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朧湛  作者: 東瑠璃
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【朧湛外伝】 上


 整然と家具が並べられた自室で、電子搭乗券とパスポートを確認しながらコーヒーを啜っている。壁に立て掛けた箪笥の上には蒼翠の塊が置かれてあった。合宿を終えてから一週間が経って、あれだけ付きっ切りだった平澤薫からの連絡も今では絶えて久しい。水島篝は昼下がり俄かに駆けだした雨音を聞きながら、ゼミ合宿を振り返った。

「出立の時のあの老人の透徹した眼差しは一体何だったのかしら。」

彼女には大凡見当がついていたが、自らの早計を戒めるために一人とぼけた。長らくして、雨脚が歩みを止めて部屋に光を連れてきたのを確認すると、家の鍵を閉めて空港へ向かった。


 ゲシーストワール空港へはかなりの余裕を持って着いた。彼女は空港を彷徨うことなく歩いたつもりであったが、既に先客が居たらしく、待合場で待っている添乗員と「辰鎮」への留学を斡旋した教授の周囲にプログラムの同行者が群がっているのが見えた。

「初めまして。貴方が水島篝さんですね。」

「ええ。」

添乗員が近寄ってきて確認した。同行者の学生は彼女を除いて5人居たらしい。法学部からは彼女一人だったので、5人とも凝視してきただけで黄色い声を上げるものも恐れるものもいなかった。見知らぬ同行者に通り一遍の挨拶をした後、彼女は彼等を歯牙にもかけないといった素振りで、外の機体をよく望める窓側の休憩所に腰を下ろした。合宿の最終日、彼女は平澤薫に留学への参加を促したものの、彼は成績不良で留学への参加権を得られず、また旅費を捻出できそうもないと断られて事実上の一人旅が確定したが彼女にとっては既に慣れたことで大した動揺も無かった。彼女は成績上位者であったので、どの国に行こうとも旅費は完全免除という形になっていたが、留学先として人気の高いパルシアなどの先進国は選ばずに一番不人気の「辰鎮」を選んだ。留学申請通知を受け取った法学部事務室の女は前例がないと思わず驚嘆の表情を浮かべた。出発の時刻になって添乗員が点呼をかけようと目立つ場所に移動すると、誰一人として遅れることなく6人が集まったので、そのまま流れるように出発ロビーまで群れを成して歩いた。搭乗が可能になるまでは50分間とかなり暇があったが、換金所でモントを外貨に換えたり、空港内の土産売り場やブティックを眺めていたりしているうちには時間は押し流されて行った。戻ってみると搭乗口には長蛇の列が出来ていた。彼女は椅子に背を靠れて蛇がとぐろを巻けないようになるまで静観してから、徐に立ち上がって蛇紋の這った跡を滑るようにして搭乗口に入った。気さくに挨拶の矢を放つキャビンアテンダントに会釈だけして機体の中に入り、電子搭乗券に書かれた座席番号と座席とを交互に睨みながら歩くと、先の一団が群れて座っているのが見え、窓側の空席が彼女の席であることに気づいた。隣に座っていた女学生が彼女に声をかけた。

「今どきますので。」

「すみません。」

シートベルトを締めて肩ひじを付いて夕景映える窓の外を眺めようとすると、先の女学生が必死に気道を絞り上げたような声を出してたずねてきた。

「あの、法学部の水島さんですよね。絶対零度の白眼視の。」

「はい?」

聴いたことの無い二つ名であった。誰かがまた尾鰭を付け加えまくって吹聴したのかと彼女は考え

「誰から。」

と聞き返すと

「御存じないのですか。哲学部の間では通った渾名ですよ。弁証法で有名なベーケルの主著【睥睨】の名句から誰かがもじったみたいです。他にも銀嶺の華とか。」

と返した。

「睨みつけたら凍死しそうな渾名ばかりね。」

「私も水島さんが高潔さが放つ威圧感で声が裏返ってしまいました。」

「そんな、大げさな。」

「いえいえ。水島さんがいると室内の温度が5度下がるという噂は本物みたいです。」

女学生が羽織を纏った。

「空調が効いているだけよ。現に私も少し寒い。」

彼女はそう言うと、目前にある液晶の画面を操作して天井から吹いてくる冷風を停止させた。

「寒くなったらまた言って。」

「ありがとうございます。申し遅れました、私は哲学部2回生の佐倉です。よろしくお願いします。」

「ええ。」

彼女は特に交友を温めたり新たに知己を得ようと思って留学に参加したわけではなかったが、不測の事態に備えて一人でも話せる人を作っておきたかったという思惑もあることにはあったので、その女学生にはなるべく親身になろうと努めるのであった。


