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朧湛  作者: 東瑠璃
24/35

座花酔月


 湖は既に黄昏を見る。水面の煌めきは落陽を直に控えた光源へと道をなしており、立ち止まることなく月日に流されていく私のために常に最短の道筋を描き直している。都会のとは似ても似つかないこの夕陽の純真さは、無窮の寛大さでもって私の眼差しを赦した。やがて道は光の運びに従って溶けていき、入れ替わるように立ち現れた上弦月によって甦った。

 窓越しの風景にも飽きが来て、背中から剥がした湿布を捏ねたり伸ばしたりして暇を潰していると、バスはいつの間にかに目的地に着いたらしく、昨日の老人が入口で待っているのが見えた。バスの最後尾で眠っていた水島篝を起こして一緒に降車すると、時機を見て老人が挨拶をし始めた。老人の視線は終始ずっと此方に向かっていて、教授を含め他のゼミ生は歯牙にもかけないといった素振りであった。挨拶が終わり、水島篝と並ぶようにして歩いて入口扉を抜けようとすると、

「二人は随分と仲が良いんですね。」

と老人が言ってきた。

「世黒さん、それは誤解ですよ。」

と返すと、彼女が空気を呼んで私から僅かに距離を取った。

「いやいや、そんなはずはない。」

身なりの良い老人がすかさず応答する。私は疲れからか周囲への警戒をなおざりにしてしまったのかと思い狼狽していると、隣の彼女が

「研究論文の手伝いをしてもらっているだけです。それに連絡先すら交換してませんし。」

と老人の方を見て返した。老人は昨夜とは違って彼女の顔を凝視した。双方共々落陽の輝きで眼が煌めき、因縁の対面といったような雰囲気を醸し出した。そして、あまりにも一瞬の出来事だったので見逃しかけたが、彼は彼女と私の顔を見るなりにやついたように見えた。それから老人は彼女に向かって

「以前にも同じようなことを仰っていましたね。」

と言って、我々の返答を待たずに

「余計なことを言って時間を取らせてしまいました。今日はここでゆっくりと疲れを取ってください。」

と付け加えて、雑に会話を切った。我々はそれから会話一つせず別れた。


 待てども待てどもメッセージが幻像機から送られることはなかった。此方としても一歩進んでメッセージを送ろうという気にならず、「昨夜俺が場を去った後にそのような話をしたのか?」という文面を消しては書き、また書いては消した。それから私は一人になったのを思い出したかのように、満月と真紅の眼の関連について調べた。私は彼女が必死に瞳を隠していた理由を悟った。明確な出典はどこにも無く、怪しげな個人サイトに頼らざるを得なかったが、それによれば、複製技術で甦った人間は個体重複が起こらないように、また個体識別を容易にするために満月の時にだけ瞳の色が変わるということだった。二隔親等、例えば当人を起点として数えて祖父や祖母に当たる人物の体を複製先にした場合、色の眼は真紅となると説明されてある。一隔親等の場合は緑で、零隔親等は黄色になるらしい。それ以外にも親等の隔たりで事細かに色分けが為されているようである。彼女の場合は真紅であったので祖母となる。となると、私があの時見た写真の女は彼女の祖母で、しかももう既に生きてはいないという事実に突き当る。この科学技術が死生観を含めた価値観もろとも一新していった世の中で彼女は祖母の姿を見ることなしに19年間を生きてきたのか。それに彼女の両親はどのような気持ちで母を娘にしようと思い立ったのか。私は先に彼女が放った洞窟での発言を思い返さざるを得なかった。

 

 山登りでべたついた体を清めようとこの前よりも早く大浴場に入った。23時を前に控えた折で日を跨ぐまでにはまだ余裕があったにもかかわらず、私以外に客は居なかった。蓄積された疲労が筋肉痛となって体を蝕みだしたために風呂に入るのが精一杯であり、平泳ぎをする余力は露ほどにも残されていなかった。脱衣所で髪を乾かしていると旅館の従業員が鏡越しに映ったので、私は彼に尋ねた。

「会長はまだ旅館にいらっしゃいますでしょうか。」

「いやあ、今日は七時頃に帰っていったよ。」

「いつもは違うのですか?」

「ええ、いつもは定時退社ですよ。用がお有りでしたら私が言伝しておきますが。」

「いえいえ、自分で話す機会を作るので。お気持ち感謝いたします。」

やはり目的は我々に違いなかった。老人はあのセリフを言う為だけに待ち伏せていたのであろうか。とにかく、あの老人が居なくなって少しは警戒を緩められるだろう。


 風呂から上がって、いつもの非常口を通らずに寄り道をしていると、湖側の通りに人知れず円卓が3つ4つ置かれていて眺望の利く場所があったので、老婆に貰った地酒とコップを自室から持ってきてそこで月に酔うことにした。円卓の傍にあった座り心地の良い椅子の頭置きには花柄の模様が印されていたので、私は澄んだ夜空に花吹雪を浮かせる妄想をして愉しんだ。脳内で拵えた桜の花が完全に散ると、卓の上に載っていた紙束から二三枚紙を引き抜き、その上にパルシア語で貧相な腰折れ詩を書いたが、余りの詩才の無さに渇いた笑いが出た。酒が進んで上弦が揺れだし、疲れと眠気も相俟ってうつらうつらしていると、向かいの椅子に誰かが座った。茫然としたまま瞳を閉じている私を見ると、その人は私の丸めた詩を広げて「下手ね。」と呟いた。その声で私は向かいの人が誰であるか割り出すことが出来た。

