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朧湛  作者: 東瑠璃
30/35

野分の朝


ベルクーゼ本山が強まる陽光を受けて紫に映える。影法師も随分と背が伸びたようだ。茜に染まった雑草に頭を埋めて涼んでいる。このあたりの景色は堪能したし、長旅で足も疲れている。一刻も早く腰を下ろしたいのだが、屋根から出ている煙が無くなるまで祖父母宅の戸を叩く気にはなれない。暇つぶしに、傍に立っていた電柱の影と背比べをさせてみて、夕陽が沈むのを静かに待つことにした。案の定、電柱の圧勝であった。ここ10年の成長具合を考えると、あと30年後には電柱と肩を並べるくらいにはなるだろうが、残念ながらこれ以上影法師に伸びしろはない。頭打ちである。私は煙が消えたのを確認すると、裏手の扉を叩いた。

 長らく祖母の顔を見ていなかったが、概ね想像していた通りの顔で、変わった点と言えば皺の数くらいであった。

「あら、よく来たねぇ。」

「お邪魔します。」

顔は覚えていたものの、祖母との距離感までは覚えていなかった。

「今日は薫が来るって聞いて、唐揚げを作ったんだよう。」

唐揚げはむしろ苦手なほうであった。恐らく肥えた従弟と混同しているのだろう。我が家を除く親戚は少なくとも五年に一回は里帰りをしているらしいから。

「わあ、嬉しい。」

揚げたての衣の食感を楽しんでいるうちに、気づけば大皿の半分を胃へと放り込んでいた。金平、鯖味噌煮、他にも種々の料理が卓上にびっしりと並べられていた。久しぶりの来訪を祝ってのことであろうが、少々奮発しすぎたのではないか。訪問者は一人だけということを母親はしっかりと伝えていたはずだが、万一の耄碌を見越して念押しすべきであった。腹八分を過ぎてからは殆ど箸が進まなかった。向かいの祖母は愉快そうに笑っているだけで滅多に箸を動かさない。孫の苦しむ顔を見るのがそんなに楽しいかと思いもしたが、微笑みの内に悪意は微塵も見られなかった。

「生きているうちに会えてよかったわぁ。」

緘黙を貫いていた祖母が突然呟いた。夫は失踪、子は皆自立、老境を一人で臨んでもう大分長くなる。どうして長男が率先して同居を促さないのかと親戚に嫌味を言われたこともあった。無論、そんな責任の摺り付けから生まれたような嫌味を言われる前に、既に父親が同居を促したらしいのだが、いつか祖父が帰ってくるかもしれないからとあっさり断られたようだ。同居すれば孫の顔なんていつでも見られるというのに。しかし、何か含みのある言い方であった。私に向かって、というよりは私の背後にいるある面影に向かって投げた言葉のように思われた。

「此方に来れば常にこの薄汚い顔を毎日でも見られるのに?」

軽はずみにくだらない返答をしてはならない。孫にも薄汚い顔がしっかりと受け継がれたという皮肉に捉えられたら、血縁だけで稼いだ偽りの好感度が底をつきてしまうではないか。

「戸を開けたとき、騏一郎さんが帰ってきたのかと思ったくらいだから、あんたは綺麗な顔をしているよう。」

面影の正体が分かった。

「これからもここで待ち続けるの?」

「薫にだけ言っておくとね、近々老人ホームに入居する予定なの。最近生活に不自由を感じることが多くなって。それに同居するって言ったって、子供たちの幸せな家庭を崩しちゃいけないじゃない?」

「近々って?」

「大体3年後くらいかしらんなあ。それまで生きてるか分からないけんども。」

「大学を出たらここに住むかもしれない。こういう昔の家屋に住むの憧れてたんだ。」

「嬉しいねえ。」

唐揚げの衣が萎びている。残飯がまとめて廃棄されるのは好かないが、かといって翌朝に湿った残り物を消化するのも可能な限り避けたいところである。

「そういえば、キイチロウサンとの馴れ初めはどんな感じだったの。」

機に乗じて、さりげなく最も知りたいことを尋ねてみた。

「騏一郎さんとはお見合いの席で一緒になったのよ。当時は弱冠にも足りない生意気な娘で、見合い相手の写真を見ては親に面会拒絶を言い渡していたわ。それに気になっていた人もいたし。」