 飛行機は重力に逆らって空高く舞い上がった。彼女は目前の画面から戦後流入してきたパルシアの流行歌のリストを選択してヘッドホン越しに聴いた。どの曲も流入されてから半世紀近く経ってるが、今なおラゾーンネのテレビやネットの広告に引っ張りだこである。ラゾーンネの広告代理店が作り出したともいえる音楽文化が巡り巡って彼女のパルシア語への興味に繋がっていったことは功罪でなくして果たして何であるかと、45年前パルシアで一世を風靡した金髪のアイドルの歌う「恋のおがくず人形」を聴きながら彼女は自問するのであった。

 外景は目まぐるしく変化していった。雲海が下層を固めて白波の花園を作ったかと思うと、遠景の赤とそれよりも遥か彼岸の淡青が、死を忘れるなと背後でつついてくる心臓の旋律の如く忍び寄ってきて白波を青紫の厚雲へと染め上げた。と、突然音楽が止まったので画面を見ようと耽美的な景色から目を離すと、隣の女学生が正面で流れていた映画に一瞥もくれず、ずっと窓の方を向いてまごついているのが分かった。彼女はわざと窓を避けるようにして背凭れに引っ付き、意味も無く肩掛けの鞄を開けると、女学生は首を伸ばして窓外の夕景を覗き込むようにしたので、彼女は今まで夕景を独占していたことを恥じて女学生に言った。

「気づいてあげられなくてごめんなさい。」

「いえいえ。肩ひじついて思慮深い顔を夕景に映じている様は絵になってました。」

「ありがとう。席を交代しましょうか?」

「いえ、結構です。」

どこからどう見ても外景を見たくてしょうがないという表情をしているのに女学生がなぜ頑なにやせ我慢をするのか彼女には見当がつかなかった。

「私はトイレに行くので、その間だけでも。」

といって、女学生の返答を待たずに彼女は席を離れた。通路を歩いてトイレの前まで来たは良いが、尿意は欠片も無かったので、トイレ前の少し広いスペースで5分程時間を取ることにした。後からやってきた人が続々と彼女の後ろに並び始めた。彼女はすぐさま自分がトイレの待機列の最前だと勘違いされていることに気づき、後ろにいた二人の待ち人に向かって「どうぞ前へ」と合図した。彼女の愚行を知る者がいなくなると、彼女は足早に自分の席へと向かった。席のある列にたどり着くと、女学生が懸命に窓に張り付いて幻像機で録画しているのが目に入ったのでもう一度往復することにした。もう5分程経って席に戻ると、女学生は自分の席に着いていたので彼女は安堵の一息を吐いた。

「随分暗くなりましたが、まだ幽かに外の景色が見えますね。良かったら一緒に見ませんか。」

「良いんですか。」

女学生が夕景を望めるよう、横顔が窓幅の三分の一を越えないように気を使った。幽邃たる厚雲が太陽を阻んで橙色の玲瓏も微かに。青紫の絨毯を走る千切れ雲は群れからはぐれた羊の如く落ち着きを失って大空に溶けていった。その後、外が暗がりで一色になると、女学生は一抹の申し訳なさから彼女が留守にしていた間に撮った映像を共有したいと申し出たので、彼女は2つ返事で引き受けた。写真をすべて受け取ったことを確認すると女学生は礼を告げてまた映画の流れている画面に見入ってしまったので、彼女もそれを会話の切れ目と踏んでヘッドホンを掛け直した。着陸のアナウンスが入ったのはそれから1時間ほどのことであった。


