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朧湛  作者: 東瑠璃
34/35

僥倖は素風に乗って

 彼女の足跡が熱風の秋風に乗って流れていく。その軽い足取り、途中ではぐれたとて、家に帰れば一足先に玄関前で待っていそうな迷いのなさ。

「それは鈍行だ。方角は合っているが、エストリッヒまでは行かない。」

喫茶店から続いていた軽快な足音が途絶えた。下り階段の途中で彼女は気だるげに身体を捻じらせて此方を向いた。そして、凪になって空気の抜けたテーパードに皺を作りながら階段の上で呼び止めた私のもとまで戻ってきた。

「快速は隣のプラットフォームだ。」

「ふん。」

「7分後か、運が良いな。」

ゲシーストワール駅の隅にあるエストリッヒ行きのプラットフォームの待合椅子に並んで腰かける。置き捨ててある新聞を読みながら、両手を少し下げて様子を窺うと彼女が腕を組んで欠伸をしているのが見えた。

「実を言うと路線は殆ど被っていて、途中駅で快速に乗り換えればエストリッヒまで着くから、鈍行に乗るのは決して間違いじゃなかったんだが。」

「でも、快速のほうが都合が良いんでしょう?」

「乾燥した吐瀉物と鳥の糞でまみれた乗換駅に降りたくはないからなあ。」

「なかなか強烈な絵ね。」

快速の電車は空いていた。午後の2時に電車に乗る者など老人くらいしかいないのであるから、当然と言えば当然であるが。

「橋を越えてから急に水田が増えて、一気に田舎の風景ね。」

「ゲロ駅から先は首都圏と見做されてないからね。」

「電気も落ちたけど。メンテナンスの費用も取れないほどの貧乏路線なの?」

「ただのデッドセクション。直流と交流が入れ替わるらしい。よくは知らん。しかし酷い言い草だなあ。」

「ゲシーストワールから40分の所にこんなにも静かな田舎の風景が広がっているなんて。」

「憧れの先輩がこの路線を使っていて百年の恋も冷めた話なんて毎年々尾鰭を付けて潤色されてるくらいだからなあ。」

「そうなの。」

最寄り駅に着いたときには視界も空気も秋らしい装いを纏っていた。山脈からの颪で年中ここには冷涼が駆けるため、都市圏に比べると気温が2から3度ほど低い。

「良い場所。都会から一時間と少しの場所にこんな適地があるなんて。」

「万一アイドルになったら、ここの観光大使にでもなってくれ。」

「何の冗談よ。」

「この前テレビでその器量好しと似た顔を見かけたから。」

「厳密に言うと、この顔は祖母の顔で果たして私の顔と呼んでいいのか躊躇うけど。」

「安心しろ、一皮捲れば人類皆同じだ。」

改札を抜けて、駅前広場に出る。交番と商会、居酒屋とそれから公衆トイレがあるが、この公衆トイレは常にトイレットペーパーがない。トイレットペーパー代の倹約にと、丈の合わない近くの尋常学校のジャージを履いた老人が日々用意されたそれを回収していく姿は地元民なら一度は見たことがあるはずである。

「吟遊と初めて会ったのはここだったな。」

「この公衆トイレの前で?」

「ああ。夜も遅い大学からの帰り、どう見ても成人なのに柱に背中をつけて蹲ってるのが見えたから糞でも漏らしたのかと興味本位で近づいてみたんだ。」

「悪趣味。」

「とは言っても、駅近辺のトイレ事情は地元民以外は分からないからなあ。自転車を取ってくる。」


駅前の街路樹に巣食う鳥の囀りが一段と大きくなった。腐った落ち葉のような色の似合う寂れた商店街も今日は心なしか賑わいを見せているように思える。帽子屋と古着屋の饒舌、備え付けのテレビに向かって吶喊のような笑い声を上げる茶屋主人、今まで廃墟だと見做していた景色の中に息遣いが聞こえる。

