第七話:崩れていく日常
「だああっ、もうっ!」
俺はリビングに入るなり、鞄を壁に投げつけた。苛々はピークに達していた。理由は、当然此の村紫という女のせいだ。結局あいつは玄関先まで付いて来やがったのだ。
『私のことは気にするな。飯も排泄も関係ないしな』
何より言い方が下品だった。
「くそっ」
少しでもあいつと浅葱が似ていると思った俺は阿呆だ。浅葱はあんな物言いはしないし、他人を尾けたりもしない。全然、違う!!
「…洗濯もん、乾いてないだろうな」
お袋もいい加減乾燥洗濯機を買えば良いのに、と思う。
そして明らかに乾かない日に野外に干すのが今一理解出来ない。
取り敢えず頼まれ、引き受けたからにはやり遂げねば。俺は鞄を床に放置したままで二階に上がる。洗濯ものを干しているベランダは、南に面した姉貴の部屋にある。昔はお袋が部屋に出たり入ったりするために姉貴は嫌がっていたが、大学生になって家にいない時間が増えてからは一切苦情を言っていない。俺はベランダに出て洗濯ものに触れてみた。冷たい…いっさいがっさい乾いていない。俺はため息をつきながら、洗濯ものを取り込んでいく。これを部屋に干し直すことを思うと、なんとなくやるせない気持ちになった。
「よし、こんなもんで良いか」
リビングに洗濯ものを干し終え、俺はソファーにどっかりと腰を下ろした。指先が冷えてたから、両手で揉み合わせる。そういやカレーを解凍しないといけないんだったか。まあでもまだ腹は減ってないし、親父たちも遅いし準備は良いだろう。何してようか、と思いながら鞄を漁る。何か宿題が出ていた気がするんだが…。数学だったか、英語だったか、と教科書を捲ったりしていると…、ピンポーンと軽やかなチャイムの音がした。誰だろうか、と時計を見ると、午後五時半を回っていた。冬は日が短いから時間感覚がなくなる。
「はいはい」
ドアを開けると、
「真由理ちゃん」
真由理ちゃんだった。制服だから、今帰ってきたのだろうか。真由理ちゃんは唇を引き結んで、立っていた。目元が強張っている。
「真由理ちゃ…」
「上総さんをとられるみたいだから、言わないでいようと思ったけど、」
「は?」
「男の子に嫉妬してるなんて、恥ずかしいし」
真由理ちゃんは何かに急かされるように喋っている。だが、目元はぼんやりで。真由理ちゃんが何を言おうとしているのか…
「浅葱空良さんに会いました」
「なっ!?」
浅葱に、会った…?何で真由理ちゃんと、浅葱が?何故?俺は混乱する。
「上総さんのこと、気にしてましたよ。でも、会うのが怖いみたいでした」
違う。脳内で何かが警鐘を鳴らす。今目の前にいるのは、真由理ちゃんであって真由理ちゃんじゃない。なら、誰だ?真由理ちゃんがうっすらと笑う。
「お前、誰だ」
「場所はぁ、辻村書店の横の喫茶店」
「真由理ちゃ、」
「確かか」
「!」
しまった。真由理ちゃんの異変に気を取られて、俺は此の村の存在を忘れていた。此の村紫は、静かに真由理ちゃんの背後に影のようにひっそりと、存在していた。
俺は真由理ちゃんを逃がすべきだと思ったが、此の村は真由理ちゃんに危害を加えることはなく身を翻えして、さっさと駆けて行った。
「っ、」
絶対追った方が良い。浅葱が危ないという予感があった。此の村はハッキリと言っていた。浅葱を見つけたときは、殺すと。俺は真由理ちゃんを押し退けるようにして外に出ようとした。だが、
「上総さん、行かないで!」
「ちょ、」
ぐいっ、と襟首を掴まれ俺は真由理ちゃんの腕の中に引き込まれていた。真由理ちゃんらしからぬ行為に、俺は動転する。不意にオレンジの香りがしたが、香水かなにかだろうか。
「行ったら、だぁめ」
「まっ…!?」
真由理ちゃんの唇が俺の唇に押し付けられた。突然の行為に、俺は為す術もない。
「う…んっ!」
舌が口内に進入してくる。真由理ちゃんの手が、俺の足を撫で始める。
「……っ!!」
真由理ちゃんではない。でも体は真由理ちゃんで、俺は訳が分からない。もしや二重人格とかいうやつか、と俺はそんなことを思う。だが真由理ちゃんの手が、ズボンの中に入ってきたときには激しく抵抗した。
「真由理ちゃん、やめろっ!!」
悪いと思いながらもドンッと真由理ちゃんを押す。真由理はたたきに腰を打ち付けたが、痛そうな顔を全くしていない。俺は唇を袖で拭って、はあはあと荒い息をはく。真由理ちゃんはにやにやと楽しげに笑っている。
「誰だ、お前。真由理ちゃんに何をした!!」
「さぁ、何でしょうか」
「くっ…」
「あ、浅葱空良を助けに行きたくて仕方ないって顔してるね」
「分かってんならそこを退けよ!」
真由理ちゃんは、スッと立ち上がって泰然と微笑む。その余裕のある笑みがかんに障る。
「安心して。浅葱空良を傷つけることはできても、殺すことはできないよ。此の村紫にはね」
「何…?」
「だから、安心して私と良いことしましょう」
「!?」
真由理ちゃんがまた俺にキスをしてくる。俺は彼女を振り払おうとしたが、急に足から力が抜けて尻餅をついた。
「な、に…」
「良いから。次に起きたとき、何らかの結果が出てるから」
「…っ」
眼が霞む。意識が遠退く。真由理ちゃんが俺に指を伸ばしてくる。彼女が何をするのかを見届ける前に、俺の意識は完全にブラックアウトした。