表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朧湛  作者: 東瑠璃
12/35

B.B

 

 エンジンをつけた時、メーター表の隣の時刻が点灯して、時間の矢のごとく過ぎ去ったのに気づいた。時間の足の速さには覚えがある。最近意識するようになったある所感、すなわち無聊を託ってばかりの玄冬ともいうべき己の人生が、ここに来てようやく雪解けを果たして、麗らかな春の水を流し始めたのではないかという柄にもない所感と無縁ではないだろう。と、隣でサイドスタンドを蹴る音がした。私が彼女の方を向くと、彼女は怪訝そうな眼でこちらを見た後、視点を誘導することに成功したのを確認して合図を送ってきた。その合図の意を推測したところでは、また私が前に出るから先と同じように後ろについてきて、ということであった。私が用を得たのを察すると、彼女はヘルメットのシールドを下ろして颯爽と走りだした。

 

 海道の松越しに見える朝焼けの浜辺は閑散として、猛る時節を待つばかり。埠頭に沿ってうなだれたいくつかの釣り竿は憂鬱に近しい趣がある。アスファルトを歪めた轍も海運の発達と道路予算の欠乏をのべつ幕なしに伝えてきた。なんとかいびつな轍の波に囚われまいと前傾姿勢からやや背を起こすと、先ほど岬から遠く見えた展望台の突き出た島が近づいていて、島の先端にある飲食店の垂れ幕に描かれている文字も識別できた。

「あの島に行ったところでまだ店は一つも空いてないだろうから、睡眠確保がてら朝飯でも食べることにしよう。それで良い?、カオリ。」

岬を出て彼女の初めてのセリフは何か懊悩と羞恥の影がちらついたものであったが、そのニュアンスから儚く漂う彼女の努力のおかげで我々の間の壁は確かに一枚取り払われた。

「俺の名前はカオリになったのか。それじゃあ、、いよいよ私と一文字しか違わないわね。」

睡眠という言葉に少々引っ掛かりを覚えたが、あえて触れないで置いた。

「お互いあまり聞くような名前じゃないしね。それと、唐突に女口調にならないで。たしかに一文字変えたら大分女性の名みたいになるけど。私の努力をからかう暇があるなら、カオリもそれ相応の努力をしなさい。そう、君以外の二人称とか。いつまで陶酔の風を纏ってるつもりなの。」

「じゃあ、なあさんとかは?」

「福原と白井が私のことをそうよんでることは知ってる。なんでそういう渾名になったのかは知らないけど。」

「口癖から取ったと福原は言ってたぞ。まあ確かに、威風厳そこかに傍若無人に振る舞ってると思われても仕方ないくらいには超然としているからなあ。歩けば百合の花と言うが、あの様はもはや鈴蘭に近い。普通の会話でも耐性の無い人からすれば猛毒なはずだ。」

「まあ、あいつには確かに毒を振りまいた覚えがある。だけど、白井までその渾名が浸透しているというのはショックだ。周囲の見解は大方鈴蘭ということなんだろう。」

私はつい最近まで「なあさん」という渾名を使っていたことを黙っておいた。時計を見ると時刻は5時20分を少し回ったところで、海に臨んだ古びた家々の屋根から煙が垂直に出ている。ヘルメットのわずかな隙間から入り込んでくる味噌やら魚の焼けるやら、郷愁の情へと導く匂いを嗅ぐことが出来た。

 馥郁に食欲を掻き立てられながら、海松と竹垣に覆われた民家に挟まれた海道を抜けてたどり着いたのは郊外の24時間営業のファストフード店であった。私はあっけにとられた。この高貴な一匹女狼がジャンクフードを頬張る絵をどうしても想像できなかったからである。好きな料理や趣味は共有したいと兼ねてから思っていたものの、まさかジャンクフードが我々の橋となるとは。彼女の肌や服には俗の化身ともいうべき不健康な油が粒子単位で飛び散っていた、こんなにも恐ろしい事実は二つとなかった。幻想が音を立てて崩れていく。が、それと同時に一縷の認めがたいある感情も私の体内で湧き上がっていた。

「ここのファストフード店は二階建てだが、二階建ての店舗は全国に5つしかないらしい。」

「詳しいね、クーポン券とかお使いになるので?」

「あと三枚でエビサンドが無料になる。こういう店を利用したのは大学に入ってからだけど、命を削って塩脂を求めるという感覚は日常生活ではまず出会うことのない体験で、以来たまに通うことになってしまった。無論、私の生まれはラゾーンネの北東部だから元々塩っこい味付けとは親しかったのだけどね。」