「それで?」

駐輪場の入り口で待っていた水島篝が珍しく続きを急かす。

「まだ臭くはなかったんだな。この付近の商店街は暮れと同時に閉まることを告げた後、どこから来たのかと尋ねたら、自分は旅人で定住はしていないなんて言い出したから此方も面白くなった。」

「変人同士。」

「んで、糞を耐えてるときに何を考えてたんだって尋ねたら、アッカイア・ラターナの英雄詩の冒頭を心中で唱えていたという。これはもはや運命と言わざるを得ない。その日は偶然にも原付で来ていたから、その旅人を乗っけることにした。原付改種の特権よ。」

「振動が厳しい気がするけど。」

「だから正座の姿勢で両膝を杭代わりにして後ろに乗ってもらって、帰路を爆走した。」

「命知らず。」

「だって漏らされちゃあ困るわな。それに別のスリルで気も紛らわせられるだろうし。」

「で、漏らさなかったの?」

「ギリギリね。」

「良かった。」

「それで居間で話を聞くうちに、その旅人が吟遊だと判明したわけ。あの人、前人未到の大学八回生の癖して、現役でGIWに入ったらしい。」

「教養課程が終わった後、専門はどこに決めたのかしら。」

「古代パルシア文学。」

「ああ、道理でね。」


「漸く着いた。裏庭に自転車泊めてくるから玄関前で待ってて。」

大学に入ってからこの家に人を連れたのは、先の吟遊を除けばこれが初めてである。ちなみに、尋常と予科の時は1年に1度だけ内申書を携えた客がやってきた。

「ただいま。」

鍵を開け、戸を引いて家に入る。母の返答があればその声から居場所を推測し、返答がなければ脱いだ靴下を玄関脇に放り投げる。

「何、もう大学の講義終わったの。」

母は玄関脇の靴棚を開けて、埃を払っているところであった。今日は他所に出るつもりがないのか、後頭部に棘を一つ生やしている。

「お寛ぎのところ悪いんだけど、今日は来客があって。今家の前で待たせてるんだ。」

「ちょっと5分だけ待って。」

一つ棘を押さえつけながら、母は玄関脇での作業を中断して居間に戻った。居間で雑誌が捲れる音が聞こえ、それから雑に押し入れを開ける音がした後、居間から発された間隔の短い足跡が大きくなったかと思うと、すぐに静止して、やがて霧吹きを連打する音がした。そして、短髪の後頭部を濡らした母が湿り気を取ったであろうタオルを持ちながら私の所まで来た。

「こっちはもう準備できたわよ。」

「あい。」

私は玄関を出て、外で待っていた水島篝を連れて家に入った。低い敷居を越えて、彼女が家に入った時、母は彼女の姿を見るなり持っていたタオルを落とした。


「お邪魔いたします。」

水島篝が母の顔を見ながら言った。

「いらっしゃい。」

いかにも平静を失ったような声で母が返す。上がった口角が引きつっている。

「和室使うから。」

「後でお茶、持っていくわね。」

「どうかお構いなく。すぐ帰りますので。」

水島篝を和室に連れて行ったあと、祖父の史料を取りに部屋を出ると、開いた襖のすぐ先に母がいた。慌てて視線を反らし、壁に立てかけた写真を注視している。私が何事もないように居間を抜けようとすると、母が呟いた。

