龍連の鐘
水天一碧、幕上がり、潮汐引き去る瀬のはやみ。恰も飛び行く雲烟の、疾く疾く千切れる如くして、沖より騒めく荒波の、見目容やいかばかり。一たび波浪の沁み溶けて、面影残すは岩礁の痘痕。
私は月並みな水面と晴天の調和を見ながら、光歴1600年頃を代表する浄瑠璃作家の書いた秀逸な序文を諳んじた。この頃はまだ痘痕という言葉がまだ差別用語として使用を憚られるようになる前で、世間話においても、また医学用語としても足繁く登場していたことだろう。今ではそのような使用の形跡は更になく、パルシア医学由来のクレーターという単語に置き換わってしまったようだが、この先その代用の単語も差別的な意味合いをもっていると人々に周知されれば、また他所の国から「痘痕」の単語を拝借してきて、クレーターという単語に使用禁止のラベルを貼り付けるに違いない。間抜けな話である。国語の教科書に載っていたこの序文の注釈に黒の太字体で、「随所に差別的表現が見られるが、当時の文章の意図を加味し、修正をしないこととした。」などという文句を見つけた時は、思わず失笑してしまった覚えがある。
ファストフード店を出てから30分は過ぎたであろう。急に辺りがにぎやかになってきた。海沿いの街にしては小高い山が幾重にも続いているような地形で、所々に山を切り通した跡が見られる。それがダイナマイトもない時代に行われていたということは、切通の隅にできた鶴嘴の後を見れば一目瞭然である。
しかし、背面に海、周囲には山々といった閉鎖的な街がここまで栄えているのは甚だ奇異である。かつて要塞都市であったという可能性を考慮するならまだ納得がいくが、そんな話は聞いたことがない。
「あのさ、」
「何。」
「いや、何でもない。」
「あと何分で着くかって、もうすぐよ。そう、10分くらい。」
やはり彼女は地質学に明るくないようだ。先ほど岬で見たリップルマークや白蛇の巣のごときタービダイトに何の言及も無かったので、何となくそんな気はしていたのだが。仮に少しでも地質学の素養があれば、あの地球遺産ともいうべき壮観を無視することなどできるはずもない。とはいえ、予科に習う理科系の4科目の内、地質学を履修する生徒の割合は3%にも満たないという実情から考えると、とても彼女に無知の烙印を押すことは出来ない。我々の方が遥かにマイノリティなのである。それに、まだ判断するには早計な気もしないではない。
観光客の為した渋滞で思わぬ足止めを食らうも、なんとか十時前には島に着くことができた。駐車場でバイクを停めてヘルメットを取ると、髪の毛は活気をすべて奪われてぺったりとしていた。彼女もうつむき加減に前髪を引っ張っている。
「これ、どうにかならないのかしら。」
「通気性のあるヘルメットでもこの様だよ。」
「カオリのその白髪、地毛だったのね。」
「昔から俺の家系は異常なほどの若白髪が生えるんだよ。」
「どうりで更けているように見えるのね。仕草と言い、髪の色と言い。あと猫背。」
「しかし宵は富士額なんだから、髪を束ねてしまえばいいんじゃないか。」
少し間をおいて、彼女が答えた。
「宵って私のこと?」
「夏祭り、宵篝。水島と呼ばれるよりはマシじゃないか。」
「ふん。まあ、いいけど。ドラコグロッケ島はラゾーンネ屈指の観光スポットとあって、歩道も潤沢な資金で整備されてる。あの橋の欄干、一つ一つに金色の灯篭が乗っているでしょう。」
「自分的には凸凹の海道を直してほしいね。ところで、案内を見たところ歩道コースは三つあるらしいんだが、どの道が一番怪しいんだ?」
「調べたんだけど、よく分からなかったの。」
「そうか。じゃあ、幻像機で調べてみるか。」
「カオリのは確か一世代前でしょう。充電持続時間が最新型の三分の二なの。ここは私に任せて。有益な情報が載っていたらメモしていただろうから、たぶん坊主だろうけど。」
私は横から適正な距離を取りつつ彼女の幻像機を覗き見た。画面の切り替わりが激しく、満足な情報を得ることが出来なかったが、検索履歴にドラコグロッケ島のしらす丼と書かれてあったのは見逃さなかった。
「やっぱり目ぼしい情報は無いって。」