 辰鎮の空港に着くと、ロビーの中央に掲げられた世界標準時刻表が目に入った。それによれば、ラゾーンネの現地時間は8時15分らしい。辰鎮の時間はちょうどそれよりも経度15度分だけ遅く、したがって旧式の時計をわざわざ現地時刻に合わせずに済んだ。彼女の首からは懐中時計が下がっていた。合宿の道中、小型の古びた時計を懐から出してはまた懐に引っ込めて温め直す酔狂な人を隣で見ていたせいか、彼女は意図せずその時勢に遅れた時計のことが気になりはじめ、合宿が終わった後に骨董屋に立ち寄って同じような懐中時計を内緒で買っていたのであった。しかしながら、彼を真似て首から下げるようにはしたものの、その無駄で満ち溢れた作業はなかなか慣習化することなく、また現像機をつければ一瞬で手間なく見ることが出来たので、彼女はだんだんと鉄塊を煩わしく思い始めた。そして、夏場が過ぎて大地が銅色になった頃に秋の装いの共として出番を待ってもらおうと鞄の奥底に入れ込んだ。

 空港から出ている地下鉄で宿泊先のある駅へ向かった。宿泊先へたどり着くと、穏やかそうな顔をした従業員が出迎えた。従業員は学生たちの足労に賛辞を送り、それぞれの部屋カギを渡すついでに手製の弁当を振舞った。彼女は自室で弁当を頬張りながらノートを開いて留学のスケジュールを確認した。このプログラムは語学だけではなく異文化交流やフィールドワークも織り込んであったので、この前のゼミ合宿ほどではないものの、観光旅行の要素が強い。事実、来週の平日には辰鎮の観光地に赴いてそこで宿泊すると書いてあり、余白には片道四時間のバス移動という文字が付されているが、プログラムを組んだ教授にしてみればこれも観光ではなく立派なフィールドワークという扱いになるのだろう、彼女にはそう思われて仕方が無かった。弁当を食べ終えると彼女はスーツケースから洗面具と寝巻を用意して風呂に向かった。薄化粧を落として鏡を見つめると、大して変わり映えのしない自分の姿が映った。思慮深いやクールといった言葉で婉曲的に形容されるこの起伏に乏しい表情の為に、今まで謂れのない渾名や二つ名が付けられてきたが、それでは生き写し先の祖母は果たしてどうだったのかという疑問がふと彼女の胸に湧き起こってきて、彼女はしばらく鏡の前から離れられなかった。風呂から上がって、洗面用具を片付けようとすると、洗面袋の隣にしまってあった眼鏡ケースが目についた。彼女はそれを見るなり「この前の不意の満月は一体何だったのかしら。」と独り言を呟いた。彼女のような生き写しの徒は基本的に満月の日が来ると、黒や茶のカラーコンタクトを用意して自身の眼の色を隠すのであるが、ゼミ合宿の時の満ち欠けに逆らうようにして訪れた満月は流石に予想の範囲外で、カラーコンタクトの代わりとして偶然持ち合わせていたサングラスを掛けて難を凌ごうと思い立ったのであった。結果、平澤薫に抱えられる事態になってしまった。彼女は自身の華奢な腕を軽く掴んで、平澤薫に抱えられた時のことを回想して身悶えるやいなや、紺のキャミソールと紫のパンツだけ纏った細い体躯を弾ませて、着地時の床の響きに重量感が無いことを確かめた。それから、合宿の最後の夜に珍しくへべれけ状態であった彼の放った一言が脳裏を過って、今まで彼女が彼、もとい平澤薫に求めていたものが変容しつつあることを自覚した。寝巻を着てからベッドに乗り、うつ伏せになって組んだ腕に額を乗せて力なく足をジタバタさせていると、体温がだんだんと掛布団に移って熱を帯び始めたので彼女は体を回転させて仰向けになった。寝巻がずれて鼠径部が姿を現した。眼が腕枕で圧迫されたせいか、部屋の天井にある白色電灯が銀光を散らしているように見え、視界はくぐもった。彼女はいたずらに左手を空に掲げて幻影を掴もうと試みたが、すぐに手を下ろして茫然としながら眠気が来るのを待った。突き出し窓から生ぬるい風が運ばれてきて、純白な頬を伝った。





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