「女の子だとは思わなかったわ。まさか美人局とか怪しい団体の手先じゃないでしょうね。」

私が襖を閉めて、和室から遠ざかるのを今かとばかりに待っていたようだ。

「大学の同期。」

「あんな女優みたいな子が何しにここに来たのよ。」

「なんでも、女優業だのアイドル稼業が忙しくて講義に出られてないみたい。それで、出席率の良さそうな人をあてにしたらしい。」

「だとしたら頼る相手を間違えたわね。しかし、不肖の息子が上手く騙したじゃない。」

「真面目で理知的に見えたんだからしょうがない。」

「あの子は歌劇団で姫役になった葉月と並ぶくらいの美しさね。あんたには勿体ない。」

「葉月って?」

「私の妹。」

「まあ。歌劇団の姫役が身内にいるなんて今初めて知ったよ。」

「まだあんたが赤子の頃に一度あったきりだから、知らなくて当然だわね。」

「へえ。」

「んで、何しに和室から出てきたのよ。」

「ああ。」

自室から祖父の史料を持ち出して和室に戻ると、退屈そうな彼女がお茶を脇に菓子を頬張っている。

「もうお茶持ってきたのか。相変わらず動きが早いな。」

「紹介が遅れました。芸名はひかり、ノクテューン所属、売り出し中の19歳。」

「まだ二十歳越えてなかったのか。それは初めて聞く情報だ。」

「9月17日、あと二週間で二十歳。」

「まあなんだ、その節は悪かった。すっかり母はアイドルが家にやってきたものだと思っているらしい。」

「講義ノート見せてくれるかしら。」

脇に抱えた古い資料群を凝視しながら彼女はそう言った。あられの食べかすを口の端につけながら。




「なるほど、これは凄い史料ね。私の辰鎮見聞録とは比にならないほど。」

「いや、あれはあれで重要な手がかりではあるが。」

「やっぱりいたのね、穹主。それから神も。」

「どうもそうらしい。」

50年前の号外新聞に隈なく目を通す彼女の口元は綻んでいる。

「湖と山の旧名が三神の名とそれぞれ符号しているのはもはや偶然でなくて必然ね。」

「ああ。」

口の端に引っ付くあられに気づいた彼女が、僅かに光沢を残した指の爪であられを口内へと押しやったが、少しして私の視線に気づくとテーパードにしまったハンカチを取り出して、神妙に口周りを拭った。

「残っていたのはこの二つの論文だけ?」

「そう。」

「何のために残したの?」

「それが分かっていたらタッグを組む必要なんてなかったろう。」

「古代海民のコスモロジーと双数概念、お互い密な関係はなさそうに見えるのだけど。」

「戦前の歴史学がいくら広い範囲を扱ってたといっても、宇宙観と言語じゃあ畑違いだよなあ。」

「そうね。カオリの祖父自身が書いた論文を記念として残すならともかく、もう一つを残した理由が分からない。」

共同して執筆にあたった恩師の論文を記念として残すというのも分からなくはないのだが。

「ああ、祖父には助手がいたらしいんだ。論文の最後で糸という助手に賛辞を送ってる。」

「糸って。。」

「何か知っているのか?」

「知っているも何も、糸は私の祖母の名よ。」

彼女は虚ろな目をして、力なく手に持っていた論文を卓に置いた。


「この頃の大学は殆ど男子制と聞いたことがある、仮に女子であったとしてもきっと同名の誰かだろう。」

恐れていた符合を避けるための咄嗟の一言が、却って説得力を帯びて響いた。彼女は緘黙を貫いている。距離にして畳一畳分もない彼女が遠のいていく。彼女は無言で私を見つめる。陽光を受けた片目が私から一寸の陰りさえ取り去るように心の虚を覗く。努めて目線を避けようにも、それがいかに無理な行いであるかは自明であった。

