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朧湛  作者: 東瑠璃
22/35

鬼灯


 いくつかの温泉を巡った後、やがて進行方向に出発地点が見えだしたことに気づいた私は通話機器越しに僅少な会話を交わし、湖畔沿いの公園で置き去りにした太陽を待つことに決めた。さっそく公園の端に屹立していた欅に自転車を立てかけ、人目の枯れたブランコに腰を据えた。足を浮かせると、ブランコは小刻みに揺れ始め、鉄の軋む音が陰鬱な響きを放った。やがて、私のブランコの立てる物憂げな音が隣にかき消されてすっかり聞こえなくなっていることに気づいて隣を向くと、水島篝が立ち漕ぎをしているのが目に入った。

「楽しいか。」

「末期ガン患者の命の灯が徐々に弱くなっていくような、苦痛で充溢した音を隣で聞かされる身にもなってみなさいよ。」

やけに具体的な比喩であった。

「ああ、済まなかった。」

「それにしても、今日は予想よりもなだらかに事が進んで良かった。日暮れ間近まで一周できないものと思ってたから。」

彼女は前方の湖を眺めながら言った。カットソーの膨らんだ袖先に風を孕ませながら。しばらくの間、その躍動感のある光景を前に恍惚としていると、昨日の子供らが公園に入ってきて奇異な目で此方を見つめたが、やがて私と分かると走って近寄ってきた。

「兄ちゃん、何してるんだ?」

「見ればわかるだろう、何もしていない。」

隣で立ち漕ぎを続けていた水島篝が少し笑いを押し殺したような声を漏らした。子供の一人がその声に反応して彼女の方を向いた。そして数秒間口を開けて、打たれた釘のように微動だに顔を動かさなかった。恐らく変わり者の私の連れ立っていたもう一人の変わり者が予想に反して花顔柳腰であったため、呆気に取られていたのであろう。例えサングラスをかけていて、目元が良く見えなかったにしても。

「今日また公共センターに行くんだろう?」

私は気付けがわりに問いかけた。子供はやおらに視線を私に移して、

「もちろん。」

とだけ返した。ふと別の子供を見ると、そのうちの一人が球を抱えていて、その少年の背後には年端のいかない童女が隠れるようにしてくっついているのが分かった。私はかの童女がもうじき邪険に扱われることが予想でき、何とも言えない気持ちになった。

「兄ちゃん、サッカーやらない?」

走り寄ってきた少年が私に労を強いてきた。子供というものは全く持って無邪気なのか邪気に満ち溢れているのか分かったものではない。

「無理だな。夜のプケモン勝負に備えて力を溜めているところだ。あれは玉遊びとは違って生半可な気持ちでやって良いものではないからな。」

「変なの。じゃあまた後で。」

隣の彼女が遂に堪えきれず失笑した。少年がブランコから待機していた群れへ戻るとすぐに、彼らは入口と出口付近に立ち並んでいた木々からお誂え向きの木を二本ずつ選び取って、自前のチョークで線を結んだ。そして妹と思しき童女に砂場で独りで遊んでいるように言い聞かせ、球遊びを始めた。童女は覚束ない足取りで砂場へと向かっていった。

「何だか可哀想ね。」

声の方を向くと隣のブランコは既に静止しており、彼女は足裏を地面に着けて鉄鎖を軽く握っていた。私は視線を彼女と同じ方向に向け

「隙だらけだな。」と返すと

「ちょっと待ってて、今通報するから。」

と彼女は荷袋から幻像機を取り出そうとした。

「もちろん冗談だ。」

「嘘ね。」

「頼む。人生の夏休みが終わるまでの残り三年だけ、何とか見逃してくれないか。その後は奴隷になろうが収監されようがどっちも同じようなものだから。」

「ふん。」

彼女は私に冗談を吹っ掛け返した割に、私の精一杯の懇願には食いつかず、そそくさと砂場の方へ歩いて行った。砂をすぐに靴から取り除けるように靴ひもを緩めてから、後れを取るような形で彼女のいる砂場に向かうと、童女がどこかで覚えたであろう唄を歌いながら砂を堆く積もらせて山を作っているのが分かった。私は静かに彼女に近づいて、何故童女に声をかけないのか問うたところ、彼女は人差し指をその華奢な口の前に立てて「静かに」とだけ答えたので、私も耳を澄ませて童女の動向を窺った。

