。死んだらいけない。しかも自殺なんて、最悪だ。あんたが弱いから、周りが苦しむのだ。愚かもの、ザ・フール。

 あなたの自殺は、無駄死にだ。この狭い東京を真っ暗にすることさえできはしない。誰が悼んでいるというんです? 

 お笑い芸人をこんなに思い悩ませて。あなたは本当に、死んでしまったのだ……。

 どこでタクシーに乗ったのか、はっきり思い出せない。気がついたら、

「ここでいいです」

 と言って、狭い路地に入る手前で降りていた。

 三年前ならどうだろう? 

 もしこれが三年前なら。きっと世間がひっくり返るような騒ぎになっていたに違いない。もちろん、三年前なら起こりえない出来事ではあるけども……。

 見上げた空は広かった。そこに、二つの「向こう」を無意識に重ねていた。

 ――向こうは星がきれいなんだろうな。今日あたり雪でも降ってるかな……。

 闇の中によく見たアパートのシルエット。そのアパートの向こう、ぼんやりとした東京の夜空に、ポツンポツンと星が鈍く光を放っていた。


 葬儀は静かなものだった。まさしく、「しめやか」という言葉そのまま。

 えるさんの実家近くの葬儀場で、いったとき、五十人は入るだろうというハコに、十人に満たない列席者、会場の前方に並んだ身内親戚筋の人たちは十四、五人はいたろうか。

 落ち着かない中で、故人に言葉をかけることもできず、お焼香をして遺影に頭を下げて帰ってきた。全くカタチだけ。

 マツケンはそのときいなかった。最前列の一番前に座っていたのが、多分あるさんだったろう。

 外に飾られた大きな花輪は四本。所属している(いた?)大手事務所の社長、残り三本はよくわからないが、そのうちの一人は政治家か、確か栃木出身だったか。残り二人もそんな感じかと思った。

 時刻は午後三時過ぎ。太陽は早くも光を黄色に変えている。住宅地をちょっと離れた田んぼの中に、葬儀場はある。

 風はさほどないが、空気の乾燥具合と冷たさ、鼻を抜ける「冬の匂い」が故郷を思い出させた。

 雪は全くない。遠くの山が白く化粧をしている。西に見える山はどこか見覚えがった。裾野は長し赤城山、か。

 青空の下を大小取り取りの形をした綿雲がゆっくり流れる。建物がなければ、それはそれで長閑さ満点の冬景色だが、角ばった建物が、冬枯れの野に横たわる白骨のよう。

 すぐには帰らず、ちょっと町をぶらついた。

 そもそもくるつもりはなかった。起きた次の瞬間から、葬儀にくる準備を始めていた。

 北に向かって歩くと、上り坂になり幾らか景色に木々の茶色や緑が増えてきた。途中の電信柱、「関口家」の案内。

「せきぐち……」

 関口満男。えるさんの本名だ。電信柱の張り紙にちょっと触れて、また坂を上った。

 コートを手に持ち、黒いネクタイも外している。汗ばむほど歩いてしまった。知らな~いま~あ~ちを、あるい~て~み~た~あ~い、ど~こ~か~と~お~く~へ、いき~い~た~あ~い。