「これどこにあったの?」

「祖父の部屋。」

「部屋のどこにあったのかを聞いているの。こんな危険な史料、そのまま置きっぱなしにはしなかったはず。」

「掛け軸の裏の部屋。本棚の本を漁ったらその部屋の鍵が出てきた。」

「古典的ね。開けゴマ的なものは?」

「俺の名前。」

「イデオロギーどころの話ではなくなってきたようね。カオリ、あなたの祖父はまだこの世のどこかに居る。そして、私にはあなたの祖父の所在を突き止める義務がある。」

「へえ。」

「知らないような顔をして。どうせ端からそれが目的だったんでしょう?」

「ああ。」

「私の祖母のことはいつから知っていたの。まさか最初から?」

「いや、いつかの喫茶店で偶然写真を見てから。助手の糸さんが祖母だなんて今の今まで全く知らなかったよ。」

「北へ行きましょう。」

「ずいぶん唐突だこと。」

「あなたの祖父が意図的に残した史料は、北と南の湖に言及している箇所が多いように思えるのよ。海民のコスモロジーだって、穹主につながっていく渡来系の文化が、本来の土着文化と遥かに質を異にしていることを述べているし。渡来人が支配する前の海民の習俗は蘆分地方と類似していたらしいし。加えて、北と南の湖には酷似した文化があったって、もう一つの論文がそう言及しているのを見るに。」

「地理的にはまず有り得ない話だが。南北のつながりは概ねここに書いてある史実の通りだと思う。和睦を導いたものが上に立つ。中立的な立ち位置というのは最も力を持ったものにしか許されないと、確か中世パルシアの政治的リアリズムの大家が言っていたがまさにその通り。とはいえ、その処世訓が真であるとは限らないから近々北に行って確かめるんだがな。」

「まあ、現段階ではそういうことにしておきましょう。」

「それで出発は。」

「今すぐにでも発ちたいけど。」

「もうそろそろ大学も始まるし。次の連休で良いんじゃないか?」

「どうしてそんな悠長に構えていられるのかしら。とはいえ、無暗に急いでも仕方ないものね。」

「まずは目的を定めてからだな。」


彼女は静かに頷いて網戸の方を向いた。風を受けては翻るカーテンの波先に合わせ、波飛沫を浴びないよう華奢な指をぶらつかせながら、時折見える白波の裏の入相を眺めている。私は何も言わず、和室を出てトイレへ向かった。用を足して戻ると、和室から声が聞こえてきた。

「では、そろそろお暇致します。」

「お夕飯、ひかりちゃんの分も作っちゃったんだけど。食べていかない?」

「そうですね。私の分も作っていただいたのであれば、お言葉に甘えます。」

「うちの薫は真面目だけが売りだから。授業に出られないときはいつでも利用して良いわよ。」

「ふふっ。ありがとうございます。」


母は私を立ててくれたのだろうか。それとも、掴んだ縁を離すなという戒めであろうか。

私は一足早く居間に入った。換気扇の音に交じって、すっかり涼しくなった夜風の中に蟋蟀の鳴音が響く。少しして、彼女は母親と共に和室から居間に入ってきた。

「ひかりちゃんは好きなところに座っていいわよ。」

「では、流しから一番近い席に座りますね。」

親子はそろって眼合わせた。というのも、その席は私の定位置であったから。が、私も母もそのことを彼女に言わなかった。

「じゃ、私ひかりちゃんの隣に座るから。」

父の定位置に座る母はなんだか嬉しそうであった。

「お料理、とても美味しいです。」

一般家庭の手料理の中では濃い方だが、それでも北側地域の人間にとっては薄味料理として括られるであろう。

「それはよかったわ。アイドルのレッスン帰りとか、料理を作るのが面倒になったらいつでも寄って頂戴ね。」

「一人暮らしなので助かります。是非そうさせていただければと。」

「あら、一人暮らしだなんて偉いわね。」

母が横目で私を見る。

「ほどよい田舎で、大学は近いし家賃もない、料理だって作らなくて良い、こんな好物件があったら誰も自活なんてしないよ。」

「冗談めかして言ってるけど、三十路にもなって相も変わらず縁側で怠惰な日々を送っている絵が最近浮かぶのよ。とりあえず、家の冷蔵庫が壊れるまでは住まわせてあげるけどね。」

「耐用年数が10年だとしたらあと3年しかないんですが。」

「いつまでもあると思うな親と家。」

「いやあ、厳格な家風。」

今宵は客があるというのに、つい日常のごときプロレスのような会話をしてしまったと彼女の方を振り向くと、彼女は専らにこやかに笑っているばかりで、眼前で繰り広げられる母子の掛け合いに耳を貸しはするも、どちらかといえば左手で口元を隠して育ちの良さを誇示するように、またその巧妙な意図が母に伝わらないようにいかにも自然のような体を装うことに意識を集中させていた。

