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朧湛  作者: 東瑠璃
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【朧湛外伝】千早振る・終


 異郷の地に留学してからはや一週間が経ち、どこか燥いだ辰鎮の雨情にも次第に慣れが来て寂寥の翳りを見せた頃、彼女は朝の五時に宿泊先のロビーで貸し切りのバスを待っていた。ソファーに座って一泊分の荷物を詰めた鞄に鍵をかけていると、指導教授が挨拶がてら彼女の元に寄った。

「おはようございます。えー、今日のフィールドワークをする聖舞山まではバスで四時間半掛かります。途中、休憩を挟む予定ですが体調が悪くなったりしたら申し出てください。それと、水島さんは語学が得意なようですからフロントで辰鎮の新聞でもお取りになって読んでみてください。」

「ええ。」

彼女はフロントに積まれた労働紙を一部拾い上げた。


 バスが到着したとの一報で少し肌寒さの残る外へ出ると、昨夜に降り続いた霖雨はすでに止んでいて、浄玻璃のような水たまりの水面をアメンボが悠然と這っているのが見えた。

蒼穹には無数の飛行機雲が飛び交い、空を割らんかというほどの轟音と共に音も無く消えていく。彼女は労働紙を左手に携えながらバスに乗った。バスは行きも帰りも高速を走るらしく、しばらくは市街地の単調な風景と堆い塀に阻まれることになった。彼女は退屈して、丸めた労働紙を広げて読み始めた。労働紙の見出しにしては珍しく「名君の共通項は小説家のなり損ね。」という題で始まっていた。かの八ツ藤氏も青年時代は小説家を志しており、医学の講義をしばしば欠席して大学周りの古本街で文学作品の蒐集に明け暮れていたらしい。彼女はその記事を読みながら、若き日の八ツ藤氏と似たような行動を取っている男のことを思い浮かべた。彼女が彼を初めて見かけたのは去年の夏のことであったが、一目見てあの写真の男に違いないとの勘が鋭敏に働き、それ以降密かに彼の動向を追っていたのであった。彼は文科の界隈では「白浪」という二つ名で通っていた。一学年で合わせて1000人いる文科の内、彼の名前は分からずともその風貌を知るものは少なくなかった。少し丈の長い甚兵衛で白髪を跳ねさせながら図書館を徘徊する様は宛ら深海魚のようであり、常々近づきがたいオーラを放っていた。されど、その気難しそうな表情が緩んだ時に見える善人の相が写真の凛々しい男とそっくりであったので、彼女は敢えて接触しようと試みたのであった。財布の中に封してある忘れ形見はモノクロで衣服の色などは分からなかったが、写真の男の毛髪が祖母の射干玉に比して頗る淡く、背景の壁と同じ色であったため、平澤薫の白髪を見た時彼女の身には電撃が走った。そして、密集書庫で気絶した彼の顔をのぞき込んだ時は節々の電流が互いを結んで一本の霹靂が貫いたような錯覚を起こさせた。生憎にも彼は写真の男とは別人であり個体を異にしていたが、彼女は迂遠ながらも愈々自身のルーツをひも解くにあたって強力な助役を伍する事が出来たのであった。彼の目的は依然として不明瞭であるが、お互い打算的な関係を心地よく思っていることは確かであり、それを聞くのはどことなく憚られた。彼女はその偶然を装った邂逅を振り返りながら、新聞紙を畳んで脇に置いた。高速道の両端には牧歌的な風景が見え始め、田畑の命脈になっているであろう長汀曲浦が寝そべっていた。程なくしてバスは休憩所に停車した。




 運転手が休憩を終えてのっそりとバスに乗り込むと、車は再び動き出した。植え込みで木の葉を啄むコマドリを撮っていると、佐倉という女学生が彼女に粒状のチョコレートを買って渡してきたのを思い出し、彼女は蓋を開けてチョコレートを手のひらに転がした。車窓は様変わりし、野分の明日のように水が低草を隠して渺茫とした海を作っていた。バスは海上を駆けるようにして広蕩を割っていった。四時間を経とうかというところで、西の方向に突如として城のような巨大な建造物が見えた。留学生がざわつきだしたのを見計らってガイドが城の説明を始めた。