 単なる気まぐれとも言えない。昨日の夜、寝る前の時点で、くることになるような気はしていた。北村との喧嘩がその気持ちを作ったと言えそうだった。

 お笑い芸人「がずあるがずえる」。『芸人の頂点』、『時代の寵児』『カリスマ』『二十一世紀のやすきよ』『水戸ホーリーホック応援団長』etc.……。

 これでもかと飾りつけ担ぎ上げ、祭り上げ、落とす。マスコミとは言うまい。世間の常套手段だ。

 逆に、「がずがず」はまんまと祭り上げられてしまった。

 潮が引けたらあっという間に、ポイッ。実力で勝ち取ったはずのものを、まるで消費者金融で「借りたもの」よろしく奪い取られ、身包みはがされ、冬の枯野に捨てられる。

 小学校を通り過ぎたところにあった標識をみて、何気なく登ってきてしまった。

 城跡だという小高い丘の上。建物はなく、屋根付の休憩所と案内板があるだけだった。

 なにもない、と言ってもいいその場所から、町が、えるさんの町が、がずあるがずえるの町が一望できた。さっきまでの晴れ間は気紛れだったか。町に灰色の雲が覆いかぶさる。

 携帯で確認した天気予報によれば、むしろこれが本来だ。

 がずがずの二人も、きっとここから天下を見下ろしたに違いない。見渡す景色に向かって掌を突き出し、拳を握ったに違いない。末は信長か秀吉か。地元に全く縁はないが、まあ、ここは気にすまい。

 彼らは一度は天下を握ったと言ってもいいだろう。他の数多の芸人たちの頂点に、一度は立ったと言っていいだろう。

 そして一気に落ちていった。そのとき、自分たちを信長の悲劇と重ね合わせたかどうか。

 落ちていった二人、食うに食えない生活の中で、「一人を活かすためにもう一人が犠牲になった」と考えるのは、突飛に過ぎよう。

 変な考えを振り払うように一度足元に目を落とし、地面を蹴った。今頃マツケンが葬儀にきているような気がした。なんとなく近くにいるような気がした。北村も。

「くればよかったのに」

 皮肉ではない。二人でここに上ったら、なにかが変わるんじゃないかと思えた。

「ちゃんと謝らないとな」

 不思議だった。哀しさ重苦しさは微塵もない。不埒なほど、心はすっきりとしていた。

 ここんとこのもやもやが晴れていく(爽快感は一時的だろうが)。体を約九十度に折り曲げて、葬儀場の方に向かって頭を下げた。

 そのまま目を開ける。ハッと、上空を見上げた。

「うぉぉぉ!」

 叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。

 空から白いものが落ちてくる。ふわりふわり、風に流され、空気に舞いながら。町に降り立つ、無数の。白骨を美しく覆うように。

 ――きっとそんなには積もらないだろうが。

 降ってきた。灰色の空から揺ら揺らと落ちる、雪。揺ら揺ら、揺ら揺ら、雪。


 予想に反して、帰りの電車に乗った時には本降りになっていた。

 すっかり日は暮れて、太陽が沈むと寒さはひとしおだった。髪の毛が濡れている。すぐ止むと思って余裕こいてた。

 けっこう雪にあたってしまった。在来線の車窓から、外をのぞく。ガラスに映る自分の向こう、闇の中、電車の明かりに照らされて、雪がドカドカ降っていた。

 雪、冬、ゲコ、公民館、大人たち、あっちゃん、御雪舞……。

 そうだ、あれは小学校五年生のときだった……。


 時刻は夜の八時を過ぎていた。

「さみー。あっちゃん、帰ろうぜ」

「しっ! 静かにしねぇと見つかる」

「あっちゃん、おれしょんべんしてくなってきた」

「うるせ! もう少しがまんしろ」

 そこは町の公民館。三人は窓から中の様子をじっとのぞいていた。じっと、と言っても、実際じっとしていたのはあっちゃんだけだったが。

 窓から漏れる明りがすぐ近くに積もっている雪を黄色く照らしている。その上に、さらに新しい雪が降り落ちていく。しんしんと微かな音を立て、雪は辺りを埋めていく。

 中から聞こえてくるお囃子。踊るのは町の青年部の人たち。

 その周りを、指導役のおじさんたちが取り囲んで踊りの様子をじっと見ている。となりんちのトシ兄、酒屋のたいすけ、役場のひかりさん、山田のカズちゃん、……。

 二十歳前後の男たちが、曲に合わせて動き出す。それはお世辞にも決まっているとは言い難いが、それでも、いつの間にか三人は踊りに見入っていた。

「これ! おめたち! なぁにやってんだ!」

 咄嗟に振り向いた。そこには頭から雪を被った雪男! じゃない、雪おじさん!