「下手で悪かったな。」

「なんだ、起きてたの。」

彼女が動揺したような素振りを見せた。

「何でここが分かったんだ。毎回毎回。超能力でもあるのか。」

「勘よ。ところでカオリ、明日の10時からここの旅館の会議室で日待ち講のレポート発表と卒論の中間発表があるけど、こんなところで深酒して大丈夫なの?」

「大丈夫だ。直ちに影響はない。」

「ダメじゃないの。」

「それとあれだ、今日は家族が死んだとか嘘ついて悪かったな。」

「いきなりどうしたのよ。」

「いや、宵のことを思うとな。真紅の眼はそういうことなんだろう?」

あくまで隠し通すつもりが、酒の勢いでうっかり禁句を漏らしてしまった。

「ええ、私は複製よ。10人に一人いるかいないかの。」

祖母のことを言及しない彼女に私は初め疑問を抱いたが、じきに写真のことを隠しているのだと早合点してしびれを切らし

「形見だか何だか知らないが、写真に写っていた宵は祖母なんだろう?生憎だが俺は写真の男ではない。ただ顔がかなり似ているだけだ。俺に付き纏って埃を叩いたところであの男に繋がる手掛かりなんか出やしない。」

「あの写真を盗み見たのね?」

「合宿の何日か前の喫茶店でカバンの見張りを任されただろう。その時に、カバンを落っことして慌てて中身を拾ってたら偶然あの写真が財布に挟まってたから見てしまっただけだ。」

「いずれ私と祖母の関係性が明るみになったら写真のことを言おうと思ってたの。予想よりもはるかに早くその時が来てしまったけど。」

「親等の隔たりで色が分かれるなんて聞いたことが無かったからな。無論、満月の夜に目の色自体が変わることも初耳だったが。」

「生き写しの人の中でもこの事実を知らない人は結構いるのよ。個体識別とはいえ差別を生みかねないから、国が配慮して情報を秘匿したのかしらね。」

「そうか。」

「それと、あの写真とカオリの接点の有無は分からないけど、私の見立てだと多分関係があると思うの。」

「なぜ。」

「だって世黒さんと以前にそんな話をした覚えがないもの。」

「そうなのか。」

「ええ。」

彼女の思考回路では、写真の両者、いや少なくとも祖母とあの老人は旧知の間柄であり、老人の「二人」という台詞から私も何かしらで関与していると見たらしい。私は彼女の早計を窘めるように

「ぼけた老人の戯言かもしれないだろう。」と言うと、

「遠ざけようとしても無駄よ。」と彼女はばっさり。私には彼女がなぜ確証を持ってそんな発言をしたのか分からなかった。まだ秘匿している情報があって、それがこの説を補強するに重要な役割を果たしているのだろうか。

「ところで、その写真の男を見つけてどうするんだ。そもそもその写真の男は宵の祖父じゃないのか。それに、ようやく見つけた時には既に草葉の陰とかいうオチだったらどうする。」

酔いを利用してくだらない質問を投げかけた。

「見つけて祖母のことを聞き詰めるつもりよ。例え草葉の陰に隠れていたとしても。あと、最後の質問は愚問よ。」

彼女の前世が恋に落ちたであろう写真の男を追うことで、彼女は肉体を共有している祖母の人生の足跡を辿ろうとしていることは私にも推測できた。そして、その嚆矢が恐らく自我同一性の揺らぎであることも。

「写真の男に心当たる記憶は一切ないが、それでも良いなら勝手について来れば良い。」

「ええ。」

「しかし、写真を見るまで俺はてっきり宵が男女間の友情とやらを求めてきているのかと思ってたが。あんなものはただの幻想だ。一つたりとも例外は無い。」

私が聞かれてもいないことを饒舌に任せて喋っている間、彼女は耳だけを傾けて返事もせず黙って窓に映る景色を眺めていた。自身が抱き始めた恋慕に対して、また私に対して無警戒を貫く彼女への牽制がこうも不発に終わるとさすがに酔っていたとて居心地が悪くなるのを感じ、窓を見ている彼女に「じゃあ。」と言うと酒と詩を抱えて後ろも見ずに自室に走った。詩を丸めてゴミ箱に投げ捨て蒲団に潜り込み、胃で蟠る二つの波と格闘していると、彼女からメッセージが届いた。


「まだ話があったんだけど。」

「なんだ。」

「留学しようと思っているの。夏季の間だけ。」


私は「だからどうした。」と蒲団に向かって独り言をつぶやき、返信せずに眠った。




















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