「西に見えますあの城は皆さんが今日フィールドワークを行う聖舞山です。光歴847年に織部僧師が青鬼から夢でお告げを賜って、海の中に浮かんだ巨岩に城塞を建てたと言われています。が、厳密には少し違って、織部僧は四度お告げを拒否したのですが、そしたら会う人の顔が全て青鬼に変わってしまったみたいで、それで渋々建築に当たったそうですが。」


 辰鎮留学10日目にして初めて彼女の口角が上がった。程なくしてバスは高速道を降りた。細路は風雪を凌ぐ石造りの家々で装飾され、地価の低そうな広漠とした牧場では羊が牧草を食む姿が見られた。東岸ともあって物流に都合のよさそうな土地ではあったが、人目は枯れていて、ようやく見つけたのは腰の曲がった農夫であった。車窓越しに見える巨岩はますます大きくなっていった。やがてバスは小腹をすかせた一同のためにレストランの駐車場に停まった。

「昼食の予約時刻まで少し時間があるので、写真撮影でもなさってください。」

添乗員の案内で彼女たちは聖舞山の良く見える橋の上に誘導された。橋下には波濤が渦を巻き澎湃と湧き騒いでいる。聖舞山を熱心に写真に収め続ける留学生たちを背に反対側の方を向くと、精巧な旋盤機のような機械が橋一面に張り付いているのが分かった。


昼食のオムレツは塩の塊であったが、彼女にとっては少し塩辛いぐらいであった。レストランの向かいにあった道の駅で時間を潰している間、異国情緒あふれるヤギの置物が瞬き一つせず、外の電燈が風を蓄えて百代の過客におじぎをしているのを見ている様をじっと見ていた。バスを待っていると、晴天は忽ち曇天に変わり、道の駅のガラス窓を叩き付けるような突風が吹き始めた。少しして、聖舞山に通じる唯一の橋を往来するバスが天変を意に介さずのこのこ道の駅の停留所に泊まったので、留学生は重たい扉をこじ開けてバスに飛乗った。驟雨を免れたと安堵していると、バスは山までは行かずに橋の真中で停まって進行方向を変えた。添乗員が重たい口を開いた。


「終点は橋の上なんですよ、ここから先は徒歩で山に向かいます。」

バスの中は阿鼻叫喚で満たされた。外は傘も差せないほどの烈風が颯々と吹き荒れていて、乗客は降車を渋ったが、彼女だけは揚々と先で待つ添乗員を追いかけた。腰を落として重心を低くし、風を堪え忍びながら歩いていると、すぐ後ろで「あっ」という声と共に傘の金属部が壊れる音がした。聞き覚えのある声だった。彼女は流砂と暴風雨の縹渺たる景色の中を後退し、佐倉という名の女学生に彼女を風除けの壁とするように言った。水が侵食していく靴だけを見ながら、なんとか前進を続けて城塞の入り口を抜けると、荘厳な門が現れたのでその下で雨宿りをすることにした。羽織っていたカーディガンを絞ると水が滴り落ち、幼少の頃以来ご無沙汰の雑巾絞りの感触を思い返して彼女は愉快になった。隣の女学生も見よう見まねで服を絞った。予約時刻にはまだ数十分を残していたが、非常事態ということで宿泊先に押しかけて驟雨の去るのを待とうと添乗員と教授が提案したので、添乗員の後に従ってふたたび雨の中を歩くことになった。やっとの思いで宿泊先に着くと、朝食に使われる二階に案内されたので、そこで雨宿りがてらチェックインの時刻が来るまで待った。

「タオルありますが、使いますか?」

女学生が窓辺で佇む彼女に尋ねた。

「じゃあ。」

彼女はカバンからタオルを出すのを億劫に思っていたところであったので、遠慮なくタオルを借りた。タオルは柔軟剤と他人の家の匂いが混ざっていて、顔を埋めると貸し手の柔和なえくぼを形成した団欒を偲ぶことができた。

