作戦変更
いつか来たことのある喫茶店でケーキを食べている。嵩ましに優れた温かいデニッシュ生地の上に甘ったるい雪玉が載っており、さらに側面表面共に粉糖とシロップで塗りたくられて要塞と化した対健康特化型量産式嗜好品は見かけによらずあっけなく削り取られ、次第にハリボテの内部を露わにするのに時間はかからなかった。最後の一切れがフォークを刺され対座の小さな口に運ばれていった。
「ここまで来るともう詐欺ね。」
「ポテトチップスよりかは幾分かマシだ。空気に金を払っていないだけ。」
「それで、テストはどうなったの。」
「杞憂だ。」
「どっちの意味で捉えたらいいのか分からない。でも折角カオリの都合を優先したのだから、単位くらい取ってもらわないと。」
「前世の徳で決まるものは人の手でどうこうできるものじゃない。」
「兎に角、今日話すのは来週に控えたゼミ合宿でのツェールスーデン湖周辺の調査の段取りと、アプローチの仕方とか調査方法そのもの自体の点検、そして知識の更新の三つ。まずは一番重要な調査方法から話すことにしようかしら。」
「そうしてくれ。」
私は所在なげな右手で徐に自分の唇の右端周辺に弧を描いて、彼女の唇に張り付いたアイスクリームに死期を悟らせた。彼女はカバンの中から長い間眠りこけていたであろうしわ付きのハンカチを急いで取り出して唇を拭った。
「ハンカチなんか使わずとも勝手に熱で溶けただろうに。」
「じゃあ何で私に知らせたの。」
「気まぐれ。」
「そ。じゃあ話を元に戻すけど、私たちの最終目標は山都のイデオロギーを明らかにすることで、その目的のために歴史上外圧や外部侵入の多かったとされる境界地点で洗練された習俗や規範を探そうという話に落ち着いた。」
「そうだ。」
「でもこのアプローチって五里霧中という次元でなくてもはや千里霧中くらいの無謀な策略だと思うの。最終目標を変える必要はないけど、目標を見つける方法は変える必要がありそうね。もう少し現実味のある予測を立てないと。本当に外部との接触があったのかなんて分からないし、さらに言えばそうしてできた習俗や規範が洗練されたものであるとは限らない。」
「このままで良いと思うが。」
「前から思ってたのだけど、手掛かり集めに協力的な割にどこか醒めてるのよね。最終目標にはあまり興味がないのかしら。というよりは、別の目的を隠してるようにも思えるのよね。」
此方を凝視する二つの眼光の鋭さは下を向いていてもなお十分に感知することができた。目線を彼女の眼に合わせない程度に上げる。鎖骨と胸鎖乳突筋の織り成す溝には、無窮の恋慕が湛えられている。
全身から血の気が引いていくのを感じた。向こうが口を滑らせてくれたおかげで此方は手の内を晒すことなく懐に入りこむことができたとすっかり安堵していたが、いつの間に彼女に何かしらの違和を抱かせるようなドジを踏んでしまったのか。
「いくら各地を見物して習俗や地理を蒐集したところで限界がある。それらの間に対比構造でもあれば、無縁同士の手掛かりを手繰り寄せて牽強付会な説を作れるんだが。そもそも不可能に近いことに淡い期待を寄せてあわよくば分かったらよい、という姿勢でこれまでやってきたはずだ。それもかつてこの場所で二人集まって一から考えたことだ。何も隠してやいない。これからも今まで通り慌てず旅行、もとい調査とやらを行えばよいだろう。何も焦ることは無い。焦れば運が逃げていく。」
「誰の口を借りて喋ってるのよ。」
「のよ。」
私が語尾を真似て彼女をからかうと、彼女はむすっとした顔をして痰を切った。あのドラコグロッケへの遠足を通じて我々の距離は幾分か縮まった気がしたが、まだ私の目的、すなわち祖父のことは黙っておいた。そして隠し持っていた石片を地学科専攻の知人に渡したことも。
「あっそ。私は結構張り切っていたんだけど。」
「俺だって。」
「嘘。まあそれはそうとして、今度のゼミ合宿は図らずしも南端に決まったわけなんだけど、カオリも当然行くんでしょう?」
「そのつもり。」
「じゃあ、三日目と四日目の自由行動の日は開けておいて頂戴。私たちの泊まる旅館は山あいから近くて、山を散策するのに都合が良いのよ。あの辺りの山は今では二輪の聖地として有名になっているんだけど、その昔は東の商業都市と南端を結ぶ唯一の峠道だったの。今回はそこを調査してみようかと思って。それから、」
「其の件なんだが、福原も一緒じゃダメか?」
「はあ?」
ケーキを持つ彼女の手が止まった。彼女は呆気にとられたのか平静を失い、いつも通りの澄ました態度を捨て去った。そしてこう言い放った。