食いつきは思いの外よかった。

「へえ。気になっていた人が。」

「その頃は自由恋愛の気風が芽生え始めたころで、世間の風潮に反発していたかったというのもあるわね。」

「そんなおてんば娘が見合い結婚しただなんて。」

「騏一郎さんの写真を見た時、これまでとは違う好男子ぶりについお見合いを承諾してしまったのよ。それに優秀だったようだし。」

ようするに、私は面食いの孫である。

「それで?」

「いざ初めて会ったら、騏一郎さんはずっと無言のままなのよ。私ったら腹が立って、作法を守らないでフォークを縦に刺してステーキに齧りついたわ。そしたら、騏一郎さんは無言のまま瞳の奥で静かに笑ったのよ。瞳が笑うってこのことかとその時思ったわね。」

それにしても饒舌である。昔の記憶でさえ、祖母といえば寡黙な人という印象であった気がするのだが。

「フォークを縦に。それは面白い。」

祖母は箸を掴んで、丁寧に置きなおした。

「その後も機械的な会話が続いたばかりに、私はすっかり嫌になって時間潰しにトイレに向かったの。それで15分くらい経ってそろそろ戻ろうと廊下を歩いていた時に、私を呼び止める声があったの。驚いて振り向くと騏一郎さんが椅子に座っていて、こっちに来いっていうのよ。」

「へえ。」

「それで何を言い出すのかと思ったら、「想い人がいるならさあ早く、過去になる前に。」ですって。思わず聞き返してしまったわ。「貴方にはおられるのですか。」って。そしたら、「さあな。」の一言。呆れかえって「お気遣い有難う。」と言い残したぎり、その場を去って気になっていた人に告白しに行ったわ。」

「成功したの?」

「それがね。走っているうちに急に冷めたのよ。お見合いを放棄してまで好きだったのかと。でもその日の夜になって、今度は騏一郎さんのことが気になって仕方がなくなったの。思えば人生を案じてくれる人なんて今まで居なかったから。それで何日か経って、実家の菓子折りを携えて騏一郎さんの家に謝りに行ったのよ。製紙工場の社長宅とだけあって立派な家だったわ。私の家もそれなりだったけど、向こうは昔乍らの名家だったわね。」

ということは、祖母は名家ではないが祖父と遜色ないくらいの裕福度合いであったのだろうか。

「へえ。」

どんな相槌を打っても反応は同じであろう。祖母は続ける。

「楼門で待っていたら、執事がやってきて門前払いを食らったわ。父母につられてとぼとぼ帰っていたら、道の角に騏一郎さんが立っていて、父母に執事の非礼を詫びた後に私の眼を見て「上手くやったか。」って。「いいえ。」と返したら、今度は難しい顔をして「それは都合が悪いな。」なんて言うのよ。」

「何十年も前の会話を今でもそんなに覚えてるの?」

「正確には違うかも知れないけど、だいたいは合っていると思うねえ。」

私はすかさず「へえ。」と返したくなったが、祖母に反応が薄く、老人の話に飽き飽きしているのではないかと勘繰られては困る。いかにも興味を持っていそうなお誂え向きの顔をしながら適当な返答の言葉を必死で探していると、祖母は間を埋めるように乾いた咳を二三度ほどすると

「今日は少し喋りすぎたみたいだわぁ。」

と雑に話を切って、両手で持っていた湯呑を傾けて喉を潤した。孫に対する配慮だろうか。祖父母の話を聞くのはやぶさかではないのだが。折悪く網戸から冷ややかな夜風が入ってきて、宙に待っていた懐古の糸を断ち切った。私は意味もなく台所へ残飯の皿を移すと、祖母は私に続いて、一つの皿に残飯をまとめた。

