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朧湛  作者: 東瑠璃
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ぬばたまの


「お、やっと動いた」

視界はまだぼやけている。声に応じて目をうっすら開くと、天井から下方に向かって放たれているライトの光が目一杯に飛び込んできた。ボイラーの音が聞こえる。聴覚は正常に働いているらしい。聞きなれた声、声の調子から察するに私のそばにいるのはおそらく、いやほぼ間違いなく水島篝だろう。

「あ。」

唸るように一言だけ発して、とりあえず意識がはっきりせず彷徨しているという状態を演じておいた。先から上昇し続けている心拍数が一定になるまでは、下手に返事をするわけにもいくまい。沈黙の中、邪念を含め様々なことが脳内を駆けずり回った。私は状況の整理のためそれらの余計な妄想や考えを一つ一つ惜しそうに間引いた。とにかく、ぶつかった相手は水島篝で間違いない。となると、この状況から導き出せる結論は、彼女のほうが私よりも気絶している時間が短かった、あるいは衝撃を受けてもなお意識が吹き飛ばなかったということだ。それはつまり彼女が私よりも先に目覚めた分だけ、私は無防備な表情を彼女の前に晒したということを意味する。この事実に気づいた時、私は恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなったが、数分前の咄嗟の演出を思い出し手は動かさなかった。意識がもうろうとしているのにもかかわらず、私の表情は現在進行形で紅潮の色を見せていることだろう。そんなことはどうでもよいとして、重要なのは私が書庫に入った目的が彼女にバレているか否かである。万が一彼女がパルシア側の人間であったら、私の余命は今日限りとなる。親より先に世を去るというのは人生最大の親不孝であり、それだけは勘弁だ。殺すというならせめて辞世の句を考える時間くらいは頂戴したい。覚悟を決めて起き上がる機を狙っていると、今度は耳元で、

「改称」

とささやいた。

「!」

私は図らずしも驚きのあまり起き上がってしまった。彼女はボブをかき上げながらにやりと笑って

「なんだ、やっぱり起きてた」と言った。

私もこうなってしまっては仕方がないので、背中のほこりを払いながら

「私の跡をつけてきたのは君で間違いないね、捕らえに来たのか」と言うと、

「何を言っているの」と顔に陰りを見せながら彼女は返した。私も思いがけない返事で不意撃ちを食らったような気分になっていると、彼女は身にかかった疑いを晴らすため、さらに話を続けた。

「5限が終わって調べ物をしに図書館に行ったら、速足で入り口を抜ける怪しいのが一人いて、面白半分で跡をつけてみたら案の定本を落とした音に過剰に反応したり、突然身をかがめたりしておかしかったから、此方もその変人の顔をなんとしてでも見てやろうって気になっただけ。」

さりげなく私を変人扱いしているが、彼女も負けず劣らずなかなかの変わり者である。変人の割合が異常に多いGIWの中でも指折りの逸材ではなかろうか。私はGIWの中でおそらく誰も知らないであろう彼女の意外な一面を知って図らずも口角が上がった。しかし、今の説明で完全に疑いが晴れた訳ではなかった。彼女は確かに「改称」という単語を私の耳元で囁いた、あれはきっと聞き間違いではないはずだ。それから数秒を沈黙に支配させた後、私は気まずさを紛らわすフリをして重たい口を開け、

「じゃあ、君が図書館に来たその調べものとやらの詳細をお聞かせ願いたい」というと、彼女は少し苛立ちを隠せないという様子で、

「ゼミ課題の港月の文化についてよ、同じゼミなんだから分かるでしょ。」

と言い放ち、華奢な右手で拳骨を作った。

「何も怒らせようとして尋ねた訳じゃない」

「そ。じゃあ聞くけど、あんたこそこんな誰も来ないような書庫に何をしに来たのよ。」

頭の中を疑問符が跋扈した。見かねた感嘆符がゴールテープの在り処を求めて全力疾走している。しかし同時に、あの囁きは実はそれまで抱いていた恐怖が作り出した幻聴ではないかという考えがいつの間にか増幅し、思考回路全体を席捲して脳の回転を妨げ始めた。実際、彼女がパルシア側の人間である可能性は十に一つもない。顔立ちがパルシア系ではないし、仮に何日も尾行されていたら流石に此方も気づく筈である。もちろん私の方でも尻尾を出した覚えはない。私は自分の祖父のことはおろか、家族構成についてさえ他の誰にも話した覚えはない。人づきあいが極端に少ない人生を送ってきた故、口外する機会を持たなかったのだ。それに加え、生来の用心深さでなるべくボロを出さないように立ち回ってきた。私がパルシア側の人間に付き纏われる所以はない。とすれば、彼女は事情通ではない無垢な迷い子、ならば私が今何よりもすべきことはただ一つ。彼女が今後私と接点を持つことがないよう、極力突き放して遠ざけておかなければ。

「あー、そうだな、俺がここに来たのはパルシアが戦後に発令した花柳街の規制、つまりだな青線と赤線について調べに来たんだ。今後の参考のために。」

「嘘」

「お嬢さんは生まれも育ちも良い閨秀でここにもストレートで入ってきたろうから、そういうのには無縁だろうがね、男というのは生きている限り漁色とは切っても切れない関係なんだよ。それと君、口が悪いね。長幼序有りって習わなかった?」

人と関係を断つコツとはすなわち、セクハラと旧陋な価値観である。生理的本能と社会的本能の両方から相手に不快感を抱かせ、忌避すべき人間というイメージを植え付けることで、どんな強固な信頼の糸もすぐさま大量の糸くずに変わる。周りから善良と言われている人ほど偽悪に気づかないことが多いのだから、世の中の信頼関係というものは案外ハリボテよりも薄っぺらいのかもしれない。今、こうして私の前に立って話をしている水島篝も例外ではなかろう。瑪瑙のような澄んだ両眼から一点の隈の無い心が見て取れる。が、彼女の返しは意外にも私の予想を裏切るものであった。

「あっそ。」

「なんだね、その返事は。もっと私憤に駆られる様を拝めると思ったのだが。」

「そんなことで私が憤激すると思うか?」

口調が変わった。化けの皮が剥がれたのなら、見事に私の術中に嵌っているということになるが。

「じゃあさっきの握りこぶしは?」

「ふっ、読みが甘いな。」

「読みが甘いとはどういうことだ」

「まあいい、私のカバンの中をよく見てみろ」

言われるがままに、私は彼女の提げているカバンの口に目を凝らした。すると、先ほど私が落とした「ラゾーンネと改称」の文字が見えた。そしてすべてを理解した。彼女は最初から嘘をついていたのだ。彼女の目的は、はなから「ラゾーンネと改称」であった。となれば、私の演技もすべて無駄だったという訳か。術中に嵌っていたのは私の方だった。

「着いてこい」

彼女から発せられた一言は重厚な響きを伴って、私から拒否権をかすめ取っていった。私は文字通り骨抜きにされて、不可視の縄で身体を縛り上げられた心地であった。

 それから彼女を先導に両者無言で書庫を出た後、桜並木を抜けて正門をくぐり学外に出た。6月の生ぬるい夜風が正面から頬に張り付いて私の注意を足元に向かわせた。風の吹きぬけて行く方へ振り返ると、夕陽のような色をした月がコラージュ作品のように闇に上から糊付けされていた。











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