「そうか。まあ最短経路で宝を掘り当てても面白くないし、虚心坦懐に散策することにしよう。」
「そうね。」
と言い放って、彼女は堆い島を縦断する道を選んだ。先に歩き出した彼女を見失わないように顔の角度を足元から揺り上げると、山の上方に洒落た展望台が浮かんだように立っていて、その周りを猛禽のつがいが鷹揚しているという点景の眺めを得た。
石段が続く。あと50段という看板を先ほど見たので、歩けど歩けどキリがない。幼少の時分から運動は得意な方であったが、日頃の運動不足が祟ったためか、それとも平日だのに溢れかえんばかりの観光客に詰められて体力を消耗したのか、もう一歩たりとも動けず、とうとう段の合間の自販機横のベンチにへたり込んだ。自販機で売られていた炭酸飲料を飲んで呼吸を整えていると、前を歩いていた水島篝が異変に気付いたのかまるで蛙の跳ぶように石段を降りてきて隣に座った。
「お元気?」
言葉が発声主と共にほくそ笑んでいる。
「元気なわけあるか、グロッキー状態で死に瀕している。」
「そ。何か買ってきてほしいものある?」
「杖。」
「アホ。」
結局、私が体力を回復するまで彼女は傍にいた。途中、ある種の申し訳なさから、彼女に先に行けという含意を込めた会話を何度か仕掛けたりしたが、その都度上手くあしらわれ、立つ瀬が無いまま無給の時間を過ごした。無論、私がそのようなメッセージを送ったのは単に申し訳なさからだけではない。この日は夏を間近に控えた晴天の日ともあって、ベンチには見事な尻のシルエットが出来ており、それを何としてでも見られたく無かったからでもあった。私は彼女の気遣いがこれほどまでに憎らしいと思ったことは無かった。が、悠久ともいえる時間の中で汗はだんだんと引いていき、再び立ち上がった時には既に黒ずんだ桃の跡は消えていた。それから彼女は私が歩いているのを時々振り返っては細目で見て、極力視界から離さないようにわざと石段の黒タイルの所だけを踏んで、歩みを緩めた。
展望台傍にあったしらす丼屋は頗る活気であった。ちょうど峠を越えたところに一軒だけある茶屋のような佇まいで、観光客はどんどん吸い込まれていく。私は天性の天邪鬼の気質でもってその丼屋を素通りしようとしたが、隣にいた彼女はといえば、垂涎の眼差しを逸らしがたいといった様子であったから、仕方なく丼屋に寄ることにして、軒下で順番の来るのをじっと待った。
「そういえば、ドラコグロッケ島の由来にもなった恋の鐘とやらをまだ見てないんだけど。」
「乙女だね。ファストフード店の幼児スペースで仮眠をする猛者に、純潔な乙女の魂が残っていたなんて。あ、そういやドラコって確か龍って意味もあったな。恋と龍が同じ語源とはやはりパルシア語は度し難い。」
「あの本によると、旧名称は龍ヶ淵。奇妙に符合するけど、龍と恋と鐘に一体何の関係があるのかしら。」
「両国の単語が偶然噛み合っただけかもしれない。証拠が見つからない限り、変な期待はせず単なる憶測に留めておいた方が良いだろう。」
「そうね。」
展望台の前の広場には何本かの椰子が群生していた。国の南端でさえ自生するには厳しすぎる環境であるはずなのに、まさか西端付近で椰子の姿を見るとは。土着の生態系を脅かすような事態にならなければ良いが。
30分近く待って食したしらす丼の味はといえば、可もなければ不可もないといった味でなんとか嫌な顔を表に出すことなく食い終えることができたが、一方の取れたての生しらすの生臭さといったらなかった。口の中でしらすが分解されていくのが如実に分かり、また一噛みごとに生物の濃厚な水分が口内を泳ぎ回った。私は仕方なく彼女の常備している調味料を拝借して味覚を潰そうと試みたが、彼女の北東由来の調味料は想像を遥かに越えた濃さで、給水タンクが枯れる勢いで水を飲んで押し流した。丼屋を出てから彼女は申し訳なさそうに言った。
「四振りも五振りもする向こう見ずな人は北でも居なかったから、どんな反応をするのか見てみたくなったの。ごめんあそばせ。」
「あの一食で一週間分の塩分は取っただろうな。これは毒物だ、俺が預かっておく。このままじゃ高血圧で三十路を前に墓の下だ。」
「一振りだけ、健康には気を使ってる。」
「ダメだ。」
