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朧湛  作者: 東瑠璃
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目にもさやかに見えぬ夏

 商店街は閑散としていた。私はアーケードをくぐってすぐ左にある、こじんまりとしたスーパーに入った。以前お遣いを任された折、ご近所とばったり会ったが終い、足裏が悲鳴を上げるほど長時間に渡って息子自慢の聞き手として拘束された経験から、私は店の構造を念入りに把握し最短経路を滑走するようになった。今日もパスタ麺とメロンソーダを投げ込んだカゴ付きカートを巧みに滑らせレジにピットイン、立ち寝していたレジ係の老婆をブレーキ音で起こして会計を済ませた。全てが順調に思えたが、いざ店を出ようとした時、ようやく追加で頼まれていた卵を買い忘れたことに気が付いて青ざめた。私はしばらくスーパーの出口兼入口の前で立ち止まった。5月末の温かい空気が忍び込んでくる。そして改めて店の内外をざっと見、ご近所の気配の全くないことを確認すると卵売り場に向かって再度店内を走り出した。数秒の後、背後で左右のドアがそれぞれのペースに従いながら邂逅した。

「ベルクーゼ産の卵しか残ってないのか…」

初め、あまりの品揃えの悪さに私は愕然としたが、卵売り場の一角に貼られていた特売チラシを見てすぐに先の考えを取り消した。ベルクーゼ産の卵は他の産地の卵に比べて値段が三倍近くするので、例え安くなろうともこれを買う者はめったにいない。そしてベルクーゼ産の卵は値段の割に味も他の物とさほど変わらないので、舌の肥えていない成り上がりが庶民に対して自分の優位を誇示するために買う卵なのだという認識が富裕層の間で共有されているのであった。少々気の毒なブランドである。他の卵とは異なり国内最高峰のベルクーゼ山の二合目で育てているため、給餌役を雇うにも飼料を運搬するにも費用がかかっていると聞いたことがある。ベルクーゼ山一帯のベルクーゼ県にはもちろん平地もあるが、未だ拠点を移さずに高地で育てることに拘泥しているようだ。品質に関しては良くもなくかといって悪くもないのであるが、地理的条件がとにかく最低なのである。その上、山中で鶏を育てるということにアイデンティティを見出してしまったからもはやせん方がない。私は10個入のパックを一つ手に取って、一度目とは別のレジで会計をした。

 家に戻ってまず目に入ったのはとっ散らかった父親の靴であった。礼儀正しく並んでいる母親の靴と父の靴との対称は、しっかり者の母とがさつな父の性格のコントラストを一点の曇りなく反映していた。玄関で腰を下ろしてサンダルを脱いでいる時、リビングからテレビの音が聞こえてきた。

「…そうですね。今年は6年に一度の冬籠祭、地元住民はこの時期からすでに冬の祭りに向けて準備を始めています。……温暖化の影響もありますから今年も期待できないでしょうね。———ここで速報です。三日前から南ベルクーゼ山にハイキング中、父とはぐれて行方不明になり捜索活動が続けられていた剛君5歳が、行楽していた登山客によって発見され、捜索隊の下救助されました。現場に切り替えます。……こちらレポーターの羽賀です。剛君は健康で憔悴の欠片一寸も見えませんでしたが、大事をとって県内の病院に搬送されました。剛君を救助した坂井隊員、剛君からどんな話を聞きましたか?」

「えーとですね、まず私が衣食住をする場所を尋ねたところ、剛君は元気よく洞窟の中、と答えました。すかさず一人で怖くなかったかと聞くと、男の子だから怖くないと答えました。」

「随分と和やかな会話ですね。他にはどのような……」

「えーと、洞窟の中と答えた後に鏡いっぱい落ちてた、と言っていたような気がします。」

「そうですか、子供特有の冒険心が窺える逞しい少年ですね、将来大物になりそうです。お話ありがとうございました、現場からは以上です。」


 余り時機の良さに動揺した。今しがた購入してきたベルクーゼ産の卵はベルクーゼ山脈を形成している三つの山の内、最も有名で観光地化された中央の山で育てられているが、名前の似た南ベルクーゼ山ではそんな物騒な遭難事件が起こっていたのかと、この時初めて知ったのと同時に、遭難していた子供が無事であったという朗報を聞き、身内でないながらも安堵した。ニュースから流れてくる情報に耳ばかりか体全体を捕縛されていたので、袋の中のメロンソーダは汗をかきつくしてしまった。その後ようやく動けるようになって廊下から居間に入ると、長方形の円卓にはすでに目玉焼きを乗せた皿が置かれてあった。私の帰りが遅かったので、ボンゴレは明日に回すことにしたらしい。

「随分と遅かったじゃないの」

時計は12時半をさしていた。家を出たのが11時半過ぎなので、およそ一時間かかったようだ。

「そんなに遅いというわけでもないでしょ」

「いつも使ってる自転車、じゃなければこの前買った大型スクーターで行けば正午には帰ってこれたわ」

「のんびり歩きたかったんだ」

「あっそ」

いつものごとく味気ない会話を終えると、父が二階から降りてきて開口一番に

「テレビ見た?洞窟内に大量の鏡だって、親父が喜びそうな話だ」

「どうせ子供の絵空事じゃないの。限界状態で水たまりを鏡と勘違いしたなんてよくありそうな話だし」

「リュックに詰めてた二人分のおにぎりを食べてたって言ってるから少なくとも飢餓の状態ではないだろう」

それは私のあずかり知らぬ情報であった。先のレポーターのように私も幼い彼の発言をけんもほろろに扱ってまともに取り合わなかったが、仮に彼の発言が正しかったとしたら、それはまさしく祖父の好むような話であり、また祖父の背中を追いかけている私にも興味深く思われてきた。

「南ベルクーゼなんて舗装のしっかり行き届いて無い山におさな子を連れて行くなんて、よほど登山に自信がある父親だったんだな。なんにせよ助かってよかった。」

父はそう言いながら湯呑にコーヒーを淹れると、またのっそりと階段を上がっていった。父の部屋にあるコップはこれで4つになった。














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