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朧湛  作者: 東瑠璃
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労働日

 重い瞼を開くと分厚い曇り空が出迎えた。昨晩うっかりコーヒーを飲んでしまったせいで覚醒状態が続き、朝刊が郵便受けに投函される音を聞いてからもしばらく眠れぬまま、過ぎ行く針をただただ眺めていたのは記憶しているが、どうやら空が白む前に眠ってしまったらしい。網戸を通り抜ける湿った風がやがて来る雨の気配を伝えてきた。その懸命さを感じ取ったのか鳩も巣からのっそり出てきて10つほど啼いたかと思うと、すぐさままた巣へと戻っていった。

 階下は静けさに包まれていた。母は道普請に出、父は昨夜のうちにまた会社へ呼び出されて家を発ったので今この家には私しかいない。もうすこし早く起きれば優雅な一人の時間を心行くまで堪能できたのにと幽かな日差しを恨んだ。折角の至福のひと時だが、今日はいわゆる労働の日であり三時間後には私も家を出なければならないため、謳歌できるのは昼前までに限られた。それにしても、学生という人生の夏休み期間を労働に捧げるというのはまったくもってナンセンスの極みである。苦学生でもなし、財に余裕のある家庭に生まれた者がアルバイトをする必要はないのだが、自分の欲しいものは自分で買えるようになるべきだという母のもっともらしい一言に否の一字を叩き付けることができず、なされるがままにアルバイトを始めてもう一年近くになる。月に4万モント程度の稼ぎだが半年溜めれば原付甲種の免許を取得して120㏄の原付を買えるくらいにはなる。根っからの守銭奴気質のせいか金の出入りは一方通行そのもの、半年分を溜めるのに全く苦労しなかった。とはいえ平均すると週に1200モント出ているので、案外労働外収入が多いだけかもしれない。

 時計を見ると11時を指していた。印刷機で今日の分のプリントを刷るために階上の父の部屋に向かう。ソファーから身を起こすと突然の急な立ち眩みに襲われたので、四足歩行でのっそりと階段を上った。さきから曇天の図太さと不意の俄雨を繰り返し伝えている天気予報師の声が遠くなっていった。二階のプリンターは元々は漫画家として身を立てていた母の所有物であったが、結婚時にもう使うことはないからと父に押し付けたらしい。現在のプリンターと較べると印刷に倍の時間がかかるオンボロで、液晶パネルの左端に縦傷が入っているが、使うに際し何も不便な点はない。不規則な機械音を背景音楽に両ポケットに忍ばせておいた煎餅とサンドイッチを取り出して食べた。やがて準備を終えて自作プリントを年季の入ったカバンに詰めながらむせかえっていると、玄関の鍵を開錠する音が聞こえた。

「昼作るの面倒だったからハンバーガー買ってきたんだけど、もう食べた?」

階下から声がした。

「いや、まだ。」

嘘である。今しがた煎餅とサンドイッチを食べたばかりである。サンドイッチは赤黒のパッケージの通りの味付けで、一口食べるたびに二三度むせるほど胡椒がかかっていた。途中コップに汲んだソーダが無くなった時、もう食べるのをやめて今にゴミ箱に投げ捨てたくなったが、母の帰宅がいつになるか見当もつかなかったし、なにせ下に降りて料理を作る気にもならなかったので我慢ながらに腹の中に押し込んだのだった。大して辛くはなかったが、咳と汗はしばらく止まらなかった。

「冷蔵庫に期間限定の激辛サンドイッチあったでしょ。父さんが会社の帰りに買ったみたいなのよ、全く父さんったら変なものばっかり食べて。」

「胡椒のかかり具合が絶妙だったよ」

「え、」

臀部から噴き出す汗を直に感じたのは生まれて以来初めてかもしれない。尋常学校に通っていた折、不運にも夏季休業直前に教室内のエアコンが壊れ、30度近い気温の中でいかにして涼を感じるかを仲間内で考えた結果、強のついた扇風機の前でエタノールを互いの背中に掛け合うという儀式めいた行為を発案し、それでもってなんとか暑さをしのいでいたが、さすがにその時でも臀部に汗が流れる、いや汗が噴き出す不快感を味わうことはなかった。私は不快感を取り払う為に急いで洗面台に直行し、下着用の引き出しの奥底にしまってあった開放感のあるパンツに履き替えた。居間に戻って時計を見ると正午になっていた。それからテーブルの上にあったハンバーガーに手を付けたが、二口食べたあたりで突如うなりだした腹の中の龍を無視しきれず、1時までトイレに籠城した。結局出発時刻は予定よりも15分程遅れることになった。

