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朧湛  作者: 東瑠璃
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作戦会議


「もうすぐだ。」

「そうか。」

私が彼女の命令に背かず大人しくしているのは、何より彼女の放っている威圧感からであるが、それとは別に、この後の展開に好転の予兆を感じ 淡い期待を抱いていたからでもあった。

 正門を出てからゲシーストワール駅までの道をしばらく歩いていたはずなのだが、駅近くの横道に入ってからはさっぱり土地勘を失ってしまって最早自分がどこを歩いているのかも分からなくなった。私はふと予科の講義の時に聴いた雪山遭難の話を思い出した。人間は方向感覚を失うと、円形に歩き回る習性があるらしい。当今の状況も概ねこれと似たものであろう。寄り道もせず直行直帰の日々を送っていたのが、こんな場面で裏目に出るとは想像だにしまい。もう少し道草を食うべきだったと後悔した。

 街はすっかり厚化粧をして、疲労で空蝉のようになったサラリーマン達めがけて鱗粉を撒きちらしている。非生産的な生産的行為が街を虚しさで充溢させ、「2時間休憩3500モント」や「赤い風車」と書かれたネオンの電飾はその虚しさを吸い取ってますます煌きを増している。何番目かの曲がり角を過ぎると、煌びやかな風俗街はもはやどこにも見当たらなくなり、今度は貧相だがかと言って清貧さの欠片もない、みすぼらしさを襤褸切れ一枚で隠したような横町に出た。

「夢捨て場は初めてか。」

「正門からゲシーストワール駅までの道は一本道だとばかり、首都駅近くにこんな廃墟群があるとは。」

「ぷっ」

嗤われた気がした。

「そこの喫茶店だ、ここまで来れば大丈夫だろう。さっさと入れ。」

仄暗い裏地の中に黒一色で身を隠すように構える喫茶店は、さながら革命組織や秘密結社の集会場と言わんばかりの様相であった。入口上部に吊り下げられたサヨナキドリは小刻みに揺れながら桜の咲く頃を待ちわびている。ベルのついた入口を開けて中に入ると、店員が奥の方でテレビを見ているのが目に入ったので、暇を阻害しないようそっと店の端のボックス席まで向かった。彼女も私のすぐ後ろに着いていたらしく、どちらの席に座るか悩む私を横目に須臾に腰を下ろした。

「なかなかスリルのある冒険だった。」と皮肉交じりに言うと

「それは申し訳なかったわ。」と一言。

「んで、ご用件は。」

「ベルクーゼ山とその歴史について興味があるの、私も。」

彼女はカバンから「ラゾーンネと改称」を取り出しながら言った。

「書庫の本を借りてきたのか、それは迂闊というやつだな。せめてメモ書きだけして戻すべきだった。」

「あなた名義よ。」

「……」

「そうか、それなら仕方ない。しかし一つ気になるんだが、ここに来てまた君の口調が変わった。君は人に対してだけじゃなく状況次第でも口調を変えるんだね。()とか()とかは常につけてくれた方が此方としては嬉しいんだがね。でもって人生の先輩からアドバイスをさせて頂くと、人に合わせた人称の変化もなるべくパターンが少ないほうがボロが出ない、というよりは社会を生きやすい。俺は自分より年下の人間には()という一人称を使うことにしていて、逆に年上には()で通している。それから、」

彼女はつまらなそうな眼を此方に向けて暫く話を聞いていたが、とうとう堪えられなくなったのか傍にあった呼び鈴を勢いよく押して私から主導権を奪い返した。少ししてうっすら髭の生えた給仕がやってきた。きっと朝から働きづめなのだろう。

「ご注文は何になさいますか。」

「ノーマタングリブルーを2つ。」

「ご注文は以上でよろしかったでしょうか。」

「はい。」

給仕は去り際に私を見てきて、「こいつは男の廃った奴だ」と言いたげな目線を差し向けた。私はそれを気にも留めず、反対に「嫉妬は7つの大罪の一つ」というメッセージを込めた慈悲のまなざしでもって返した。給仕は何も言わず目を逸らした。状況がどうであれ、麗人と一対一で面と向かって座っているのは確かなのだから。私も目のやり場に困って周囲を見てみると、奥行きを演出している年季の入ったシャンデリアが欠伸をし始め、窓外の飲兵衛も各々寝床を探して巣に戻っていったのが見えた。

