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朧湛  作者: 東瑠璃
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偽りの月欠け


 白鳥を模した遊覧船に入るやいなや、躾のなってない子供がはしゃぐ姿が見え、また隣にいた親は揃いも揃ってそれに掣肘を加えようともしなかったので私は嘆息を吐き、一早く喧騒と不快を避けんがために屋上のバルコニーまでの螺旋階段を駆け上がった。三峰教授には申し訳ないが、この一連の単独行動は今回限りの話ではなく、もはや生まれてから脈々と続けられてきた行動様式とも呼べるもので止めようがない。向こうも私の性格についてはよく知っているであろうから、咎められるその時までは、狼の本能を貫き通す次第である。バルコニーで飲みかけの水を飲みながら一人佇む。その様は猶天賦の美への接近と引き換えに死地へと赴く音楽家の如く、耽美にも近い浪漫の趣を呈していたはずである。と、けたたましい汽笛が鳴り響いて、船は湖面を割り始めた。なんとも叙情的な風景の中に身を置いているという喜びが飲みかけの水にも伝わったのか真夏の熱で温められたぬるま湯も甘ったるく感じた。「そういえば明日はシュノーケリングだったな。」と不意に放った一言は船のエンジン音によってかき消されていった。猫背気味の姿勢を正すために背筋を伸ばし顔を上げると、民家やホテルの住居群と山の狭間を縫うようにして建てられた駅舎が見えた。そのさらに上方には先ほど写真を撮った公園がある。時はすでに16時半を過ぎていて人影が長くなる頃合いにもなったので、鉄柵に居る人の数もまばらであった。私は現像機の拡大機能を切り、長時間身に着けていた眼鏡をようやくの思いで外して卓の上に置いた。風が凪いでいて気温も都心よりは2度3度低い。とはいえ27度くらいはあるだろうが。近くは汀の葦波、遠くは南ベルクーゼ山を終点として山々を跨いで走るアンテナまで、何一つとして私の疲れ果てた眼を慰労せざるものはなかったが、気づくと視点は折りたたまれた眼鏡にのみ注がれており、頭も重みを増していよいよ景色を楽しむ余裕も無くなるほどの眠気が襲って来た。しばらくして船内アナウンスの残響で目を覚ました時、船は既に小さな埠頭に接岸せんと速度を緩めていたところであった。

 船を降りて少し歩くと貸し切りバスが待っているのが見えた。一日目と最終日に泊まる旅館は、どちらかといえば山間の方に位置していて、人の足や公共バスではどうしても都合がつかないらしい。私がバスに乗ると運転手が「君が最後?」と尋ねてきたので、「ええ」とだけ適当に相槌を打って奥の席に座った。湖から山へは急峻な道を辿った。この地域も光歴にして約6000年前に起こった千尋海進の跡を随所に見ることが出来た。大方もところ6000年前の海面上昇を最後に海から独立したり陸部の隆起が起こっていたりして今の地形に落ち着いたのであろう。バスは針葉樹の林立する隘路を通り抜けるにあたって徐行を始めた。その時ちょうど左に民家があったのでぼんやり屋根の材料や暮らしぶりを観察していると、軒下に白い布のようなものが垂れ下がっているのに気づいた。よく見ようと服のどこかにしまい込んだ眼鏡を探していると、運転手がアクセルを踏んだらしく座席の背もたれに背中が吸い寄せられた。再び上体を起こして後ろを振り返ったが民家はもはやどこにも見えなかった。それから少しして高級感のある旅館の広々とした駐車場で降りた。運転手が乗客を降ろすなり先の急発進を謝った。太陽は傾いてはいるが山の端にもかからないといった具合で、運転手の垂れた頭に淡い光沢を与えていた。

 教授が団体客用の受付を済ませている間、年少組は統率もなくそれぞれ好き勝手やっていた。植木鉢の添えてある仰々しいトイレの前の腰掛に座って、残りわずかとなったぬるま湯を鉢から直立して生えていた竹の根元に流していると福原が私の隣に座ってきた。

「案外一人でも楽しいね。そっちは楽しかった?」

「開口一番に孤独アピールとは。相当楽しかったんだな。良かったじゃないか、これで孤独の味も覚えたことだろう。自由行動は憑いてくるなよ。」

「やだ。」

「駅の上の公園でお前が押し寄せる波紋に合わせて飛んでいるのを見たぞ。意外と一人の才能がある、俺が言うんだから間違いない。一人に飽きたら金魚の糞でも風俗嬢でも呼べばいい。」

「それとこれとは話が別。」

受付を無事済ませた教授が部屋カギを私に来た。

「風呂場は3階深夜1時まで、そんで食事場所は12階の7時ね。これが薫ちゃんのカギで、これが智のカギ。消灯時刻は定めてないけど、明日も予定が詰まっていることだし早く寝るに越したことはないだろうね。それじゃ、夕食までゆっくりしてください!」

私と福原でお互いのカギの番号を見た。番号の数字から察するに私は7階であり福原は6階と予想された。私は心の内で大いに安堵した。うっかり一息吐きそうになったので、急いで咳こんでその場を凌いだ。それを見かねた福原が私の体調を案じた。私は福原が愚鈍で本当に助かったと九死に一生を得たような心地がし、今度は安堵の一息を飲み込んでむせた。

 部屋は湖の方に向いていたらしく、灯りをつけずとも斜陽の光で部屋は仄かに照らされた。私は扉が自動で施錠されたのを確認すると、咆哮を上げる前に狼が息を溜めこむかの如く空気を吸い込んで、勢いよくため息をついて畳の上に滑り込んだ。左腕を直角に曲げて手に頭を乗せてくつろいでいると、ちょうど卓の上に菓子が添えられているのが見えたので右手を伸ばして頬張った。それから座布団を枕代わりにして仰向けになると意識が薄らいでくるのを感じ、慌ててタイマーをセットした。目を閉じていても部屋から光が追放されていくのを感じることができ、だんだんと山の端に沈んでいく太陽を見たい衝動が起こって座布団を連れて縁側に移動した。結局、タイマーが役目を果たすことはなかった。

 夕食がバイキング形式であるということは前々から知っていたので、開場と同時に食べられるよう頃合いを見計らって非常階段を使って12階まで上がった。無論、余計な人とのイベント発生を避けるためである。非常扉を開けて部屋内の様子を偵察したところ、私の他にゼミ生はいなかった。そのおかげで余計な邪魔が入ることなく熟年の夫婦や蜜月旅行のつがいなどと穏やかな饗宴を開くことが出来た。とはいえ、福原は兎も角として水島篝や相田は別に邪魔だとは思わなかったのだが。帰り際になってわらわらと「ねんしょうぐみ」の姿が散見されたが、赤の他人を装い通して非常階段から帰った。と、大方そんな一日を過ごしたということを湯船に浸かりながら振り返った。窓の結露を手で拭いて外を見ると国道を走る車が織り成す光群が見える。深夜の12時半を越えてもなお車の往来は止まないようだ。「今日は小望月か。」と月を眺めながら独り言を囁いても、私の他に大浴場に入っている人は一人もおらず、静寂だけが相槌を打った。結露を拭けども、風呂から湧き出る湯煙のために少しいびつな円形ということしか分からず、殆ど満月と変わりなかった。それから自室に戻って部屋の電気を消し縁側で晩酌をしていると、今しがた風呂場で見た小望月が二色に分かれていることに気づいたが、月の翳りであろうと頓着しなかった。






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