「あ!」

 と言ってみなが一散に逃げ出す。

「待て!」

「ガッ!」

 ドサッ。後ろで変な声を出して転んだのは、あっちゃんだった。見捨てて逃げるわけにもいかず、三人、諦めて縛についた。

「まったくおめぇらは! 親に黙ってこんなトコきたらダメだろうが!」

 正座させられ、こっぴどく怒られた。

 子どもが家にいないということで親たちがここに電話をしてきた。終わった後近所のもんに送らせるということで話がついたらしい。

「そこ座って見てろ。邪魔すんじゃねぇぞ」

 暖かい部屋の隅っこで、三人は体育座りでその様子をじっと見ていた。本番での舞は今まで何回か見ているが、その練習を見たのはこれが初めてだった。

 大人たちはみんな普段見たこともないような真剣な顔をしていた。

 親しみ易い近所のお兄ちゃんたちが緊張感を漲らせ、なんだかメチャクチャかっこよく見えた。

 そんな彼らと同じ空間で、同じ時間を共有し、同じ空気を吸っているということが、とても誇らしかった。

 指導役のおじさんの大きな声、お兄ちゃんたちの掛け声が、熱気のこもる部屋に響き渡る。みんなの顔が汗でてかてかしていた。三人の掌もいつしか汗を握り締めていた。

「よーし、いっぺん通していくべ」

 会場全体が息を呑む、太鼓の奏者の腕が上がる、動き出し、その瞬間! 

 息を吐き出した瞬間、自分の体が動いていた。

 頭の中は真っ白。いや、視界の情報は覚えている。

 しかし、頭で道筋立てて動いているわけではない。耳から入ったお囃子が体を巡り、手足が勝手に動いている、後から思い返して、感覚を無理矢理言葉にしたら、そんな言い方しかできなかった。

