adolescent
湖岸を取り巻くように敷かれた自転車専有道路を駆けている。路面には赤茶色の舗装が敷かれており、リズミカルに減速を慫慂してきたが、ギアを上げていたのでペダルの重みは消えず、減速用の段差を踏む度に車体は飛び跳ねて加速し続けた。風を浴びて帆のようになったシャツが萎むまで、しばらく私は波紋を断つ葦が織り成す幽邃と、鉄塔の連なる山々を眺めていた。鏡のような湖を遊覧船が行き交う。一つは昨日か一昨日に乗った白鳥の船だろうか。翼の辺りが薄汚れていて、その部分だけ照り返しが弱くなっていた。15分くらい経って、突如としてだいぶ飛ばしてしまったなという反省の念が芽生え始めたので、置いてきぼりを食らっているであろう彼女を見ようと後ろを向くと、彼女は澄ました様子ですぐ真後ろを着いてきていた。
「何故そんなに早く走れる。」
自転車を借りる際に追加料金を払って買った使い捨ての通話機器を通して彼女に問いかけると、彼女は息一つだに切らさず答えた。
「自動走行機能が稼働しているから。説明を聞き流してたからとうに知っているものだと。」
「どうやってつけるのかご教授願いたい。」
「左のハンドルに備わっている回転式のダイヤルを2に回して左ペダルを力強く踏むの。」
言われるがままに一連の動作を行うと、ペダルを踏まずとも一人でに自転車が進み出した。
「お、これは凄い。」
「人の話はしっかり聞くことね。」
「はい。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。」
自転車のハイテクな機能に感心していたせいか、いつの間にかに桜並木に入っていることに気づかず、葉桜の虫食いに怯え始めた時はもうすでに出口まで残すところ僅かであった。虫の落とした糞を見ずに済んだことは幸せであった。熱風が背中に湧き出た汗を押し戻していった。桜並木を抜けると、湖畔沿いに間欠泉センターと書かれた施設の案内板が見えたので、意味もなく寄ってみることにした。左手で施設を指さし、後ろを着いてきている彼女に私の意思を送った。とりあえず敷地内に入ったものの一向に自転車用の駐輪場が見当たらなかったので、近くのフェンスに立てかけて置いた。建物に入ってみると、それなりに奥行きのある建物と分かり、正面を突き進むと窓越しに間欠泉が見えた。傍にあった案内板から、どうやら15分後に間欠泉が放出されるということが読み取れたので、館内をあてもなく彷徨って時間を殺すことにした。二階の壁には、映画の撮影で湖を訪れたであろう俳優や映画監督のサインが所狭しと飾られており、三階に上がるとツェールスーデンの産業発展の歴史が一望できた。
「湯治場から製糸業へと、製糸業から時計やオルゴールといった機械工芸か。前後に脈絡が無さ過ぎて訳が分からん。」
「そうね。」
期待通りの答えだった。が、彼女はそのそっけない同意だけでは会話を終わらせまいと言わんばかりに続けた。
「でも少しは分かる気がする。一早く製糸業に注目したこの地域、という文章からは紡績機やエネルギーの動力の供給源としてこの湖が都合がよかったってことじゃない。それでもって、その必然的な機械への親しみが機械工芸産業に繋がったんじゃないかしら。」
「まるで模範解答だな。」
私はこの時ようやく、どこかで認めがたく思っていた彼女の頭の良さに敬服した。私が今まで彼女を突き放さず、また何も咎めずにいたのは単に性的な魅力に惹かれていたからではなく、むしろその明晰な頭脳と遁世した老人が山奥で密かに隠し持っているような冷静沈着な態度にあるのだと改めて気づかされた。彼女は私の負け惜しみのような返答に対して沈黙を決め込み、時計を見て呟いた。
「もう放出まで後3分切ってる。」
「急いで外に行こう。」
外に出ると、間欠泉の前には人だかりが出来ていた。人だかりを避けるように間欠泉を横に陣取ると、まもなくして職員の掛け声に合わせて勢いよく熱湯が吹き上がった。響ける歓声を余所に、我々は終始表情を一つ動かさず眺めた。間欠泉の勢いが弱くなったところで彼女が一言発した。
「しなたり。」
私は彼女から発せられた意外な言葉に思わず驚嘆し、これまでで築き上げた薄い関係性を壊さんとするように言い放った。
「見たことあるのか?しなたり。」
「ない、わけじゃない。」
