【朧湛外伝】 中
留学といえども、さほど母国の大学の講義風景と大きく変わったところは無かった。4日目にもなると、彼女も次第に慣れていって、ラゾーンネの日常生活の延長のようなものと思い始めるようになった。語学の講義でも、彼女は予科の時分の暇つぶしとして辰鎮語を事前に齧っていたため、4日目にして大学の語学講師から卒業に等しい出席不要の許可を得たのであった。文法に関して言えば、辰鎮語はパルシア語と同じく文の二番目に必ず動詞を持ってくるのだが、助動詞や副文を誘導する接続詞の影響を受けて動詞が文末に飛ばされるような法則は無く、また文字に至ってはラゾーンネと同じ漢字文化圏であったため新たに習得するような手間もなかった。彼女は講義の間、艱難辛苦の表情を溢す留学生を見る度に、ここではない他のマイナーな国を留学先にすればよかったと思わずにはいられなかった。四日目に入り、講義の欠席権を得た彼女は辰鎮一とも呼ばれる大学図書館で蔵書を眺めることにした。辰鎮はラゾーンネから海を挟んで北西に僅か800㎞ほどの距離に位置していたが、主義を違える二大国家群の緩衝地帯にあって、両陣営共々迂闊に手を出すことが出来なかった。そのため、戦前戦中の文献がそのまま保存されており、彼女がこの国を留学先に選んだ理由もそこに端を発するのであった。学生証の代わりとなっていた留学証明を司書に見せると、司書は快く彼女の入館を許可した。彼女は自分の専攻科である法学関連の一角には目もくれず、一目散に人文の一角に潜り込んでいった。GIWとは異なり、神話学や宗教学、人類学の蔵書が非常に数多く並んでいる光景に彼女の好奇心はますます潤んでいった。直立を止めず、手を腰に当てて前屈みになりながら本を物色していると、形質人類学の一角で奇妙な題の本を見つけた。
「悠久の海を越えて、随分と詩的な名前ね。」
彼女はその旧版の耐水性能の低そうな本を開きながら独り言を囁いた。日に焼けて黴臭くなった匂いと誰かがコーヒーを溢して一部の頁だけシミが出来たその本は約30年前からずっと借り手に恵まれなかったらしい。目次を一瞥した後、彼女は窓際の机まで移動して本を開いた。
「なるほど、辰鎮の東海岸で見つかった骸骨の骨格と山都のドラコグロッケ周辺で見つかった骸骨の骨格が非常に相似していることから、辰鎮の民族が海流に乗って山都にたどり着いた説を提唱したものなのね。」
彼女は辰鎮語で書かれたその本を読み終えた後、情報脳を整理するためにあえて沈黙を破った。そして、タイトルの意味も比喩ではなく本の要約を明瞭かつ簡潔に結晶化したものと分かった。時はすでに語学の集中講義が終わる頃まで近寄ってきていてノートを取ることも叶いそうになかったので、彼女は仕方なく現像機の衛星追尾システムを解除してからその本の重要なページを写真に収めた。
午後になって、いつものように大学の教養コマに混ざって講義を受けていると、飛行機で熱心に夕景を撮っていた女学生がメモ書きを寄越してきた。その色気もあざとさも無い無地のメモの文章を読むと、女学生が辰鎮語の再試で及第点を取れるようになるまで是非とも彼女にご教授願いたいという旨がつづられていた。彼女はメモ書きの余白に「肯」の一字を書いて送り返した。思わぬ出来事があったので、少しはクロノスタシスも解消されたかと期待したのもつかの間、長針は相変わらず静止していて、秒針は時の流れとは独立したリズムを悠長に刻んでいた。言葉が分かる者でさえこんなにも退屈なのであるから、他の留学生はバーバリアンと喧嘩をしているようなものであろう、そう考えると彼女から不思議と微睡みの靄が晴れていった。教壇の方でも時間がゆったりと流れて講義の段取りが予想よりも滑らかに進んだらしく、専任講師がスクリーンの前に立って留学生相手に山都語で大学の沿革を語り始めた。
「この国立大学はかつてはラゾーンネから派遣された初代総督府、八ツ藤累氏の指針によって建てられたものであります。今ではとある事情から両国とも必死にその事実を隠しているようですが、此方とて未開だった辰鎮の発展に大いに寄与した氏の銅像を撤去するわけにもいかず、氏が忘却の彼方に追いやられて抽象的なオブジェになるまで撤去を待つことに決めたようです。近頃、威厳ある氏の風貌がだんだんと哀愁を漂わすような面もちになってきました。ラゾーンネからお越しの留学生は一度母国の英雄に面してみることをお勧めします。」
講義後、席を立とうとすると隣にいた女学生から丸文字を音にしたような感謝の言葉が発された。
「本当に教えてくれるんですか?」
「ええ。」
女学生は背水に浸かった片足を瀞から引っこ抜くようにして歩き始め、先導に立って彼女を宿泊先の自分の部屋へと案内した。改札を小走りで駆け抜ける女学生に後れを取らないよう、小売店にも寄らずに女学生の背中だけを追いかけていると次第に汗ばんできた。彼女は手で扇を作って首元に風を送っていると、暗闇から姿を現した電車が地下のプラットホームに烈風を運んできて彼女のボブカットを勢いよく揺らした。彼女は髪を掻き上げて風の通り道を作った。
宿泊先に着くと、彼女は自室で一息つく間もなく女学生の部屋に入った。
「今日は本当にごめんなさい。私、どうも辰鎮語が不得手で。」
彼女はその発言に僅かな引っ掛かりを覚えたものの、あえて黙って流すことにした。
「今日とは言わず、再試に合格するまでは面倒を見るつもり。いや、見るつもりですが。」
「夕飯は私が作りますので。遅くなってしまうとは思いますが。」
「ええ。」
女学生の勉強を見ている内に、女学生がパルシア語の文法規則にとらわれ過ぎていることに彼女は気づいた。先の発言が漂わせた含意は女学生の矜持が辛うじて持ちこたえていたということを証左していたのだろう。彼女は哲学部で必死に培ったであろうパルシア語の堪能をないがしろにすることなく、むしろその努力を煽てるようにして自信をつけさせた。その甲斐もあって二時間足らずで女学生から阻喪は取り払われ、炯々とした眼は少年時代にしか得られない全能感を伴って活力を横溢させていた。
「あの。」
と佐倉という名の女学生は帰り際に屈んで靴を履こうとする彼女に尋ねた。
「はい。」
「私以外にも、語学の再試を受け続けている留学生が沢山いて、、その、彼等にも今教えて頂いたやりかたを伝授させてもよろしいでしょうか。」
「お好きなように。」
彼女はそう告げて薬指で唇に付いたミートソースを拭きとると、後ろを振り向かず扉を開けた。




