束縛
時は金なりと昔から言うように、時間は人にとって重要なものであり、常に時間と共に生きている。
夜に寝て朝に起きる。12時くらいには昼飯を食べる。
そういったように、時間に合わせて行動している。いや、時間に縛られているというべきか。
人が定めた“時間”という概念が、あろうことかその人に取り憑いている。他人と関わって生きていく人間社会において、共通認識である“時間”の概念無しには生活できないだろう。
では、私達は何をもって時間を認識しているだろうか。
認識材料として一番大きいのは時計だろう。
時間を確認するために産み出された道具である。当たり前だと言えよう。
次に大きいのは太陽だろうか。
太陽の位置によっておおよその時間が分かる。
明るくなれば朝、暗くなれば夜だ。
時間の認識材料としては主にこの2つである。
しかし、この2つさえあれば時間が分かる訳では無い。
時計があっても動かなければ分からない。
太陽があっても動かなければ分からない。
私達は時計や太陽そのものではなく、それらの動きで時間を感じているのではないか。
時計と太陽だけに限らない。
テレビの画面が動いていたら、そのテレビの“時間”が進んでいることを感じられる。
街行く人々の全員が動きを止めれば、「動きが止まった」というより「時間が止まった」と感じるだろう。
そう、私達はモノの動きで時間を感じられる。
というより、モノの動きが時間そのものと言える。
全てのモノが動きを逆再生したなら、それは時間を巻き戻すことにほかならないだろう。
人を縛っていたのは時間などではなく、時計の針だったのだ。