「数多の男を誑かしてきただけあるな。」
少しの沈黙の後、彼女は答えた。
「結果的にはそうかもしれない。」
間欠泉が枯れて、人だかりが四方に散って行く。私は過去の男のように現在進行形で誑かされているのではないかという思いが生じ、あえて自制を利かさずに追及した。
「俺はご免だ。」
「何が。」
「女狐に誑かされるなんて。」
「誰が女狐よ。」
意外な答えが返ってきた。彼女は私が変な誤解をしていることを察知して間髪を入れずに続けた。
「誑かしたというのは部分的にはあってる。前にも言った通り、私は昔から女の集団に居ると必ず標的にされたから、男に混ざって遊ばざるを得なかったの。そんでもって紅一点ともなれば、取り合いが起きるのは必然でしょう?私はただ一緒に野球なりサッカーをして遊びたかっただけなのに。ちょうど昨日、カオリが子供に混ざって遊んでいたように。私のせいで関係性が崩れるのが嫌で、しばらく男用の服を着て性同一性障害を騙った時もあったのよ。男の味なんか知る由もない。」
「なんかすまなかったな。」
「私が余計なことを言わなければ良かったの。それと、しなたりはネット上を泳いでいた時に掲示板で間違えて悪意のあるリンクを踏んでつい見てしまっただけ。どうしてそんなこと口走ってしまったのかしら。カオリの悪癖が私にも移ったのね。それにしても、例え私が女狐であっても、カオリは態度を変えないものと思ったのだけど。」
「遠ざけて無関心でいるにはもう手遅れ、迂闊にも近づき過ぎた。それに、こんだけ行動を共にしておいて、罠に嵌められたと知ったら怒るも当然だろう。」
「そういえば知り合う前、私とすれ違うたびに遠ざけようとしてたものね。あれは考えあってのことだったのね。」
私は咳払いをして場を濁し、駐輪場へ歩きだした。
「私とてやっと見つけた一人の同志を手放したくはない。」
最後に彼女が何か囁いた気がするが、とてもか細い声だったので聴きとれなかった。
自転車を漕ぎ始めたところで、先ほどの若さの限りを尽くした青い会話を臆面もなく大真面目に語らっていたという事実を思い返して頬が赤くなった。山紫水明を望んで気を紛らわそうと努めた。と、視界の隅に見慣れたゆとりのある黒緑のカットソーが見えた。状況を判断するに、後ろから彼女が距離を詰めていると分かったが、私は横を向くわけにはいかず頑なに前を向いたまま自転車を漕いだ。いよいよ彼女の三日月のように麗しい横顔がくっきり見えるようになると、彼女が此方を向いて話しかけてきた。
「ねえ。ねえってば。」
「何か用か。」
私は前を向きながら返事をした。
「通話機器の接続切ったままでしょう。さっきから何回も話しかけているのに。」
「ああ、忘れてた。」
「やっぱり私も日待ち講に行くことにしたの。」
「そうか。それじゃ会議室も小部屋も専有できないな。」
「残念ね。」
彼女はそう言って、また速度を緩めて私の後ろについた。目分量にしておよそ3㎞先の地点に一昨日訪れた美術館が見え、その少し先の小高い所に建物が見えた。方角からして、その建物が昨日寝泊まった公共センターであることは間違いなかった。美術館を越えると自転車専用道は湖畔から離れ、山あいを登るような道になった。それは今まで並行していた国道も同じであった。しばらく道なりに進んでいくと、昨日の駐車場が見えた。初めて来たときは特に何も思わなかったが、だいぶ変な土地に公共センターを建てたものだなとその不便な立地を訝った。駐車場を境に坂を下って小高くなった区間を抜けると再び湖畔沿いを走るような平坦な道に戻った。通り沿いには銭湯や温泉が多く、温泉が犇めく湖周辺で一番活気のある温泉街らしかった。私は手始めに老舗の風格を醸し出していた煙突の立派な温泉に狙いを定め、駐輪場に自転車を停めた。
「なかなか味のありそうな温泉だろう。」
「そうね。」
彼女はおそらくタオルとアメニティと着替えの詰まっているであろう荷袋を背負い直した。それから券売機で入浴券を買って暖簾の前で別れた。服を脱いで風呂の引き戸を開けるなり、年季の入った檜の匂いが飛び込んできて鼻腔をついた。せっかくの温泉とはいえ、夏の陽射しを浴びっぱなしであったので湯に入っていた時間は5分も無かった。が、その代わりとして、水風呂には長い時間をかけて浸かった。15分程で飽きが来たので風呂を出、休憩場で水島篝を待っていると、隣に座っていた米寿手前の老人が私に興味を抱いて話しかけてきた。
