旧道
小瓶の地酒を手から提げながら階段を上って会議室の部屋に入ると、昨日に引き続きまたも水島篝が魘されているのが聞こえた。私が来るまでの間、ずっと一人で悪夢に魘されていたのか。私は急いで小部屋の扉を開けようとしたが、昨日と違って誰かが見張りをしていたわけでもなかったので案の定鍵が掛けられていて中に入ることが出来ない。やむを得ず私は扉を叩く音で彼女を起こそうと努めた。およそ五分間の格闘の後、部屋の向こうから気の抜けた返事がし、寝間着姿の彼女が鍵を開けて煩わしそうな顔を此方に向けた。依然として彼女の眼は赤い。
「随分と楽しかったようね。で、こんな真夜中に何。」
「昨日と同じように魘されてたから、今度こそは叩き起こさなきゃと思っただけ。」
「悪夢なんか一つも観てない。」
「そんな馬鹿な。」
「今日は寂しそうな夢。女が男を探して雪の中を駆けるの。映画みたいだった。」
「そうか。それなら良かった。」
映画というならもう少し子細な説明をしてくれても良いと思うのだが。物語の骨を彼女なりに一言で表したらおおよそ今のような感想になったのであろうか。それとも、私の知り得ぬ情報をそのまま隠し持っておこうという目論見があるのであろうか。財布の中の写真のように。
「次からは魘されたような声を上げても放っておくことにするよ。」
「ええ。」
敢えて明日の登山の決行の可否は尋ねなかった。私は小部屋の扉を閉めた後、昨日同様に会議室の壁に沿って眠った。再び目覚めた頃には、陽は出ずとも空は白んでいて霧のベールは薄くなっていた。私は外の様子を見ようと一人階段を降りて入口を出た。軒下で湖から吹いてきた曙風に身を委ねていると、低地ながらも二色の満月の沈みゆくのが見えた。が、明らかに様子がおかしい。満月からは金色の鱗粉のようなものが剥がれ落ちて散っていくのが見え、それらは経時と共に勢いを増しているようであった。また、霧の濃淡もその現象と無関係ではなく、月が隠れると同時に霧も透過性を増していった。
「不思議でしょう。」
いつの間にかに隣にいた五十路ぐらいの髭を蓄えた男がその奇異な光景を見ていた私に話しかけた。
「ええ。」
「この地方特有の現象なんですよ。私は気象学を専攻していたのですが、どうも分からずじまいで。」
「そうなのですか。」
「はい。ただ、今年は珍しく三日目を迎えずに済みそうですね。」
「と言いますのは?」
常識的に考えて夜の出来事を朝に予知できる手立てなどない。
「あの粉は満月を形作るために前もって周到な準備をするのですが、去り際はがさつな性格になるらしく今みたいにあっさりポロポロと剝がれ落ちてしまうんです。」
理科系の出にしては比喩が多くて解釈に難儀したが、初日に温泉で見た小望月を思い出して得心した。
「あの正体は虫ですか?それとも蜃気楼?」
先程分かりかねるという話を彼から聞いたばかりであったが、敢えてとぼけるようにして再度質問した。
「湖の冷気と地熱で光が屈折して、という研究がありましたが正確ではありませんね。」
「なぜそう言い切れるんです?」
「その研究論文を書いたのが私だからです。」
「それは失礼しました。」
「それでも諦めずにここに住み着いて、何か手掛かりがあるんじゃないかと行事なんかにも参加するようになったのですがね。」
「始まりは誠実、終わりはがさつだと分かっただけでも十分甲斐はあったというものです。」
「まだお若いのに、随分と淑やかな口調ですね。」
「二日もここに居て話を聞くと、口調も移ってしまうものですね。」
男は私に向かって訝るような表情を見せた。当然ながら、訛りの強い方言で下世話な会話しか流れない日待ち講でこのような淑やかな話し方をするものなどはまず居ない。その反応はひどく正しい。
