第三話:過去とこれから
「なぁ、お前ってあの子と知り合いだったのか?」
「だからあんなやつ知らないって。川下、お前しつこい」
「川下、蘇芳静かに。授業中だ」
数学教師の山王丸(仰々しい名字だが、山王丸自身はひょろい体格で威厳はほとんどない)に注意される。怖くも何ともないが、注意されて喜ぶような性癖は俺にはない。
「川下黙ってろ」
「へいへい」
真面目に授業を聴く気が初めからない川下は、つまらなそうに唇をへのじにしてノートに落書きを始めた。これで学年三位を常にキープしているのだから、人生とは実に不思議なものだと俺は思う。
それにしても、何なんだあの女は。感情のこもらない眼で俺を見下ろし、淡々とした口調で訊いてきた。その内容に、俺はひどく動揺した。
『浅葱空良はどこ』
そんなの俺が知りたいと思う反面、こいつは浅葱について何か知っているんじゃないかと勘繰った。浅葱が失踪した理由や、七色の閃光のこととか。だがこちらが質問する余裕はなかった。岩佐が慌てたように転校生を席に座らせ、ホームルームを始めてしまったからだ。今日は連絡事項が多く、ホームルーム終了後すぐ一時間目ーつまり今行われている数学ーが始まってしまったからだ。
「で、ここで加法定理を使うから」
全く授業に集中出来ない。俺はため息をついて、シャーペンを置いた。細やかな授業放置だ。
浅葱と出会った頃の眼が、あの転校生とかぶって仕方ない。
『どうして助けた』
感情のこもらない浅葱の声が甦り、俺の意識は二年前の夏に飛んだ。
二年前の夏、俺はごく普通の中学三年生として毎日を過ごしていた。
高校入試に向けてぼちぼち準備を始めていた頃だったと思う。
そんな中俺のクラスに転校してきたのが浅葱空良だった。
一目見たときから、不気味なやつと俺は思っていた。
体は細く、顔も中性的で可愛いらしい外見をしていた。
ーだが一切笑わない青白い顔と、力のない虚ろな瞳が不気味でしょうがない。男子は不気味がり、女子の中には話しかける者もいたが、浅葱は何の反応も返さなかった。こりゃ、いつか苛められると俺は思っていたが、本当にそうなった。しかも俺はその場面に出くわしてしまったのである。確か夏休みまであと一週間をきったあたりの放課後だったと思う。
「お前、気持ち悪ぃんだよ」
「変な眼で見やがって」
先生たちも手を焼いている二年生の不良三人に浅葱は囲まれていたが、ピクリとも表情を変えない。
俺はおっ、と思う。
実は喧嘩とか強いのかも、と思いそれなら助けるのは失礼かな、とあの頃から変わっていない変な思考で俺は見守っていたのだが、…やはりというか、なんというか浅葱は弱かった。あっという間に羽交い締めにされ、二人に殴られるままだ。しかしそれでも浅葱の虚ろな眼は変化することなく、不良たちを見ているだけだった。いや、彼らを見てすらいなかったかも知れない。
「気持ちわりぃな」
俺も気持ち悪くて、なかなか助けに行けなかった。不良よりも、浅葱のほうに恐怖を感じていたからだ。だが不良の一人が浅葱のベルトに手をかけ、今まで眉一つ動かさないでいた浅葱の眼に微かに怯えが走ったように見えた瞬間、俺は飛び出していた。
「お前ら、何してんだ!」
「あ?」
不良全員の眼が俺に向くが、怖くともなんともなかった。
「あんた、三年の…。何か用っすか?」
「止めろよ。怯えてるだろ」
俺の言葉に、三人が笑う。
「センパイ、冗談キツいっすね。こいつが怯えてる?こんな能面みたいな表情して?」
一人が浅葱のズボンを脱がそうとしたので、俺はそいつの手を掴んだ。不良三人が剣呑な目付きで俺を睨む。
「あんたウザいよ」
「奇遇だな。俺もお前らがウザいと思った」
「!」
ひゅっ、と振られた腕を難なく避けて俺は逆にその腕を掴んで捻り上げた。
「いっ、いでででで!」
「てめえ!」
他の二人が襲いかかるが、俺は腕を掴んだままにそいつらの腹に蹴りを叩き込んだ。不自由な姿勢で放った蹴りは、しかし充分にクリーンヒットだったらしい。呻き、一人が吐瀉物を撒き散らす。
「大人しく退散しろよ。腕、折るよ」
「や、やめろっ!」
「せぇの、」
本気で折ろうと思った訳ではないが、牽制の意味を込めるためにもう少し力を加える。
「野郎!」
俺の蹴りから立ち直った一人が拳を振り上げるが、
「……」
ずっとだんまりを決め込んでいた浅葱が俺とその拳の間に体を割り込ませた。唖然とする俺の前で、浅葱の頬に一発入る。がつん、と物騒な音がして、浅葱は尻餅をついた。
「ば、馬鹿!何やってんだよ!」
俺は慌てた。助けに入ったのに、これでは本末転倒だ。