「お風呂はもう沸かしてあるから、好きな時に入って頂戴ね。」

「はい。」

毎日ガス代の節約にと入浴を催促される身としては、一早くここへの永住を決めたいところである。

「来客用の部屋に布団を敷いておきましたから。まあ、好きなところで寝て頂戴。」

「うん。あー、どの部屋だったっけ。」

「二階の障子の部屋。」

「二階はすべて障子部屋だったような。」

「そもそも騏一郎さんのお部屋と来客用の部屋の二つだけよう。」

祖母はそういうと一人で居間を出て行った。ほどなくして階段を上る音がしたので、どうせなら今日の寝室を教えてもらおうと私も後をついていった。しかしながら祖父の部屋というのは、失踪の理由を探し求めるこの旅における第一の鍵であり、これまでの長い迂路を辿らずとも初めに立ち寄っておけばもう少し方向性の定まった状態で旅することが出来たのかもしれない。少なくとも、祖父が専攻していた歴史学の数奇な運命に眼をやることはなかっただろうし、その運命を翻弄したパルシア統治前の体制の残影を探しにツーリングすることもなかったであろう。現にそうしなかったのは、単に謎探しを始めてすぐに答えを求めるのは憚られたからである。自宅からは遥か遠く離れた地という幼少の頃の記憶が強く作用したせいも多少なりともあるだろうが。

「この部屋ね。しっかりと掃除はしておきましたから。」

障子を開けた祖母の前にある部屋が、かの来客用の部屋である。隣の祖父の部屋は扉式であった。それにしても、来客用の部屋を家主の隣とするのはやや一般的な通念から乖離しているような気がしないでもない。

「前にどんな人を泊めたの?」

「そうねえ、身内とかかしら。」

「来客は泊まらなかったの?」

「ほら、玄関の横にもう一室あるじゃない。」

「なるほど。」

一般的な通念からは乖離していなかったようである。さすがは公務員。

「では、先に下に降りていますから。」

「ほい。」

応答もぞんざいになってきた。障子の部屋ともあり、この夏のさなかでは快適に夜を過ごせそうである。その反面、冬は寒風が忍び込んできて非常に過ごしにくいであろう。イリヤベートは国の南方に位置しているものの、標高の高いところに位置しているため、冬の寒波到来時には二杖ほどの雪が積もる。南端のツェールスーデンでも雪が積もるときは積もるのであるから、雪を避けようというならば国を離れるしかないでろう。兎にも角にもラゾーンネ内に逃げ場のないことは確かである。

 窓辺まで四つ足で這いずって、蛾の一匹も通さんばかりの二重の窓を開けると、遠雷のか細き囁きが居丈高な光に同調していた。数時間後には、あの空腹の唸りのような情けない音が猛々しい大轟音になるであろう。実は田舎の深夜徘徊をひそかな楽しみにしていたのだが、明日に回すことにしよう。予報では確かに、晩遅く小雨が降るとしか言っていなかったような気がしたのだが。


それにしても、先から胸の高まりが次第次第に強くなっている。祖父の部屋が真隣にあるという事実がそうさせているに違いない。冷静に遠雷を眺めたとて誤魔化しきれるものではないらしい。失踪の手がかりとなるようなものは祖父の部屋には残されていないかもしれない、むしろその可能性のほうが高いのだが、万一遺書でも見つけようものなら、私の迂路、いや私と彼女の辿った迂路は道半ばにしていよいよ終着点を失うのではないだろうか。そう思うと、隣の部屋までの数歩の距離がいやに遠い気がした。我々の旅は実に柔軟かつ可塑的な目的でもって始まった。終わりのないモラトリアムの象徴のような旅。それに終止符を打つのは無粋の極みであろう。


祖父の部屋に答えを求めて遠路はるばるイリヤベートまで足を運んだ訳だが、今の私に祖父の部屋の戸を開ける勇気はない。逃げるようにして階段を下りると、祖母のいる居間に向かおうとしたが、今とは反対方向の暗闇が俄かに気になった。もとより祖父母宅は独特な間取りをしており、外見以上の広さと奥行きがある。親戚が集まると子供らはそろって隠れんぼをしたものだが、鬼役の交代は全員を見つけた時ではなく、鬼役が飽きた時であった。しかし、またも鬼が出てきた。ツェールスーデンでの鬼と隠れんぼの鬼は同じものなのであろうか。伝承上の生物は、例えばそれを表象する言葉が消えたら存在そのものも消えるのだろうか。いや、伝承上なのだから実際に存在してはいないはずである。待てよ、その言葉を編み出した共同体にとっては可視の存在であったのか。考えながら暗がりを歩いていると米俵に足をぶつけた。重さにして30キロ前後はあるだろう。となると、もう出口は近いはずだ。案の定、角を曲がると表玄関に着いた。清澄な空気を吸おうと玄関の戸を引くも、開く気配はない。田舎に住む利点は鍵をかける必要がないことではなかったのか。手探りで戸の鍵を探すも見つからず、結局玄関口の電気をつけることにした。正面玄関だけあって灯りは煌々としていた。田から出てきたであろう雨蛙が玄関外の電灯に張り付いている。ずんぐりむっくりしていて可愛らしいが、ラゾーンネの蛙はかつて世界の両生類を絶滅寸前まで追いやった死滅黴に対して平然としているほどの超耐性を持つエリートである。間の抜けたシルエットからはとても想像がつかない。意味もなく戸を開いて閉めると、浮かび上がっていたシルエットはいつしか暗中に消えていった。