「本当にお綺麗ですね。」

女学生は雫の流れる彼女のうなじを見て言った。彼女は持ち上げた髪を下ろしてうなじを隠した。


 突然の暴風による人手不足でチェックインが遅れるとのことで、引き続き二階で待機していると合羽を着た現地ガイドが階段を上がってくるのが見えた。本来の予定よりも30分近い後倒しとのことで、自室で休む時間を削って実地調査を行うことが決まったらしく、留学生はこぞって外に出た。窓の揺れは穏やかではなかったものの、先ほどの驟雨は既に止んで光が差していた。城塞の内部は頂の城へと周旋を描くようにして作られたらしい。所々に横道があって、それらは城塞の外壁を巡る通路へと繋がっていた。

「この城塞は元々、海の上に浮かぶようにして超然と立っていた無人の巨岩でした。847年以降、岩の頂上部に方角ごとにそれぞれ建造物を拵えてからは増築に増築を重ね、今のような圧巻の要塞になったのです。城の頂をご覧になって。ここからではよく見えませんが鬼が仁王立ちをしているのです。あれが僧師に自信を祀らせようと城塞の建立を命じた青面鬼です。」

彼女は城へと続く急峻な石段の途中で立ち止まって影ばかりの青鬼を眺めた。丈長のチュールスカートが風で翻って波を打つ。留学生の一群が再び歩み始めたので、彼女も遅れまいと後を追った。石段を登り終えると城の楼門に着いた。手前の見晴らし台のような広場からは干潮の入り江を望むことが出来た。


「この辺りは辰鎮の中でも最も潮流が激しいところで、月の条件が合えば満潮時、水位は15mを越えます。満潮はだいたい23時頃ですね。城塞の夜景を撮りたい場合はそれまでに。23時を越えますとだんだんと潮が大橋を隠していきますから。」


彼女は石塀に靠れて潟のようになった海を見下ろした。流砂が局所的に堆積して流線型の渦を作り、海猫は羽を休めて干潮を待って出てきたゴカイだか蟹だかを啄んでいた。砂漠のような景色が半日後には満ちて月を映すとは分かっていても想像しがたかった。張り付くカーディガンの裾に空気を通していると、女学生が近寄ってきて彼女に言った。

「もし良ければ写真を撮りましょうか?」

単独で行動する彼女を見かねて女学生が節介を焼いた。

「写真に写るのは苦手なの。気持ちだけで十分よ。」

彼女はやんわりと断った。

「でも、せっかくこんな絶景を前にして写真を撮らないのも。記録として一枚だけどうですか。」

女学生は引き下がらなかった。

「そこまで言うなら。」

彼女は渋々承諾した。撮った写真を覗き込むといつものように流し目でアンニュイな表情を浮かべている彼女が写っていて、陽に照らされた泣きボクロが「己は承諾しかねる。」とささやかな抵抗を示していた。

「佐倉さんの写真も撮りましょうか。」

と彼女が言うと、

「私の写真は既に撮ってあるので、二人で映りませんか。」

と女学生が返してきた。彼女は言われるがままに女学生の隣に立った。


 城内へ入ると、柱だけ無造作に屹立した空洞が出迎えた。石柱に触れてみると非常に強固なことが分かった。

「この柱は元々何かの建造物の外柱であったのですが、建物だけが陥落して柱が取り残されたようになっております。不思議な光景です。」


頂へと続く石段の中腹には意図的に外の光を遮断したであろう暗がりの広場があった。

「この場所は潔斎部屋といって、城の住民が毎月23日にここに集まって青面鬼神の絵や像を拝みながら月が沈むのを待つという儀式がありました。青面鬼神は血を嫌うので、性に関する忌事は禁止とされました。例えば、性交とか。臨月を控えた妊婦や生理中の女人も参加できなかったようです。」