 往路の先導は風であり、私は先頭集団の背中を見失わないよういつもより深くアクセルを踏んだ。さすがに70㎞までスピードを上げると、景色を堪能する余裕は殆ど無くなった。街道沿いの電柱に描かれたメッセージ性のないグラフィティーを見て深読みすることもできなければ、畑の真ん中で仁王立ちしている案山子の柔和だったり不愛想だったりする三者三葉たる表情を窺うこともできない。週に二度しか訪れない楽しみであるだけに非常に口惜しく、ただ前方から後方に流れていく無数のグラデーションに一瞥を与えるだけに止まった。

 やがて目的地の家に着くと、エンジン音に気付いた生徒が窓から顔をのぞかせた。数秒の後、生徒の母が玄関の扉を開け、私の足労をねぎらった。

「うちの子、あれでも毎週先生が来るのを楽しみにしてるんです。」

「はぁ、それは光栄です。」

この家に来て初めて授業を行ったとき、随分と内気な子を担当することになったなと内心思わなかったわけではないが、意外にも打ち解けるに時間はかからなかった。

「来週はいよいよ学内テストですね。」

「そうなんですよ、尋常の低学年からしっかり良い点数を取ってコンスタントに勉強する習慣をつけさせないと。今日も真摯なご指導をどうかよろしくお願い致します。」

このような教育熱心な母親のもとに生まれていたら、私は少なくとも予科でドロップアウトしていただろう。そんなことを思いながら

「分かりました。」

と調子のよい返事をし、玄関を通って二階の生徒の部屋に入った。毎度お馴染みの風景となりつつあるが、この家は行政による保護の対象とまではいかずともかなり豪華絢爛な造りであり、県指定の文化的建造物と呼ばれているものと大して遜色ない。煌々と輝くシャンデリアや鋭い曲線を描いた居間のテーブル、異国情緒あふれる半円の窓は地元で代々名を馳せてきた銘家の面影を忍ばせている。家財や建物以外にも庭の隅に屹立している青桐や玄関横に力強く根を下ろしている垂楊から十分に品の高さはうかがえた。庭の周りを取り囲む芙蓉はまだ開花には至ってないものの、十分に見るものを恍惚とさせる艶やかさを放っていて、立ち並ぶ芙蓉の合間に生えた雑草さえ魅力的に感じられるほどであった。

「平澤先生、こんにちは。」

「はい、こんにちは。先週出した宿題はちゃんと終わらせた?」

「終わらせた!」

尋常四年だけあって元気に満ち溢れていた。これが本来のこの子の姿なのだろう。前に母親が教師の家庭訪問を受けた際、教師から「南条司君は明るく活発で友達もたくさんおります」という話を聞いて、家内での印象とあまりにもかけ離れている教師の我が子に対する人物評に驚きを隠せず、「失礼ですが別の子と勘違いされておりませんか」と返してしまい微妙な空気になったらしい。この話を帰りがけに生徒の母から聞かされた時は色々と察するものがあり、つい合点してきっと表情にも出てしまったはずだが、幸いにもそのときフルフェイスのヘルメットを被っていたおかげで顔を見られずに済み、いかにも嘘くさい空返事をして脱兎のごとくその場を去ったことがあった。

 尋常四年程度の勉強に最適解なるものなどなく、今日もだらだらと用意したプリントを配って勉強を教えるフリをしていたが、学力テストを来週に控え南条家に緊張の糸が張り巡らされていたのをいち早く察知した私は手を抜いているように思われないために珍しくこの無垢ながらも頭の回る子に問いをしかけた。