それを聞くと、彼女にしては珍しく腕を組んで威圧的な態度を示しながら、
「じゃあ私のために献立を考えて毎食作ってくれるならやめる。」
と若干意地を張ったような返答をした。
「無茶を言ってくれるな、勝手に生協にでも入ってくれ。」
「杞憂ね、早く返して頂戴。私の生命線なの。」
「どうしてもか。」
「どうしても。」
「ああ分かった分かった。今返すよ。だけど、なるべくこれに頼らないこと。それが条件。」
「頑張る。」
まだ垢が抜けきれていない、それは私も彼女も同じだったようだ。それ以降景色に新鮮さが無くなっていった。とても前を向く気分になれなかったからであろう。
気づけば歩調はかなり速くなっていて、大鐘を背に見知らぬ二人の男女が接吻しているのを見てようやく我に返った。思わず「うわっ」と言うと、すぐ後ろで木霊が響いた。つがいのうち、女の方が目だけを此方によこした。私は咄嗟の判断で視線を外した。そして、やにわに女の放つ情念を跳ね除けるように振り返ると、真後ろにいた木霊も見合わせたように顔を真横に逸らして知らぬふりを装った。
「本能が勝てる相手じゃないと囁いてる。さながら蛇に睨まれた蛙だ。おい、助けてくれ。」
蚊の啼くような声で訴えた後、私は隠密顔負けの忍び足でやおらに彼女の後ろへ引き下がった。彼女は最初、高みの見物といった様子で必死に笑いを堪えていたが、自分が女の視線の盾代わりにされたことに気づいて動揺し、
「勘弁ね。」
とばっさり、彼女もまた隙を見てリードを憚らない出塁打者のような構えでもってそそくさと私の背後に姿を眩ませた。私はまた盾を失った状態になったが、一連の流れで距離を取れたのか、女の視線はもう届いてこなかった。少し落ち着きを取り戻して、
「同性同士だし、今まで多少なりとも恋愛経験だってしてきたはずだろう。女豹の威厳とやらで返り討ちにしてくれよ。」と言うと、
「だいぶ偏見を拭いきれてないようね、私をミスコンに出るような女狐と一緒にしてもらってはダメ。言い寄られる度に、恨まれる回数も増えていく私のすれっからしの人生を是非とも体験してもらいたいものね。」
といつもに比べ余裕の無い返答。私は脳内で、ミスコンに出る女性が必ずしも女狐であるとは限らないのではないか、という反論が即座に浮かんだが口には出さなかった。というより、出せなかった。そして、緊張した会話の中で生まれた一つの勘違いも。
「とりあえずトイレで時間でも潰して女の去るのを待とう。今度睨まれたら命を吸い取られかねん。しかし、あの男もよくあんなのを連れに選んだもんだ。」
「私、さっき丼屋で野山の花摘んできたばかりなんだけど。」
周囲の景色になじむ気のない現代様式の厠で用を足して入口までの通路を歩いている途中、下窓の向こうにひび割れた石が幾つか落ちているのが目についた。窓の向こうは島の主要歩道の反対にあって人の気配は無く、鬱蒼とした木々が野放図に生い茂っている。私は扉越しに座っている彼女に内緒で下窓を開け、身をかがめて匍匐前進で通り抜けてその石片を拾って眺めた。石片には文字らしきものが書かれていたが、肉眼では読むことが出来なかった。腰を落とし前かがみになってその欠片付近の茂みを探すと、もう二つの石片を見つけることが出来た。その二つの石に関しては、先の石のように詳しく見ることはせず、細かく刻まれた凹みがあることだけ確認して肩掛けの袋にしまいこんだ。そして、元来た道を戻って扉を出た。
「遅かったじゃない。あそう、生しらす食べてた時の顔凄かったものね。」
「腹は下しやすいが、今日は安定期だ。それに後退期のような形でもなかった。」
「景気循環みたいに言わないでよ。」
「それとな、」
私は石片を一つ取り出して彼女に見せた。彼女はゆっくりとそれを受け取って頭の上にあげ、太陽に照らして片目でまじまじと見つめた。そして少し顔を綻ばせて
「この石片の字が一つ分かった、斃という漢字よ。倒れるという漢字の異字体。一体どこで見つけたの。」
と嬉しさを隠せないといった表情。
「トイレを挟んだ歩道の反対側の森。」
「連れてって。私も探したい。」
「絶対言うと思った。もう通り一遍探したからない気がするがね。」
