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朧湛  作者: 東瑠璃
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決死の侵入

 あれからはや3日が経った。この日の講義は二限からであり、仮に二度寝をしてもギリギリ間に合うくらいの時間があったので、とりあえず起き抜けに録画してあった地層巡りの番組を見た。

「歴史の陰にはいつもキワの存在がありますねェ。このキワを作り出しているのが断層のズレや天地自然の活動なんですよ。」

幾重もの星霜を越えて地表にむき出しになった岩床を見ながら、隻眼の地層学者は言った。齢70余りの隻眼翁のにやけた表情はひどく印象的で、画面越しにその喜びが伝わってきた。その後もしばらく隻眼の爺を見ていたが、番組が終盤に差し掛かりエンディングのイントロが流れ始めたのを確認するとテレビを消した。そして時計を見ると、ちょうど鳩が巣穴から出てきて10回鳴いた。私はクローゼットの一番上にある洋服を取り出して着替え、立ち漕ぎで駅に向かった。全く爽やかでない老廃物の凝り固まった汗をハンカチで拭いつつ、電車に乗っていつものボックス席に座ると、前の乗客が方向を調整したまま忘れたのかクーラーの冷風が強く吹きかけてきた。汗は驚いて皮膚のもとへ帰郷した。席に僅かに残った前客のぬくもりを不快に感じつつも、心地よい冷風に気が緩んだのかいつの間にか眠りこけてしまい、終点で駅員に揺り起こされた。警戒心の強い私がなぜこのような無防備を許したのかを考えたところ、昨晩、ネットの海に潜って例の古歌の情報を探し求めるも、結局ボウズで朝を迎える羽目になり、不意に湧き出した朝靄に魂をあくがれて失意のまま寝落ちしたのであったが、一週間ぶりの朝の陽射しに熟睡を阻まれ碌に眠れずじまいであったということを思い出して合点した。

 前回同様、桜並木を駆けたおかげで何とか二限には間に合った。教室の最後列に腰を下ろして乱れた呼吸を整えていると、生気溌剌とした老人が前扉を開けて入ってきた。

「皆さんおはようございます。今日はとても学生が少ないですね、教室を間違えたのかな、ハハハ。」

安心しろ、元から9人しか受けていない。と心内でツッコミを入れた。教室にいた人数を数えると教壇の老人含め5人しかいなかったが、講義開始時にしては割かし多いほうであった。

「今日からパルシアの法秩序理論の先駆けとなった社会契約論と自生的秩序論について話そうと思います。プリントたくさん作ってきちゃったから今日欠席したお友達の分も持って行っていいよ。」

生粋のパルシア人だけあって、喜寿を越えてもなお底なしに明るい。この講義の担当であるゲンズブール教授は、教授会の中でも五本の指に入るほどの重鎮であるが、他の重鎮たちのように威厳の為すがままにふんぞり返るというようなこともなければ、驚くほど腰も低いため、一部の学生から崇敬を集めていた。もし講義名がパルシア法思想史ではなく、パルシア法概論という名であったら間違いなく教室は過密に過密を極めていたであろう。こうした実社会で役に立ちそうもない虚学がマイナーに追いやられている現状を見れば、致し方ない気もする。

「もう全員取り終えましたか?」

危うくプリントを取り忘れるところであった。私は急いで教壇の下に駆け寄った。講義の邪魔にならないように慌ててプリントを集めようとしたが、指が乾燥してなかなか思う通りにいかなかった。やっとのことで全ての配布物をかき集めて元の位置に戻ろうとした時、近くで扉を開ける音がし、先の美人が教室に入ってきて堂々とプリントを取り始めた。彼女もまたこの酔狂な講義の受講者であり、毎度欠かさずに出席していた。

「自生的秩序論は、、物凄く大雑把に言うと、、例えばコンビニやスーパーのフォーク並びを思い浮かべていただければ早いと思います。フォーク並びという概念を知らずとも、人が列をなしているのを見たら普通割り込まず最後尾に並びますよね。えー、あんな感じです。」