「えっさよいさ。えっさよいさ。うしとらたつみのいちだいじ。みなかたさんのおおくりだ。うんとよいふねおねがいだー。むらさきばらまでおねがいだー。えっさほいさ。えっさほいさ。うしとらたつみのいちだいじ。みかづちさんのおむかえだ。うんとよいふねおねがいだー。うるわしばらまでおねがいだー。」

童謡によくありがちな何か重要なことを隠していそうな歌詞であった。歌詞から思索を巡らせて少しでも意味をくみ取ろうとすると、ちょうど2フレーズ目が終わったところで童女は歌い止め、今度は教育番組で良く流れている歌を歌いだした。彼女が慌てた調子で口を開いた。

「こんにちは。」

「こんにちは。」

「今歌ってたお歌、私、じゃなくてお姉さんにもう一回歌ってくれないかなあ。」

彼女は膝とサングラスを折りたたんで童女に目線を合わせながら言った。私はその情景を見て、表情一つ変えることなく至って平静であるかのように装っていたが、彼女があれだけ口角を上げて下手な作り笑いをしているのを今まで見たことが無かったので、緊迫した状況でなかったら確実に抱腹絶倒していたに違いないと心内で思った。

「うん、わかった。ぴーまんにんじんとまと。」

「違う。そっちじゃない。」

今まで必死に堪えていたものをまとめて噴き出しそうになったが、舌を強く噛んで何とか難局を乗り越えた。童女相手にその鋭い剣幕は見せてはいけない。

「えっさほいさ?」

「そうそう。」

彼女は現像機の録音機能を急いでつけながら返した。保険のために録音せよという視線が私の元に届いたので、私も彼女の仰せ通りに録音を始めた。童女が歌い終わると、飽きもせずまた質問を投げかけた。

「そのお歌、どういう意味か分かる?」

「分からない。」

「誰に教えてもらったの?」

「ともだち。」

うっかり親友の名前を売らなかった辺り、この子は有望な人材になるであろう。

「そのお歌は、今みたいに一人で歌う唄なの?」

「本当は友達と遊ぶときに歌うんだけど、今日は友達がいないから一人で歌ってるの。」

「今あなたと友達になるからお姉さんにも教えて。それで一緒に遊びましょう。ついでにそこのお兄さんも入りたいみたいなんだけど、良いかな。」

突拍子もないことを言い出すものだと思い、少し離れた距離から無表情でその状況を見ていたが、童女が此方を向いたので、私も精一杯引き攣った顔でもって手を振って愛想を撒いた。童女は無邪気な視線を再び彼女に戻し、彼女にその遊びを教えた。

「今みたいなやり方で遊ぶのね。教えてくれてありがとうね。」

「どういたまして。」


 少しして遠くから子供たちの父兄らしき人物が現れ、子供たちを迎えに来た。兄が童女を呼ぶと、童女は我々に別れの言葉を告げ、覚束ない歩きで兄のいる一団へと合流していった。父兄の中に知り合いはいなかったらしく、我々に軽く会釈をして去っていった。

「メンバーの貸し借りは送り迎えという歌詞と符合しているという認識で間違いなさそうね。」

彼女が再び華の散った公園の静けさを紛らわすように呟いた。彼女の両目は既にサングラスに覆われていた。

「そうだな。」

「みかづちさんとみなかたさんって一体誰よ。」

「知る由もない。」

「良い船ってどんな船よ。」

「さあ。」

童謡にしてはやけに木遣り歌のような節を伴っていて、それがかえって解読を難しくさせた。太陽は少し西に傾いていて、突如吹きだした北風が暇の時間を伝えた。

「私たちもそろそろ帰らなきゃまずそうね。」

「そうだな。今から駅に戻ればちょうど4時辺りに解散できるだろう。」

駅に戻って自転車を返した後、彼女の乗るバスが先に来たので「じゃあまた。」と一言、バスに手を振ることも無く歩きだした。


 民宿に着くと、私以外の全員は皆既に帰っていた。座敷で眠りこけている福原を起こさないようにして静かに薄毛の白井に私を除く三人の今後の予定を尋ねた。

「今日は公共センターには行かないのか?」

「皆そのつもりです。家主がさっき平澤の動向を聞きに部屋にやってきたのですが、どうせ行かないだろうと思って、留守だろうと答えてしまいました。当然、行かないですよね?」