 彼女はその儀式がどことなくゼミ合宿の日待ち講に似ていると考えたが、下の話ばかりする老婆を思い出し、両者の間の関連は薄いだろうと早計を改めた。が、帰国後の喫茶店での会話が弾むだろうとメモだけは取っておいた。やがて、石段を上りきったところで回廊とぶつかった。回廊の中心部には芝が群生していて、吹き付ける烈風に靡いて草の帯をほどいていた。石覆いの隙間からは昼食前に寄った機械仕掛けの橋が見えた。


「皆さんも寄ったことだろうと思いますが、あの橋の下には機械が付随しており、ダムのような役割を果たしています。といいますのは、この入り江の満潮と干潮には独特な性質があって、満潮は非常に早く忍び寄るのに対し、干潮の引く速度は緩慢としていて、満潮の連れてきた流砂が嵩む借金のようにどんどんと増えて行ってしまうのです。それで、あの機械を用いて沖から流れてくる流砂をいったん堰き止めて、引き潮の時に開放して流砂を押し流すのです。所謂ぼっとん便所のようなものです。皆さんは見たことも聞いたこともないでしょうが。」


「ぼっとん便所」だけ山都語であったのが妙に彼女には面白く思われた。回廊は城の頂付近にあり、青鬼の姿がはっきりと見えるようになった。鬼は二本の角を生やしており、六枚の羽が背中から伸びていた。面持ちは瞋恚で怒髪は空を貫き、俗世に熾火を散らしていたが、ツェールスーデン湖の鬼とは違って聖なる存在であることには違いなかった。彼女は回廊の出口の横に、樹齢800年はあろうかという大木が草莽に取り巻かれているのを見た。平素、平澤薫の奔放ぶりを窘めている彼女であったが、この時ばかりは一人横道に逸れざるを得なかった。彼女は頂に一本だけ生えている大樹の周りを歩くと、木の根元にちょうど入口とは逆の側に小さな稷廟を見つけた。扉を開けて中にあった長方形の石を確認し、経年でボロボロになった彫字を紙越しに写すと「分祀 久世紫陛保神」という文字が浮かんだ。辰鎮に来てから、「神」という字に度々出くわすことに感づいた彼女は、「神」という字が表す概念を規定しようとした。まず初めに彼女はラゾーンネの地の「精霊」と同義ではないかと考えた。「神」に関して、ラゾーンネにも「神経」や「神妙」という熟語はあるものの、稷廟を拵えて祀る対象を指す意味合いはなかった。精霊はいわば不可測的な事象の形容にも使われており、自然の中でも例外的な超自然的存在を表す概念であるのは一緒であるが、祀り立てられて鎮座しているという印象は無く、どちらかといえば特に居場所を持たず運命の玉を乗りこなしているかのような印象であった。彼女は「神」と「精霊」とではシニフィエが異なると結論付けた。稷廟の前には御猪口が供えられており、匂いを嗅ぐと酒と分かった。彼女は他にも稷廟は無いかと立ち上がって振り返ると、稷廟を終点として草莽の中に道が出来ているのに気づき、その道の真中辺りで向かい合って塀に立つ二つの稷廟を見つけた。小さな扉を開けて石の文字を確認すると、一つは「伊素安須羽神」、もう一つは「紀亥蘆分神」という字が浮かび上がった。彼女は漢字をそのままメモに書き起こし、再度立ち上がって道の真中に戻り、起点まで歩いた。起点は塀で途切れていて、道もなければ階段もなかった。彼女は方角を調べた。最初の大樹の根元にあった稷廟は東に面していて、伊素と書かれた石は北の方角に、紀亥と書かれた石は南の方角にそれぞれ面していた。両方とも先と同様に酒が置かれていたが、まだ冷気が残っていて水滴がこびりついていた。彼女は酒を供えた敬虔な信徒を探そうと辺りを見回したが、彼女の他には誰もいなかった。少しして、幻像機で三体の稷廟を写真に収めた後、彼女は思い出したかのように留学生の一団を追い始めた。石段を下って陽の当たる部屋を抜けると、外景の良く見えるように切り取られた小部屋に行き着き、その部屋の中心部にあった水車を一団が興味深そうに見ていたので、彼女もしれっとその輪に入った。