「社会の問題、この国の首都はどーこだ。」

急に問題を出され、多少戸惑いを見せた彼であったが、5秒も過ぎぬうちに

「ゲシーストワール、GIWがあるところ!」

と自信ありげに答えた。

「第二問、この国の県数は」

「24!」

「第三問、この国の気候の特徴は」

「えーと、北部と南部で気温差が非常に異なっていて、、南部の冬は晴天が多いけど、北部は日照割合が少なく降雪量が多くなってそれが年間降水量の差を明確にさせてる!」

「大正解。」

頭が良い子の担当は非常に楽だ。好奇心が強いからわざわざこっちで工夫を凝らさずとも勝手に成績が上がっていく。父兄はこの子の将来を案じて幼少から熱心に教育を受けさせているようだが、この子にしてみればその必要はあるまい。むしろ微小なストレスの蓄積に耐えきれなくなって、根が腐りだす可能性をこそ考えるべきであろう。外野の私が口を出すべきことではないのかもしれないが。

「もう問題ないの?」

「ああ、もうないよ。」

「じゃあ僕からも問題出していい?」

虚を突かれた。そもそも問いをしかけたのはテスト前のピリついた空気に半ば圧倒され指導をするふりをしなければ最早この場にいられまいと感じたからであるが、それはあくまでもタテマエであって、本音を言ってしまえば休憩を持ち出すきっかけが欲しかっただけなのである。適当に拵えた問題を答えさせてさっさと休憩に入ろうとした怠惰な私を牽制するようなこのいささか突飛な逆質問に驚きの表情を隠せなかった。が、すぐさま平静を装って

「いいよ、言ってごらん。」

と返事をした。少年は嬉々として

「じゃあ問題です。あるプケモンが科学技術によって先月現実的に存在するようになりました。そのプケモンとはどのプケモンでしょうか。ヒントは角から電撃を出す猫のプケモンです。」

「猫問だな。答えはバチニャンだろう。」

「せいかーい!」

若々しい変声期を迎える前の甲高い声が部屋中に響いた。大人の仲間だと思っていた先生が自分と同じ趣味であったことが余程嬉しかったのか、休憩中は大方プケモンの話をする彼であったが、この日の話題もやはりプケモンであった。プケモンとは偏屈な天邪鬼でもない限り、誰もが幼少期に一度は遊んだことのあるであろう共和国民のソウルゲームである。しかしソウルゲームとはいえど、国民の大半が幼少期に熱中するため依然として子供のするゲームというイメージが根強く、大人がそのゲームのファンであると公言することは余程の場合を除いて憚られる。そのためか、大人のプケモンファンは数にしてマイノリティを優に超えているにも関わらず、一向に市民権運動には乗り出すことがなく、禁教を崇拝する信者のような肩身の狭い日々を送っている。むろん、プケモンの当初のキャッチコピーは「童心に帰れ」であったことを考えると目下の現状は噴飯物である。私はこうした世間の見栄というものが嫌いで、プケモン好きを公言している訳だが、彼が私を好いた理由はこの辺りにあるだろう。敵国の人間の中に紛れた同郷のスパイを見つけて親近感を覚えない人間はまずいない。

「んで、バチニャンみたいに可愛いの?」

「いや、ただの猫。でも角が生えてて電撃を出すんだって。」

「まあ、あんなに目がでかくなってもしょうがないしな。」

「ぼくが大人になるころにはバチニャンゲットできるかな。」

「さあ、どうだか」

彼は私の単調な返しを自分本位の遠慮のない饒舌に対する咎めだと捉え、少しばかり自重していたが、私のまんざらでもなさそうな顔つきをのぞき込んで安堵したのか、また話を続けた。

「平澤先生はバチニャンの技で何が一番好き?僕はバチバチアクセル!」

「うーん、一番はパラライズだな。必ずマヒ状態にできるし」

「えー、変なの、ダメージ与えられないじゃん。」

年齢に似つかわしい反応である。

「ふふ、大人まで続ければきっと同じことを言うからその時まで待ってな。」

「うん。」

ずるずると始まった休憩を終えた後、一時間ほど勉強を見てその日の労働は終了となった。帰り際、生徒の母親から息子と二人でクッキーでもいかがとお誘いを受けたが、曇り空が濃さを増していたため丁重にお断りを入れて家路を急いだ。

