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朧湛  作者: 東瑠璃
20/35

顧眄


 会議室の奥には休憩用の小部屋があり、長方形のガラステーブルを挟んで横長のソファーが置かれていた。会議室も椅子がすべて端に寄せられていて、固い床に思い煩うことが無いよう厚めのマットが敷かれ、枕やブランケットの入った袋も見えたので不自由はしなかったであろうが、「年少組」と一緒に雑魚寝をする気は初めから毛頭なかったので小部屋のソファーに私物を置いて縄を張り、子供らと遊んでいた間に流れた汗を洗い流すことなく両腕を組んで横たわった。夕食前に風呂に入ったとはいえ、夏の蒸し暑さを跳ね除けてくれるのはほんの数時間であろう。予想通りとうに効果は消えていたらしく、汗を吸い込んだ首筋が痒くなった。

 目を覚まして懐中時計を見ると針は、どちらもてっぺんの付近を差していた。首を動かさず薄眼を開けて周りを確認すると、向かいのソファーに水島篝が座っているのが見えた。会議室の方から相田と福原の声も聞こえる。私は彼女を驚かそうと勢いよく飛び起きた。私の思惑通り、彼女は柄にもない驚愕の表情を見せた。

「いつから居たんだ。」

「ついさっき来たばかり。キリが良いと思って二階の会議室に上がったら先にいるはずのカオリの姿がどこにもなかったからもしやと思って小部屋の扉を開けたら、カオリが珍しく眠りこけているのが見えたから、これは貴重な光景だなと思ってしばらく様子を見てたの。」

「嘘にしては質が低いな。それと、いつまでそのサングラスかけているんだ。今は真夜中だ、気でも狂ったのか。」

「色弱なの。」

「そうか。だんだんと見慣れてきたせいか笑えなくなってきた。」

彼女の嘘に騙される私ではなかったが、彼女の意思が余りにも強固なのでだんだんと興が醒めてきた。それきり私は揶揄うのを止めて、話を逸らしにかかった。

「んで、老婆との与太話は楽しかったか?」

「いや、全然。あの人たち、口を開けば下の話しかしないの。やれ、ちょうど今のような暑い夏の中、下着を取っ払って田んぼで苗を植えていると、田の精霊がおらの股さ見て喜んでるだの。」

「その老婆紹介してくれ、話をしてみたいから。」

「冗談でしょう?」

「冗談なわけあるか。そんな面白い話を聞いてよくつまらないなんて感想が出てくるもんだよ。」

「男ってバカね。」

あえて受け流した。

「まあ、明日にでも話せれば良いか。今日はもう遅いし体力も気力も残ってない。」

「明日以降は希望制のはずよ。まさか三日目もここに来るつもり?」

「子供と約束しちまったもんで。」

「よほど子供と遊んで楽しかったのね。彼らがカオリに寄りつくのはまだ皮肉を理解できない年だからかしらね。」

「それがそうでもないらしい。」

「まあどうだって良いけど。私も眠くなってきたから寝ることにしようかな。カオリ、見張りしといて。」

「そんな無茶な。」

態と警戒心を解いたようなフリをしているのか私にはその本意が分からなかった。そして寝るときでさえもサングラスを外さないことに対しても。兎に角、密室で二人きりでいるのは社会通念上非常によろしくない。私は福原と相田の声が止むまで待ち、好機が訪れるとここぞとばかりに踵を上げて爪先だけで歩き、小部屋を出た。会議室に入ると相田と福原と金髪の女が床で眠っているのが見えた。私は颯爽と袋から枕とブランケットを引っ張り出し、小部屋と会議室を仕切る壁にもたれこんだ。

 どれほど眠っていたであろうか。目を開けた時既に会議室は暗くなっていた。吊下がった時計に目を凝らすと、辛うじて3時手前だということが分かった。と、小部屋から唸り声が聞こえた。見張りの役割を任された以上、開き直って職務放棄するわけにはいかない。恐る恐る電気のつけっぱなしの小部屋に入ってみると、唸り声の主は雇い主であると分かり、その雇い主はどうやら悪夢に魘されているらしかった。私はリスクを考える暇もなく、背に腹は代えられぬという心持で彼女の服を軽くつかんで揺り起こそうと努めた。その甲斐あって彼女は無事に夢から覚めたが、その様子はとても悪夢に魘されていた人間とは思えないほどにケロッとしており、私の方を向いて「ねえ、何してるの。」と語気を強めて言ってきたので、私も怒り眉ですかさず返答した。

