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朧湛  作者: 東瑠璃
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夢幻の時代




 講座の内容は紙面の割に簡潔なものであり、いかに形容詞と比喩を駆使して穹主に気を遣っているのかが丸分かりであった。要するに、穹主の祖である久世日神は南北の二神の喧嘩の仲裁に入って従えるも、それまでの二神の統治体制を崩して再編するような力業に依ることはなく、久世日神の下に二神を明示的に位置づけるという同意を条件に、自主統治を赦したということである。そのとき久世日神は二神特有の統治術も継いだようだが内容が抽象的で判然としない。実を言えば神という概念も馴染みのないものであった。パルシアのテオの様なものであることは分かるのだが。


「ここに来て始点と中点が線で繋がったな。」

 祖父の背中で聴いた子守唄のようなものは、実は三神の名と故事であったらしい。記事の末尾にある出典には引用した論文と並んで風塵戯抄第二百三十三段と書かれてあった。


 新聞を置いて今度は論文の題を眺めた。「古代海民のコスモロジー」と「紀亥・伊曽地方の双数概念」、どちらも広義の古代史の研究対象ではあるが、前者は人類学から攻めた論文である一方、後者は言語学から攻めた論文であり、両者にあまり共通点はないように思える。どちらから読んでも問題はなさそうであったが、祖父が直々に執筆した前者から手を付けた。





「…辰鎮民族の垂直的なコスモロジーが、古代海民の有していた水平的なコスモロジーを呑み込むような形で旁魄して、穹主にとって統治の正当性を確実にするような神話が形成された。…つまり、天より地に落とされた種から生まれ、やがて天界に戻っていくという死生観を持つ辰鎮民族と、死体の骨を海に流す海帰?に見られるように、海境から生まれ、海境へと帰っていくといった死生観を持つ古代山都海民とは、本質的に出自も異なれば文化も異なるのである。それはこれまで述べた両者の墓地及び埋葬の比較で証明された。後者は土着の民族であり、蘆分地方から流離して龍恋島に定住したという説が有力であるが、その仮説を証明する歴史的な証拠はいまだ揃っていない。…論文を上梓するにあたり、指導教授である柳川教授、研究室の同期諸君、助手の糸に賛辞を贈る。


 戦前の論文にしてはやけに挑発的である。とりわけ、国家の祖である穹主が渡来であることをコスモロジーの比較で人類学的に論証するのは、戦前の趨勢を考えれば無謀である。婉曲的に主張しようとも、また真実が仮説の通りであろうとも、イデオロギーを崩す反乱分子として真っ先に除去されるに違いない。きっとこの論文は流産したのだろう、査読の印がないことからも明らかである。それにしても、助手の糸とは誰の事だろう。いくら優秀であろうと一端の院生に助手を付けることなどできるのだろうか。


 

 私は祖父の論文を服のうちに隠すと、もう一冊の方を開いた。装丁が古い。保存状態が悪いらしく、雑に開くと、背表紙から襤褸が零れ落ちる。「紀亥・伊曽地方の双数概念」、柳川雪時という人物が執筆したようだ。祖父の指導教授と見て違いない。言語学について詳しく学んだことはないから、音声記号の章は飛ばさざるを得ない。辛うじて分かるのは、文法について述べた箇所ぐらいか。  

   


「…敵国であるパルシア語の祖、アカイアラターナ語に特有と思われた双数概念は、古代山都においても存在していた。そして、古代山都の双数概念は前者のそれよりも遥かに独特な性格を有している。…すなわち、古代の伊曽及び紀亥に特有な一人称双数それである。これは古代伊曽の一般的な一人称、おいが冬の特定の期間にのみ、さきに変化する。さきを使う場合、語末も呼応して変化し、平常文疑問文ともどもその後ろに~もろう。という現代語に於ける常体の特別形がつくのである。また、古代山都における双数名詞は鬼と氣の二つのみというのも、世界に類を見ない稀な文法体系であることの証左となる。さらに興味深いのは、丁度、伊曽とは久世山を挟んで反対にある紀亥地方でも同様に一人称双数が存在し、同様の変化をするということである。兼ねてより、同心円状に方言の類似が見られるというのは我が師の説であり、言語史学会ではもはや定説となりつつあるが、今回の発見は山都のルーツを辿る上で非常に重要な鍵となり得る潜在性を秘めている。…今回の成果は史学研究科の玄葉君と平沢君の協力なくしては決して得られなかった。」