 曲が止まり、フーッと一息はく。額に浮いた汗を上着の袖で拭った。

 はっとして我に返る。

 周りを見ると、お兄ちゃんからおじさんから、そしてあっちゃんとゲコも、みんなぽかんと口を開けてこっちを見ていた。

「おめ、なにした?」

 間の抜けたおっちゃんの質問とそのときの顔。

 質問と表情の意味がわかったとき、体を電気が走った。

 今まで様々ないたずらを成功させてきた。運動会で一位になったこともあった。この快感は、全てを遥かに凌駕した。

 自分より何倍も歳をとったおっちゃんたちをそんな風にしてしまったことが、たまらなく誇らしかった。

 その日から、公民館通いが始まった。

「誰にも言うなよ」

「言わねぇよ」

 怒ったように答えたあっちゃんの横で、ゲコが何度も頷いていた。

 改めて踊ってみろと言われると、体はそう易々とは動かなかった。やはり、流れを頭と体でしっかり身に付ける必要はあった。

 しかし、覚えるのにかかる時間はこれまでの「大人たち」と比べて格段に短かったそうだ。

 本番はお面を被るが、それは練習では使えない、なんかお面を持ってこい。そう言われて、前の年に祭りで買ったカンダムのお面を被って必死で練習した。

 センスだけではなかったはずだ。舞いにかける真剣さ、集中力でもその「これまでの大人たち」に倍していたに違いない。

 祭りの本番は大成功だった。

 当日、始まるまでなんにも知らなかった学校のみんなは当然驚いたし、次の日から学校中の人気者になった。

 大人たちからも、その後暫くは「町始まって以来の天才」、「神童」などともてはやされた。十一歳にして早くも人生の絶頂期を迎えつつあった。


 あのときに人生が決まったと言っても過言じゃない。みんなに注目されて、それがメチャクチャ気持ちよくって。あれから自分をはっきり意識しだした。

 上手にできたときの嬉しさ、それを見て周りのみんなも喜んで褒めてくれて。そして本番の緊張感、えもいわれぬ興奮、そして拍手、みんなの笑顔。


 今の自分は間違いなくあのときの「ハル」であり、あの瞬間、「ハル」は生まれた。芸能人「はるまげどんのハル」が生まれた……。

 いや違う。

 目覚めたんだ。そのときはまだ漠然とだけど、進むべき道が見えた。

 皮肉にも、その年の秋、長雨と台風で稲から果物から農作物が大凶作に見舞われた。

 自殺者も含めて「一人も死人がでなかったのが不思議なくらい」と大人たちが言うほど、歴史的な大雨と大凶作だった。

 秋以降、公然と「御雪舞」の話をする人はいなくなった。

 年明けの祭りは中止。敢えてやろうと言う人もいなかったらしい。以後十数年、祭りは途絶えた。

 子どもなんかにやらせるから……。

 そんな話を直接聞いたわけじゃないけど、子どもながらに責任は感じていた。

「不作なんだったら余計やりゃいいじゃねぇか!」

「いいじゃねぇか!」

「みんなハルのせいにして、大人はヒキョウだ!」

「ヒキョウだ!」

 あっちゃんとゲコのいった「ヒキョウ」という言葉が、そのときの二人の表情とともにとても印象的だった。

 祭りは俺が絶対に復活させてみせる!

 そうデカデカ書かれた年賀状が、あっちゃんから高校を卒業するまで毎年届いていた。

 今でも実家にとってあるだろうか。今年、あっちゃんはその夢を叶えた。

 ――夢。これがあっちゃんの……。

 夢、だったのか。あの、帰りの車の中でゲコがいってた、あの町だからこその、夢……。

 あっちゃんの夢、ゲコの夢、みんなの夢。

 ――そして俺の夢……。


 目を開けると、駅で止まっていた。

 慌てて駅名を確認する。「高崎」。乗換えだ。

 雪は降っていなかった。寒さは大差ない。

 電車から出たところで、ブルッと震えた。

 両毛線で高崎経由上野行き。小山経由のほうがはるかに時間はかからない。ちょっと遠回りをしたくなった。

 高崎発だっために席に座れたが、乗客は六割ほど乗っているだろう。

 電車は嫌いじゃない。線路によって「つながっている感」。電車に乗るときはいつもワクワクした。未来と、過去とつながっている。

 様々な思い考えが巡る。ホームと電車の中では明らかに空間が違っている。

 見送る者と見送られる者。残る者、出発する者、帰ってくる者。

 電車に乗ることは、そのまま未来だ。電車に乗る限り、「後退」はない。乗り込む「覚悟」をした者の、漠然とした期待と不安の入り混じった「シート」の匂い。

 二度目の車内アナウンスが流れ、電車はゆっくり動き出す。プラットフォームを置き去りにして、人々は加速する。

 窓の外に、山の上にそびえる大観音様が黄色いライトに浮かんでいる。アレを見ると、込み上げる可笑しさとともに心がほっとした。

 顔が火照ったように温かくなる。

 観音様が見えなくなりシートに背中を任せると、すっと眠りに落ちていった。

 落ちる直前、観音様に頭の中で一言かけた。その一言は意識とともに落ちていき、深く落ちていって目が覚めたときには言葉をかけたことさえ思い出すことはなかった。


 アパートに帰って一息つくと、そこから動けなくなってしまった。顔が熱い。まさか!