 帰道を走っている間、私の脳を支配していたのは先程に生徒が話した件の技術であった。この国の戦後復興を加速の方向へ結びつけたのは言うまでもなくバイオロジーである。庭で見た芙蓉が見事に立ち並んでいたのも、品種改良最適化の賜物である。原種の儘ではどうあがいたってこの地で芽を出せるはずがない。バチニャンの生成にもそのようなバイオロジーの成果が大きく影響していることは確かである。学問全体が世間一般から象牙の塔に出戻りしていくさなか、バイオロジーだけは隆盛を極め、各国から優秀な学生が技術を求めて海を渡ってきている。

 この国が技術大国として有名になったのはちょうど今から25年前の世界規模の少子高齢化問題に対する功績が認められてからであろう。25年前、教育水準が高くなりすぎたことや共同体を排斥するエゴイズム運動が盛んになったことが災いとなって先進国の間での人口減少は急下降し始め、事態はついに後戻りできないレベルに至った。そしてその過程で、先進国は結局のところ生産性なんて概念は虚そのもので、唯一マンパワーだけが国を下支えてしていたという一縷の光もないシビアな事実を嫌というほど思い知らされたのであった。そんな絶望感漂う衰退まっしぐらの国際情勢を救ったのがラゾーンネ共和国のクローン技術であった。この国のクローン技術をもってすれば、髪の毛一本で自分と瓜二つの個体を複製でき、人口減少は一気に解決へと向かう。これまで圧倒的な現実の前に種種の美徳が灰燼に帰するのを目の当たりにしていた先進諸国は、もはや灰と化した倫理を例外的措置の名の下に梟の足に固く結び付けて黄昏空に放ち、欲望のままに魅惑の複製技術に飛びついた。しかしそのような飢餓状態にあっても、生きている人間を複製の対象とした際に待ち受ける人類の末路は容易に想像できたらしく、複製対象は死者に限定された。それでもなお、死んだ家族が赤子として帰ってくるのは予想を遥かに越える衝撃をもたらし、しばらくは世界から賛辞の声が絶えなかったが、三年を待たぬうちにその多くは批判に変わっていった。赤子が成長するにつれて顕在化した人格が故人のものと同一ではなかったのである。よくよく考えれば当たり前の話で、髪の毛一本で人格が定まるはずがない。だが国際世論は批判一色となった。ラゾーンネ共和国は予めその旨を前置きしていたにもかかわらず、敗戦国の倫理観なんて所詮はそんなもんという誹りを全世界から受けた。その間、人格の不一致は社会問題に発展し、子の親殺しや育児放棄が連日メディアに取り上げられた。そして一年か二年してようやく複製に至るまでの手続きの峻厳化を始めとした倫理的な規制が設けられた。しかし大バッシングのほとぼりが冷めた後、またクローン技術を核としたバイオロジー再評価の流れが訪れた。

 そしてこの一連の流れは一方では人文系学問、とりわけ哲学の再興を促した。自己と他己、人格形成などの問題を哲学的な視座に立ってひも解くという試みはディレッタント界隈の密かな流行りとなった。法学部よりも哲学部の人気が高いのは恐らくこの理由によるだろう。最近では科学哲学が熱いらしい。科学の発展は連続的か断絶的かを巡る論争が100年ぶりにまた勢いをぶり返しているようである。この国を見る限り、どっちが正しいかは火を見るよりも明らかな気がしてならないが。

 家に着く頃には夜空に星が浮かんでいた。雨を避けるためにわざわざ誘いを断ってバイクに跨ったというのに、考え事に熱中するあまり国道沿いを進み続けて遂に一つ隣のボーデンボーデン県に突入した。が、入ってすぐ左の道路わきに掲げられた隣県のカントリーサインを見るやいなや正気を取り戻した。その後、通り沿いのコンビニで缶コーヒーを買って勢いよく飲み干すと、今度は帰郷の一心でバイクを走らせた。天気予報が外れたことに気がついたのは日付が変わってからのことであった。

























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