「いや、」

彼は飽きもせず公共センターに通おうとする私をまるで酔狂な者もいたものだという目で見てきた。私は意趣返しに彼の薄毛を凝視しながら私に対する無駄な配慮を労った。一種の気まずさから、廊下に出て外の様子を観察していると、ちょうど家主が角から現れた。おそらく料理の準備ができたことを告げに来たのだろう。私は家主に尋ねた。

「公共センターへの送迎は単独でも行っておりますか?」

「ええ。ただ、私は今日皆さんが行かないと思って留守番をしようと思っていたところです。ですが、行きたいのであれば車を出します。」

「助かります。」

「その代わり、昨日とは違って早めの出発になります。少なくとも今から15分後くらい。」

「ええ、それで結構です。お気遣い感謝いたします。」

「では、今から夕飯代わりのおにぎりを用意しますので少し待っていてください。」

「了解しました。」

荷物を纏めた後、外に出て時間を潰していると黄昏の夏空の端に満月が出ているのが見えた。本当に二日連続で満月が吊り下げられており、その光景は甚だ奇異に映った。月齢の概念から考えてもそんなことはあり得るはずがないのだが。月はこの前見たのと同じように二色で構成されていた。

「お待たせしました。」

家主が外に出てきて、出来合いのおかずを敷き詰めたお弁当を渡してきた。

「ご親切にありがとうございます。」

「いえいえ。さあ乗ってください。」

家主の口調は優しかったが、心なしか催促されたような気がした。車内はしばらく静寂に包まれたが、やがて信号に捕まると、家主が気まずさを振り払おうと矢継ぎ早に些末な質問を投げかけてきたので、私は非常に煩わしく思ったが、此方も無理を通してもらった手前、単調な返答は避けて愛想の良いようにふるまった。長らく会話のラリーを楽しんでいるふりをしていると、家主は我々の間にあった壁がすっかり取り払われたと錯覚して珍しく愚痴を吐いた。

「お客さんのような学生は珍しい。調査という名目で私の民宿に泊まっていただくことが多々あるのですが、皆さん一日すると飽きてしまって、民宿から離れようとしないので私も留守番せざるを得なくなるんです。とはいえ、宿を借りておきながら宿泊しないというのも変な話なので、此方も何とも言えないのですが。」

「確かに判然としないところですね。2000モントで泊まれる保険としての仮宿がなんとまあ想定を遥かに越えて綺麗だったというのもあるとは思いますが。と、今のは他の学生の意見で私の意見ではありません。」

「この時期は民宿を休業しようと思っていたのですが、学生さんの心持が少しわかった気がします。確かに何日も夜通しで話すというのは覚悟していたとて辛いだろうと思いますし。」


愚痴を聞いている内にいつの間にかに公共センターの駐車場に着いたので、私は家主に感謝の意を表し、家主の車が見えなくなるまで頭を下げた。それから徐に階段を下り始めた。階段の中心を走っている鉄製だかステンレス製だかの手すりは夕陽に反射して非常に暑苦しく思われたが、いざ触れてみるとかなり冷え冷えとしていて体内の熱気が吸い取られていくような感覚に支配された。

 公共センターの入口を抜けると三峰教授が誰かと喋っているのが見えたので、今日の参加者がおそらく私と水島篝の二人のみになるであろうことを伝えに教授の方へと向かった。

「三峰教授お久しぶりです。」

「約12時間ぶりにカオルンの顔を見たよ。」

三峰教授と相対して会話をしていた古希間近という風貌の老人が私の登場を機に身を引こうとしたので、

厄介者に思われないように慌てて根回しを計った。

「用事はすぐ済みますので。間を割るように入り込んでしまい申し訳ありません。」

老人は私の顔を見るなり一瞬はっとしたような表情をしたので、私は疲れで鼻毛が姿を現したのではないかと思い、鼻をひくつかせて空気を吸い込んだ。僅かの静謐が場を席捲した後、三峰教授が口を開いた。

