n度目のおつかい
二
収納台の上のメモに15分近く時間を奪われたということを教えてくれたのは、台の左側に浮かんだ丸窓の外側にせわしく張り付きだした無数の銀の雫であった。私は二階の自室の窓を開け放しにしたまま外に出たのを思い出し、雫の後を追いぬかんとする雨脚の靴音に負けぬ勢いで階段を駆け上がった。そして二階の最奥にある自室に飛び込み部屋に一つしかない二重窓を閉め切った。ほっとして椅子に腰掛けようとすると、下の階から母が私を呼んだ。
「カオル、今日はお友達と夕飯食べに行ったの?」
一般的な家庭では何の変哲の無い会話であろうが、我が家、平澤家においてはそうではなかった。母は私の友達のいないのを知っていてあえてこのような嫌味を言う。いくら不肖と雖も、平澤家唯一の息子をもう少し可愛がるべきだ、とそう常々思っている。私は母の嫌味を歯牙にもかけていないように「ふん。」とだけ返し、そろりと階段を下りた。
すっかり遅くなった夕食を食べ終える頃には換気扇の音もニュースの音も消えて、ただ外の水甕に雨粒が跳ね返る音が不定期に響いてくるばかりであった。私の住むエストリッヒ県を含む国の南西の沿岸部では5月の下旬から6月の中旬にかけて雨の日が多くなる。そして夏が近づくので気温も上がる。が、この国は北緯47度~50度の合間に位置しているためか気温は低く、湿度が高い割に快適な雨天ライフを過ごすごとができる。冬は極寒となる北部ではなく、南西部に新首都が置かれた理由の一つはこれによるものではないか。そんなことを考えている内に眠気が襲ってきたので急いで風呂に入り、その後1時少し前に眠りについた。
翌24日はたまの休日である。昨日は朝から晩まで大学に缶詰めだったので、こういった五十日後の休みが身に染みる。銀行ではなく、学業において五十日に当たる言葉が見つからない。この通り二年目に入ってから、週休五日制を適度と感じるようになった。この先私はどんな職に就けるのだろうかという不安は脳裏に浮かぶことはあるも、おそらくどの社会にも適さないだろうという確信によって錘をつけられ、再び脳の海のどこかに沈められるのであった。
寝巻姿のまま居間のソファーで寝転がってぼうっとテレビを見ていると、母が背後から私寝巻を汚物のように摘み、空いていた右手の人差し指を隣の和室の方に向けて
「あっち」と言った。
ソファーの下のほこりを掃除したいという母の意図を即座に読み取った私はのっそりと上体を起こして
「ふん。」とだけ返すと、和室へ移動した。
「昼はスパゲティにしようと思ってたんだけど、さっき見たら麺がなかったのよね。」
私はぱっと目が醒めた。
「じゃあお茶漬けと目玉焼きでいいんじゃない」
「今日はあんたの好きなボンゴレソースにしようと思ってたの」
「それ母さんの好きな味じゃん」
「あ、そうだっけ。ママはボンゴレ食べたいなァ」
「分かった買ってくるよ。久々に天気も良いし、散歩でもしようと思ってたところだから都合がいい。」
そう言い捨てて、そそくさとサンダルを履いた。財布の中身を確認していざ玄関を出しなに、背後から「ついでに卵も買ってきてくれる」という甲高い声が耳に届いた。
旅の供として、蹴った時にあまりカーブのかからなそうな二寸ばかりの石ころを一つ路傍からつまみ出して地面に据えた。ここから商店街までせいぜい500m、この大きさならば途中で行方不明になることはまずないだろう、そう思って石ころを蹴ると、石ころは蹴った方向とは別の方向に勢いよく転がって側溝に落ちていった。不意の別れを惜しみつつ、道なりに歩いていると十字路にぶつかった。気づけばもう200m近くも歩いていたらしい。十字を右へ曲がって少し進むと、国家防衛隊の広告ポスターが目に入った。その広告には屈強そうな男が顔を帽子で隠しながら腕を組む姿が描かれていた。そして下の方に赤字の大きなフォントで入隊者求む、と書いてあり、右下にラゾーンネ共和国の防衛を司るベルグング省の名が付されてあった。パルシア帝政国家か……私は今までの人生で学んできたパルシアについての知識を再整理した。
戦後の混沌を打開するためにパルシア帝政国家の臨時統治が始まったのは去る1959年で、臨時統治を終了しラゾーンネ国の主権回復を認めたのは1968年であった。当時、パルシアはこの国の秩序が形成され、完全に復興するまで15年かかるという予想を立てて綿密に統治計画を組んでいたが、品行方正を美徳とする国民性のおかげか分らぬが予想以上にことが速く進んでいったので、9年目にしてパルシアの臨時ラゾーンネ統治全権であったディターレン隊長がもはや我々が為すことはないと白書に記して同年10月に突如撤退宣言をすると、駐在していたパルシア兵の大半はその宣言に歓喜して仕事を放りだし、脱兎のごとく港の退役船に集い故郷に帰っていった。その様はまるで荒海の返し波のようであったといわれている。ちなみに、この1968年という数字は現代史の授業では必ず問われる年号であり、どの尋常学校でも半強制的に覚えさせるので、この主権回復の年はもはや国民の一般常識となった。
また、ラゾーンネ国を植民地にしなかったという事実や撤退宣言での出来事から窺えるように、パルシアは帝政国家にしては自由を重視する気風があり、国民もそれを誇りにしているようだ。一説にはある思想家のおかげであると言われているが、義務教育程度のパルシア史ではそれ以上は教えられなかったので、詳細な思想的背景は分からない。しかし、実際にパルシア人は自由奔放であることは接すれば誰でも分かる。またパルシア人は概して他者の自由も尊重するきらいがあるので、行政区分や戦前からの名所こそパルシア語に改めたものの、創氏改名は行わなかったし、山都語を国語のままにさせておくようにした。だから却って、パルシアがこの国の古代史研究に対して非常に強硬な姿勢を取っているのが不気味なのである。焚書や黒塗りは戦前の史料全般に行われたが、特に徹底して行ったのは終戦までの50年間と古代だけであって、それ以外の年代の史料には要所と思われるところに少し黒塗りが入っている程度で全体の7割は読むことができる。研究者に対する扱いも同様で、戦後体制が敷かれた当時は全時代の山都史研究者や一部の社会科学者が監視体制の下に置かれたが、1968年10月を境に近代専門の政治科や宗教科、そして古代史以外を研究していたすべての学者を監視体制の対象から除外した。このとき、近代とは無縁そうな古代史が一緒のカテゴリーに括られることになったのはなぜかという疑問が頭上のサーキットを疾走し出したが、この問いに解答を与えられるほどの知識も想像力もなければ、パルシアの人間に尋ね回る勇気など到底持ち合わせていなかったため、疑問がスタミナ切れを起こすのを大人しく待った。
ところで、学会を強制解散させることになったのは古代史のみであったが、その他の中世、近世、近代史も古代史の後を追うように学会を自主解散した。近代史が強制解散という憂目に会わなかったのは、あえてその処置を執るまでもないというパルシアの判断からであった。その甲斐あってか現在、2009年において山都史学者は戦後史を除けば一人もいない。理由は明瞭で、どのような割合であれ史料を黒塗りで潰されては歴史的真実が掴めないからである。そんな訳で、この国には史学会もなければアマチュア史家も居ない。もし居たとしたらそれは……なんてことを思いながらしばし佇んでいたが、本来の用を思い出しその場を立ち去った。
推敲2回