「まあ、その他にも身なりの良い陶器蒐集家の老人などとも知己を得たので、結果この会に参加して良かったとは思います。」
「さようですか。」
「はい。では月も見えなくなったので私はこの辺りで。」
「貴重なお話ありがとうございました。」
その後、二階に上がって廊下を歩いていると壁沿いの窓のサッシにお菓子の空袋が置かれていることに気づいた。やはり皆気になっていたのであろう。特に現代の価値観を携えて生活している若い父兄にとって、日待ち講が続くということほど苦痛なものはないであろうから。会議室に戻って隣の小部屋に耳を傍立てると予想に反して物音一つしなかったので、私は安堵し倒れこむようにして床に伏した。朝靄と異様な光景のせいで覚醒状態が続いていたが、ここ数日間、夜一夜ろくろく安気に眠れなかったので、なんとか貴重な睡眠時間を失うまいと必死に目を瞑った。そのうちに会議室の隅で袋を詰めたり荷物を漁る音が聞こえたので、目を開けて周囲を見渡すと彼女が此方を振り向かずに朝の決まり文句を言った。
「おはよう。」
「ああ。足は治ったのか。」
「ええ。」
「本当か。登山道を負ぶって登るなんて俺には無理だぞ。」
「心配無用ね。」
「そうか。」
会話はそこで切れた。私は徐に放置された寝具類を片付け始めた。荷物はほとんど持っていなかったので、彼女のように小奇麗に畳んで収納するといった手間は掛からなかった。出発の準備を終えてお互い目を合わせた時には、彼女の瞳は既に緋たる輝きを放っておらず、平常の瑪瑙のような透明さと清純さを映し出していた。入口で待っていた教授の案内で各々の車に乗って民宿に帰った後、家主に夜通し頭から被っていた白布を返して宿を発った。それから公共バスで駅に向かう間、福原から夕方の集合時刻を聞き出し、罹ってもいない病をさも深刻そうに騙った。普段から生気の無いような表情をしていると、こういう時に、例えば病を騙るときに全く苦労しない。尋常から予科を通して周りよりも早退頻度が突出していたのもこの青白い顔のおかげであった。私は駅の停留所で降り、即座に野郎達から距離を取って追手が来ないことを確認すると、水島篝との待ち合わせ場所になっている丘の途中のパン屋まで歩いた。珍しく彼女よりも早く待ち合わせ場所に着いたと悠々とした心持で陳列されたパンを眺めていると、奥の座席で彼女がパンを頬張っているのに気が付いたので、急き立てられるように昼飯のパンを選んで彼女の元まで寄った。
「随分と早い到着で。えらく運動向きの格好をしているから気が付かなかったよ。」
「私も今来たばかりなの。」
「じゃあ飲み物でも飲んで段取りを決めてから出発しようか。」
「段取りならもう決めてあるの。さあ行きましょう。」
彼女は食べかけのパンを思いきり口に詰めた。
「そんな口を膨らませなくたって良いものだが。駅舎の醸し出すあの南国ののどかな面もちを見なかったか。待ち合わせに2時間遅れても笑って済ましそうな陽気な色使いだった。」
彼女はリスのように口を膨らませたまま立ち上がって足早に店を出た。私は老婆心から、店を出て停留所へと急ぐ彼女に道中で買った麦茶を差し出すと、彼女はやにわに蓋を開け、口をつけずに麦茶を流し込んだ。そして、道沿いの停留所で待ちぼうけを食らうことなくバスに飛び乗った。
「今日は南ベルクーゼ山近辺の散策をするんだよな。」
「ええ。」
「歩くコースは決めてあるのか。」
「一応。」
「それは頼もしい限り。」