 視点を変えて、玄関の棚に眼をやった。車の鍵や家鍵が置いてある。壁には一枚の写真が掛けられていた。昔の記憶では玄関に写真は掛けられていなかったような気がする。質実な家具の揃う祖父母宅にしては珍しく洒落た額縁である。写真の女は水島篝とは異なるタイプであるものの、非常に可憐である。隣に立っている男は髪色といい輪郭といい私に似ている。映っているのは在りし日の祖父母であろう。

「その写真はね、売り払いの準備にと大掃除をしているときに見つけたのよう。」

思わず身構えてしまった。

「心臓が止まるかと思った。いつから居たの。」

「ああごめんねえ。玄関の戸が開く音がしたから様子を見に来たのよう。」

「これ若いころの?」

「結婚一周年の時のかしらねえ。」

「うわあ凄く可愛いらしい。お友達になりたいわあ。」

「お友達も何も、薫は私の孫じゃない。」

返す言葉が見当たらなかった。

「しかしそっくりだなあ。」

「いやあ、明るいところだと見分けがつくけど、灯りがなければ嫁の私にも

見分けがつかないわ。」

欠けているのは戦前の世で得た凛々しさであろうか。思うに平和の世でしか得られないものもきっとあるはずであるが、先に見た蛙の平和ボケした間抜け面のようなものでは困る。それからというものの、結婚生活の思い出を長々と聞いていたのだが、旅の疲れか眠気が増してきて、垂れる頭と相槌を使い分けることが出来なくなった。結局、祖母が風呂に入ったのは夜の22時ごろであった。世間話ならともかく、祖父母の話に関心を抱く人間など私以外にはいないであろうから、話に花が咲きまくるのも無理のないことであるが。


 湯船の水が凪いでいる。一回の追い焚きでは適温にならず、もう一度追い焚きをしたところ、適温を過ぎて熱湯になったのでしばらく床に座って洗い終えた髪を乾かしていた。

「しかし祖父と殆ど同じ顔のはずなのに、今まで女縁に恵まれなかったのは一体。」

 双方の写真共に祖父は儚げな顔をしていたように思えるが、写真の女の顔からして、水島篝の持っていた写真のほうが比翼連理という熟語に似つかわしい。仮にあの写真が祖父と水島篝の祖母の写真だったとして、彼らはどういう関係であったのだろうか。一対で写真に写ることなどいくら戦中の世でも珍しいはずである。祖父には離婚歴があったのか?しかも水島篝の祖母と?

「複雑だなあ。」

手で湯を掬った。いつの間にか適温になっていたとは知らず、寝ている祖母を起こさぬようしぶきを立てずに静かに湯舟に浸かった。

 婚姻関係にあったとすれば、当然男女の契りもあるだろう。それならば、私は彼女を諦めるよりほかにない。諦める?肉体は同じであっても、いわゆる魂は二つであり、現代の社会規範においても、また流布している道徳や通念に照らしても呵責に苛まれる所以はどこにもないはずであるが。


「しかし二代揃って同じ相手に恋をするなんて因果なこともあったもんだな。」

 記憶の片隅で木霊していた間欠泉センターでの彼女の卑猥な発言が、次第に思考を支配していく。彼女のことだ、考えなしの放言をするはずがない。人の真似だ何だと言っておいて、こっそり遅効性の毒を撒いていた訳か。

「いや、俺自身が祖父の生き写しであったら?」

 風呂は自問自答と熟考に最も適した場所である。山奥の冷たい床で瞑想するより、遥かに手軽で遥かに実りのある結果を得られる。

「目が赤くなっていないから違うか。」

月を見ようと曇った窓を拭き、窓も開けてみたが月は見えなかった。南中にある月が見えるはずがない。それも換気用に取り付けられた小窓からでは。

「上がろう。」






 

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