余りの大雑把な説明に意表を突かれたのか、誰かが笑いを堪えようとしてむせるフリをしているのが聞こえた。老人は続けた。

「この国の社会秩序はまさにこれで成り立っていますよね。島国で集団意識が強い国家はだいたい自生的秩序が有効に働くきらいがあるようです。これがマイナス方向に作用しますと、ostracism、いわゆる陶片追放などにつながるわけです。あ、ちなみに戦前に推し進めた神話ベースのイデオロギーによる国民国家形成もこれの弊害だといえますな。あ、うっかり口を滑らせてしまいました。ハハハ。」

私は今の発言を余さずノートに書き残した。ゲンズブール教授は時折これまでに得た学識を虚にするような爆弾発言をする。委任統治部隊の参謀を務めていたというキャリアを持つ教授は、長年体制側に居続けたためにタブーの境界が分からなくなっているらしい。此方としては非常に有難い限りである。先々週の講義では旧山都のでっち上げたイデオロギーは風呂敷が小さすぎたという話をしていたが、戦前戦中に山都を席捲していたイデオロギーは一体いかなるものであったかひどく気になった。

 興奮冷めやらぬままに2限が終わり、学食でいつもの料理を平らげるとまた第一講義棟へ戻って3限の教室へ行った。3限はラゾーンネ憲法の講義で、憲法第12条や13条等に明記された「公共最善」について語っていたのだが、この国の憲法はパルシアの委任統治部隊によって編み出された草案が土台であり、草案にはっきり記された「レスアルゲマインベステ」という簡潔明瞭な単語を敢えて「公共」や「最善」といった抽象的な言葉に訳して言葉遊びに興じているようにしか思われなかった。辺りを見回すと無数の眼鏡が微睡みのワルツを踊っていた。退屈に感じていたのは私だけではないと知ってひとり愉快な気分になった。

 うつらうつらに時計を見、その余りの鈍さに苛立ちを覚えた地獄のように長い講義が終わると、颯爽と教室の外に出て第三講義棟へ続く連絡通路へ急いだ。通路を抜けて7階のゼミ講義用教室に入ると、すでに私を除く全員が揃っていた。

「かおちん遅刻!反省文400字詰め5枚ね!」

五十路間近の風変わりな女教授が半笑いを浮かべて言った。

「勘弁してくださいよ三峰教授、遅れたのは憲法の講義が長引いたからで私に非はありません。それとそのニックネームいつまで続ける気ですか、今日で止めてください。」

「やだ。んで、憲法の講義って誰よ。」

「下根教授ですが。」

「あー、下根か。後でもっと段取り良く講義するよう学生が文句垂れてましたって言っとくよ。」

「変なところで真面目にならないでください。」

私の所属する地域文化研究ゼミはいわゆる緩ゼミというやつで、福原のように蕩尽生活に明け暮れている落伍者や、行政職の勉強のためにハードなゼミを毛嫌った学生、第一志望のゼミに受からなかった学生などを救済する役割を果たしている。行政職を目指している手前、やむを得ずこのゼミに入ったわけであるが、福原なんぞと一緒くたにされては溜まったものではない。GIWはゼミに加入せずとも卒業できる制度があったので、ゼミ加入当初は真剣に辞退を考えたこともあった。が、水島さんも同じゼミにいると知りなんとか辞退届を叩き付けずに済んだのであった。その結果として、この愛嬌のある五十路に好かれることになり、変な愛称まで付けられた訳であるが。

