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朧湛  作者: 東瑠璃
32/35

アナグラム

  

 繚乱に蔵書の散らかったままのいかにも事件性のありそうな部屋、という予想は見事に外れたようだ。部屋の中はすっかり片付いていた。しかし、そこには数日前まで人が住んでいたような生活感も認められた。祖父はあらかじめボケるのを見越して、蔵書の整理を行ったのだろうか。部屋の三分の二は平らであったが、残りの部分は一段高くなっており、その段差の境界で木目板と畳とが分かれている。本棚が入り口から続く木目の流れを断ち切るようにして配置されているのに対し、書斎机の方は段差の上の六畳にピリオドを付けるかのように置かれていた。この間取りだと蔵書を取り出したいときに逐一段差を越えて往来する必要があり、非常に面倒である。初めから段差など払ってしまったほうが良かったであろう。しかしながら何か考えがあったのかもしれない。日光を避けるためには已むを得なかったと、そういう風に考えることにしよう。

 書斎机には何もなかった。机横の引き出しを開けようにも鍵が取り付けられていて詮方ない。時間の空費を避けて本棚に向かった。特定の本を引き抜けば裏に通じる道があるというミステリー小説の王道を宛にして、手当たり次第に数本を取り出してみたが反応はない。棚に並んでいる本のジャンルも無秩序で、文学作品の隣に少年漫画があったり、熟語辞典の隣に資格書籍があったりと此方の推理を拒んでさえいるように見える。

「あとは何だろうか。縦読みとか斜め読みか?」

本棚にまつわる謎解きといったら、もはやそれぐらいしか思い浮かばなかった。そもそも、祖父にそのような遊び心があったのかさえ怪しいところである。とりあえず、本棚の上からタイトルを眺めてみた。

「帰属意識と労働効率、かえる図鑑、恋慕。」

新書と文学作品に挟まれた「かえる図鑑」が不思議と笑いを誘ってきた。表紙には昨日玄関で見かけた、ラゾーンネを代表する蛙が写っていた。しかし、至近距離で撮られた蛙を見ると、遺伝子を交雑した暴れ馬のような生物特有の不気味な顔立ちが浮かんでしまって、本来余り可愛いらしいものではないと気づかされる。それにしてもこの奇妙な相を切り取って永遠にしたものを、つい最近どこかで見たような。

「題の先頭の一字を拾うと、帰、か、恋。恋はカエルとは読まないだろうし。」

カエルが共通点だと考えたが、それだと恋と接続しない。後ろを振り返って、他に手がかりはないか見渡す。机と壁の掛け軸くらいしか目ぼしいものはない。窓から漏れる陽光が埃の軌道を描く。長らく人が足を踏み入れていないらしい。入ってすぐ換気をするべきであった。埃の軌道を見てからというものの、心なしか部屋が埃臭い。が、もうすぐこの部屋を去るのだから歓喜の必要もないといえばない。祖母だって一ヵ月に一度ほど軽く埃を払いに来るくらいであろう。私は意味もなく鼻を摘まんで部屋の窓を開けた。台風の次の日は風のない穏やかな晴天と決まっているが、昨日の朝の時点で台風は去っており、今日は今日でそこそこの風が吹いている。そういえば、恋慕は戦後自然主義を代表する文学作品なのだがまだ一度も読んだことがない。答案用紙に書いた覚えは何度かあったが。

「横読みすべきは題ではなく作者のほうか!」

私は駆け足で本棚へと戻ると、最初の三冊の著者名を眺めたが、つゆも手ごたえがなく「かえる図鑑」の著者名がアフロ☆ミヤザキということ以外に何もつかめなかった。それにしても、祖父は国内で最も優秀な国立大学であるGIWの前身を出ているというのに、なぜこのような児童向けの本を棚に収める必要があったのか。図鑑にしても、もう少し硬派のものがあったであろうに。本を寄贈されるくらいアフロ☆ミヤザキとは昵懇の仲であったのかもしれない。

