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朧湛  作者: 東瑠璃
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【朧湛外伝】 下


 週末、彼女は大学近くの公園で電子本を読んでいた。公園は街の中で一番の高地にあり、隣には大規模な墓地が併設されていた。辰鎮の有名な芸術家が公の指令を受けて設計しただけあって、電燈の足が猛禽の鉤爪になっていたり、蓮の彫刻の華部分が蜂の巣を模したような形になっていたりと意匠に凝っていた。彼女は読みかけの電子本に眼を戻した。辰鎮の発展に一生を費やした八ツ藤氏を尊んで書かれた小説であり、辰鎮では数年に一度あるかないかの空前のヒット作らしい。巻末の人物史年表からはその類まれなる功績を読み取れることが出来た。その英雄は晩年、持病が深刻化していよいよ死期を悟ったのか、赴任時から一度も帰郷できていなかったラゾーンネの地を踏みたいという気を強くしたが、いつまた辰鎮に伝染病や恐慌がぶり返すか分からなかったので、彼は帰郷を諦め、命が果てるその日まで辰鎮に尽くそうと考えたのであった。そして、脊椎カリエスで危篤の状態に陥ってから三か月たった後の光歴1957年の年の瀬に惜しまれながら息を引き取ったと小説には書かれてあった。事細かに病の進行状況が描写されていることから、脚色はたとえあったとしても少ないであろう、彼女は小説の後書きを読みながらそう考えた。


 小説の最後の挿絵には墓地の名前が付されてあった。見ると、この公園の隣の墓地であるらしい。彼女はスダジイの木陰に抱擁された草莽から臀を離し、暇つぶしがてら墓参りをすることにした。偉人の眠っている墓地は辰鎮の中でも著名な音楽家や歴代大統領などの骨を埋葬した一種の名誉集積地であり、その才傑を統べるのがかの八ツ藤氏ということであった。墓地の入り口は木立に取り囲まれ、門構えは森閑と威厳と幽邃とを兼ねた佇まいであった。彼女はどことなく既視感を覚えた。構造こそ違えど、この前の合宿の公共センターに非常によく似ている。両者の違いは階段を降りるか上るかの差でしかない。彼女は守衛の老婆に八ツ藤氏の墓の在り処を尋ねた。

「すみません、八ツ藤氏の墓はどこでしょうか。」

「少し待ってください。」

老婆はさも慣れた手つきで事務所の奥から墓地の地図を渡してきた。辰鎮の教養人の間では偉人の墓参りが気晴らしの役を務めているらしく、彼女と目的を同じくする風流な人々が沢山いるのだろう。

「あなたはラゾーンネの方ですか。」

老婆が尋ねた。

「ええ。」

彼女が答える。

「あなたのような若い人が八ツ藤さんの墓参りに来てくれるとは、此方としては本当にうれしい限りです。」

「彼のことはよく知りませんがね。」

「それでも良いのです。このしょくびょうに来てくれるだけで。」

「しょくびょう」が墓を指す言葉であるということは彼女にも察しがついたが、老婆がなぜ墓という単語を言い換えたのかは

理解できなかった。

「しょくびょう?」

「はい。ここは元々墓というよりは八ツ藤氏を祀り奉るために作られた場所でした。20年くらいして先の大統領が彼の威光を偲んで自分も埋葬してくれと言いだしてからはだいぶ様変わりしてしまいましたが。」

「なるほど。」

「ラゾーンネも大変ですね。ささ、どうぞごゆっくり。」


 地図を開くと、八ツ藤氏の墓は森を挟んだ一本道の終点にあると分かった。道なりに進んでいけばよいので迷う可能性など露も無い。老婆は彼女が八ツ藤氏の墓以外にも用があると踏んで予め全体図を渡してきたようであった。一本道から森の中へいくつかの横道があり、その果てには著名人と思われる墓が鎮座していた。文化褒賞を取りながらも遊び人としてスキャンダルの絶えない人生を送った作詞家が眠っていると思われる墓には、今なお無数の華美な花と地下鉄の切符が墓石の上に所狭しと並んでいた。彼女は横道に入り、先ほど役目を終えた切符をそっと墓の上に置いて、風除けとして上から置き石で固定させた。地図に載っている全体図、森を縦断する大道とそこから派生する小道は俯瞰すると立体的な木立の中に平面の大木を象っているように思えた。椚に張り付いたカナブンは蜜を吸い、石畳を歩く子供はりんご飴を舐めている。上からは蝉噪が時雨のように降り注ぎ、地上ではけたたましい童の声がさざめいている。自然との共生の根底には必ず象徴的な比喩があって、それを無意識的に感得して初めて成立するのだと、彼女は石畳の罅を見つめながらひとり考えた。