「この水車は城塞の内部で禁忌を犯した犯罪者や囚人が鼠のようにこの輪の中を走り回って罰を受けたと史料には書いてありますが、真偽は不明です。さて、奥にある螺旋階段を降りたら土産屋がありまして、その出口を抜けると城内を一周したことになります。皆さんお疲れ様でした。」


実地調査とは名ばかりのただの観光であって、大学の本部にこの実態が知れたらすぐにでもプログラムは中止になるだろうと彼女は思った。螺旋階段を降りると、現地ガイドの言う通り土産屋に突き当たった。手あたり次第物色して平澤への土産を選んでいると、星型の砂糖菓子が袋詰めで売られていた。色を数えてみると、偶然にも先の湖と同じで七色であった。彼女はその星型の袋詰めを二つと、大凡2モントほどの城限定の記念硬貨を一つ買った。少し暇が出来たので、彼女は現地ガイドに尋ねた。


「すみません、私が今しがた買ったこの星型の菓子は。」

「それは潔斎部屋で住民が食べていた砂糖菓子ですね。青面鬼神を月の神と捉えて、月の周りを取り巻く星々を菓子に見立てたのです。」

彼女は何か引っ掛かりを覚えた。

「その習慣はいつから始まったのですか。」

「かなり古いとだけ。青面鬼神は元々山の周りに住んでいた被征服民の信仰対象だったという説があるのです。つまりは847年以前ですね。世界に散らばっている神話は概して、征服者が太陽なり天空なりを象徴し表立った政治的権能を掌握するのに対し、被征服者や土地を譲ったものは月や地面を象徴して、裏手に立って宗教的権能を委任されるようになることが多いのですが、例に漏れずそうした文化を新しい統治権力は引き継いだのでしょう。この城はかなり独特で、その昔は稷廟と要塞の役割を兼ねていました。なにぶん辺鄙な土地にあるので、城の周りの住民を味方に取り込めるよう折衝が行われたのでしょう。仮に青面鬼神が被征服者の信仰対象であったとして、それが城の頂に立っているということは、かつてそのようなシンクレティズム、祀神の同化の運びがあったと考えるのが適当でしょうね。」

「そうですか。」

彼女はメモを取り出して、現地ガイドの話を纏めた後、端書に書かれた神の名前を見て俄かに思い出したように尋ねた。

「では回廊の横にあった大樹の稷廟は。」

「あれは70年ほど前にラゾーンネから移り住んできた民が作ったものです。ちょうどこの山に電気と下水道を通すために一定期間移住することになった彼らはこの城塞に彼らの祀神を勧請してくれと頼んだらしいです。私の持ち得る知識はこれくらいが限界で、詳しいことはよく分かりませんが。」

「ありがとうございます。」

ラゾーンネにも神は居たのかと彼女は訝った。


 出口を抜けると、城塞の外壁に沿った石畳を歩いた。敵を牽制するために銃を突き出しておくための見張り台の小さな穴を覗くと、大橋の向こうの翠嵐を望むことが出来た。潟には水が漲り始め、さざなみが嚠朗として海猫の鳥啼に呼応していた。宿泊先近くの外殻塔まで歩くと、ちょうど16時を知らせる鐘が鏗然と鳴り響いて透徹した空気を震わせた。彼女は外殻塔から屋根続きの細路を通って宿泊先の受付で鍵を受け取ってから自室の扉を開けた。