バスは勾配のある隘路を抜けた。停留所がいくつか見えたが、こんな何もない山の中で降りる人なんて自殺志願者くらいしか居ないであろう。人生を諦めた人々に優しいバスもあったものだと私は妙に親近感を覚えた。無論、高原に等間隔に置かれた停留所の標が、高原樹で首を括るのは甘えである、いっそのこと草莽走る高原で遭難して餓死せよと慫慂している点においても。40分くらい揺られた後、高原の波を縫うようにして進んだ先の、山麓の施設が寄り合っている場所に差し掛かったところで彼女が降車の意思を知らせるボタンを押した。バスが止まると、彼女が前へ歩きだして運賃の精算をし始めたので私もその後を追った。目前のビジターセンターには所狭しとバイクが並んでいたが、彼女は個性的なバイクの装飾には目もくれずそそくさと建物の中へ猛進していったので、つれないと思いながらも彼女のペースに合わせることにした。少しして、彼女が二枚分の地図を手に提げて椅子に座っていた私のところまでやって来た。
「今から赤で線を引いた道に沿って歩くから。」
「随分と右に逸れたコースを歩くんだな。」
「ええ。これが戦後までずっとツェールスーデンと東のオストグライヒを結んでいた唯一の道らしいの。」
「なるほど。」
オストグライヒはラゾーンネの東に位置する商業都市で、祖父の家のあるのもその場所であった。前々から祖父の行方を追う手掛かりを探すには祖父の家に行くのが一番手っ取り早いと考えていたが、葬式以降家族で帰省するようなことはめっきり無くなり、また一人で行くにもかなりの距離があったので祖父宅への家路を遼遠のように感じ、なかなか足を運ぶ気になれなかった。それでもいつかは立ち寄らなければならないのであるが。
「さあ、行きましょう。刻限まであと8時間を切ってる、余裕は無いのよ。」
「そうか。元気そうで何より。」
彼女がこの山道に何を求めてそんなに焦っているのか見当もつかなかったが、気迫に圧されるがままに何も言わず従った。山道に入ると、バスの窓越しに見えていたまるで偏在とも言うべき統率の無い石塊を目前で観察することが出来たので、私は彼女の目を盗んで少し石塊の一つに触れてからピッケルで破片を取り出した。凝灰岩であることは分かったが、知識不足が祟って、溶結凝灰岩や凝灰角礫岩といったような細かな判別までは不可能であった。また、高原にはニッコウキスゲが一面に花開いていて、その緑の茎と黄色の花の対比、そしてその萌える華波を割るようにして続く木橋は病に伏した時に夢に見る光景に酷似していた。なぜ死後の世界に行くのに橋を通る必要があるのか、飛べばよいではないかというのは夢から覚めた時に常々思うことである。花景色は喧騒と雑踏で構成された都会と同じ国にあるとは思えないほど壮観であった。響けるノビタキの歌はなお終幕を彩る管弦の如く、また、地に伏せる蜻蛉の秋風を見定めるごとく見えたこそ。と、彼女が右に逸れていく分岐のあった広場を前にして、地図の確認がてら休憩を取ろうと提案してきたので私は何も言わず頷いて肯じた。
「ここで高原を抜けて山に入っていくのね。」
「そうみたいだな。」
地図に描かれた赤線を手でなぞりながら返事をした。
「ここからは少し険しくなるから。」
「運動用の服、持って来たら良かったな。周りから山を舐めるなという視線が飛んできて色々と五月蠅かった。」
「まあ、そんなに高いわけじゃないし大丈夫よ。」
通気性のよさそうな清涼感のある水色のウエアを風に靡かせながらそう言い放って、私の不安を杞憂に着地させようとした。下は黒の短パンと伸縮性のありそうなスパッツで固めてあり、その華奢なシルエットが浮き彫りになっていた。
「そうか。安心した。」
休憩中に登山客の動向を窺っていたが、右の旧道に進んでいく者は一人もいなかった。登山客の大半は高原の風景を愉しみにやってきているらしく、高原終わりの分岐で引き返していた。登山客の中にまばらに散見された重装備と形容できるような大荷物を背負った人も、例外なく正面の南ベルクーゼ方面に進んでいった。腰を上げて息を整えた後、私は彼女に連れられて人気の無い山道へと入っていった。山道は思ったよりも起伏が無く単純であった。私は暇を潰さんと雑談に興じることにした。