「嫌がらせのつもり?」
「そんな邪険に扱っちゃ福原が可哀想じゃないか。」
「どの口が言う。とにかく何とかして。約束なんて破棄でも反故でもすれば良いじゃない。それで心が痛むような善人でもないでしょうに。」
「そんなに嫌われていたとは。ああ分かった、そうするよ。」
私は出来る限りの詐術を活用して福原を傷つけずに騙すことを決意した。
「ところで話は変わるが、この前のドラコグロッケからの帰り道、高速に沿って水道橋のようなものの遺構がずっと下方にあったのには気づいたか?」
「ええ。」
「ゲシーストワールへの分岐に入ると瞬く間に見えなくなった。ということはあれはずっと一直線に伸びていたんだろうか。」
「そうかもね。」
意外にも彼女の反応が薄かったので、私は予定を変えて深掘りを止めて
「あれ維持費高そうだよな。地方自治体にとって金食い虫みたいなもんになっているんだろうか。」
と独り言のように呟いて話を間引いた。
「会話を一人で始めて一人で終わらせるなら最初から喋る必要なかったじゃない。」
「仰せの通り。」
ぐうの音も出ない正論であった。彼女は場の主導権が自分に渡ったと察すると、箇条書きのメモを眺めながら話し始めた。
「じゃあ新たに得た知識の更新に話を移しましょう。」
「ああ。」
「私が知りうる情報でカオリがきっと知らないのは、おそらくあの石片に描かれた文字ね。」
「文字が読めたのか。」
「ええ。とはいえ私が解読できたのは紫と濤という字だけだったけど。」
「その複雑な方の文字は何と読むんだ。」
「トウとかナミとか。この国で使われている波という字の旧字体。」
「なるほど。だが、それだけでは何も分からんな。」
「ええ。だからかなり恥ずかしかった、僅かばかりの成果をいとも堂々と披露したのは。でも、これでも共有しないよりはましだと思って。ところでカオリの方では何か得た情報はあるの?」
「生憎何もない。ここ最近レポートなり試験勉強に追われていてそれどころじゃなかったんだ。」
「そ。」
私は急いで取り繕った弁明で手一杯になっていて耳まで注意が回らなかったが、彼女の返答から「う」の文字は聞こえなかった。単に聞き逃しただけだったかもしれないが。私は右肘を立てて頭を乗せ、外の景色を眺めた。都心の中でもさらに中央部で周囲には摩天楼のような建物が犇めき合っていたが、辛うじて月の出ていた方は低層のビルが多く、少し肥えた三日月を望むことが出来た。と、彼女の方から小銭を漁る音がしたので振り向くと、彼女はカバンを卓の上に置いて財布を取り出して精算の準備をしている最中であった。
「今日は私が全部持つから。この前の高速代のお返し。」
「恩義を感じたのなら勝手に払えば良い。俺にそれを止める権利は無い。」
「そりゃ、どうも。じゃあ私は手洗いに行ってくるからカバン見張っといて。」
「へえ。」
随分信頼されたものだなと思った。私の飄々として何事にも冷めたような態度を見て私を悪意の欠けた人間と判断したのだろうか。彼女が角を曲がって見えなくなってからほんの僅かも経たず、突然にして尿意が私を襲ってきた。私はうっかり見張りを任されていることを忘れて腰を上げると勢いよく卓に膝をぶつけた。意図しない膝蹴りが発生させた振動でカバンが卓から落ちた。彼女は財布の小銭入れを閉め忘れていたらしく、小銭が床に散らばった。私は次第に増す尿意を我慢しながら小銭集めに奔走した。小銭を拾い終えて財布に戻していると、彼女の財布の中に念入りに風化防止のかけられた一枚のモノクロ写真を見つけた。私は彼女の気配がないことを確認し、写真の中の被写体を見つめた。その写真には一対の若い男女が映っており、そのどちらもとても古風な格好をしていた。椅子に腰かけている女の方は髪型こそ違えど、泣きボクロの位置や顔の骨格、鎖骨と胸鎖乳突筋の協奏具合が完全に水島篝と一致していた。「似ていた」という表現はこの際正しくない。これは明らかに水島篝本人であった。一方、女の傍で直立している男はモノクロ越しでも年齢不相応な白髪を蓄えているのが分かり、これもまたどこかで見たことのある顔であった。私は急いで写真を元の位置に戻して財布を鞄にしまい直した。それから少しして彼女が帰ってきたので、席に着くのを見届ける前に駆け込むようにしてトイレへ走った。小便を終えて肩の力を抜きながら洗面鏡の前に立つと、柄にもなく「あ」と声をあげた。なぜなら写真に写っていた先ほどの男は他でもなく、自分とよく似て居たことに気づいたから。私は須臾にして彼女が私に構う本当の理由を悟った。