「教えて。」
「はいはい。」
私は森へと続く下窓へと彼女を誘導した。
「それじゃ、俺は通報されないように根回しする役に徹してるから。」
「行ってくる。」
私の予想に反して五分くらいで彼女は戻ってきた。手には四葉のクローバーを携えて。
「随分可愛い石片だこと。」
「馬鹿にしないで。カオリが嘘を吹き込んだ可能性だってなくはないんだから。」
「おやおや。」
「まあ、それは無さそうね。いつも嫌味ばかり言うけど、いざとなったら自ら風除けになってくれるようなお人好しだもの。」
「あらま。」
「ということだから、もう行きましょ。後で膝の辺り手洗いしなきゃ。」
大鐘に着いた時にはもうすでに女の姿は見えなくなっていた。恋愛の聖地として有名なだけあって、周りはカップルしかおらず、これ以上に居心地の悪さを感じたことは無かった。彼女は道を塞ぐカップルに嫉妬心も無ければ、容姿を侮辱するといった風でもなく、ただ大鐘の横にある無数の小鐘が括りつけられた板にだけ関心を寄せていた。あれが世にいう強者の貫禄か。私は一早くその場を離れ、近くの大判焼きの露店の軒下に避難した。大判焼き屋の主人はなかなかの男前であったが、薬指に指輪は無く、それが私と主人との間の同胞意識をより強めた。彼女はまだ小鐘の板に夢中なようである。私は一人軒下傍の岩壁にもたれて耳を澄ました。吹き上げる海風に、鳴りやまない鐘の音、雑踏、さざ波、水面を揺らす鳥啼、尻よりも軽い愛の囁き、そして大判焼きを焼く音。それらが渾然一体となって共鳴している様はさながら、この世の宿痾を表現しているようであった。大判焼きを食べながら板の方を見ると、調査を終えた彼女がどうやら私を探しているのに気づいた。私は軒下から離れて柄にもなく手を振った。すると、向こうはすぐさま此方に気づいて、小走りでやってきた。
「どうしてこんなところにいるのかしら。」
「宵には分かるまい。」
私の返答は群衆の声にかき消された。
「まあ、どうでもいいけど。それよりあの小鐘、少し変わってるみたい。」
「お互いの名前を鐘に書いて板に括りつけるんだろう。最近よくある手法じゃないか。」
「最初はそう思ってたんだけど何か違うらしくて。というのも、恋が成就したらあの鐘を板からもぎ取って海に投げ捨てるみたいなの。」
「なんだそりゃ。」
「そう思うでしょ。」
「一つ持ってきたの。よく見て。」
「畜生か。」
「心配しないで、また括り付けなおすから。」
「しかし、アイスクリームのコーンの部分みたいな材質だな。」
「海に投げ捨てても自然に害をなさないように水溶性になってるみたいだけど、魚の栄養源にでもなるのかしら。ためしにカオリも触ってみる?はいどうぞ。」
「やめてくれ、思いっきり二人の名前が書かれてるじゃないか。ご丁寧に相合傘まで。よくそんなもの触れるな。」
「私が先のカップルの盾代わりになる前、夢中になったように歩いてたカオリを呼んだ時、男の方は此方を振り返ってじろじろと私の方を見たけどね。それも何度か、故意だと思われないように数分の間隔を開けて。カップルなんてそんなもんよ。」
「容姿が抜群に良いとやっぱりどこ行ってもじろじろ見られるものなのか。」
「カオリも意外と見られてる方なんだけど、その調子じゃ気づいてなさそうね。」
「頭を覆いつくす若白髪のせいじゃなくて?」
「まあ、それもあるけど。でもこうやって喋る前、私とすれ違うたびに少し綻んだり、そうかと思えば全く気にもかけてないような素ぶりをしていたカオリがそんな質問をするなんて心外ね。あれは私の人生の中でも滅多にないパターンだったから良く覚えてるの。」
返す言葉もない。私は黙ってその場をやり過ごすことにした。大判焼きの熱が次第に手に伝わってくる。
「石片といい鐘といい、何やら怪しいものが沢山出てきたということは、探索の成果はある程度あったといって良いのかしら。とにかく坊主で帰ることにならなくて良かった。」
「そうさな。」