「あのさ、昨日のお迎えだ、とかお送りだってのは誰かは別として、どの方向に送ってどの方向から迎えたんだろうな。」
「ちょうど私も考えていたところなんだけど、船に乗って来る以上は湖でしょうね。」
「やっぱりそうなるか。」
「だとしたら、あの湖の上に合流地点とか中継地点があってもよさそうなものだけど。」
私は一昨日に水底で見かけた台座のようなをふと思い出した。しかし、あの台座はそもそも水底にある上にかなり陸寄りであり、とても中継点というには相応しくない場所にあった。恐らく両者の間に関係はあるまい。
「そういえば、今日はサングラスかけなくて大丈夫なのか?」
彼女は少し返答を喉に詰まらせたように間を置いて
「今朝霧が晴れていたから探しに行ったのだけど、見つからなかったわ。でも別にいいの。気分が変わったから。」
明らかにその場しのぎに拵えたと分かる幼稚な言い訳であった。
「お互いに隠し事は無しと決めたんじゃなかったのか。」
と問いかけると、
「カオリが全部吐いてくれたら話すつもり。」
と返ってきた。お互いまだどこかで信じ切れていない節があるらしい。我々の間にある決して薄くない障壁は常はお互いを絶妙な距離に遠ざけてくれているので非常に感謝しているのだが、時々その壁を取り払い衝動が起こって悶々とすることがある。事実、私も本来の目的である祖父探しを始め、水底の遺跡や鎖につながれていた小箱、ドラコグロッケの石片や蛙と人面の器のことなどを打ち明けずに隠していたので彼女を責める気にもならないが。向こうは向こうで財布の写真や真紅の眼のことをひた隠しにし続けている。此方に知られたらよほど都合が悪い情報なのだろうか。
「お互い均衡を失わないようにな。」
思わせぶりな言葉をつぶやいて濃度の薄い空気に流した。もう既に手遅れなことくらい、最初にあった時点で重々承知していたが。
勾配のある下り坂を迎えて、木漏れ日の滴る杉並木に入ると、そこは人の足跡さえ絶えたようになっていて、落ち葉で出来た獣道のような悪路を進むことになった。見通しが悪く、ここ数日晴れが続いていたというのに道の隅にはぬかるんだ後がある。
「なるほど、ここにも高原のジクタミが続いているのね。」
「ドクダミ?」
「ジクタミ。この辺りの方言で土がぬかるんで湿っている場所を指す言葉らしいの。」
「へえ。」
思えば湖の周辺も土壌の柔らかい所が多かった気がする。杉並木を抜けて少しすると、隘路が開けて荒涼とした湿地帯が横に見えた。秋になればすすきが一面を小麦色にしてさぞ佳麗な景色になるであろう。八月上旬ではまだ単調な緑模様であった。
「思いの他かなり早く辿りつけたは良いけど、やっぱり時機が少し早かったようね。残念。」
溜め息交じりに嘆く彼女を見て、私は彼女の登山の目的を悟った。
「また楽しみが増えたじゃないか。」
「文句一つ言わないのね。私はカオリから半日、いや一日を奪ったのよ。」
「心配ご無用だ。元々急いて人生を駆け巡るような輩を馬鹿にして生きてきたからな。有閑民の綽綽たる余裕を舐めちゃいけない。」
「それ、慰めのつもりなの?」
「一応。」
私はふと自分がどのくらいの高さにいるのか知りたくなり、すすきの先にあった山なりの土地に突き出していた巨岩を目指して道を反れた。
「どこいくの?」
「ちょっとな、あの岩に攀じ登って山を俯瞰しようと思うんだ。」
と私が言うと、
「はぐれるかもしれないから。」
と彼女は私に笛を渡してきた。
「ビジターセンターで借りたの。迷ったらこれで合図して。」