「この方は世黒さん、一昨日泊まった旅館のグループの会長さんね。」

「そうだったのですか。それは大変な失礼を働きました。」

「いえいえ。どうも初めまして、世黒です。私のことは構いませんで、どうぞ躊躇わずその用事をお済ませになってください。」

「では、お言葉に甘えてさっそく。男子組で今日ここに来ているのは私だけです。女子組に関しては教授が同伴していたと記憶していますから言わずもがなですが。」

「カオルンが来るとは珍しいこともあるもんだねえ。女子組からは私と篝ちゃんだけだよ。だいぶ前に来たんだけど、入り口を抜けるや否やシャワーを浴びたいっていって二階に上がったっきり見てないねえ。」

「そうですか。では、」

別れの挨拶を切り出そうとしたところで、世黒さんが私の離脱を遮るように問うた。

「GIWの学生さんなんですよね?」

「ええ。」

「私も昔、その大学に通っていたのですよ。修士課程だった時に戦争が激化してやむを得ず退学となってしまいましたが。だから私の学歴欄は博士課程前期中退なんですよ。いつかは修士を取りたいと思って生きてきましたが、気づけばもうこんな年になってしまいました。今では覚えることよりも忘れることの方が多くて。」

「はぁ。」

「お節介ながら、学生さんには後悔の無いようにしっかりと心行くまで学業に専念してもらいたい。」

「大学をサボりがちな私には非常に重たい言葉ですが、肝に銘じておきます。」

「ちなみに学部はどこなのですか?」

三峰教授はこれまで一体何を話していたのか気になった。

「法学部です。」

「とても優秀なんですね、私は文学部のマイナー学科でしたから。あ、今は文学部は無いんでしたね。」

「ええ。哲学部に統合されたと聞いています。」

その時丁度、入口横の階段から水島篝が降りてきて、我々の方に歩いてくるのが見えた。相変わらずサングラスをかけている。教授と世黒さんは階段とは反対の方向に立っていたため、彼女の姿を見ているのは私だけであった。彼女は二人の背後を越して私の隣に落ち着いた。

「この方、一昨日泊まった旅館グループの会長の世黒さん。」

私は彼女に今しがた知りあった老人を紹介した。

「初めまして、水島篝です。」

老人は平然としたままで

「どうも、世黒です。」とだけ返した。普通の人間なら彼女の容姿をまじまじと見るのであるが、すっかり老いさらばえて欲が減退したのであろうか。その後、数秒間だけ沈黙が流れたのを好機と捉えた私は

「では、これ以上会話を邪魔するわけにもいかないので私はこの辺で失礼します。」と言い放って、両者の返答も待たずに場を去った。それから、私は直接大広間には行かず昨日子供と戯れた廊下のそばにあった二人用の腰掛に座った。ふと天見上げると羽虫が蛍光灯の周りを旋回しているのが見えた。私は退屈潰しにその非合理な軌跡を追い始めた。が、なかなか集中力が続かず、疲れからかだんだんと自分の頭の重さに耐え切れなくなり、虫の挙動などそっちのけで光を避けるようにして俯いた。視界の隅で見えていた隣の空いたスペースが埋まった。

「5分ぶり。」

「5分ぶりね。これからどうするの?」

「子供らと勝負をするんだ。」

「その後のことよ。」

「下の話でも聞きに行って時間を潰すさ。」

「あっそ。」

「あ、ちょっと気になっていたことがあったんだ。」

「何よ。」

「後で外に出てみないか?」

「ええ。」

彼女は少し躊躇いながら、しかしその言葉を待っていたかのような反応を見せた。廊下の窓から見た外景は黒に覆われていて、電燈の仄暗い光で昨日に引き続き霧が辺りを蠢いているのが分かった。夜のとばりが降りるのと同時に大広間のざわめきが廊下にも伝播し、若々しい声がけたたましく反響して私の眠気を弾き飛ばした。


 歓喜と狂乱の声とともに白熱の限りを尽くした勝負が終わってお互いの実力を認める握手を交わした後、余韻に浸る少年たちに別れを告げて颯爽と二階の会議室奥の小部屋に身を潜めた。二部屋共々がらんとしていて、雑然と床に置かれていたままの枕やブランケットが時の流れない空間を演出していた。子供達から貰ったお菓子を卓の上に開けて一心に貪っていると、扉を叩く音がしたので「はい。」と一言、向こうの声を確認して扉を開けた。