 夕食を食べ終え、城塞の外部に出て夕景を撮ろうと思いながらも漫然と自室の腰掛で足を組んでいると、不意の眠気が襲ってきたので、彼女は軽い気持ちでベッドに飛び込んだ。目を覚ますと、夜はすっかり更けていて、重たい瞼を持ち上げて幻像機をつけると22時38分という文字が飛び込んできたので彼女は慌てて外に飛び出した。城塞の内部は僅かに灯に照らされるのみ、人の姿はどこにも見当たらなかった。彼女は細路を降り、昼間雨宿りをした門を走り抜けて大橋へと向かった。曲線を描くように敷かれた石畳の坂道は彼女に加速を促すも迷宮を周旋させるように果てなく続いているような錯覚を覚えた。漆黒の中、無量劫に奔走を続けて入口に差し掛かると、彼女は時刻も確認せずに外に出ようとした。灯りの無い入口の門を走り抜けようとすると、踏み出した右足から「ピチャ」という音がしたので、彼女は怯んで即座に足を引っ込めた。二歩下がって幻像機で足元を照らすと、入口の殆どを潮が満たしており、城塞の壁で勢いを殺された波が力なく漂っているのが見えた。身を屈めて繽紛たる波中の真砂を眺めていると、遠くから大橋の途中で引き返すバスの光が入り口まで差し込んできて、観光客がバスから走ってやって来るのが見えたので彼女は意味も無く手を振った。


「満潮の中を走ってきたのですか。」

彼女は観光客に尋ねた。

「なんとかギリギリで満潮は免れましたよ。ほら、靴が水に浸かってないでしょう。」

観光客は返した。

「ありがとうございます。」

彼女は観光客に礼を告げると、入り口の潮に浸かっていない砂の堆積した隘路を走って、大橋へと急いだ。両側を波が押し寄せて砂の道を作っている。満潮まではあと僅かであろう、急流に飲まれれば命は無いと彼女はそう思いながら揺蕩う星の隙間を走り抜けた。

大橋に着くと、予め起動していた幻像機で5枚ほどシャッターを切った。頂の鬼神は青のライトで照らされていて、科学技術と信仰の新旧折衷が色などあるはずもない鬼神の威光を青で彩っていた。そして、大橋に忍び寄ってきた波が羅紗よりも厚くなり、水の跳ね返りが嚠朗として靴裏から漏れ出るようになったのを引き際と捉えた彼女は一目散に入口へと戻った。彼女は時代に取り残されたような石畳の道を歩いている内に、露も興奮が醒めないことを自覚し、細路を上がって意味も無く外壁に沿った道を走り抜けた。異郷の夜道を闊歩する気分は恰も征伐を任された幻想小説の主人公のごとき心持で。彼女は自室近くの外殻塔まで来ると、壁に寄りかかって夜空を見上げ、人差し指で画竜点睛を欠いた龍座に眼を二つ添えた。香月静寂に照り映えて、残波は哀然と水面の練絹をかき消すのみであった。折節の殷々は潮頭の歓待を受けてさばえをなした。彼女は冷涼な風浪を浴びている内に口笛を吹きたくなったが、息を切らしていたせいか掠れた音しか出せなかった。辛うじて数小節を吹き終わると、波音を記憶に焼き付かせようと髪を掻き上げて耳を澄ませた。少しすると耳が冷えたので髪を揺り戻し、星空などにべもないといった素振りで踵を返して部屋へと戻った。


 帰りの飛行機はまたも窓側であったが、隣の女学生は留学の疲れで泥に浸かったかのように眠り続けていたので、思いのほか気遣いの要らぬ快適な帰途となった。彼女は肩肘を付きながら辰鎮で撮った幾十枚かの写真を見ていた。あれだけの危険を冒して撮った聖舞山の写真は一枚を除いて全てボケていて、彼女は今にもそのボケた写真をゴミ箱に捨てたくなったが、貴重な思い出として保存しておくことにした。ついでに、流し目でむすっとした顔をした写りの悪い自画像も捨てずに留めておいた。ゲシーストワール空港に着いてロビーで解散式を終えた後、女学生が記念に彼女と写真を撮りたいというので、彼女は逸る足を棒にしてその意に添うた。女学生はいつの間にか留学生の輪の接着剤のような立ち位置になっており、彼女との写真を撮り終えると矢継ぎ早に他の留学生から写真をせがまれた。彼女は群衆を振りほどいて女学生に小さく手の裏を振り、一人家路を急いだ。



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