いわくを剥がされた小鐘を元あった場所に戻した後、大鐘の左横に続く小道に気づいた。この巌々とした 崖に沿う小径を下っていけば、最初に駐車場で見た島の周りを逍遥する道と合流しそうだ。小径の入り口左にある、上に風見鶏を置き忘れたように立った案内板によれば、屏風屈という名所が進路方向にあるらしく、まだまだ収穫物がありそうだという展望を得たのか、後ろが騒がしくなった。手すりを頼りに慎重に下に降りていく。小径と海の間にはとりわけ特徴のない大きな岩があり、頭上の猛禽が展翼の不自由を嘆くほど強い海風を防いだ。海が近づくにつれて足場をフナムシが往来するようになったので、踏んで靴を汚さぬよう気をつけて歩いた。屏風窟はもう近い。小径が無くなり、砕け散った波しぶきが頬を濡らす辺りまで来ると、海に沿った歩道に出た。永らくご無沙汰だった観光客はいつの間にか湧き出ていて、殴りつけるように吹く海風に吶喊したり肌を寄せあったりしている。私も迫りくる怒涛の魅力に引き付けられ、歩道のフェンスに体を預けながら近くの塩類風化した岩に恍惚としていたが、横から飛んできた「おい」という無風流な間投詞によって現実につき戻された。
「私の居た郷と大して変わらない景色で特に何の魅力も感じないけど、そんなに岩と波見てよく飽きないものね。」
「全然。」
「風の使いもいなければランプもないのに。」
「諧謔を弄することもできるのか。冗談嫌いの真面目な性格だとばかり。」
突風が轟音を伴って吹き抜けた。歩みを止めて右手でフェンスをしっかりと掴み、目に埃が入らないように島側を振り向くと、バンドの黒い白帽子が大空を舞って彼方に消えた。
「居たみたいだな、風の使い。」
「そうね。」
「窟へ急ごう。今度こそ飛ばされかねん。」
そう言うと、屏風窟へ走り出した。
「これ天然?こんなに一直線になるのかしら。」
「俺も初めは海食洞窟だと思ったが、どうもそれだけじゃないみたいだ。崖に面した横穴と言う方が正しい。」
「夏だのにひんやりしていて避暑地としては最高ね。」
「天井の蝙蝠と水の滴り落ちる音を除けばなかなか良い所だとは思う。」
洞窟に入ってからずっと後ろの水島篝が騒がしい。彼女が歩き回るたびに鉄の足場が僅かに揺れるので、バランスが取りにくい。
「水の下に小銭が一杯落ちてるみたいね。持って帰ってもいいかしら。」
「やっと跳ね回らなくなったと思ったら今度は小銭稼ぎですか。いきなり童心に帰るの止めてくださいよ。」
「ただの冗談。それに一度たりとも跳ねた覚えはなくって。」
「淑女の仮面、付け直さずとも結構。」
だいぶ中腹辺りまで来たところで、急にパフのような岩が目前に現れた。男根岩という名前らしい。確かに、似ていると言われれば似ている気がする。私は華麗な無視を決め込んで岩を避けたが、後ろは案の定引っ掛かったらしく、その岩の命名過程について尋ねてきた。
「どうして男根岩なんて名前を付けたのかしら。つぼとか瓢箪とかいくらでも候補はあるのに。」
「知るわけない。なんで自分から罠に引っ掛かりにいったんだ。」
「昔、地元の森に入って探検してた時も明らかに男根みたいな石像を見つけたことがあるの、それを思い出して。」
「淫靡、いや、懐の広い地方だな。」
「そう思われても仕方ないことね、私も掘り起こした後すぐに埋め戻して、今の今まで黙っていたのだから。」
「そりゃとんだ掘り出し物だったな。」
会話を終えた後でふと思うことがあった。それはすなわち、今と昔では人々のかける眼鏡が違っていて、もし仮に昔の人々が男根に対して何か淫靡めいたものと捉えていなかったとしたら、先ほど抱いた私の印象は当世代の眼鏡を通して判断された偏見であるかもしれないということであった。このような視座は義務教育の中で得られなかった、というよりは意図的に隠されたものであるように思われて仕方が無かった。
奥地はこれまでの細路とは打って変わってドーム状になっていて広々としていた。上の方はかなり高いが日光は入り込んでいない。それに、ブルーライトがここで途切れていたために薄暗くてよく見えないが、ドームのそこかしこに穴が開けられているようであった。
「下から上まで穴が開いている。」
「動物の巣かしら。」
「地上付近のを見る限り意外と深そうだが。」
「来る途中であの穴をねぐらとするような大動物は見なかったし、かといって岩を砕くほどの歯なり顎なりをもった動物にも会わなかった。不思議ね。」