「薫やあ、おやつが出来ましたあ。」

階下から祖母の声が響いた。

「只今あ。」

二日目にしてだいぶお互いの距離を把握できた。共に暮らせばこんなに気を使うこともないのだが。

居間に入ると茶碗蒸しが二つ卓上に用意されていた。

「騏一郎さんの好物ですよう。孫だって気に入るはず。」

「里芋が好物だったのでは?」

「里芋は灯佳の好物。騏一郎さんは里芋の葉は好きだったけど、実は里芋自体はさほどなのよ。」

百聞は一見に如かずとはこのことである。

「父さんが。」

「そう。」

「いただきます。」

「どうぞ召し上がって。」

私の嫌いな銀杏は入っていなかった。逆に好物の海老は二つも入っていた。今の今まで思い浮かばなかったが、満月に眼の色が変わらない生き写しのことも調べておかなければ私が本当に私であるという確証を得られないような気がしてきた。

「ごちそうさま。散歩してこようかな。」

「まあ早いねえ。気に入ったようで何より。」


 家前の道路の先が蜃気楼で歪んでいる。冬の朝、路面に熱湯を撒くとあのような道を作ることができる。尋常の時の体育のマラソンなどはよくこの仕組みを利用して授業を妨害したものだ。その頃の悪ガキ一味とは馬が合って虫取りをしたり花火を見たりしたものだが、彼らは予科には行かず日夜バイクいじりに興じた。そうして怠惰的な生活に耽ったかと思えば、今では工場で慎ましく働いているというのだから尋常の教育はほぼあってなきに等しいだろう。

 夢で見たバスの停留所は果たして夢の通りの場所に存在した。しかし今ではバスは通っていないらしい。時刻表の更新日時が10年前で止まっている。

「バスの名前は経時で色あせて良く見えないなあ。奥枯木又?」

撤去されずに取り残されているだけであろうが、今なお静かに立ち尽くしている姿に私はふと敬礼したくなった。通り沿いを行くと、祖父が雨量の推測に観察した杉並木が見えた。脱擬制宣言をしたあの日はまだ高速道路が建設される前だったが、バスのルートが残存している辺り、ある程度市民の交通路を妨げないように作られたと分かる。しかしながら夢というよりは祖母の思い出話を補ったものというほうが正しいのだが、こうも夢と現実が相似しているのは田舎の風景が変化に乏しいからであろうか。

 進路を変えて家の裏の辺りを真直行くと、旅の始めとなった例の畦道が見えた。夢の中ではあたり一面が黄金に染められた秋の風景であったが、帰省は夏であり、その時期以外に帰った覚えはない。それでいて、近づくと距離を取る飛蝗の足の擦れる音や絶えず奏でる蜩の響きなどはしっかりと夢の一部を構成しているのだから、もはや自然に対して冒涜的とさえいえる。夢というのはやはり宛にすべきではない。

 晩の雨のために堆肥の臭いはさほど酷くはなかったが、それでもなお郊外とはいえ都会で生活を送っている者にとっては鼻を摘まみたくなるくらいには強烈である。彼らにとって都会の溝臭さが堪えがたいものであるのと同じことであろうが。テロメア修復も可能になりそうなほど歪に発展した現代、臭いのない堆肥なんぞはとうの昔から市場に出回っているのだが、田舎の農家は担い手が悉皆高齢者ということもあり、年甲斐で得た頑陋さでもって、旧来の臭い奥ゆかしい堆肥を使い続けている。