「毎回狙いすましたみたいに時機良く現れるな。」

「大広間まで響いていた子供たちの声が急に勢いを失ったから。考えたらすぐ分かるでしょう?」

「そうか。」

寝落ち防止のためにと設定しておいたタイマーが鳴って、今日があと2時間で終わるということを知らせてきた。

「じゃあ、散策するか。」

「やっぱり止めにしない?夜も更けたことだし。」

急に弱気になった。彼女もまた迷信の信奉者になったのだろうか。兎にも角にも先と明らかに違う態度を取る彼女を前に私は余計な詮索を加えることなく、「そうか。じゃあ一人で行ってくる。」と呟いて階段を降りた。一人で廊下を歩いていると今しがた降りた階段から足音がした。柱に身を隠して様子を窺うと水島篝が私を追って来たらしく廊下を右往左往しているので、私は柱から身を出して言った。

「やっぱり考えは変わってなかったじゃないか。」

「ただ心配になっただけ。」

「心配か。何か吹き込まれでもしたのか?」

「いえ、特に何にも。」

「少し警戒したじゃないか。さあ、霧の中の鬼とやらを見に行こう。」

 玄関を出て、白布の吊り下げられている軒下の隅で懐中電灯の点灯具合を確かめた。入口の光はほとんど届かず、また濃霧のために視界が塞がれ辛うじて近くの彼女の姿が薄っすら見える程度であった。

「これは予想以上だな。」

私はそういって、懐中電灯をのぞき込んで点滅させた後、この状況でもなお頑なにサングラスを外そうとしない彼女の眼に懐中電灯を照らした。

「眩し、、くない。」

「だろうよ。」

「ガキね。」

公共センターの壁伝いに電灯を照らしながら、深い霧の中を歩いていく。

「ちゃんと着いてきているか。」

「ええ。」

いつにも増して返事が鈍い。私は歩く速度を緩め、彼女のことを考えて予定していた一周を諦めて半周で切り上げることに決めた。しばらく壁に沿って歩いている内に、建物の壁が引っ込んだり出っ張ったりして方向感覚を失いそうになったので、私はとうとう建物の奥にある湖に面した崖に行くこともあきらめ、大人しく来た道を引き返そうとすると、公共センターと繋がっていた奥の建物から巨石がじりじりと動くような轟音が聞こえてきて思わず身構えた。

「何の音だ。」

「飛行機?」

「いや、明らかにこの建物から響いてきただろう。」

「地面が揺れている感覚はないから地震ではなさそうね。」

「ああ。」

私は何か嫌な予感がして、彼女を連れて早く帰ろうと思い立った。後ろを振り向いて彼女にその意を告げていると、視界の隅にあった森の奥に寡少な灯りを認めた。灯りは迅速に森の中を駆け抜けているようであった。視界も覚束ないほどの濃霧であるにも関わらず、縦走する光は煌々として眩しい。挙動から人ではないことは確かであった。

「何かまずいことになってきた。」

私は小声で彼女に囁いた後、来た道を小走りで駆け抜けた。彼女を壁側にして、ちょうど併走するような形で光の動向を窺うと、向こうはまだ此方に気づいてはいないようで、只管に同じ道をかなりの速度で行ったり来たりしていた。あの異様な灯りに気を取られ、彼女の足元を照らし忘れていたせいか、彼女が建物から出ていた排水管だか配水管だかに足を取られて勢いよく転んだ。

「痛い。」

私は彼女が地面に転ぶ音を聞くやいなや両足の裏を地面に強く押し付けて、加速の乗った疾風怒濤を封殺し、彼女の転んだ方までかけ戻って懐中電灯を照らした。

「大丈夫か。」

屈んでいる彼女の足元を照らすと、デニムの膝の部分が土で汚れていた。他にどこか怪我したところはないかと体躯を順々に照らしていくうちに、操作を誤って思わず顔を照らしてしまった。

