第一話:日常
二月も半ばに入り、俺の住む簗瀬町は雪を見ない日はないことが続いていた。
「上総、さっさと片しちゃってよ!片付かんから」
俺はお袋にケツを叩かれるように急かされ、機械的に朝食を口に運んでは、機械的に咀嚼していた。
時刻は六時五十分。
親父は車で一時間以上かかる職場に通勤しているし、大学生である姉貴は電車で一時間半もかかる国立大の学生である上にサークルの朝練が毎朝のようにあるので、どうしても蘇芳家の朝は必然的に早くなる。徒歩十五分の私立高校に通う俺としては良い迷惑だ。面倒くさがりのお袋は、朝食をいっぺんに作るので冷えたもの、もしくは温め直したものが嫌なら早く起きるしかない。
「上総、今日は部活?」
洗い物をしながら、お袋が訊いて来る。俺は寝ぼけ眼でお袋を見返し、
「今日は部活なし。すぐ帰る」
と答える。
「母さん塾があるから、家のことよろしくね。前に作ったカレーを解凍して、あとご飯三合炊いておいて」
「ん」
お袋はお袋の昔馴染みが開いている私塾で添削の手伝いをしている。そういや、今日は金曜日だっけか。金曜日、と自分で認識しておきながら忘れようとしている記憶をまざまざと思い出して小さく舌打ちする。あれから七ヶ月、と思わず考えてしまう。
「御馳走様」
食べ終わった朝食の皿をお袋に渡し、俺は洗面所へ赴く。スリッパを履いていない足裏から、フローリングの冷たさが伝わって来る。冷え症な姉貴は夏でも靴下を履いてスリッパも履くが、家で一番寒さに耐性のある俺は年がら年中裸足だ。裸足のほうが気持ち良いと思うし。
「今日もいいかんじに冷たいな」
相変わらず自分でも理解できないことを呟きながら、俺は蛇口から流れる水で目覚ましの意味も込めて顔を洗った。
俺は必ず六回きっかり洗う。
特に六という数字にこだわりがあるとか理由があるとかいうわけではない。ただ何となく、という理由で中学生の頃から続けている俺の数少ない取り決めだ。洗顔の後は歯磨きだ。辛いと評判の歯みがき粉であまり時間はかけずに、だが歯医者に教えられた通りのやり方で磨く。ちなみに虫歯は小学生で治療して以来一切出来ていない。これは少し自慢だったりする。些細な。
「……」
口をゆすいだ後は、自室に戻って少しだらける。
徒歩十五分だから、ホームルーム開始の二、三分前に着けばいいので通常なら八時十五分くらいに出ても悠々間に合うからだ。雪が降っていることを考慮すれば、八時過ぎに出たほうが良いかも知れない。俺はベッドに寝たりはせず、凭れてラジカセの電源を入れた。ダチの三田村お勧めのCDが入ってるから、それを再生させる。雪の降る静かな朝にはあまり似つかわしくないロックが部屋に響く。
♪なくしたくないものがあった。それはとても大切で、でも粉々に壊れた。硝子細工みたいに♪
(硝子細工、か)
七ヶ月前の“あの時”もそんなことを思った。あいつの笑顔は、硝子細工みたく透明で今にも壊れそうだった。
(ダメだ、やっぱり思い出しちまう…くそっ)
俺は心中で呻き、いつもと変わらない天井を見上げた。意味はないけど。
「ん、」
枕元の携帯が着信を告げる。三田村からのメールだ。
『蘇芳へ。今日風邪引いたから学校休むわ。CDはまた今度返して。じゃ』
絵文字は全くなく、用件だけが短く綴られている。三田村、風邪ひいたのか。三田村は風邪を引きやすいと思う。多いときは夏でも月に三回は風邪で休んだことがあった。俺は風邪を引いた記憶が最近はない。些細な自慢その二、だ。…どうでもいいか。俺は膿んだため息を吐き出し、眼を閉じた。暖房を入れていない室内はひんやりとしていたが、この冷たさが俺は好きだ。空気を鼻から吸い込む。
(蘇芳君は寒いの平気なんだね。羨ましいなぁ)
……今日の俺はどうかしちまったのか。あいつのことばかり思い出す。思い出したくないのに。脳裏に甦る、七色の閃光と、大地を揺るがすような轟音。その中で俺は意識を失った。奴のー浅葱空良の
「さよなら」という言葉を遠くに聞きながら。それから浅葱がどうなったかは知らない。俺はその日から三日間はずっと目覚めなかったらしい(お袋談)。だが回復した後であの時あったことをお袋やご近所さんに訊いて回っても、七色の閃光を見た、だとか、すごい音がしたって言う人間が一人もいなかった。ただ俺が道路のど真ん中にぶっ倒れていた、という証言しか得られなかった。
「一体何だったんだろうなぁ」
返事がないのは分かりきっていたが、それでも声に出さずにはいられなかった。
俺は考え事をして時を潰し、七時四十五分くらいから支度を始めた。お袋がアイロンをかけてくれた白のカッターシャツに袖を通し、濃紺のスラックスを履く。シャツの上から肌色に近い色のニットベストを着、仕上げにブレザーを羽織って完成。
「まだ八時前だけど、行くか」
鞄に携帯を突っ込み、部屋をでる。
「じゃあお袋、行ってきます」
お袋は今から洗濯を始めるらしかった。
「ん。雪降ってるから、転ぶんじゃないよ」
「ああ」
お袋にヒラヒラと手を振り、俺は淡雪の舞う外に一歩を踏み出した。