「君、どこから来たの。」
「エストリッヒです。」
「なんだ近いじゃないか。」
「ええ。」
「にしても、こんな時期に来るなんて変わった人もいるもんだね。」
思えば、今日はやけに人が少ない。今までに見た人々はどれも観光客の出で立ちで、明らかに地元の人々ではなかった。平日というせいもあるにはあるだろうが。
「ほう、私は変わっているのですか。」
いつもの挑発的なあおり癖がうっかり出てしまった。が、老人は私の含意を読み取った上で態度を変えることなく返答した。
「鬼が出る日にわざわざ外に出ようとは思わんだろう。」
「では、なぜ、貴方はそんな日に呑気に温泉に通っているのですか?」
「年を重ねるとだんだん図太くなるもんだ。でもな、夜は怖いから公民館で皆と一緒にいるつもりだ。」
「つかぬことをお聞きしますが、なぜ鬼を恐れるのですか?そしてもう一つ、日待ち講行事はいつ生まれたのですか?」
「そりゃ鬼が魂を攫ってしまうからに決まってるじゃないか。」
何かが引っ掛かった。魂を攫うということは、肉体には危害を加えられないのだろうか。
「鬼の金棒で撲殺されるとか食われる、ではなくて?」
「そうだ。それと、日待ち講は俺が洟垂れのころからあったさ。北西と南西の年のそれも、右見夏至と左見冬至の満月の日になると皆で一緒に籠るんだ。今日もそうするさ。」
「他の年にはそういう習慣は無いのですか?」
「昔はな、その他の年はきちんと冬至夏至通りに籠っていたなあ。いつからやらなくなったんだろうなあ。」
「では、今日も公民館に行くのですか?満月の時に籠ると言いましたが、満月の日は普通一日だけですよね、小望月も満月と見做すのですか?」
「いや。この地域はな、特定の年になると満月の日が二回も三回も続くんだわ。今日太陽が落ちる直前に顔をひょっこり見せる月をあんたも見てみなさいな。安全な場所で。」
そんな馬鹿な話があるか、とツッコミを入れたくなったが老人の威厳を軽んじるわけには行かないと黙っておいた。そして、私はかのように続けた。
「分かりました。ということは今日も霧が出るのですか?」
「なんだ、あんた日帰り客じゃなかったのか。」
老人はたった一文字の助詞を見逃さなった。私は今の今まで、一連の雑談を耄碌した孤独な老人の戯言と捉えて話半分に聞いていたが、直ちに考えを改めた。
「いえいえ。一昨日から此処にいます。」
「ああ、そりゃ運が悪かったね。夜は出歩かない方が良い。といっても、近頃は地元の生まれであろうと言いつけを守らない若者も増えてきたが。まあ、あいつらもあの霧に包まれたら恐れをなしてすぐ家に戻るだろう。」
「そうですか。」
老人が忠告を終えると、ちょうど彼女が暖簾から出てきて私を探しているのが見えた。敢えて気付かぬふりを装い、畳の上で両手を地に伸ばして背筋を反らせていると、彼女が私を見つけて畳を上がった。
「何分待ったの。」
「さあ、今出たところ。」
「嘘。」
目線を彼女の方に移すと、彼女のカットソーが少し肌蹴けて下に着ていたキャミソールが控えめにも露わになっているのに気づき、咄嗟に目を逸らした。胸元には湯で汗ばんで出たであろう水滴がついており、それがなんとも官能的で妖艶の趣を漂わせ、目を逸らすだけではその色香から逃げられず、また瞑ったとて眼底に焼き付いて離れなかった。彼女は終始私の反応を見ていたが、やにわに服を直そうとはせず徐にカットソーを引き上げた。少しして、一部始終を見届けたであろう隣の老人が口を挟んだ。
「随分と別嬪な待ち人じゃないか。お似合いだよう。」
逐一私と彼女の関係について釈明するのも面倒に思われたので、「そりゃどうも。」とだけ返しておいた。老人は私の返事を聞くと欠伸を一つして畳を立ち、私を孤独の埋め合わせに利用したことを詫びて颯爽と去っていった。私が老人に一礼するのを見て、事の顛末を知らない彼女も同じ動作をした。そして、頭を上げて言った。
「今の老人はどなた?」
「知らん。孤独の埋め合わせに会話をしかけてきた老人。」
「あっそ。」
その後、その老人を追いかけるようにして我々も外に出たが、老人の姿はどこにも見えなかった。