「それじゃ学食なんて薄くて水を食べているようなもんか。南部出の俺にも薄く感じるくらいだから。」

「自前の調味料を携帯していて、それで味を補ってる。」

「食生活が心配になってきた。」

「節介焼き。」

彼女はそう言い捨てて店の扉を開けた。店内には我々を除いて、還暦前ほどの店員が一人、ぽつねんとレジの近くに腰掛けて朝刊を読んでいた。我々が入り口付近のメニュー表と睨み合いをしている間も、つゆたりとも此方に関心を向けてこない。労働者たる者この店員を模範とすべきである。

「すみません。」

恐る恐る店員に尋ねた。私とてこの店員の平穏を脅かすようなことはしたくなかったが、じゃんけんで負けて注文役を担わざるを得なくなってしまった以上はやむを得ない。

「横柄に見えるかね。文句があるなら腰を痛めてもなお出勤を強要する悪魔どもに言ってくれ。」

「五刑八虐の生傷を見て苛む気にはなれません。読みかけの社会欄を読み終えたら注文します。」

「スポーツ紙だ、読んでいるのは姉ちゃんの裸体。」

「さいですか、それじゃ半熟マフィンセット2つ」

「はいよ。お代は780モント。300モント超えたからクーポン一枚ね。」


 二人分の料理が乗ったトレーを運びながら二階へ上がると、まず二階の面積の半分はあろうかという遊具スペースが顔をのぞかせ、道なりに歩くと突当りの窓際の席で突っ伏している水島篝を見つけた。まだ19で萌えたぎる新緑の盛りとはいえ、緊張から放たれた時に急襲する眠気には勝てなかったようだ。私はなるべく彼女を起こすまいとトレーを静かに置いた。そして、眠る彼女と冷めゆく二つのマフィンを交互に見、背に腹は代えられないという狭量からマフィンの紙包装を剥がしはじめたところで

「クーポン貰ったでしょ、頂戴。」

「なんだ、起きてたのか。」

私はクーポン券を彼女の手のひらにあてると、彼女は突っ伏したままクーポン券を握った。それから右手にある広大な遊具スペースの方を指して、

「遊具スペース、あそこで三時間仮眠するから。どうせ子供は学校で来ないだろうし。」

「聞き間違いであってほしかった。」

その返事を聞くと、彼女は少し上体を起こして私に何かを言おうとしたが、ふと思いとどまったように息をのんでこう続けた。

「それと、寝る場所についてなんだが、ちょうど平らなエリアとアスレチックエリアの二つに分かれてるから、カオリは平らなエリアね。私は遊具スペース内側のボールプールで寝るから。」

「もっとましな所があったはずだ。ひょっとして金にお困りなのか?」

「給料日まであと数日なの。」

「とはいえ、ここまで男勝り、というか非常識と合理的判断の綱をいとも容易く渡る人だとは思いもしなかった。」

「この広場は確かに10歳までが対象と注意書きされてはいるけど、10歳以上は禁止だなんて文言は一切ない。だから利用したって咎めは受けないでしょう。荒らすわけでもないし。それとも優雅な白鳥の湖面の下をのぞき込んでしまった気分だ、とでも言うつもり?」

「少なくとも俺を除く皆はそう言うだろう。」

「嘘。」

彼女の猜疑心を表したような簡潔なセリフを最後に、お互い黙々とセットメニューに手を付け始めた。マフィンを食べ終えたあたりで、心なしか自分の表情がほころんでいることに気づいた私は無言でトイレに向かった。沈黙が流れた時はとりあえず笑ってその場をごまかす、という一種の処世術のようなものがいつの間にか癖になって久しい。この悪癖は謂わばカエルの電気刺激と同種のものである。怒られている時にヘラヘラするな、などという幼少なりの貴い処世術を蔑するような無益な叱咤でもって矯正の機は幾度も与えられたものの、教育者の威光虚しく叱咤の成果といえば皆目なかった。いつものごとく手で頬を持ち上げたり引っ張ったりして表情筋を整え、そそくさとトイレを出て角を曲がったところで角の先にいた水島篝にぶつかった。

「痛。」

「すまない。」

「この前のに比べたら全然痛くない。しかしまた気絶でもされたら困るから、その猪みたいな歩き方は止めにして。」

「善処します。」

「じゃあ三時間後の九時頃に。お休み。」

「お休み。」

私は自分の寝床に着いた。思ったよりも寝心地は悪くない。やんちゃな子供であっても怪我をすることがないよう床のマットや壁はかなり軟らかめに設計されているおかげで、仰向けになっても腰や首にかかる負担がほとんどない。ハレの日は意識が昂揚してなかなか覚醒状態の解けない私も、これには安堵してしまったようで、図らずしも深い眠りについた。再び目覚めた時には1時間が経っていた。目を擦って目ヤニを弾きながら隣のアスレチックエリアを覗くと、滑り台の下のボールプールに大人一人分の影があった。それから出発時刻までの2時間、私は用心棒役として彼女の護衛に徹した。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