「かおちんも来たことだしゼミを始めます。突然ですが、皆さんはパルシアの三大祭りの名前わかりますか?はい、かおちん!」

「ヴァーレンプルギッセの夜と豊饒祭と、、、もう一つは、、すいません失念してしまいました。それと、、いえ、何でもありません。」

「まあ上出来ね、残りの一つは星耀祭です。」

向かいの無精ひげを生やした薄毛が鼻で嗤った。少し頭にきたが、年の功に敬意を払ったということにして見逃してやった。

「じゃあ次はかがりん、この三つの中で今日これから私が取り上げようと思っている祭りはどれでしょうか。」

「知りません。」

その場全体を凍らせるような返事に福原が怯えた。以前、福原は水島さんこと、水島篝に近づくためにわざわざ広い一般教養用の教室で水島の一つ前に座り馴れ馴れしく話しかけたのだが、挨拶の返事もないまま「なあ、そこ邪魔。」と一蹴され、それ以来ひどく彼女を怖がるようになった。私はいつの日か福原からこの話を聞いたとき、「ざまあ見ろ」以外の言葉が浮かんで来ず返事をするのに大変苦労した覚えがある。が、その一方でその後矢継ぎ早に彼の口から出た「お前も()()()()には気をつけろよ」という警告には真面目に取り合った。良い反面教師になると考えたからだ。しかし、気をつけろよと釘を刺されたものの、私には何の方策も立てることができない。実のところ水島さんについて何にも知らないし、彼女の性格もよくわかっていないからだ。あの女に苦労一つしてこなかったであろう福原を軽く一蹴したかと思えば、明らかに日陰人生を歩んできたであろう私の数少ない知人の相田が書いていた趣味用のノートを盗み見て、「何をしくさっているんですか」と興味津々たる面持ちで尋ねて楽しそうに会話をしていたりと何かと謎が多い。妙に外した口調も気になるところである。そんな回想を断ち切るかのように、三峰教授は話し始めた。

「相変わらずクールなかがりん、良いですね。えー今日はヴァーレンプルギッセの夜について取り上げたいと思います。最近は深夜アニメのラスボスとして人口に膾炙するようになりましたが、元々は中世の魔女の祭りです。」

サブカルチャーに造詣が深い教授は好感が持てる。文化論を専門としている癖に、「自分の専門は伝統芸能なので下位文化は全く存じ上げません」などと言うタコツボ化を極めた似非学者が文化論の領域に蔓延りだして久しいので、こういう三峰教授のようなササラタイプの学者を見ると文化論もまだまだ捨てたもんじゃないと考えるようになった。

「それでは、中世パルシアの最も有名な文豪が作品の中で祭りに触れているので、その一節を引きます。--風は凪にし、星めは隠るる。曇り月夜が影を縫う、魔女のこだまのざわめきければ、経りにし長霜空に散る。--」


 2コマ分のゼミが終わり、いよいよ図書館の文書管理書庫に忍び込むという計画を実行することにした。一度入って不用意にパルシアの文書を紐解けば、公安の監視下として二度と日の下を歩けないという、あの書庫である。第三講義棟の入り口にある時計は19時丁度を指していた。キャンパスは森閑としていた。私は図書館の入口を抜け、二階の隅を目指して歩いた。図書館の共同スペースと文書管理書庫の間には休憩用スペースがあり、ここを通らずにはお目当ての場所まで辿り着けないのであった。休憩用スペースは細長い形になっていて、長さ約8m幅約2.5mというような寸法であった。私は備え付けの電気をつけたままリクライニングシートに眠っているサークル上がりの学生達を起こさないよう、爪先を立てて背後をそろりと通り抜けた。やがて休憩スペースの半分に差し掛かりホッと一息ついていると、二階のどこかで誰かが本を落としたらしく、バンッ!という衝撃音が内壁に共鳴してフロア中に響いた。私は思わず吃驚して近くの柱に飛び退き身を隠した。幸いどのリクライニングシートにも動きはなかったが、動悸が冷めるまで柱の影と旁魄した。少し経って余裕が生まれたので近くの窓から空を眺めた。すると、遥か遠くに飛行機が飛んでいるのが見えたので、私はしばしの間その行方を目で追うことにしたのだが、夜空を平行移動している紅い点滅光がだんだんと此方を睨みつけるように思えてきたので目を逸らした。飛行機が窓枠からフェードアウトしたのを確認すると、また爪先立ちで歩き始めた。そしてようやく書庫への入口が見えたところで、突然書庫側のリクライニングシートからアラームらしき音がピピピと鳴った。今度は近くに柱が無かったので、咄嗟に影の濃んでいる場所に寝転んだ。結局バレずに済んだが、寝転んだ拍子に膝を勢いよく床に打ち付けてしまい、闇の中を静かにのたうち回る羽目にあった。一分も経たぬうちにアラームの持ち主はまた熟睡し始めたので、急いで後ろを通り抜けた。そして周囲に誰もいないことを確認すると、書庫へ通じる扉のドアノブをゆっくりと回して忍び込んだ。

