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朧湛  作者: 東瑠璃
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日常

 約1時間の遅れでもって漸く大学正門に着くと、門越しに学生が集まっているのが見えた。今頃は講義の内容も佳境に入っているだろうなと思いつつも、好奇心からかどうもその集団の前を素通りすることができず、集団の隅で佇んでいる青年に話しかけた。

「お早い朝ですね、何を目的に集まっているのでしょう。」

「なんでも教授会の階層構造の上部をパルシア人教授たちが席捲している大学の在り方が気に食わないらしく、デモを企てているようですね。」

私はその伝聞めいた口ぶりから、彼がその集団とは一定の距離を置いていることを察知して安堵し、

「そうですか。」

とだけ返した。そして、正門付近に立っていた守衛が怪しげな目でこちらを見ているのに気づくやいなや一目散にその場を離れ、正門から第一講義棟まで約100m近く続いている桜並木を走り抜けた。落ち葉はまるで蠢くように風に運ばれていて、それを見るたびに心臓が不規則な律動をとった。穴の開いた桜の葉は遠近法のトリックを巧妙にしかけていた。

 息も絶え絶えに3階まで階段を駆け上がって教室の後ろ側の扉を開けると、教室後方で聴講していた不真面目そうな学生達と目が合った。その学生達の視線が講義に1時間いくつ遅れた私の不真面目さを嘲笑うために注がれたのではなく、専ら私の風変わりな髪色と猫のプリントで埋め尽くされた七分袖に注がれていたことにはすぐに気がついたが、心なしか最後部の席に座ってからも何となく苛まれているという感覚はしばらく残った。


「・・・えーとですね、パルシアの委任統治部隊がこの国の各所に当てた名前にはある種の意図があるのであります。皆さんご存じでしょうが、例えば当大学のあるゲシーストワール県はパルシア語のgeschistoireという単語から来ております。これはパルシア語で歴史という意味ですね、見方によっては非常に皮肉の籠った命名といえます。また、この国を縦に貫くように走るベルクーゼ山脈のベルクーゼはbelkuzeと書きまして・・・belは高い、~の上方にあるという意味を指す接頭辞であります。kuzeはどこから来たのか分かりかねますが。」


中央のスピーカーからしゃがれた声がした。声の主の方に顔を向けると、地誌学の担当がマイクを口に近けて喋っていた。まだ初老にさえ入っていない年齢であるにもかかわらず、アナログな板書スタイルに固執し、片腕を縦横無尽に使役させているこの地理科出の兼任講師は今日も今日とて腱鞘炎の限界に挑んでいたが、酷使に堪えかねた片腕が慟哭を響かせるとすぐにチョークを置いて回転式の安物椅子に腰かけた。そして自前の水筒で水分補給をしながら雑談をし、片腕が回復するのを待つた。この一連の流れを私は幾度も見てきたが、回を重ねるたびに地味に板書を書き連ねる時間が長くなっているのに気づき、長期的な見通しの無さが特殊能力を生むという実例に出くわした気がして感動を覚えた。齢三十余の男は続けた。


「えー、この中に一体何人いるかは分かりませんが、片手で数えられるぐらいにはこの話に興味を持った人がいると思うので念のために読書案内をしておきます。初めて聞く人もおるかもしれませんが、図書館二階の一角の文書管理書庫には委任統治時代のパルシア帝政国家の公文書や関係資料が保存されております。その中にラゾーンネと改称という当時の文書がありますので是非ご覧になってください。」


 鼻提灯が吹き飛んだ。玉石の中の玉が棚から見つかった気分であった。前々から図書館にそのような施設があること自体は知っていたが、言わずもがなこの大学の階層構造の頂点はパルシア人に掌握されているため、一度その施設に足を踏み入れれば祖父の師や同僚のように一生を監視の下で過ごさなくてはならないという気がして入学爾来ずっと足を踏み入れずじまいであった。しかし、今の話で出てきた文書の中に私の求める答えがきっとあるだろうことは確かであった。常識的に考えて、改称に際し歴史的な背景を鑑みる過程を省くことなど不可能であり、例えどんなに技巧を凝らして隠蔽したとしても機械の手によるものでない限りどこかに綻びがあるはずだからである。私はいよいよ腹を括って、次の来校日の夜に足を運ぶことに決めた。

 引き続き二限も同じ講義であったが、もはや石の中に玉の現れる気配はなかった。稲作文化と牧畜文化の違いについて書き連ねられた板書を延々と写経するだけの退屈な講義であった。あまりに写経の時間が長い為、カシャという音が四方から聞こえだした。因果応報である。やがて八方から聞こえだした無機質な音を聞くにつれ、私も必死に板書を写経するのが馬鹿らしくなり、カバンから幻像機を取り出して労を省こうとしたが、カバンの底を見ても幻像機は見つからなかった。数分の後、自室に充電したまま家を出てきたことを思い出した。約70分にも渡る死闘を繰り広げた後、ようやく二度目の雑談の機会が設けられたが、国立大講師のワープア事情や甲斐性なしから嫁の収入に頼りきっていることなど、口から発せられるのはさながら自然主義の小説のような深刻な内容であり、受講者一同憐憫の情を向けざるを得なかった。いよいよ講義が終わりに近づく頃になると、受講者に水色の出席カードが配られた。地誌学の出席カードはランダムで予想が全くつかないため、思わぬ幸運に歓喜の声があふれた。あの三十路過ぎの若手講師も先行き不透明の暗い話を聞かせることになってさすがに申し訳なく思ったのであろうか。私は昼食の席に座れるように出席カードを教壇付近に置いて小走りで食堂へ向かった。


 





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