「お待たせしましたぁ、ノーマタングリブルーを2つ。」

今度は女の給仕であった。彼女はとてもにこやかな笑顔で珈琲を置き、席に座る二人に愛想を振りまいた。全く先ほどの功徳が僅かの間に報われようとは。給仕が踵を返して厨房に戻っていったのを確認すると、水島篝はやおら両肘を立て、重ね合わせた手の甲の上に顎を乗せて口を開いた。

「よし、これでやっと本題に入れる。あの時貴方が求めていたのは間違いなくこの本だったんでしょう?」

「その通り。」

「じゃあ大方目的も同じという訳ね?」

「ああ。」

「はっきりしない返事ね、まだ疑ってるのか知らん?」

「俺から疑うことを取ったら何も残らないだろう。」

「そのスカした態度どうにかならない?あんな痴態と赤面を晒しておいてまだシラを切るつもり?」

「やっぱり。」

「あとね、私が態度を変えるか否かのポイントは相手が自分にとって興味のある人間かどうかなの。現に()()()()も使ってないでしょう?だからといって、決して年の功に免じて()()なんて二人称を使っているわけではないから安心して。」

「肝に銘じておくよ。」

「ところでだけど、貴方もこの本を求めたということは他にも何か知っている訳なのよね?」

「これが何の手掛かりもなくて此方も困ってるんだ。」

「まあ、そうよね。」

てっきり私の無能を腐しにかかるのだと思っていたから、この返しは驚くに値するものであった。

「この本から何とか手掛かりを探すほかないよ。」

「お互いのノートやメモをここで見せ合って、情報共有に努めましょう。」

彼女はカバンから手帳を繰り出して言った。

「生憎だがそんなものはないよ、記憶力が良いから筆を執る機会が人より少ないんだ。」

彼女には悪いが、まだ隠しておきたい情報が山ほど載っているノートを知り合ったばかりの段階で見せるわけにはいかない。

「あっそ、私は別にそれでもいいけど。」

「代わりに俺の知っていることをできる限り話そう。その本に書かれている通り、ベルクーゼ山の旧称は久世山という名前だったらしい。そして、これはゲンズブール教授の受け売りだが、この国が1959年で敗れることになった原因はどうやらこの国の戦中の政治的イデオロギーであった可能性が高いらしい。さらに、GIW含めた戦前戦中の図書には広範囲に渡って黒塗りがされている、これは伝聞ではなく実際俺の眼で見た確かなことだ。」

「これといって有益な情報はないわね。」

「面目ない。あ、そういえばベルクーゼ産の卵は高い割にあまり美味しくない。さすがにこれは知らなかったろう。」

「ええ。まあ、有益とは程遠いけど一応書き残しておくわ。」

無論、祖父の話及び私の目的の根源となったあの古びた歌については黙っておいた。

「私の手帖見てくれる?」

昔の人々はラブレターに記された字の巧さで恋人を定めるか否かを判断していたと聞く。もし私が遥か過去に生きていたら、この少しも丸みの帯びていない男勝りないぶし銀の字体に翻弄されて籠絡されていたいたことだろう。流麗で素朴な文字の持ち主を求めて一たび御簾を上げれば、この砂嘴のようなまつ毛と稜線を縦断できるほどくっきりとした鼻筋、幸の薄そうな泣きぼくろ、瑪瑙や翡翠よりも鈍い輝きを宿すキリリとした双眼が待っているのだから、例え目前に満漢全席があったとて、さぞ陳腐なオードブルに思えることだろう。