「…気に入らないのは、僕でしょう」
俺は眼を見張った。あの浅葱が、転校初日の自己紹介から何も話さなかった浅葱が今喋った。意味のある言葉を、喋った。
「だから、あなたが殴られる必要はない」
全く抑揚のない口調で言われても戸惑うばかりだ。思わず不良の腕を掴む手から力が抜けるが、不良もぽかんと浅葱を見ており逃げる気配がない。今喋った、と驚いた顔が物語っている。浅葱は続ける。
「だから、僕を抱きたいなら抱けばいい」
「!?」
浅葱がシャツの釦を外そうとしたので、俺はまた馬鹿!と罵って止めさせる。浅葱がぼんやりした眼で見上げ、不思議そうに微かに眉を寄せた。
「あ、頭おかしいんじゃねえの。こいつ、」
抱きたいなら抱けばいい、と言われた不良たちは不気味そうに浅葱を見て
「い、行こうぜ。気持ち悪い」
そそくさと退散して行く。俺は奴等を見送る、ということはせず浅葱に怒鳴る。
「何考えてるんだ、お前!!何言ってるか分かってんのか!?」
「……」
浅葱は答えない。まただんまりかよ、と俺が内心で嘆いた時、
「どうして助けた」
と平坦に言われた。問いではなく、確認しているような口調。
「どうして助けた」
「え、えっと」
「……僕に恩を売りたかったのか?」
「!」
カッとなって、思わず浅葱に手を出しそうになった。だが寸前で踏み止まり、代わりに浅葱の無表情を睨み付ける。浅葱はじっ、と俺を見返す。その眼の奥に微かに不安そうな色があることに俺は気付いた。何で気付けたのかは未だに不明だが、ただの偶然だったのかも知れない。
「そうだよ」
「……」
浮かぶ哀しみの色。
「…っていうのは嘘」
「……」
「助けたかったから助けた…っていうのじゃ駄目な訳?」
「……」
今度は驚きか。
「何か喋れよ。ロボットと話してるような気分になるだろ」
「……」
「あぁもう良い。俺は帰る」
鞄を拾い、何となく浅葱の黒髪を撫でて立ち去ろうとした。だがシャツの裾を掴まれ、足を止める羽目になる。
「浅葱?」
「…からないんです」
「あ?」
「打算も何もなしに助けてもらえたことないから、だから助けたいから助けたって言われたら、どう反応したら良いか分からないんです」
浅葱が長文を喋ったことと、話の内容に俺は驚く。
「どう反応したら良いんですか」
全くの無表情で訊かれる。俺はそれでも浅葱が必死なのが分かった。こいつはただ不器用なだけかもしれないと思う。不器用過ぎる気もするが。
「…んなの、ありがとうって言えば良いんじゃねえの?や、別に感謝されたいから助けるっつう訳じゃないんだけど…」
自分で言っておいて、俺は慌てた。もっとうまく言えたら良いのに。
「…つまり、あなたは打算的に僕を助けたのではないってことですか?」
打算的って…と俺は呻く。何か同い年と話してるような気がしない。
「まぁ、な。助けたいから助けたってだけ。お前、怯えてたし」
…というよりそう見えた、という俺の主観なわけではあるが。
「怯えてた?僕が?」
「そう見えたっつうこと。何だ、プライドが傷付いたのか?」
「そういう…訳じゃないですけど」
何か深い事情がありそうだな、と俺は心中で嘆息する。同時に長い付き合いになりそうだと言う予感もあった。
「怯えてた、僕が」
自省を始めたらしく、浅葱は何やらぶつぶつ呟き始めた。俺の声に反応しないので、肩透かしを食らった気分を味わいつつその場を後にした。
今思えばよく二年間も親しく付き合ったな、と思う。そして出会ったころには考えられないほどに、浅葱は感情を表すようになった。笑い、泣き、怒り。
『この二年間、本当に幸せだった』
七ヶ月前の、あの時の言葉。今も頭から離れない。不器用な親友は元気でいるだろうか。今何処でどうしているのだろう。もう会うことはないのだろうか。
「……?」
不意に視線を感じた。誰かに見られている。俺は周囲を見て、視線の主を悟る。二年前の浅葱と同じように感情のない眼で俺を観察しているのは、転校生の女だったのだ。確か此の村紫という名前。俺は睨み付けたが、全く効果はなく此の村の視線は俺から一ミリもぶれない。
「……っ」
そのうち、見られていることに苛立ちと不安を感じて来た。
思わず怒鳴りつけようとした瞬間、授業終了を告げるチャイムの音が鳴り響き俺の衝動を霧消させた。同時に此の村の視線も俺から外れる。俺は悟る。あの女は浅葱を探している。探っている。それなら都合が良い。あいつが知っている浅葱のことを何としても聞き出してやる。俺はそう決意を固め、密かに拳を握り締めた。
この時はまだ知らなかった。この時の俺のこの決意が、浅葱をひどく苦しめることになることを。