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朧湛  作者: 東瑠璃
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開かずの間

 夜半の雨音に交じって二つの残像が語らう。


「この結婚は擬制で行こう。君は好き勝手に生きて良い。この家に男を連れ込んでもらっても一向に問題ない。遊び盛りの年齢だろう。気に入ったのが出来たら、其方に籍を移せ。君の親には私が言っておくから。」

「一度決めたものは変えられません。それに私、理想が高いのよ。」

「頑固者。」

「芯の通った女がお好きなんでしょう?」

「演じたのは嫌いだ。」

「まあ。とにかく擬制には反対ですから。」

「私は本家とは事実上の縁切り状態だから、衣食住だって満足にいかないのかもしれない。」

「私が工場でもどこでも稼ぎます。」

「いや、君を働かせたくはない。」

「じゃあ一緒に餓死します。」

「弱った。」


 時計の針が揺れる。双方のこなれた駆引きに喝采を送るようにして。


「こんな夜更けに一人待っていたのか。君が風を引いては困る。」

「どうせ明日も暇ですから。働くなと言われたから働けませんし。」

「こっちではいつから雨が降っていたのだ。」

「ほんのついさっきですよ。」

「嘘をつく必要はない。杉並木の枝垂れ具合からして降り初めは凡そ昼頃か。」

「騏一郎さん傘をお忘れになったでしょう。用意しておきましたから。」

「停留所の最終時刻から2時間は経っている。こんな日はさっさと帰ってしまえばよいのに。」

「待っているのは得意なほうです。」

「好きなものなどいない。」

「さあ、帰りましょう。」

「石突きだけが泥だらけなのは。」

「待っている間、素振りをしておりました。」

「君はまだ21だもの。本来はそれくらいが丁度よい年頃なのだ。」

「気の毒と思わないでください。帰りましょう、さあ。」

「私は君に対して冷たい仕打ちをしすぎていた。擬制は止めだ。今まで申し訳なかった。」


 昨夜の廊下での立ち話では、ここまで詳細な情景描写は語られなかったはずだが、夢というものはやはりあてになるもので、頼んでいないものまで勝手に補足してくれる。朝の4時、祖母はまだ起きていないようだ。大方喋り疲れて起きることが出来ないのだろう。今日は晴れの予定だが、特段外に用事はない。祖父の痕跡探しもしないとなると、愈々暇である。祖母が目を覚ましたら、聞きたいことを何点か聞いて明日の朝にでもここを発つことにしよう。


 二度寝から覚めた時はもうすでに昼前であり、フライパンに載せた昼食の具材が宙を飛び回っている音がした。私は起きしなに洗面所に向かって口を濯ぎ、顔を洗わずに手で目脂を取った。まだ収穫の時ではなかったらしく、取れ高は少なかった。目脂でさえ、こう思うように収穫できないのだから、自然という半ば制御不可能な要素に左右される農作物で生計を立てることなどは、もはや競馬で生活するよりも難しいものである。サービス業や通信業の発展が著しい傍ら、本来不可欠な農業や漁業に自発的に従事する者が居なくなってしまったという童話のパンチラインのような現状にも納得がいく。

 居間に戻ると、祖母がフライパンを洗おうとスポンジに洗剤を付けていた。

「洗い物はやっておくから。」

「助かるわ。」

距離のあるもの同士の会話にありがちな無意味は応酬はなかった。一通り洗い物を終えると、先に待っていた祖母と少し早い昼飯を食べた。

「あの。」

これまでずいぶん砕けた調子で会話をしていたが、今から投げようとしている質問が少し込み入ったものである故に、独り言のような間投詞を会話の嚆矢とするよりほかになかった。

「はい。」

祖母の応答もどこか余所行きである。

「この家は何人家族だったんだっけ。」

「5人家族よ。息子が二人と娘が一人。」

三人も子供がいたとは。擬制の時から祖父は祖母を同じくらい愛していたのだろう。

「キイチロウサンも写真を見る限りかなり女縁に恵まれてそうだと思ったけど、そういう話は聞いたことあるの?」

「も、って私のこと?」

「うん。」

「あらやだ。でも、そんな話は聞いたことないわねえ。擬制結婚を促してたのは女絡みのことだろうけんど。でも結局、私のほうを振り向いてくれたからどうでも良くなったわね。」

「見合い前に花街に通ってたとかは?」

「私たちの時代はねえ、婚前のあれは名目上禁止されていたのよう。それでも学生なんかは隠れて通うものも多かったのだけどね。でも騏一郎さんに関してはないでしょうねえ。あんなに酸いも甘いも嚙み分けてきたような開豁な態度を取っておきながら、接吻だけですぐ顔を真っ赤にしてしまうのだから。」

「なるほど。」

体全身を巡っていた猛毒が解毒されたような気分であった。しかしながら、祖父が水島篝の祖母と婚姻関係にあったのかは未だ明るみになっていない。また、婚前の性交渉の禁止といえども、情愛のあまり廉恥を破ることも青年期にはよく見られる現象である。今のところ身に覚えはないが。

「ついでに聞きたいことがあって。」

「どうぞ。」

「キイチロウサンの失踪後、部屋には誰か入ったの?」

「警察が捜索に来たけど、事件性は極めて薄いとか何とか言って部屋をちらっと見たきり、そそくさと帰っていったわ。

「その後は。」

「私もたまに埃を払いに行くくらいで、なるべく元の状態にして置いているわ。薫も一度は部屋に入ったら?騏一郎さんになつきっぱなしだったじゃない。」

「昔過ぎて覚えてないや。」

「騏一郎さんは特に薫のことが気に入っていたみたいで、見送った後いつも寂しそうな顔をしていましたよ。」

 そう言われてしまうと、俄然祖父の部屋の戸を開けたくなった。思えば、仮に我々の旅路を終わらせるような品々が出てきたとて、彼女には秘匿にして何食わぬ顔をしていればよいだけである。祖父と水島篝の祖母との関係が明瞭にならない以上、仮に彼女に悟られるようなことがあれば、その時はいっその事協力を解消して旅を終わらせてしまうのも有りであろう。祖父の伴侶となっていた人に手を出すことは現代の道徳においても、私個人の信条においても禁忌である。魂ではなく肉体の同一を個体の識別としてみなしているのであれば。


 昼食を終えて階段を上ると、来客用の部屋には寄らず隣の祖父の部屋の前まで歩いた。昨日と違い、足取りは軽く呼吸は穏やかであったが、それでも部屋の取っ手に触れると、緊張が取っ手の微涼を伝って全身を駆け巡った。と、下から扇風機の回る音が聞こえてきた。蝉しぐれや雨の滴りも絶えた今、僅かな音さえ聞き漏らさないほど神経が敏感になっているのだと分かった。仄かに漂う線香の匂い、堆肥の激臭を減退させるためであろうか。私は喉ぼとけを唾が三度越すのを待つと、勢いよく部屋の扉を開けた。







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