「まるで地下だな。」
「カオリ、ちょっと泳いであの穴見てきて頂戴。」
「そんな無茶な。確かに洞窟に入ってからすれ違ったのはたったの7人だったから、周りの人に見られる可能性はほとんどないとは思うけど。」
「こんな時ロープがあれば。でも近くの岩場なら5mも泳げば辿りつけるはず。」
「幻像機の拡大ズームで何とかならないか。」
「そういえば、岬灯台の時使った懐中電灯がどこかに入ってたはず。」
「よし、交代交代で見てみるか。」
「うーん。穴の底に多少のフンが見えるけど、大きさからしてちょうど蝙蝠くらい。このフンの主が穴をあけた訳じゃなさそうね。」
「他には。」
「あ、光をもう少し右に向けて。」
何かを見つけたらしい。もう3分間くらい懐中電灯を同じ高さに維持しているので腕が小刻みに震え始めてきたが、そんなことはお構いなしといった様子で彼女は新たな注文を付けてきた。
「これでいいか?」
「行き過ぎ、少し左。」
「もう腕の限界が近い。」
「なんか絵のようなものが描いてある!幼稚舎の低学年の落書きみたいな絵!」
「比喩表現の極致だな。網膜に焼き付けといてくれ、もうすぐ交代だ。」
惜しがる彼女を横目に震えた手で懐中電灯を渡し、照らされた横穴の中を観察した。
「ありゃ随分と下手糞な絵だな。人らしきものが一人、人の足下に線が書かれていて、その先にあるおわん型の絵に近づくにつれて線が高くなっていってる。どの絵にも色がついてるな。辰砂と赤鉄鉱か?」
「なにそれ。」
「膠。岩が原料。ラゾーンネだと中央ベルクーゼ辺りが原産地のはずなんだが。この付近でも取れたのか。」
「その人の絵、少し低く書かれてない?」
「確かに。人とおわんの間にも線が描かれているな。それに人の後ろには青い塊がある。人の足元にある線も同じ青が使われてるみたいだ。ラピスラズリか、落書きにしては贅沢だな。」
「勝手に置いてかないで。知識の専有はご法度よ、あとできちんと教えて。それともう腕が限界。」
「後でじっくり見られるように幻像機で写真を取ったから、もう大丈夫。」
大丈夫という言葉を聞き届ける間もなく懐中電灯は切れた。隣では彼女が器用に自分の片腕を揉んでいる。
「何か悪いことしたな。もう一度見てみるか?」
「一応見とくけど。あんなに饒舌に語られた後だと、落書きにしか見えない自分が恥ずかしい。」
「俺から見たって落書きは落書きだ。そこは否定してない。」
二度目の観察は終始無言だった。横からしか顔は見えないものの、仏頂面であることには違いなかった。予科の時のあの忌々しい美術の時間が思わぬ形で役に立ったのは、後にも先にもこの場面ばかりであろう。だからといって、卒業後一日で廃品回収に出した美術の教科書を今更惜しむことはない。
「もう見終えた。下ろして大丈夫。」
「へい。」
「とっとと戻りましょ。」
「あい。」
洞窟の復路から島の入り口まで休む間もなく彼女を褒め殺した。やれ万年進級の危機に瀕しているでくの坊とは違って、返済不要の奨学金を貰えるほどの閨秀さに威光が表れているだとか、やれ浪人特有の無精髭が生えていないので顔から陽気の潤いが絶えないだとかいってできる限りの世辞を盡したが、彼女は眉間を微動だに動かさず、また難しい顔を歪めることなく一心不乱に歩き続けたので、私もとうとう困り果てて、次第に寡言になっていった。
駐輪場に着いた時、彼女はそれまでの仏頂面を少し歪めて連絡先の交換を催促した。私もそれに関してはなかなか切り出せずにいたので、思いがけない僥倖に密かに感歎した。
「やっぱり私の眼に狂いは無かった。これからもよろしく。」
「こちらこそ。」
「帰りは海道を使わず、バーンストラーセに乗って帰ることにしましょう。」
「一文無しじゃなかったの?高速は金かかるけど。」
「大渋滞に巻き込まれるよりましよ。それにゲシーストワールまで直接帰れるし。」
「分かった。そうしよう。」
長時間に渡って調査、というより観光をしていた割には疲れは溜まっていないようで、私は己の内なる無尽蔵の活力を誇らしく思った。そして聳え立つように浮かぶ入道雲に、生まれてこの方訪れたことのない朱夏の到来を予期した。