 田で囲まれた畦道を歩くと、前方に平面の世界に立体感を生み出すが如く屹立した老樹が一本、近づくと夏草を野放図に生やした平地に生えていたと分かった。平地は往来の中心部にあたる場所であり、水の引きやすさといい水田耕作に最適と思われたが、この一区画だけは長らく放置されていたようである。雑草を刈った後さえない。伸び具合を見るに、遅かれ早かれ隣の田に雑草が侵入しているに違いないのだが、彼らは相次ぐ外部の猛攻に対してひたすら自衛を貫くに留めているらしい。こういう平地は大概にして耕作放棄前に大地を彩ったであろう農作物が点綴していたりするものだが、一瞥する限りそのような形跡はどこにも見あたらない。雑草を踏み分けていると、緑に交じって顔を出していた石に躓いて膝を打った。とはいえ、石の表面がなだらかだったので大した痛みもなかった。

石は四つ、四角形の各点に沿うように埋められていた。太幹とも言難い老樹が石を見守るようにして立っている。それらが土からの湿気を防ぐために、そして足場を強固にするために置かれた礎石であると気づいたのは、帰宅後夕食を済ませて階段に足を掛けた時であった。

「地震。」

近頃は断層が活発になっているらしい。人類が自然との共生を辞め、支配へと舵を切ってから早数千年。貪婪な服従に身を委ねきったように見せかけて、今なお不定期で抵抗の意思を示すとは甚だ迷惑な話である。

「今日のは少し大きいわね。」

孫のか細い呟きに部屋越しで反応する祖母の耳の良さには驚いてしまった。

「この家って築50年は越してるんだっけ。」

「終戦の前に建てたから、多分越えてるわね。でも、元々私の家の別荘を改築したものだから実際は築90年ってところかしらね。」

さすがはラゾーンネに数店舗を構えていた菓子屋の一人娘である。結婚して実家を離れてもなお、父母の子煩悩の深いこと。

「じゃあ耐震性能は少々不安だね。」

「この前のツェールスーデンの大震災の時も何とか耐えたし、改築前の龍恋島、今はなんていうのかしらね、の地震の時だって持ちこたえたらしいから。」

「この前って何年前?」

「20年前くらいかしらねえ。」

時間は同一には流れていない。少なくとも20年前はこの前ではない。

「ドラコグロッケ島、龍恋島ならこの前行ったよ。」

赤子から見れば、2ヵ月前もこの前ではないということになるのだろうか。

「そうそう。ドラコ何とか。パルシア語は慣れなくてねえ。終戦前に義務教育を終えた人にとっては、かえって昔の地名のほうが馴染み深いのよ。今ではほとんど忘れちゃったけど。」

「龍恋島はどうして覚えていたの?」

「騏一郎さんとの初デートの場所だったからよ。」

「なるほど。」

「。」


祖母の自重によって、会話はぷっつり途切れた。口から出かかっていた姑息の返答も、歯茎に詰まったじゃが芋に遮られて出る幕を失い、吊るされた電灯の微かなまたたきが場面転換を促してきたのをお互い節として続きを切り出すこともなくそのまま私は二階へ上がり、祖母は暗闇の廊下に姿を晦ませた。

 自室で仰向けになり、肉のない薄皮で覆われた腕を意味もなく抓っていると、隣の部屋のカーテンが侘し気な音を立てた。祖父の部屋の窓を開けて換気をしたは良いが、迂闊にも窓を閉め忘れてしまったらしい。散歩前の出来事であるから、もう3時間は開けっ放しであろう。とかく夏の湿った風は本にとって毒である。私は慌てて窓を閉めに行った。

 

 カーテンが夏の夜風に翻る。祖父の部屋は先に歩いた裏手の水田の方を向いているので堆肥の臭いはあまり届かない。窓を閉めようと部屋に入りしな、陰影の中に仄かに月光を映した部屋の静謐を破らんと凄風一陣、それまで小さく膨らんでいた帆は瞬く間に波濤を描いた。私は風が止むのを待つ間、例の無秩序な本棚を眺めた。近づいて収まった本を確認するも謎は深まるばかりである。