「ひかりちゃん、お茶飲むの早いわねぇ。今替えを持って来るから。」

「どうぞお構いなく。」

「こんな暑い日は喉も渇くわよね。まあ飲まなかったらそれで良いから。」

「ありがとうございます。」


長時間の乙女座りで踝に畳みの模様が食い込んだらしく、母が席を離れると彼女はこの機を見失うまいと二、三度ほど踝を掻いた。

「言い忘れていたが、うちの和室はダニが犇めいている。」

「和室の畳は反り返りがなくて清潔そのものよ。」

「道理で居心地がいいわけか。」

「生息北限をこの家とする稀少なダニ。カオリダニ。」

「そう、あと三年後に追い出される哀れなダニ。」


製氷機から掬ったであろう氷が、マグカップの中で割れて涼しげな音を立てた。暦の上では秋であるが、まだひと月は残暑が続くであろう。今日は上着を一枚多く着ているからか、汗が音もなく服に滲み続けている。夏場におけるカレーの発汗作用はなかなか侮れない。


「ひかりちゃん、どこに住んでるんだっけ。」

お茶を片手に母が問う。

「ゲシーストワールの外れです。」

「じゃあもう少しゆっくりできるわね。」

「あんまり遅くなるとご迷惑なので、食事が終わってお皿を洗ったらすぐお暇する予定です。」

「お皿は私が洗っとくから。薫、ひかりちゃんが大学の単位取れるようにしっかりと勉強見てあげなさいよ。ひかりちゃん、万が一単位を落としたら、こいつのこと蹴っ飛ばしても良いからね。」

「はい。分かりました。」

「え。」


さも同盟でも結んだかのように、テーブルの向かいの面々が揃って屈託のない笑顔をこちらに向けている。私はすかさず苦笑いで応酬した後、皿を下げて和室の隣の縁側へと小走りで逃げた。

「母親の癖が移って、事あるたびに愚弄するようになったら困るなあ。」

世界を逆さにして意味もなく天井から下に垂れ下がった庭を見つめていると、泳がせていた足が柱に当たったらしく、取り付けていた風鈴の音色が抜山蓋世の気象を伴って暗夜へ響き渡った。遠く、三角の下で海豚が輝いている。いずれ燎原となりゆく星々から地へと視点を移すと、縁側近くに花を咲かせた一本のカタバミの萼に目が留まった。この星火は派手な死を望まない。台座から可能な限り穏やかに一枚一枚花弁を落として等級を落としていくのだ。

「まあ、縁側にダニが落ちてる。」

来客があるにもかかわらず、お構いなしに寛ぐ私に水島篝が怪訝そうな顔をのぞかせた。両手に茹でたてのトウモロコシを載せた笊を持ちながら。

「母親の真似をすると可愛くなくなるぞ。」

「私一つ違えばこの家族とともに暮らしていたのかもしれないのよね。」

「一つ違ったことに感謝すべきだ。来客がいないときの扱いはもっと酷い。この家族と生活を共にしないことがいかに幸せか一日でよくわかったろう。」

「逆よ。」

そう言って彼女は灼熱のトウモロコシにせわしなく吐息を吹きかける、これ以降の返答など何も望んでいないと言わんばかりの様子であった。右目下の泣き黒子がその切望を密かに囁いた。私は靴置きの石台の隅に素足を乗せて、染み入る石の冷たさに滔々と流れる沈黙の場を取り仕切らせることにした。ほどなくして彼女も素足を石台の上に乗せた。



「今日はうちに来てくれてありがとうね。またいつでもおいでね。」

「はい。」

「薫、駅前まで送ってあげな。」

「へえ。」


母は余程彼女のことが気に入ったのか、家を出て三つ目の角まで見送り、彼女の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。来る途中開いていた店はすべて閉まっており、風のみが通り抜けるシャッター街の花道をただ自転車のカラカラという音が木霊するばかりであった。