「あるさんの、呪いか」

 なんとか着替えて風邪薬を飲んで横になる。横になって目をつむると、部屋がグルグルと回り出した。

 ――こいつは本格的にやばいな。

 こんなとき、独り身ということの悲哀を殊更に感じたりする。彼女でもいればいろいろと世話を焼いてくれるだろうに……。

 熱に炙り出されるように現れた、かつての彼女、「ササミチ」の顔、温もり、柔らかい感触。大きな目、可愛い唇、柔らかい胸……。

 ――まったく、こんなときでもそこだけは元気なのかよ。

 悲しいかな、男の宿命……。脇に挟んだ体温計が、ピピッ、と鳴った。三十九度八分。

 そういえば昔、相方が、「風邪ひいたとき熱なんか計ったらアカンやろ。体温計なん見たら負けやぞ」て言ってたな。

 なるほど。体温が四十度弱であるということを認知したことが、いったいここでなんの助けになるというのか!

 実際の体温より二度くらい低い温度を表示する体温計があったら売れるかも。そんなことを考えた。じきにそんなことも考えられなくなった。 

 うなされるようにして一夜を越した。翌日、病状はいよいよ悪し。

 天気晴朗なれども熱高し!

 頭痛、発熱、下痢、吐き気。起き上がることもできず、布団の中で体を丸めてガタガタ震えていた。

 ――やばい、明日仕事大丈夫かな、つか、このまま死ぬんじゃねぇか……。

 明日からずっと仕事入ってるから、このまま死んでも腐乱する前には発見されるだろうな……、て安心してる場合じゃない。

 正午近く。蒲団にくるまって震えていると、ティーシャツがたっぷり汗で濡れた。

 着替えようとなんとか上半身を起こす。汗をかいて体が少し軽くなったようだ。

 着替えに立ったついでにトイレにいって出すものや出すものを出して、冷蔵庫を開ける。手を洗ったかどうかは定かではない。

 コーラを飲んで、買い置きしてあったブロックチョコをかじった。ランチは終了。蒲団にもぐった。

 その時、ブブー、ブブーと枕元の携帯が踊った。布団から手を出してやっとの思いで電話を取った。

「もしもし」

「おはよ、松沢です」

 マネージャーのマツケンだった。後輩からだったら出ていない。

「おはよぅございぁす」

「昨日は……、あれ? どうしたの、なんか元気ないみたい」

「風邪ひいて死んでます」

「うそ! やばいじゃん!」

 声が割れて聞こえるほどの大声で叫んだ。思わず耳から電話を離す。

「明日仕事、だいじょぶかい?」

「たぶん、大丈夫だと、思います」

 点滴しながら出演している自分の姿を思い浮かべる。アリっちゃアリだ。

「ちょっと待って! 今からいくから!」

 ――だから、声でかいって。頭に響くんだよ。……、いくから?

「いや、だいじょぶっすよ、マツケンさん……、あれ」

 電話は既に切れていた。フーッ、と一つ大きく息をはいて、再び布団に潜った。

 マツケンのあのテンションは正直「高すぎ迷惑」なものではあったが、しかし。

 ――ぶっちゃけ、助かる。

 それで少し体に力が蘇ったようだ。ほんのちょっとだが。

 マツケンが心配してくれる、心配してくれる人がいるという安堵感と、逆に、きたとき少しでも元気にみせて心配させないようにしないと、という責任感が、からっからの体を少しだけ潤した。

 何か欲しいものがないか、自問してみる。

 真っ先に浮かんだのは下ネタだった。ラインしようかどうしようか、スマホを持ったまま悩んでいると、ブブー、とまた電話。

 マツケンが、あっちからリクエストを求めてきたかと一瞬思ったが、知らない番号だった。迷うことなく、通話ボタンを押していた。

「はい」

「もしもし」

 ――誰、だろう。

「もしもし?」

「あの、はるまげどんのハルさん、ですか?」

「はい、そうですけど……」

「いきなりごめん」

 相手が名乗った瞬間、熱に侵されていた脳みそが一瞬で飛び起きた。ガバッ、と上半身が起き上がった。

 疑う気持ちは全くなく、四十度近い熱も吹き飛ばして電話の声に集中した。熱で浮き上がっていた頭の中で、電話の相手はじっとこっちを見詰めていた。


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