第六話:古傷
僕は一体何をしているのだろう。何が、したいのだろう。
「……あの、どうかしたんですか?」
「あっ、ご、ごめんなさい」
すぐに謝る癖も、ずっと変わらない。
「私は構わないですけど、何だか顔色悪いみたい…えっと、浅葱さん…でしたっけ」
…僕はこの子に本当の名前を教えていた。馬鹿だと思う。彼に、…蘇芳君に嫌われたくない・不気味がられたくない一心で、七ヶ月前は逃げ出したのに、またこの地に舞い戻っては蘇芳君に近しい人と会っている。どうしようもない馬鹿者だ。目の前の子は、落ち着きはらった眼で僕を見ている。
「浅葱さんは、上総さんの知り合いなんですか?」
真由理さんは湯気の立ち上るマグカップを両手に持ち、訊いてくる。
「知り合い…そうなのかな」
蘇芳君はまだ僕のことを友達だと思ってくれているのだろうか。あんな、常識を疑うような別れ方をして。ちゃんと挨拶も出来なかった。
「浅葱さん?」
「あっ、」
また真由理さんを置いて考え込んでいたらしい。一体僕は何をやってるんだろう…。嫌になる。
「すみません…」
「……」
真由理さんに見つめられ、思わず俯いてしまう。人から見つめられるのは苦手だけど、特に女の人はもっとダメだ。どういう顔をしたら良いのか分からなくなる。蘇芳君なら…
「浅葱さん…下の名前、もしかしてソラって言いません?」
「!どうして、」
もしかして、“彼ら”が迫っているのか?僕は緊張に鼓動を早くする。だが、真由理さんが続けた言葉は、違った。
「私上総さんとは家が近所で、仲良くしてもらってるんですけど、上総さんからあなたのことを聞いたことがあったんです。浅葱ソラっていう仲のいいダチがいるんだ、って楽しそうに」
「…っ、」
胸が痛む。
「あまり詳しくは聞いたこと、ないですけど。中学で知り合ったことと、今言ったことと」
……つまり同じ高校に通っていたことを真由理さんには言っていないことになる。言う必要はないと思ったのか?
「大体五ヶ月前くらい前に聞いたのかな。確か体育祭の練習が始まったくらい頃だったので」
「!?」
五ヶ月前?僕は耳を疑う。そんなの、僕がいなくなって二ヶ月も経っているじゃないか。だから同じ高校にいたことを話してないのか。それに、あんな形で姿を消した僕のことを“仲のいいダチ”と真由理さんに紹介した。
…どうして、そんな
「あ、浅葱さん?泣いてるんですか?」
「ご、ごめんなさい」
真由理さんがいるのに、涙が拭っても拭っても止まらない。泣き虫なのも変わらない。
「上総さんには会わないんですか?」
当然の問いに、僕は咄嗟に返事が出来なかった。
「浅葱さん?」
「今日は会えないんです」
違うだろ、と僕は心中で自嘲する。会えないのではなく、会ってはいけないのだろうに。
「上総さん、喜ぶと思いますけど」
真由理さんは何処か素っ気ない口調でそう言った。夕闇迫る外に面したガラス窓に彼女の横顔が写りこんでいる。芯が強そうだ、と僕は何となくの感想を抱いた。真由理さんが腕時計を見て、慌てる。
「もうこんな時間。すみません、部活出ない日に帰りが遅いと親がうるさいので」
「そう、ですね。もう暗いし…」
家まで送ります、と言いかけて思い止まる。ダメだ、さっき蘇芳君と近所って言ってたじゃないか。蘇芳君に会う危険がある。それを言うなら学校に行くのも不味いとは思うが、真由理さんに不信感を抱かれないためにはああした真由理さんが普段行き慣れてる、かつ大衆の視野の行き届く場所が良いと考えたのだ。
「浅葱さん、上総さんに会うのが怖いんですか?」
「…えっ?」
真由理さんが意味深に、微笑む。対象のすべてを見透かしたような、笑み。僕は体を硬直させ、固唾を呑んで真由理さんを見返すしか出来ないでいる。真由理さんが、僕の胸元に指を伸ばしてきた。僕は動けない。指が、つうと僕のシャツの胸元をなぞる。
「真由理さん!」
「!あ、あれ?」
彼女の名を叫んだ瞬間、真由理さんが眼をパチクリとさせ、自分が何をしているのかに気付いて赤面する。
「えっ、ご、ごめんなさい。私何をしてるんだろっ…」
今のは、と僕は顔を強張らせる。ふわっ、と甘いオレンジのような匂いが漂う。真由理さんは、ごめんなさいっ、と礼をして一目散に去っていった。
「……」
僕はすとん、と椅子に腰を下ろす。
『可愛い鳴き声、お姉さんに聞かせてみなさい』
「……っ」
過去の古傷が痛む。体、心両方の。体に指が這っている感覚を思いだし、僕はただ俯いて耐えるしかなかった。