「まるでこうなることを見越していたみたいな周到さだな。」
私は一人、ススキをかき分けて山なりの巨岩へ向かった。地面はぬかるんでいたが、水が染み出ていたわけではなく、靴底が少し沈むくらいであったので笛を吹く必要も無かった。羽虫が柱を作っていて煩わしかったので、持ち前の虫よけスプレーを体中に塗ってからその虫柱にスプレーを放つと、輪が乱れたように四散していった。私は非常に愉快になって、それからは虫柱を見つける度に満面の笑みを浮かべてスプレーを吹っ掛けた。
巨石に着いて童心のままに勢いよく攀じ登ると湖が見えたが、それは巨石の高さとは何にも関係が無く、単に巨石のある山なりのすぐ隣が斜面になっていたからであった。私は岩から降りて斜面に寄った。眼下遥か先に高原が見える。私の視界から逃れようとして猛禽の類が低空を這った。鳥が低く飛ぶのは雨の前触れと聞いたことがある。徐に顔を上げて太陽を睨むと、その卵の周囲に日暈がかかっているのが分かった。私は偶然にも旅行が晴れ続きだったという僥倖を噛み締めた。どんなに優れている景観を持った名所であっても、雨や曇りの似合う場所はかなり少ない。まして南国を模倣した街並みともあれば、まず雨に親しむことはなく厭うべき存在として忌避するであろう。私はしばらく斜面の頂点に立ってそんなことを考えていたが、木橋の上で私を待っている彼女のことを思い出し、写真を取って帰ろうとした。現像機のフレーム機能を解除していると、斜面に繋がっていそうな狭い小径を見つけたので散策しようと試みた。が、万一はぐれる可能性を考慮し、まずは彼女の元へ戻って許可を経ることにした。
「随分と遅かったじゃない。」
「もって15分くらいだ。高原から此処まで歩いて二時間もかかったのに比べれば造作もないことだろう。」
「じゃあ、用事も済んだし帰ろうかしら。」
「あ、巨石の近くに小径を見つけたんだ。少しばかし散策してきて良いか?すぐ帰って来るから。」
「山を舐め過ぎよ。私のカバンには非常用の食料も入っているから、二人で行きましょう。どうせカオリは碌なもの持ってきてないんでしょう?前もって登山の予定を伝えたというのに。」
「ああ。長短それぞれのロープと紐止め用の釘と虫除けとピッケルと年輪測定器と昼のパンと。」
「ただの山登りに何を求めてたのよ。とにかく、私も着いていくから。」
私はまた財布から小銭を取り出して地面に置くことにした。平素、他人と面する時間を極限にまで減らすために買い物をするときは大概札束で会計するので小銭が多くなるのだが、この厭世的な行動が功を奏する日が来るとは。財布が膨らむたびにその重さを難詰する母親に喜んで旅の話をすることができそうだ。
二度も迷いかけたが、この習慣だか癖だかのおかげで無事に家まで帰って来れましたと。そんな妄想を余所に彼女が口を開いた。
「この羽虫、よく見たらヘツイバナレじゃない。」
「なんだそれ。珍しいのか。」
「こいつに刺された箇所は水や熱に触れると沁みるの。竈に立っていられないから竃離れ。」
「へえ。」
「まあ虫除けしているから、恐るるに足らないけど。」
「その症状は遅効性なの?」
「いいえ、そんなことは無いはず。」
「なら良かった。」
先程踏み分けたススキの道を辿ると、あっという間に小径の入り口が見えた。その道は斜面を下るようにして続いており、轍どころか人の通った軌跡も無い獣道であったが、周りの景色と較べて自然の織り成す色遣いに僅かな違いが見られたので、昔はそれなりに往来があったのだろう。往来は無くとも、過去に道としての役割は担っていた筈である。
「さあ、行こうか。」
「ええ。」