「何だその眼の色は。」

彼女の眼は真紅の輝きを放っていた。

「何でもない。」

彼女は力なく言い放って、衝撃で取れた白布の被りを手に抱え、膝を地につけて行方知れずとなったサングラスを探していた。私は電灯の光を跳ね返すような、見たこともない瞳の色に少しばかし狼狽えていたが、今が正に火急の事態の最中であることをすぐに思い出した。そして、異様な光の軌跡を追うと先よりも少し此方側に寄ってきているのに気が付いた。我に返って視線を元に戻すと、不思議なことに霧に色がついて流れていく方向が明瞭に知覚できるようになっていた。霧は金色の鱗粉を纏って、まるで鰯の魚群が織り成す趨向の定かなるいぶし銀の光耀のような様相を呈していた。私は超現実的な現象には慣れていた方であったが、珍しく心底で怯えて縮こまる勇猛が獅子身中の虫となっているのをつぶさに直覚すると、おろおろとして膝を引きずっている彼女に二択を迫った。

「痛めた足を無駄に動かすな。俺が抱えるから背中に乗るか姫になるか好きな方を選べ。」

彼女は何も言わず私の左腕に身を預けたので、私は携えていた懐中電灯を口で噛み、右腕で彼女の膝裏を持ち上げて闇の中を一目散に駆け抜けた。彼女の体重はその華奢な見た目に欺かず非常に軽かった。彼女の長身とのアンバランスな兼ね合いを考えると、図らずもその不健康な生活が偲ばれた。噛んでいた懐中電灯の周りに涎が溜まってきた。何とか舌下の両端の空隙を吸い込んで喉奥に流した。すると、間近で私の喉仏の躍動を観察していた彼女が、振動の為すがままにそのボブカットと肩まで下がったカットソーの襟についたフリンジを翻しながら言った。

「カオリ、結構力持ちなのね。」

「やかましい。」

懐中電灯を噛んでいるために思うように喋れず、発された音は根こそぎ抑揚を奪われた。彼女は私の返事を聞くと、膨らんだ髪と首の合間の陰翳に隠すようにして表情を晦ませたが、暗闇と濃霧の中であったとて、僅かな綻びは心眼で見ることが出来た。真紅の眼は依然として私の横顔を見つめている。

 やっとの思いで入口に辿り着き、彼女を下ろすと緊張の糸が解れたのか遅れてきた腰痛が私を襲った。私は悟られまいと背に手を当てるようなことはせず、背筋を伸ばし彼女と肩を組んで二階に上がり、二人共々小部屋のソファーにもたれこんだ。

「今、下で傷薬を貰ってくるからそこで大人しく待っていてくれ。」

「ええ。」

大広間に降りて、酒盛りをしている饒舌な老婆達に薬の在り処を尋ねた。

「すみません、傷薬を探しているのですが。」

「あら、随分可愛い顔の若者が来たよう。」

前日に白井が老婆から顔を高く評価されたことを自虐ながらも自慢げに語っていたのを思い出し、彼が社交辞令を真に受けてぬか喜びしていたと知って少し面白くなったが、目下起きている喫緊の事態に比べれば遥かにくだらないことと邪念を噛み殺し、

「後で顔を覗かせますから、どうかお願いします。」と言うと、老婆の一座に居た世話役の素面の女が事の深刻さを感じ取り、私を薬のある部屋へと案内した。私は薬箱を受け取った後、簡潔に礼を告げて急いで二階へ上がった。小部屋に入ると彼女が擦りむいた手を見ながらじっと座っていた。

「怪我をしたのは手だけか?足に傷は無いか?」

「いや、手だけ。そんなに深刻な怪我は負ってない。」

「なら良かった。それと、今日はすまなかった。」

私は彼女の手を消毒した後、患部の上から絆創膏を貼り付けた。彼女は終始無言で私の処置を見届けた。

「明日の山登りは後ろ向きに考えた方がよさそうだな。」

「何とか今日中に直す。」

「無茶だけはするなよ。」

「ええ。」

「それじゃ、下で老婆の漫談を聞きに行ってくるから。しばらくしたら戻ってくる。」

私はそう言って、扉を開けて小部屋を出るやいなや両腕を折り曲げて腰に手を当てた。流石に無理が祟ったらしく、医療箱から予め抜き取っていた湿布を貼ろうとすると、

「やっぱり無理してたのね。」

と扉から顔を覗かせて此方の様子を見ていた彼女が心配そうに言った。

「いつの間に。ああ、空気を運んでいたようなものなのにな。」

「空気と言っても50は越えてる。」

「その長身なら当然だろう。それに50越えと言っても限りなく50.0に近い方のだろう。」

「良いからその湿布貸して。」

「助けを借りるまでもない。」

「良いから。手を抑えていた辺りに貼ればいいのね。」

「ああ。」

家族以外で人から助けてもらった経験は甚だ寡少であって指で数えられる程であったが、その度に孤独の頂から常々見下ろしていた共助や協力の温かな風景が眼前に広がってくるのであった。私は彼女に礼を告げると、少し顔を上に向けてゆっくりと会議室を出た。