「そちらもあまり良い手掛かりは得られてないようだね。」

「そうね。」

「ところで、この本を眺めながら思ったんだけど、もし昔のラゾーンネがイデオロギーを作るとしたらどんな内容にするのが得策なんだろう。」

「少なくとも理屈めいたものというよりは、情に訴える内容のほうが大衆の煽動には役に立つだろうね。」

「だとすれば、その方向は情が最も形成されやすい環境を模倣するような構造にはならないだろうか。」

「なるほど、でも情が形成されやすい状況や環境ってどんなものかしら。」

「例えば恋愛とか友情、師弟の関係とかだと俺は思ってる。」

「うーん、どれも、特に恋愛は個人的な経験によるものが多いと思うし、イデオロギーにするには風呂敷が狭い気がするわね。」

「的をかすった気はしたんだが。」

「外してはないと思うわ。うーん、私的に情の形成に寄与しているのはどちらかといえば家族関係とか習慣だと思うんだけど。」

「なるほど、言われてみれば確かに。」

「だって理性の象徴である法秩序だってベースになっているのは習慣でしょう?法は家族関係に入り込みにくいし。」

「さすがは現役、頭の出来が違う。」

「字面通り誉め言葉として受け取っておいてあげるわ。」

「じゃあそこに焦点を絞ってもっと掘り下げよう。情の形成の場である習慣や家族道徳のベースはいったい何だ。」

「さあ。不文律?それじゃトートロジーね。」

「共同体のルール、便宜的な言い回しになってしまったが、これな気がする。でも家族道徳はイデオロギーに使いにくい気もしないではない。」

「ほとんど私と同じじゃない。もっと真面目に考えて。」

「そんなこと言われましても。一浪人間の脳みそなんてたかが知れております。」

「その発言、貴方以外の全浪人学生に失礼よ。」

「あ、分かった。外圧じゃないか?共同体の規範を内側から変えるのは難しいからね。」

「過程を一つ飛ばしたわね、話し相手が私だったことに感謝することよ。つまり自生的な共同体の規範は自らの殻を食い破る力を持ち難く、多くは外圧や共同体外部からの侵入によって習慣や道徳が改められていく。そして、外圧が絶えず行われているような地理的条件を持った場所はそのような広義の意味での文化が洗練されやすく、したがって後世の支配者側もその優れた制度文物の上澄みを拝借することで、新たに法を整えて律するといった刑の形を作って民の反感を招くこともなく、さらに統治の手間も省けるということね。」

「そこから逆算していけば、遠回りにはなるが山都のイデオロギーにたどり着けるだろう。」

「遠回り過ぎる気もするけど、史料さえ残っていない以上は地道に詰めていくしかないか。なるほど外圧ね、だとすれば外圧が絶えず行われた場所は、、、」

「境界!」二人そろって同じ言葉を発した。

「ほら、流浪の年数なんてさして関係ないのよ。」

「ねえ、境界ってパルシア語でuitenviront,zergesurroundmentで良かったわよね?」

「その二つくらいだな。どちらも同じく非分離前つづりがついてる。」

「この場合だとuitとzerね。」

「そう。動詞の構造も一緒だな。非分離前つづりが囲むを意味するそれぞれの単語に属性を与えている。」

「非分離前つづりは前置詞のなり損ねと聞いたことがあるわ。パルシア語史を研究した覚えはないからよくは分からないけど。」

「いや、あってる。例えば分離動詞の起床するはご存知の通りjichse berstehenなんだが、このberは上に、とか~についてだとかを意味する前置詞だ。前のjichseはいわゆる再帰の単語で無視して。」

「付言するくらいなら最初から再帰を用いない動詞を例えに出しなさい。」

彼女はああ見えて案外ツッコミ上手なのかもしれない。にしても、先から此方に照りつける視線が一段と眩しくなってきた。彼女の方で私を認めてくれたという合図なら光栄なのだが。

「興奮で口が踊って、つい饒舌になってしまった。」

「まあいいわ。ところでこのoitとzerの意味って何だったかしら。」

「その通り境とか分けるの意味だよ。」

「そういう意味じゃない。それぞれのニュアンスについて尋ねてるのよ。なぜわざわざ同じ意味を指し示す接頭辞が二つもあるのかしら。」

「分からないから曖昧にぼかしたんだ。とはいえ境界という言葉もなかなか多義的だからなあ、文化的とか地理的とか、私的領域とか公的領域の違いとかじゃなかったか?」

「じゃあとりあえずこの二つの接頭辞、もとい非分離前つづりが付されているラゾーンネの街に印をつけましょう。ここにはラゾーンネと改称もある。強い味方よ。」

「それにもともとラゾーンネは菱形みたいな形をしているから、四隅を探せば見つけるに苦労はしないだろう。」

「そうね、現に四つ角すべてにuitまたはzerが用いられているわ。」

「目星をつけたは良いが一つ一つ虱潰しに回っていくつもりか?もうすでに資料材料は失せていて、ラゾーンネ、いや山都のイデオロギー体制に繋がるようなものは何も残ってないかもしれないのに?」