細道は斜面の壁沿いに走っており、一方には壁、もう一方には崖といった具合で逃亡中の犯罪者が追手の眼を掻い潜るために敢えて通りそうな道であった。私はロープを出し、万一彼女が落ちても助けられるよう自身と彼女を結んだ。壁際で咲いていたオジギソウを突ついて粛々と萎んでいく姿を見て楽しみながら
歩いている内に、道はだんだんと壁に潜り込むようになっていき、気づくと洞窟の中に足を踏み入れていた。私は自身と彼女を結び付けていたロープを外した。轟という音が洞窟内に響いていたので、懐中電灯をつけて辺りを見渡すと、部屋の奥に光に反射する石のようなものが密集して落ちていたのが見えた。好奇心に任せてその一つを手に取ると反射する物体は鏡であると分かった。
「ああ、この前遭難した子供はここで暖を取っていたのか。」
「この前の遭難事件って。父親とはぐれたあの事件?」
「そうだ。」
「何でそうと分かるのかしら。あの事件では子供が見つかるまでの行動は特に報道されていなかったはずよ。」
「いや、子供が興味深いことを言っていた。報道陣には相手にされていなかったが、確かに鏡が沢山の洞窟と言っていたのを聞いた。間違いなくここのことだろう。」
鏡が無造作に積まれた洞窟の奥を注意深く歩いていると鏡の中心に大穴があることに気づいた。光を当てて内部を軽く見てみたものの、深淵まで光は届かない。内壁に光を当てると、一番距離の近い岩壁に楔を打ち込んだ跡があった。私は童心を抑えきれなくなって、近くの岩壁にピッケルの槌の部分で釘を強く打ち付けてロープを括り付け、また地面にも同じように釘を刺して岩壁の釘が外れた時用の保険とした。それから穴の外周に沿って円を描いていた鏡を蹴散らしてロープを通す道を作った。その一部始終を傍観していた彼女が私の作業が終わるのを見計らってようやく口を開いた。
「まさか穴に潜るつもりじゃないでしょうね。」
「ご名答。」
「狂気の沙汰ね。今までよく命が続いたこと。」
「せっかく用意した道具が無駄にならなくて良かった。」
「常識外れ。」
「お互いな。じゃあ、見張りは頼んだ。」
私はそう言い残してロープを闇に向かって投げ、垂直方向に降りて行った。ロープには目盛りがついてあったので、大凡の深さを計測することが出来た。数分間縄を伝って闇の底へと下がっていくと、予想よりも早く足が底に着きロープが余った。底に着いたロープの目盛りを見て穴の深さを逆算すると、大穴は大体10m程度という予想がついた。私は上で待っていた彼女に報告した。
「おーい。聞こえるか。思ったより底は浅かったぞ。大体10mくらい。」
「へえー。」
と彼女が返してきた。その単調な相槌のために彼女が大声を張り上げたと考えると何だか可笑しくなった。耳を澄ますと、水の流れる音がしたので周囲を照らすと底から続くようにして道が出来ていた。水の音もその道の方向から聞こえてきた。
「道があるぞ。きっと地下水脈に繋がってる気がする。」
「確信なのか推測なのかはっきりしてよ。」
私はロープを掴んで2mほど上がり、難なく元の位置まで戻れそうだということを確認すると、彼女に下に降りてくるように言った。
「好奇心を独り占めするわけにも行かないから、降りてきたらどうだ。簡単に登れるから上で待っている必要は無いぞ。」
ドラコグロッケの海蝕洞窟を嬉々として調べていた彼女を思うと、上で待ちぼうけを食らっている現状は非常に退屈だと感じているに違いない。とはいえ、昨日無理やりに彼女を連れだして怪我を負わせてしまったということを考えると、今しがた放った私の言動は反省の欠片も無いという風にも取られかねない。
「昨日の件もあったから、やっぱり今のは帳消しにしてくれ。性懲りもなくまた危険な状況に巻き込むわけにもいかないからな。」
「救助役としてここで待っていたいんだけど、降りたい気もして。でも暗闇で足が竦むの。」