 平沢君は言語学にも通暁していたのか。掛け軸の真善美と言い、博覧強記の人物を祖父に持ったことは誇りである。しかし、そんな祖父と双璧をなす玄葉君とは一体誰なのだろう。存命であっても古希は越しており、もう荼毘に付しているという可能性も充分あり得る。

  

 私は論文二冊と新聞紙を懐に隠して、狭く蒸し暑い部屋を出た。掛け軸を退けると、真夏の冷風が毛穴に埋まった汗の雫を乾かした。祖父の部屋はなお月よりも明るく、電球の周りを蛾が旋回している。彷徨う蛾を月の路まで案内すると、灯りを消して窓を閉め部屋を後にした。掛け軸の裏戸は今ひとたび強固に塞がれ、鍵なしでは全く開く気配がなかった。



 出立の朝は遅く、遠く高速を走るバイクのけたたましいエンジン音で目が覚めた。点けっぱなしの電球、鈍角固定の扇風機、網目を通り抜ける堆肥の臭い、それらはこの田舎の夏を演出する風物詩として残り続けるだろう。無論、引き払えば存在はなくなる。私の記憶の中にのみ残る風景となり、やがて私も居なくなれば記憶もまた存在と共に藻屑と化していよいよ自然に帰る。重い瞼を網戸に近づけると、夏には珍しい乾風が顔を撫でた。レールには昨日月に帰したはずの蛾が一匹、力なく横たわっている。蛇の目の羽模様は死してなお、捕食者に睥睨を利かせ、風を受けてはためく様は宛らからくり人形のごとく、死から遠ざかった生者の躍動を模倣していた。私は昨日この蛾を掴んだ時に手に付着した、蒔絵の材のような鱗粉の銀を思い出しつつ、亡骸を放置して窓を閉めた。祖母に暇を乞うて元来たバス停まで歩く途中、田園風景の中に孤立している老木が眼に入った。100年の後にはあの細く伸びた樹も見えなくなるくらいに葛に覆われるのであろうか。

  

 電車を待つ間、暇つぶしと駅内広場にあった売店で土産を漁った。家族用と教え子、それから水島篝の分と。牧畜酪農を売りにしているだけあって、店頭に並んでいる乳製品の質はどれも高そうに見える。しかしながら、土産とするには日持ちが悪い。保冷剤を貰おうにも、地元に帰る頃にはすべて溶けてしまっているだろう。やはり、その土地の産物はその地で消費するに限る。近頃専ら田舎者の皮肉として用いられている地産地消という語も、ようやく烙印を拭う日が来たようだ。売店の売り子に勧められるまま買った、蜂蜜カフェオレに舌鼓を打ちつつ、一寸も得にならなそうなことを考えていると、ツェールスーデンからの下りの迅速急行が運んできた客が押し寄せ、広場は過密状態となった。一息ついていた売り子がまるで狐にでも憑かれたようにがなった。先ほど私に見せた、鄙びた商店の主が見せるようなあの落ち着き払った憂鬱気な態度はどこへ行ったのか。飲みかけのコップをひっくり返して一気に流し込むと、売れ筋の商品だというチョコ菓子を3つ買って広場を去った。

  

 ツェールスーデンに着くころにはもう既に3時を過ぎていた。帰路は乗り継ぎが悪いらしく、一時間の

足止めを食らうことになったが、坂上の公園の見晴らし台で時間を潰せば丁度の頃合いになるだろう。いつぞやのパン屋が見えた。入口から店内を覗いてみたが、水色のスポーツウェアの彼女は居ない。それもそのはず、彼女は今辰鎮に留学しているのだから。私の突然の帰郷も、彼女の留学なしではあり得なかった。パン屋の庇を支える柱の銀光が鋭く日の光に反射して眼を晦ませてから、視界には太陽の落とした暗点が残っている。それが時折記憶を蘇らせて、前方に水色のスポーツウェアの幻影を作り出す。光の反射が産み落とした心地よい幻影に案内されるまま階段を登っていたが、眼のうちの暗点が縮小するにつれ

幻影も次第に幽かになっていき、首輪の繋がった番犬の威嚇で弾けて、大気へと霧散していった。

   

 公園のある坂上の丘に着くと、ツェールスーデンの湖を一望できる場所を探した。幸いにして、今日は平日、家族連れとカップルが数組居ただけで風光明媚の鑑賞を阻害するほどの人だかりはなかった。咳き込みながら見晴らし台に近づくと、家族連れの子供は示し合わせたかのように咆哮さながらのくしゃみを