「帰、か、恋。」

風が凪いだその時、脳内に閃光が走った。

「薫。」

「一字ずらすだけのトリックも解けないようではGIW生の名が廃る。一浪だけど。」

本の題名の先頭を一字ずらしていくうちに、失った緊張感が蘇ってきた。

「カオルヘシッソウシタラサガシテホシイカギハトウテンニアル」

トウテンとは読点か。暗号の「。」を置くに相応しいのはイの終わりであろう。私は電気もつけずに「井の中の蛙、大海を知る。」という本を引っ張り出して本の最後のページを開けたが、鍵はどこにも見当たらない。全ページをさらっと捲ってみるも黴の匂いが漂うばかりであった。すっかり落胆して、後でもう一度洗い直そうと祖父の机上へ滑らせるようにその本を置くと、ハードカバーの重厚な響きと共に、微かな金属音がした。走り寄って本を拾い上げて揺さぶると、やはり金属の擦れる音。

本に鍵を隠そうとした場合、どこが最適な隠し場となるか。

「背表紙の溝か。」

背表紙の糊付けが不自然に弱まっているのに気づいた。慎重に背表紙を引きはがすと、鍵が収まっていた。早速机の引き出しに鍵を押し込むと、施錠が外れて中から笑う農夫を象った石が現れた。用途は不明であるが、先端が蓋付になっていて開けると文字が描かれてある。三文字分あるが、かろうじて読めたのは美の文字だけであった。電気をつけて辺りを見回す。長らく電気を点けていなかったようで、明滅が激しい。掛け軸には真善美の三文字。恐らくこれであろう。掛け軸を返すと壁には扉、そしてお誂え向きの窪みがあり、持っていた石をはめると隠された奥部屋に繋がった。


「なんだこれは。」




 壁際の机の他には物一つなく、伽藍とした空間が闇に広がっていた。夏場の盛りに密閉された空間ともあって、湿り気のある暑さが襲い掛かってきた。床は埃が褥を作っている。祖父の部屋から漏れる光を頼りに、部屋の輪郭を想像しながら机の方へ歩いた。机の上には二冊の論文と戦中の新聞紙があり、そのどれも紙面の隅が煤けていた。痕跡を残さないよう失踪する算段であったが、現世のしがらみからは逃れられず、後に祖父を探して連れ戻す誰かの為に、つまり私に自身の在り処を伝える手掛かりを残したと踏んでよいだろう。私は手始めに新聞紙を拾い上げ、見出しをさっと読んだ。


「鷹顔雲煙を御背に従え、紀亥にて駐畢。無辜の氣魄を発揚し給へり。」


 永禰27年1月11日と紙面にはある。いつのことだか見当も付かない。それに、鷹顔とは誰の顔のことで、紀亥とは一体どこを指すのであろう。見出しの下には山都全国図という題の簡略された地図が用意されており、鷹顔の歩いた行程を追うことが出来た。地図に描かれている国は紛れもなくラゾーンネであった。どうやら鷹顔はベルクーゼ本山付近を出て、ツェールスーデンで「無辜の気魄」を発揚したらしい。つまり久世はベルクーゼのことで、紀亥はツェールスーデンのことである。新聞の広告欄に目を移した。香水や整髪剤は商品名も製造会社も聞いたことがないが、隣で「妊娠時に..。」と洒落たフォントで宣伝するヘリビオスは、今日でもコマーシャルで度々目にする抑うつ効果のある錠剤である。新聞紙を捲って次の頁を読んだ。「穹主と紀亥の関係に就いて」という見出しで始まる歴史講座は極めて反論の余地を残したものではあったが、龍顔を持つ穹主とやらがヘゲモニーを確立してきた過程を垣間見るには比肩ないほどの史料であった。


「久世日神を祖に脈々と覇たる系譜を継ぎし穹主が、いかにその篤心を働かせて南北湖の二神の争いを諫めたかについては尋常の史学でさえ習うことであり、皆さん御存知の通りで今更講釈を垂れることもないのでありますが...つまり今述べたような蘆分、阿須羽の二神が統治に使っていた氣の流脈を

無尽の慈悲でもって引き継いだのであります。」










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