 八ツ藤氏の墓は石墓ではなく色あせた臙脂の小屋のような形をしていた。この建物もどこか既に視たような気がする。明らかに埋葬以外の意図があって作られたことは確かのように思えた。彼女は壮麗な建物を見上げるや否や、入り口で老婆から聞いた「しょくびょう」という言葉を誤って理解していたのではないかと、幻像機でその単語を調べた。漢字の予測候補にそれらしいものは一つも上がってこなかった。検索欄も関連の無い情報で埋め尽くされていて、ネットの波に乗るもその甲斐虚しく徒労に終わった。彼女は追及を諦め、目前の建物の周囲を歩くことにした。建物の両端には杉の大樹が二つ並んでいたので、彼女は幹を掴もうとその木の根と根の間の土に足を置いた。すると靴裏の地面が10cmほど凹んだので慌てて飛び退いて木の幹に体を寄せた。ふと右手の上にセミの抜け殻が見えたので、彼女は童心を思い返して摘まむと、抜け殻と思っていたものは重量感を伴っていて、平静を失ったかのように蠢きだした。彼女は両手の平を空に向けて逃げるように石畳へと離れた。幸いにして一部始終を見ていたのはカラスのみで、彼女が額の汗をハンカチで拭うのを見ると、嘲笑うような鳴き声と共に森の奥へと飛んでいった。建物の裏手に回ると、湿気で木が腐るのを防ぐ為か敢えて土台部分がむき出しで建築されていると分かった。側面同様、庇や甍には幻獣や松竹の彫刻が為されている。彼女はメモ帳を取り出してスケッチを試みた。が、絵心が皆無なせいか出来上がった絵は徒に時間を費やした割に尋常の生徒が描いたようなクオリティーであり、平澤薫にも馬鹿にされるに違いないと踏んだ彼女は頁を破ってポケットの中に詰め込んだ。そして、渋々幻像機を起動して写真を撮った。一周して元の大杉の前に戻ると、後ろから子供が走ってやってきて彼女を抜かし、「しょくびょう」の前で小銭を投げた後、閉ざされた扉に向かって熱心に手を合わせた。今しがた飛び込んできた奇異な光景に彼女は虚をつかれた思いがして、子供に向かって声を掛けようとしたが、子供の両親と思しきつがいが遠巻きから子供を注意したので未遂に終わった。


 日がすっかり傾いて冷涼が心地よい頃合いになった。辰鎮はラゾーンネの北部の気候とよく似ていて、彼女が住む南部のような蒸し暑さは地下鉄を除き殆どない。半年後には大雪がこの地を覆って、音一つない世界になると考えると降り注ぐ求愛の騒めきが夏の断末魔に聞こえてくる。彼女は木立を抜けて入口まで戻ると、守衛の老婆に目配せして事務所から引っ張り出した後、「しょくびょう」の漢字は如何と尋ねた。

「すみません。地図のおかげで無事に墓参りを済ませることが出来ました。ありがとうございます。」

「ああ、さっきの。」

「ところでなんですが、先のしょくびょうという言葉は漢字でどう書くか教えていただけませんか。」

何か重要な手掛かりがあると踏んだ彼女は接続法を使って丁寧に尋ねた。老婆は事務室からメモを持ち出してきて、端書に「稷廟」と書いた。

「こう書くんさ。座した神を祀る場所。」

「ありがとうございます。」

彼女は自前のメモにその漢字を写し、老婆に頭を下げた。老婆は彼女の萌黄色の襟付きワンピースに着いた杉枝を払って事務所に引き返していった。


 宿泊先に戻ると、大学帰りの女学生と鉢合わせた。女学生は彼女を見るなり蒼惶とした様子で

「再試に受かりました。」

と告げてきた。彼女は廓落とした態度を崩さず

「おめでとう。」

と返すと、女学生はまた手製の夕飯を召し上がってもらいたいといったので、彼女は親切に甘えることにした。夕飯を食べている間、彼女は女学生の作った上品な薄味の料理に郷から持ってきた調味料を何度かけたくなったか分からなくなったほどであったが、自室に帰る労を惜しんで行動には移さなかった。女学生がトイレに行くのを見届けてから、お世辞にもパンチがあるとは言えない肉料理に塩をまぶしはしたが。そんなことを女学生の目前で行えば、料理に文句を言っているのと同じことであって純朴な乙女の心に刃を刻みかねない。彼女にとってはちっとも心の休まらない晩餐であった。

「美味しかったですか?」

帰りがけに女学生が尋ねた。

「ええ。とても。」

北方の出身でなければ美味という評価を下すであろう、彼女はそう付言したかったが奥歯に挟まっていた玉葱の残りと一緒に嚥んだ。








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