発された声には何か臆病風に吹かれたような調子が伴っていた。
彼女の返事は聞こえなかった。少しして掴んでいたロープが揺れだし、彼女が穴底へ降りてきた。
「本当に来るとは思わなかった。」
「私が立て無くなったら負ぶって穴底を上がるんでしょう?」
「無茶言うなよ。」
「ふん。」
彼女はあながち冗談でもないといった反応であった。
「それにしても真っ暗闇ね。本当にこの先に水脈なんてあるのかしら。」
「きっとある、、はずだ。まあ、とにかく俺を信じてみてくれ。」
「何よそれ。」
これまで常に不信の火を絶やさず生きてきた私の口からこのような言葉が発されたのには、彼女だけでなく当の本人も驚きを隠せなかった。が、私はそのようなことを言い放ってしまった手前、今更撤回するわけにもいかず「じゃあ。」と言って暗がりで一寸先すら見えない道を歩きだした。片足を軸足としてもう片方の足で地面の具合を確認すると、地面は段々と低くなっているらしく角のようなものに足を滑らせかけた。前方正面を照らしていた携帯用のライトを足に向けると、それは階段と分かった。
「階段が続いている。じゃあ何でわざわざ穴なんて掘ったんだ。」
「さあ。」
歩みを進め、次第に階段の間隔が広くなっていった辺りで肌が空気に触れて体が冷えるのを感じた。私は初め、下着に付着していた汗や背中に貼ってあった湿布のせいかと考えていたが、それだと腹が引っ張られているような感覚が付随している理由を説明できたことにはならない。私は歩きながら下着と服をまとめて七分丈のパンツにしまい直そうとすると、誰かが急いで私のシャツの裾を離したのが分かった。私は立ち止まって振り返った。
「おい。服が伸びる。」
「元々ダボついてたじゃない。」
「それもそうか。」
日頃から狭窄で腸の動きが悪くなるのを嫌ってパンツの紐やボタンを閉めない癖があったせいか、またシャツが緩んできた。すると、またも服の裾が引っ張られる感触がした。効果の切れた湿布が空気に触れて息を吹き返し始めた。そのおかげで私の体は少し冷えたがそのまま放置することにした。もはや立ち止まって彼女を窘める気にもならなかったからだ。水の流れる音は次第に大きくなり、僅かずつではあるものの洞窟内も明るくなっていったように感じた。道の両壁には蛍光を放つ石がたちまちに現れだしたので、その明るさを頼りとして電灯を消してみると、緑の光が空に浮かぶようにして見えた。
「これは翠蒼曜じゃないか。」
「綺麗だけど、宝石か何か?」
「国で取れる宝石の中でも一番希少なやつだ。南ベルクーゼからツェールスーデン湖に続くどこかの川の流域で極稀に見つかると聞いていたが、まさかこんなとこにあるとは。しかも塊で。」
「盗むの?」
「人聞きが悪い、ただ採掘するだけだ。入口にも採掘禁止の文字はなかったし。」
「あの一塊をまるまる持ち帰ったらどのぐらいになるの?」
「だいたい4000万モントくらいだろう。とはいっても、加工後の話だ。」
「本当?」
「ああ。全く価値って何なんだろうな。労働から価値が生まれると言うのもいれば、自然物が価値の根源だという輩もいるが、結局よく分からずじまいだ。朝から晩まで満員電車に揺られている労働者の10年分の所得を優に超えるものがそこで取ってくれと言わんばかりに張り付いているぞ。」
「嫌味な言い方ね。まるで労働に両親を殺されたような口ぶり。」
「まあな。」
「え、まさか。本当にごめんなさい、そっちの事情も知らないで。」
「嘘に決まってるじゃないか。母親なら今頃邪魔者が居ないことを喜びながら呑気にポテトチップスでも齧ってるだろう。それに父親も健在だ。」
鞄の空きと相談し、ピッケルで約500万モント分を削り取って自分の鞄に押し込んだ後、彼女のカバンの空いたスペースにも300万モント分を詰めた。