 大広間は相変わらず騒々しかった。酒を開ける人が増えたからなのだろうか。私は喧騒をかき分けて、奥の方に場所を移した老婆達を見つけると、先ほど同様に単騎で突入していった。

「あらまた来たの。あんたみたいな好青年は大歓迎よ、さあさ寄ってって。」

「ではお言葉に甘えて。」

若いと好青年が等式で結ばれているのだろう。

「貴方達ゲシーストワールから来たんでしょう?地酒あるから今注ぐけえ。」

「飲みたいのはやまやまですが私は下戸なので結構です。」

勿論嘘である。それにしても、地域文化ゼミのメンバーのうち半数は未成年であった気がするが、教授はそのことを伝えていないのであろうか。

「そんなことは言わず、一杯だけ。」

「では、一杯だけ。」

しきりに酒を勧めてくるのでとうとう折れて一杯注がれてしまった。

「で、何の話をしていたのでしょうか。」

「旦那のあれが現役かどうかださ。おらなんてこの前、これが人生最後だ思って旦那を誘ったんけど、何時間かけても駄目だったから二人して裸で眠って見事に風邪を引いたがね。」

「それは災難でしたね。」

「あんたのはまだまだこれからでしょうが。」

ほぼ初対面の相手に対して無礼を働くにも程があるだろうと思ったが、泥酔した老人に現代の価値観や権利意識をわざわざ持ち出すのはナンセンスと判断し黙ることにした。それに、こうした特別な行事というのは日々溜まった鬱憤を晴らすための装置としても機能しているのであろう。私のくだらない権利意識で彼女らの興を醒ますわけにはいかない。しかしながら、この慣習は単なる社会的統合の機能を果たすもの

以上の何かがあるに違いない。事実、我々は先程命からがらに超現実的な何かから逃げ延びてきたのだから。

「ところで、そんな不全症候群の旦那様とはいつどこで縁が結ばれたのですか?」

「面白いこと言うね。ちょうど60年前ここでさね。夜這いに来たのにえらく気の弱い男がいたから、玉蹴ってからかったんだ。そしたら、昔からおらのことが好きだったみてえでこんな田舎出て行かないかって言うんだ。そんでおらが嫌だって言ったら、じゃあ田舎は出て行かなくて構ねえから結婚だけしてくれって。」

「凄い出会い方ですね。その時おいくつだったのですか?」

「おらが14で、向こうが16。」

「よく承諾しましたね。」

「そりゃ今と違って10代で結婚するのが当たり前だったからさね。」

「この日待ち講には夜這いがあったんですか?そして、田舎を出なかったということは結婚した後も参加されてたということですか?」

「いんや、そのときが最後だったさね。ちょうど製糸業の流れが来て、他所からやってきた糸織娘がうちらの慣習を野蛮つって笑うから慌てて辞めたさ。でもおらの母なんか、日待ち講の日になると喜んで家を出ていったこたぁよく覚えとる。」

「なるほど。」

母親が喜んで出ていったとは不思議な話であるが、年端の行かない毛の生えたばかりの少年の筆おろしをする役割があったと考えれば納得が行かないでもない。

「もしあんたみたいなんが夜這いに来たら絶対に拒んだりしないさね。」

「拒否することもできたのですか?」

「そらそうさ。」

意外な返事であった。てっきり女側に拒否権が無いものとばかり思っていたので泡を食った。もし、現代の価値基準のもとになったパルシアを始めとした西側社会の婚前交渉のタブー倫理が流入したら、一発でその習慣は廃れたであろう。

 老婆達と長々と喋っている内に、あっという間に日付が変わって深夜2時を過ぎた。私は翌日の登山に備えて惜しみながらも別れを告げることにした。老婆たちは知己を得た証に未開封の小瓶の地酒を私に渡してきた。

「それじゃ、私はこれで。」

「おう、勉強頑張ってくれっけな。」


 





 
































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