 扉の先には下に沿って続く短い階段があり、その階段の突当りには文書管理書庫と書かれた扉があった。扉のやや下方には「書庫の本は劣化損傷が激しいものがありますので丁重に扱ってください」との注意書きが付されてあったが、緊迫した状況で頭が真っ白になっていたので一瞬空目して、「この扉をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という文言が書かれてあると錯覚し一層身構えた。私は再度周囲を見渡して人の気配のないことを確認すると、恐る恐る扉を開けて中に入った。ボイラーの乾いた風、そして無機質な音、環境に配慮した仄暗い照明が本日何人目かの珍客を出迎えた。光量の乏しい照明から視線を離すと、入口正面から奥に向かって9つの本棚が整然と並んでいることに気づいた。窓らしきものは見当たらなかったが、なるべく外側から見えぬようすぐに端の正面右1番目の棚から離れ、手探りで例の文書を探した。そして10分程かけてようやく入口奥側の3列目の棚で「ラゾーンネと改称」を見つけると、好奇心のなすがままにその場で本を開いて立ち読みした。「ラゾーンネと改称」は全文パルシア語で書かれてあり少したじろいだが、大学予科の蛍雪を思い出し何とか食らいついた。その文書のベルクーゼ山のページにはこう書かれてあった。


「…久世山に関して、我々はこの山の名称をベルクーゼ山に改めることにした。パルシア文字で表せばbelkuzeである。これは~より上方のを意味するbelと久世のkuzeの複合名詞である…なお、他の候補名として紫の尾根を意味するヴィオレッテングラートという改称も挙げられたが不評であった。また、南久世山と北久世山は大きな変更を加えず、そのまま北と南という形容詞を与えるに留めた…光歴1959年9月27日の改称会議で全会一致で採択された。施行は同年12月の予定である…」


 随分と危険を冒した割に収穫と呼べるものは殆どなく、ただ後悔だけが山のように募っていくのを感じた。そしてベルクーゼ山の旧名と不評だった他候補をメモに書き取り、最後に発行年次を確認しようと紙をめくると索引のページがあることに気づいた。発行にあたって改称の由来となった名詞や接頭辞、接尾辞をキーワードとして纏めておいたのであろう。有難い限りなのだが、15ページにも渡る厖大な索引を前にして私は何を調べたらよいか分からずしばらく途方に暮れていた。そして、どれだけ時間をかけたとしてもこれ以上の収穫は期待できないと悟り、本を閉じて元の棚に戻そうとした時、棚をはさんだ向かいから此方を見ていた二つの眼と視線が合った。私は全身の血の気が引いていく感覚をこの時になって初めて覚えた。1フレームにも満たないほどの速さで全身を巡る「まずい!バレた!殺される!」という本能の訴えに叛くことなく、本を抱えたまま蹲踞のような体制を取り、一目散に5列目の本棚の通路に身を滑り込ませた。床に耳をつけて聴覚に意識を集中させると、コツ…コツ…という足音が近づいてくるのが分かった。向こうは入り口側から近づいてきているらしく、此方の逃げ道を塞ごうという意図が足音を経由して伝わった。急いで立とうとするも足がわなわな震えだして止まらず、上手くいかない。先ほどの二つの瑪瑙に睨まれたせいか。が、ここに留まっていては直に捕まるのは明白であったので、持っていた本を床に置き、何とか痙攣した足に鞭を打って最後の9列目の棚の通路まで四足歩行で移動した。もはや退路は無く、背水の陣に立たされた気分であった。この状況を打開するにはイチかバチか奥側から遠回りして入口まで全力疾走するしかないと考えていた時、ちょうど右側に電灯のスイッチがあることに気づいた。このスイッチで電気を消して相手を怯ませられれば、幾分か生存確率も上がるやもしれない。そう考えた私はさっそく作戦を決行せんと電気を消した。そして向こうの足音が止まったのを合図に、一気に9列目の棚から1列目の棚まで走ってコーナーを直角に曲がり、1列目の棚に沿って減速せずに入口まで駆け抜けた。灯り一つない暗闇の中、いよいよ入口扉を目前にして此方の作戦勝ちを確信したところで突然、棚の陰から人型のシルエットが飛び出して来、吶喊を上げるも急ブレーキが間に合わず勢いよく人影に突進した。数分経って意識が戻り、夢現に顔を上げると、眉目秀麗花顔柳腰の瑪瑙の如き瞳の持ち主が心配そうに此方を覗き込んでいた。






















 



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