「それでもやってみる価値は十分にあるわ、貴方車は出せる?」

「俺は文化資本には恵まれていたが、資本家階級の生まれじゃないんだ。君こそ良い所のボンボンではないのかね。車の二台や三台は買い与えられていると思ってたが。」

「嫌味な言い方ね、わざとなのかしら?此方ではもうすでに心の壁を取っ払ったつもりでいるのに。それに私は親の援助はなるべく受けないことにしているの。GIWの授業料なんか一銭たりとも払った覚えがないわ。そこら辺の環境、まあ上質な教育を受ける機会に恵まれただけの人たちと一緒くたにされては困るのよ。」

彼女の人生上で度々起こる苦労を仄めかした発言に私はたじろいだ。だが同時に、高貴なものに備わる純潔なプライドを垣間見ることが出来て心が弾んだ。私は軽はずみに来世は水島篝になりたいなどと口走ることがないようしっかりと心張棒を立てておいた。美人には美人の悩みがあるのだ。

「年度末のたびに成績通知書の隠ぺいを目論む俺と同じ場にいて同じ空気を吸っていることにご腹立なさったりはしませんでしょうか。」

「腹は立てない、むしろ人に対する警戒心と蘊蓄には畏敬の念さえ覚えるわ。通知書に可と不可ばかりが並ぶのもどうせ寄り道ばかりしてるからでしょう。毎週顔出せば優と良くらいきっとすぐに来るわ。」

「少なくともパルシア法思想史とゼミは毎回出るだろうから今期は期待できる。」

「あっそ。ところで話を元に戻すけど、私は車も免許も持ってないわ。」

「俺も持ってない、150㏄のバイクは持っているがね。高速も走れるし、窮屈にはなるが二人乗りだってできる。いざとなれば後ろに乗せることだって。」

「二人乗りするくらいなら自分で免許を取るわ。にしても、この車社会のご時勢にもかかわらずバイクにこだわるのはなぜなのかしら。」

「言明するまでもない、乗ってみれば分かる。」

「ふん。ところで免許ってどれくらいで取得できるの?」

「最近ようやく法整備が行き届いて最短二週間で取れるようになった。族議員とパルシアの二輪車産業のおかげかな。」

「分かったわ。それじゃ二週間後、ゼミ終わりにまた計画を練る…ための時間を設けることにしましょう。」

「何だその翻訳文みたいな言い回し」

「つっかえただけよ。」

「じゃあ方針も定まったことだし、レジで会計でも済ますとするかな、今日は俺が持とう。」

「勝手に貴方の分も頼んだのはこの私なんだから、私が持ってしかるべきだわ。それに貴方、コーヒー苦手みたいだし。」

彼女はコップ一杯になみなみ注がれたまま、誰の胃袋に押し流されることもなく熱を失ったコーヒーを見ながら言った。

「別に珈琲が苦手なわけじゃない。話に華が咲いて飲むタイミングを見つけられなかっただけ。そっちこそ、大人の女を演出するためにやせ我慢したのかと思った。」

私は自分のと瓜二つの向かいのコップを見ながらそう返した。ふと背すじを伸ばして店内を見渡すと先の女の給仕が暇そうに床の掃除をしていた。閉店作業であろうか。時計の針は長針短針共に10の付近を指していた。

「あらもうこんな時間、今日はもうそろそろお開きにするわ。」

彼女はそう言って、冷めたノーマタングリブルーを一気飲みした。それから

「じゃあそういう訳だから。これからもよろしく。」と付け加えて立ち上がった。

「俺もこれからやって来る冒険や苦労や波乱が待ち遠しい。」

あえて宜しくという言葉は使わなかった。私は手元にあった同じ珈琲を一口飲んで、またテーブルの上に置いた後、おもむろに立ち上がり伝票を片手にレジの方へ向かった。

 彼女の案内で風俗街を避けるルートを通り、無事に駅に着いた。時はすでに22時を回っていて、漆黒に覆われて蒼惶たる様を呈した灰のような雲が霏々とした雨を落とし始めた。

「今日はありがとう、じゃあまた二週間後に、、、雨降ってきたから帰り道には気を付けて。」

「ああ。そちらも風邪を引かないように。」

 水島篝の連絡先を聞き忘れたことに気づいたのは、最寄りの駅について無料の駐輪場に止めておいた自転車のカギを探していた時であった。自転車を漕ぎ始めてからしばらくの間押し寄せる内省に身を委ねていたが、それから少し経って、彼女の方でも同じミスをしていたことに気づいてからは、ペダルを踏む足にありったけの力を籠めて漕ぎ、闇夜の中で快哉を叫びながら帰った。























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