放ち、カップルの男は女の肩を寄せて距離を取った。他意はなく、単に涎が上手く呑み込めなかっただけであるが、結果としてスペースを確保できたので弁解もせずに手摺に両肘を預けた。間欠泉センター、公共施設、海中遺跡、どれも湖の傍にあったので見つけるに苦労はしなかった。サイクリングコースの桜並木も直に葉を落として、骨ばった幹を露わにするのだろう。骨、不純物を払った鋼のような樹皮。目の前に広がる眺望も、感受性の欠如から1分も経たないうちに見飽きてしまい、湖上を泳ぐ遊覧船の進路を眼で追ったり、晩秋に楓の映えそうな箇所を予測したりと、まるで隣のカップルと同じような凡俗な視点でもって有閑の時を送っていたが、そのうちに湖近くの墓に釘付けになった。というのも、祖父の論文を軽く読んでから、街中の墓の位置に関して妙に注意を払うようになり、祖父の視点に近づく一歩目として意識下で墓を求めていたのだろう。あの論文では、特にツェールスーデンのコスモロジーについては僅かばかりの言及に留めて、研究対象の外に置いていたようだが、この街の墓地もやはり水辺に沿った低地にある。中央政権樹立後の山都の旁魄したコスモロジーから考えれば、当然高地にも存在しているはずである。公園の芝生が日光で焼かれて、ほうじ飴のような匂いを漂わせている。堆肥の臭いで充満している夏場の祖父母宅の辺りも、そう遠くないうちに自然の馥郁で溢れることだろう。

  

「そういえば。」 

匂いが引き金になったのか、南ベルクーゼ山に向かう途中、霊園入口という停留所があったのをふと思い出した。方角的にも理にかなっている。戦中政治体制のイデオロギーの細部に踏み込めると湖の墓と山中の墓を見たくなったが、祖父の論文は結論だけしか読んでおらず、今墓を訪れたところで得られるものはない。次の鈍行は1時間半後であり、懐中時計を取り出して今の時間を見ようとするも、夏場の軽装で収めるべき懐がないからと家に置いてきたのだった。仕方なく公園内の時計に目を向けると、鈍行の出発まで30分を切っていた。墓地の調査の前に論文を読む時間を考慮すると、日没までに一連の行動が終わっているという見込みは  到底立たない。まして学士論文なら兎も角、戦前戦中時のテクニカルターム満載の修士論文を読解するとなれば尚更のことである。この地にはそう遠くない内に再訪しそうな気がするからと、突飛な計画を諦めて階段を下り、駅に戻った。

   

 久方の地元の夜中は雨模様。自転車に付いた水滴を手で薙ぐと、新雪の堆を橇で平らにした時のような爽快感を覚えた。隣の旧式原付は既に発ったらしい。風流な主の顔を拝みたいという気もあったが、遂に叶わずじまいとなってしまった。大方壮年や老年であろう。小雨に混ざってスナックから音痴の熱唱が漏れている。仕事とはいえ、店主や従業員が気の毒に思われた。私が店主なら、スリッパで音痴の頭を叩きながらリズムを取ってやるだろう。店頭の電飾が点滅しているのも、耳を塞いで発光に手が回らないせいであろう。路地を曲がると、雨夜の足踏みを映した電柱が立っているのが見えた。どの舞台のスポットライトよりも幻想的な照明が施されている。旧式の白色電灯は風景の輪郭をモノクロに染め上げてややレトロな趣、無声映画の一幕を切り取ったような穏やかな沈黙。タイヤが水を跳ね返す音さえ、冴えた音響の為せる業と変換された。


 家の戸を開けると、寝間着姿の母が出迎えた。日付も変わったというのにまだ起きていたのか。


「行きはスズメノカタビラのような頭をしてたくせに、帰りはまるで踏まれた稲穂みたい。」

母はそう言うと私にタオルを差し出した。  

「夏の夜雨はシャワーの代わりになったよ。」

「不潔。」

「風呂にはいずれ入る。」

「鞄は濡れてないの。」

「前掛けにしてうつむくようにしたから大丈夫だと思う。」

「そう。じゃあ早めにお風呂に入ってね。」    

  

掃除機で私を退けるほどの非道な母が突然優しくなったような気がした。踏まれた稲穂に微かな同情心を寄せたのだろうか。幻像機でスズメノカタビラの画像を見て吹き出した後、畳に寝そべってからの記憶は一つも残っていない。

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