「金の言い争いはこの世で一番醜いものだ。愚か者に成り下がるのだけはご免だ。」
「じゃあどうするのよ、これ。」
彼女は自分の鞄を指さした。
「宝籤に当たったと思って蕩尽するもよし、先行きの見えない未来への貯蓄としてもよし。好きなように使えば良い。」
「ふん。」
重くなった荷物を持って光り増す階段を下りきると、予想通り地下水脈にぶつかった。水が轟という音を立てて目の前を流れている。
「本当に大冒険になっちまったな。」
「ええ。」
「地質研究の時に掘ったのかな。」
「そんな自然を壊すようなことするのかしら。それに地下水脈の大凡の高度が分かっていたら、あんなところに入口は作らないでしょう。」
「確かに。」
「湯気は立っていない。とりあえず水を触ってみましょう。」
そういって彼女は水の表面に手をかざして温度を確認した。
「思ったよりも温い。ここから段々と水が低きに流れていけば、温泉が引けるのも納得ね。」
「いや、南ベルクーゼ一帯は死山だし抑々ここは地下ではない。地下であれば温度が上がるのも頷けるが。」
「じゃあこの水はどうして温いのかしら。」
「さあ。最近火山活動が終わってその余熱がまだ生きているからとかじゃないか。もしくは地下に流れたこの水脈をわざわざ深く掘り出して街ぐるみで温泉街を装っているとか。」
腹の冷えが収まってきた。そして、帰りこそ絶対に彼女を先頭に歩かせて裾を掴ませまいと心内で画策した。
「なるほどね。」
懐中時計を取り出すと既に14時を過ぎていたことが分かったので、膝を曲げてぬるま湯に手を泳がせていた彼女に向かって
「もう14時過ぎだ。帰らなくて良いのか。」
と尋ねると、彼女は空になった麦茶の容器を私から取り上げ、水を掬って一杯に満たした。そして徐に立ち上がって
「そうね。帰りましょう。」
と返した。一杯になって重みを増した容器は案の定私が持つことになった。彼女を先頭にしていよいよ水脈を出ようとした時、一抹の名残惜しさを感じて水脈の方を振り返った。天井に見えるいくつかの空洞はかつて支流が結びついた形跡を記録しているのだろう。水が薄明りの中を静かに流れる様は藪中を器用に這う大蛇を思わせた。日照りが続けばその体躯の細さを蔑まれ、豪雨が降れば畏れられる。それは川の定めであり、せん方無いと言われればそれまでであるが。地に産まれ農に身を捧げて地に費えたであろう日待ち講のおかみ達の先祖はいかにしてこの水脈を捉えていたのだろうか。彼らは一体どんな眼鏡をかけてこの水脈を眺めていたのか。私はその時、頑として口を噤んでいる大蛇から啓示を受けた気がした。
ロープの下がった穴まで来た時、私は彼女を先に地表に上らせることに決めた。
「先に上がっていてくれ、俺もすぐに上がるから。」
「ええ。」
彼女は地下に取り残されるのを嫌って、地表で待つ方を選んだ。私は合宿前に買ってきた未使用の靴下を出して彼女の擦りむいた手のひらを覆うと提案すると、彼女は首を横に振り、手のひらの怪我の無い所だけを器用に使って攀じ登っていった。昨夜、彼女の元気が無いように見えたのは怪我のせいではなかったのか。私も彼女に続いて地表に上がり、釘を外してロープを片付けた。洞窟を出て細路を抜けると、少し斜度の増えた太陽が出迎え、元の山なりと巨石が近くに見えたのでそこで休んで息を整えることにした。
「風が出てきたようね。」
「明日は雨だからな。」
「へえ。」
下方の花園を眺めていると、飛動する煙雲が陽射しを遮って影を作った。私はここぞとばかりに隣の彼女の擦りむいた手を凝視しようとするとしたが、その刹那、突如として吹き上げた温かな飂戻に包まれて気が散ったために、遂に私の本意は叶わなかった。




