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朧湛  作者: 東瑠璃
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馥郁たるや茨の香

 食堂へと続く最短経路はぬかるんでいて、飛び石の石苔にしばしば足をとられた。脇にそれて道草を歩けば足をとられることは無いのだが、全く軌跡のつけられていないドクダミやゼニゴケを踏んで彼らの立派な矜持を折るわけにもいかない。三秒ほど考えた後、ちょうど雨が弱まっていたことに気づいた私はしなだれるようにのしかかっていた雨粒を払い落として傘を畳み、石突でバランスを取りながら歩いた。

 食堂はまだ閑散としていた。嵐の前の静けさというべきか。昼の書き入れ時に備えて食堂の従業員が持ち場で待機しているのが見えた。私は券売機でいつもの券を買って食券担当に渡した。そして相席レーンの隅を陣取り、料理を乗せた皿をテーブルに置いて一息しつつ券売機の方を見ると、すでに無数の学生でごった返していた。飯の合間、今後の予定についてぼんやり考えていると後方から誰かが話しかけてきた。

「平澤また一人で食ってんのか。」

振り返らずとも声の主が誰であるか分かった。こんなに失礼な物言いをする奴は私の知り合いの中では福原しか居ない。私は振り返らずに、

「ああ、今日も一人だ。文句あるか。」

と返した。彼にはこのくらいぞんざいな扱いがちょうどいい。

「隣座ってもいいか。」

「ふん。」

「サンキュー。」

彼は私の席の隣に座った。きっと集団席が埋まっていたのだろう。椅子をずらす音が三度し、私の隣三つが占拠された。金魚の糞に席を座っても良いと言った覚えはないのだが。

「今回のは初めて見たな。最近釣果が悪そうに見えたから心配していたんだが、大漁だな。」

私は敢えて福原の前に置いてある豚骨ラーメンを見ながら言った。福原は隣の

女学生二人に発言の真意を感づかれないように

「ああ、顔なじみの厨房のおばさんが気を利かせてチャーシューと味玉を一つずつ多く入れてくれたらしい。」

と苦し紛れに茶を濁した。そして間髪入れずに続けた。

「お前270円の卵あんかけチャーハンに80円の大盛り券のセット以外頼んだの見たことないけどよく飽きないよな。」

余計なお世話である。私の吝嗇は彼も十分知っているはずだのに、一種の嫌味か。

「会うたびに腰に色の違う巾着ぶら下げてる奴に言われる筋合いはない。」

「ははは。」

福原と他愛のない話に花を咲かせている間、終始刺すような剣幕でもって此方に向かっていた二人の睥睨に私は気づいていないわけではなかった。が、こんなことは慣れっこで全く焦燥感は生じなかった。むしろ、それぞれの睥睨がまるで協約でも結んだかの如く使い手同士に向かわず、一方的に私に向かっている状況が面白くて仕方がなく敢えて放置していたくらいであった。しかし、わざわざ他大からお誂え向きの白塗り顔を引っ提げてやってきたというのに、福原との貴重な時間をどこの馬の骨とも分からぬ根暗な奴に奪われて彼女らも癪であろうから、

「じゃ、そろそろこの辺りで。積もる話は今度のゼミで聞くことにするよ。」

とだけ言ってカバンを斜めに掛けると、

「平澤以外と良い奴だよな。」

彼は言った。そして規則正しく揺れる椅子に固定された三つの腕に見送られるまま外に出て3限の開かれる第二講義棟へ向かった。

 食後で満腹中枢が刺激されたのか、それとも昼下がりの温かい空気が午睡を誘ったのかは知らんが3限4限の行政理論は殆ど机に突っ伏していた。殆ど、とは言ったものの、3限終わりの休憩時間に湧きだした喧騒のおかげで4限が始まってからも30分くらいは起きていた。足による投票についてあれやこれや述べていたと思う。配布プリントにはその箇所だけ微細に書き込まれていた。それ以外のページはミミズが張ったような文字がちょろちょろと書かれているだけで、本人のみ何とか読むことができる暗号と化していた。やがて2度目の喧騒が教室を包むころになると急に眼が醒めだして、やおら立ち上がり同講義棟5階に向かった。

 階段を上がり、蝶の絵がある踊り場に差し掛かったところで水島さんとすれ違った。水島さんは私と福原と同じ地域文化研究ゼミのメンバーで、個人的に学内でも片手の指に入るほどの美人である。いつ見ても涼しげな顔をしていて、なかなかその出で立ちを喩えることは難しいのだが、紫匂える芍薬の高貴さと濃淡のある牡丹の艶やかさ、そして白百合のように可憐の中に威厳を兼ね備えた人ともいうべきか。兎に角にも私の拙い比喩では、十分に彼女の魅力を説明しきれず精彩を欠いてしまっている。時はすでに夕刻であったが、降り続く雨で辺りは夜さながらに仄暗く、名状しがたい闇が空間を支配していた。付き慕うように取り巻く陰影が彼女の白膚をよりいっそう際立たせている。一秒にも満たぬ刹那、電燈一つ薄明りの中、お互い一瞥して無言のまますれ違った。私は彼女が過ぎ去ってからもしばらくは何食わぬ顔をしていたが、5階へ続く階段を上りきったところで口元を固定していた紐を緩め、先ほど訪れた僥倖を噛み締めた。僥倖とはいうものの今学期になってから彼女とすれ違う、あるいは見かける回数は急増していて、ゼミの時間でなくとも週二の来校日の内、最低一日一回はこうして彼女の姿を見る。それは単に講義の被りが多いだけなのかもしれないが、実際昼に食堂で飯を食べていたときも遠く視界の隅に彼女の後姿を見た気がした。5限の地方自治法でひどく二日酔いを患っていた助教授が遂に嗚咽をし始めた時も、彼女のことが頭から離れることはなかった。

 ようやく身体に刺さった魅惑の棘を引き抜くことができたのは、いつもの19時35分の快速電車を乗り過ごして事態の深刻さを悟った時であった。私の最寄り駅は中継地点の駅から少し先にあるため、中継地点止まりの鈍行や普通列車では帰ることができず、その快速電車を逃した時点で私の9時半帰宅が確定する。学生身分で甲斐性もないため特急という選択肢は元よりなく、大人しく駅のコンコースにあった本屋で時間を潰して最寄り駅に停まる次の快速電車を待った。

 帰りの電車では憔悴しきった会社員や都会へ繰り出した田舎の若者が幻像機に執心していた。携帯機器に取って代わるように登場した幻像機は、もはや手で持つモノでは無くなって、太いU字型の磁気ネックレスのようなものになっていた。幻像機は二つの先端から光を発することで立体的に画面が浮かび上がる疑似ホログラム技術を採用しており、目新しさに飛びついた多くの国民に幅広い支持を受け、今では携帯機器のスタンダードとなっている。そして腕時計に似たコマンド用の取り付け品を片手に着け、各々調べごとか何かをして空疎な乗車時間を有意義に使っていた。車内の景色は朝のそれとはまったく違っていた。乗客の大半がうつむいて幻像機を弄り回している姿はかなり奇妙に映った。現像機は世に出てからまだ日が浅く、バッテリーが短いため朝は使用を控えめにするというのが一種の通念と化していた。私が帰りの電車で継ぎ目で回想に耽ったり、両の隅で車窓から見える夜景をぼんやりと眺めているのは、むろん満員電車の圧から逃れたいという理由からであるが、それとは別に夜の車内の通夜のような雰囲気に耐え切れないからでもあった。二度の特急待ちを経てようやく最寄り駅に着くと、雲間から三日月が顔を覗かせていた。












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