「素敵なお母さまね。」

思い出したかのように彼女が立ち止まった。幽かなブレーキの音と共に、連綿と続くかのように思われた自転車が間の抜けた発声を呑み込んだ。

「アイドルだの女優だのの卵って言ったのってどっちだったか。」

水島篝が呆れかえったような眼を私に向けた。

「それは災難だったなあ。別に元気なお馬鹿キャラで通しても良かったんだが。」

「理知的な顔立ちなんだからしょうがないのよ。」

どこかで聞いたような言い回し。さては居間での会話を盗み聞きしていたな。

「相変わらず抜け目がないなあ。」

「それはお互い様よ。」

「照れるなあ。」


商店街の出口付近、明滅するネオンへの幽径に続く十字に差し掛かった時、俄かに彼女は幻像機を取り出して最寄りの駅からゲシーストワール駅までの電車を再確認した。

「思ったより時間が押してる。」

思わず隠しに収めていた懐中時計を覗いて短針を見つめる。

「次の日は早かったっけか。」

「ええ。」

彼女は短く返した後、しゃがんで靴ひもを結びなおすと足踏みし始めた。

「確かに次の特別快速を逃したら間隔がひどく空く上に鈍行続きだしなあ。」

母に見送られた手前、家に泊まれなどとは言いづらい。

「北行きの日程とか、まだ話したりないことが山ほどあったのに。」

「何も話すことがないから何も話さなかったのかと思ってた。」

「じゃあまた後で連絡するから。」

そう言い残すと、ジョギングのような歩調で駅の方角へと走り始めた。元より自転車を貸す流れになると思い込んでいた私は、彼女との距離がそう遠くならないよう呼び止めた。

「おうい。走るくらいならこの自転車に乗ったらどうだ。駅の適当なところで乗り捨てておけば良いから。」

彼女は私の声を聴くや否や身を翻し、哀願するように目配せをした。

「駅のどこに。」

先ほどまでの奥ゆかしさはもはや見る影もなかった。

「エスカレーターの裏でも、駅従業員の出入り口近くでも。」

彼女のもとまで自転車を押すまでもなく向こうから勢いよく走り寄ってきたので、圧倒されるままに自転車を手渡す形となった。

「有難う。それじゃ、さようなら。」

右足を左ペダルに乗せて助走をつけた後、身を任せるようにして自転車に跨った。大した速度は出ていなかったはずであるが、その疾走感たるや宛ら往年の騎手の如き佇まいで、夜半の素風に道を譲らせたか、須臾にして彼女の姿は闇中に紛れていった。


 雀の巣窟と化した白樫の下に置かれた自転車を回収して家に戻ると、母が珍しくアイドルの番組を見ていた。居間に入りしな、母は待ちあぐねていたかのように

「ひかりちゃん、ネットで探しても出てこないのよね。」

と言った。そりゃそうに決まっている。

「あんた、あの娘に嫁に来てもらえば。」

「はあ。」

この二言目はさすがに予想がつかなかった。いくらなんでも前後の脈が無さすぎる。

「まあ、才色兼備を地でいくようなお嬢様にお前は勿体ないわな。」

不行跡の息子を抱えて母も幾度となく苦労してきたであろうから、敢えて聞かなかったことにしておこう。

「アクセル全開の煽りが移らないと良いなあ。」

「でもね、意外と脈ありだよ。あの娘、和室を出る時に遺影に向かって深々と三つ指してたし。さすがに三つ指の含意なんか知らないだろうけど。」

「単なる深読みだよ。」

真意のほどは定かではないも、何かしらの含みがあることは確かであろう。

「それにしても、あの顔初めて見た気がしないのよね。」

そう言うと母はテレビに映る数人のアイドルに向かって「頭の悪そうな面構え。」とだけ吐き捨て、リモコンの電源を数回押すとそそくさと二階へ上がっていった。




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