「何してるも何も、唸り声が聞こえてきたから揺り起こしたまでだ。魘されてたんだろう?」

「何のこと?」

「恩知らずな奴め。」

「魘されてた?私が?」

「ああ。」

彼女は自分の服や体を見て何の危害も加えられていないことを確認すると、猜疑心を解いて詫びた。それからこう続けた。

「夢自体は確かに変だった、悪夢ではなかったけど。むしろ縁起の良い方かも。」

「なんだそりゃ。」

「うーん。言葉にするのは難しいんだけど、写真の女と男が峠を越えて女の故郷を訪ねる夢。その途中で朝を迎えて沈む太陽を見てた。心地の良い夢。」

私はあえて「写真の」という言葉に反応しなかったが、覚醒しきれていない彼女に意地悪な質問をぶつけた。

「宵自身はどこからその夢を見ていたんだ。」

少し間があった。変わった質問を解釈するのに時間がかかっているのであろう。

「女の目線からよ。変でしょう?でもしっかりと急峻な峠を歩いてた感覚が残っているの。」

「なるほど。それは変な夢だな。」

疑惑は確信に変わった。それから悟られないように適当に返事をして話題を変えた。

「明日は自由行動日だ。だが、子供との約束を果たさないといけないから登山は明後日に回したい。それでも良いか?」

「ええ。」

「じゃあ、明日は散策がてら湯めぐりでもすることにしよう。」

「ええ。」

「それじゃ。10時半に駅で。」


 次の朝、三峰教授が一時解散を命じたので再び男女に分かれて、それぞれ民宿へと戻ることになった。昨日降りた長い階段を上り、家主の車に乗って民宿に戻った後、待ち合わせの場所に行こうとすると、後ろから私を呼び留める声がした。

「待ってよ平澤。自由行動の約束はどうなったんだ?」

「ああ忘れてた。」

「そこんところ頼むよ。」

「ああ悪いがな、昨日子供と遊んでた時に風邪を移されたみたいで体の調子が悪い。医者にかかりたいから、お前とは少ししか一緒に居てやれん。せっかく羽を伸ばす機会なのに風邪を移してしまったら詫びの言葉も見つからんだろう。」

「分かったよ。今からだから、だいたい10時ぐらいまでか。」

「とりあえず駅の近くにある秘宝館でも行くか。」

「いいね。」

公共バスに乗って駅で降り、人気のない小路に入ると秘宝館が佇んでいるのが見えた。入口で出迎えるようにして置かれた亀の頭が生々しい。奥に入るとやけに色艶の良いトルソーが無造作に立てかけられた部屋などもあり、総じて前衛芸術と遜色ない崇高さを醸し出していた。隣の福原も嬉々として表現の自由の象徴を写真に収めている。私は懐中時計を引っ張り出して10時をとうに過ぎているのを確認すると、ニタニタする余り頬が痙攣したようになっていた福原に別れを告げた。福原は見事私の術中に嵌っており、二つ返事で快諾した。そして福原の今後の行動を把握するために「俺が居なくなってからはどこに行く予定なの?」と聞くと、彼は「映画を見たり、白井でも誘って昨日できなかったシュノーケリングでもするよ。」と答えた。私は改めて別れを告げた。


 駅の改札の待合室の扉を開けると、サングラスをかけた水島篝が居たので手を振って引き寄せた。彼女の荷物はいつもより一回り大きかった。

「まあ許容範囲ね。」

「二分遅れか、すまなかった。」

「さて、湖の散策でもしましょう。手始めにレンタルバイク屋に寄って二人分のバイクを借りようと思うんだけど、それで良いかしら。」

「ああ。」

駅の傍にあったレンタルバイク屋に行くと、観光地価格とやらで足元を見ているのか終日5000モントという張り紙が見えたので、私も彼女も今一つ扉を開ける勇気がなく店の前で躊躇した。

「保険代考えたらこんなもんになるのかな。」

「さあ。」

「一台借りて二人乗りするのは?」

「どっちが前でどっちが後ろよ。」

「それはもちろん…」

私はそういってサングラスの向こうの眼を一瞥した。彼女は私の懇願を跳ね除けてすかさず返した。

「却下。」

「さようか。」

「それにこの灼熱の中、人と密着するなんて御免よ。暑苦しいことこの上ない。」

「じゃあ自転車にでもしようか。」

「賛成。」

「じゃあそうしよう。」

我々は踵を返して近くの自転車屋に入った。終日500モントで借りられる自転車にしてはやけに高性能で、30㎞まで出せる加速器がついていたり自動運転の機能が搭載されていた。これなら坂道の多いこの街も重たいペダルを漕ぐことなしに快走できる。係員の案内を話し半分に流した後、右手の人差し指を前方に掲げたのを合図に、湖の方向へ勢いよく坂を下った。















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