第十一話:逃げた訳じゃない
浅葱が泣くのを見るのはこれで三度目だな、と俺は遠ざかる意識の中で思っていた。
一回目は、高校入試の合格報告に行った、春休みの中学校で。
二回目は、あの七ヶ月前の別れの時。
そして三回目は、いま。俺が刺されたとき。浅葱の光のない眼から、何滴もの涙が溢れ落ちる。泣かせた罪悪感が、俺を苛む。浅葱が何か言っているが、よく聞こえない。聴覚が完璧に麻痺している。次いで、何本もの足が視野に映り込む。見れば、真っ赤な光が夜を赤に染めている。微かに積もった雪が、血みたいに見える。赤いのは、救急車のランプらしかった。
誰かが救急車を呼んだのか。
周囲には人だかりが出来ているが、浅葱は座り込んだままだ。
寒さのせいか、小さな体が小刻みに震えている。
きっとズボンも濡れてぐしゃぐしゃになっているに違いない。
風邪ひくぞ、と言ってやろうとしたところで浅葱が救急隊員二人に肩を掴まれた。俺も担架に運ばれそうになる。治療を拒むわけではないが、何となく浅葱を保護されるのはまずい気がした。理由なんてなくて、ただの直感だ。浅葱は俺を見つめたまま、身動ぎ一つしない。なのに涙は涙腺がぶっ壊れたかのように流れ続ける。
「あ…ぎ、」
辛うじて出せた言葉はそれだ。
我ながら情けなくなるが、腹を刺されたのだ。
誉めてほしいくらいだ。それに刺された直後くらいに話したし。ぴくり、と浅葱が反応し、眼が覚めたみたいな顔になる。救急隊員を見上げ、怯えたように隊員の手を払う。聴覚が馬鹿になっているから、浅葱が何を喋っているのか、全く分からない。声も満足に出せない。俺は大人しく担架に運ばれるだけで、何も出来ない。久しぶりに会ったのにこれかよ、と俺は内心、臍を噛む。救急車に乗せられ、隊員に声をかけられる。だが聴覚が死んでいるから、口パク。俺には全く意味を成さない。それより腹が痛い。痛すぎて笑えてきた。
「………?」
だから聞こえないっつうの。くそっ、つうか誰だよ、浅葱をあんなに痛め付けた奴は。絶対に仕返ししてや。俺は俺を刺し、そして浅葱を痛め付けた女顔のあいつを罵倒しながら、意識を失った。
「君は大丈夫?」
そう声をかけてきた男は、てっきり救急隊員の一人かと思っていた。僕は放心状態で彼の言葉を聞き流し、蘇芳君を見ているだけだった。でも蘇芳君が何か言いたそうな顔で僕を見て、途切れ途切れに僕の名前を呼んだ時、僕の中で何かが警鐘を鳴らした。でも気づいたときには遅くて、同じ格好の二人組に両腕を拘束されていた。
「…ちょ、放し…っ」
「静かにしろ。…しかし手酷くやられたな、此の村紫」
「!?」
僕を襲撃し、凪君に打ちのめされた女の人とこの男たちは知り合いのようだった。僕の前に、その人ー此の村紫さんが立った。彼女も頭から血を流す程の怪我なのに、蘇芳君を救急車に乗せた救急隊員たちは此の村さんに一切の注意を払わなかった。どうして、と僕は混乱する。その混乱が分かるのか、此の村さんがふん、と鼻を鳴らして不敵に笑った。
「今の奴等は“滅死人”の息がかかってるからね。どうせ私は放置していいとでも言われたんだろうさ」
忌々しげに口元を歪め、地面に血の混じった唾をはく。
「さ、て。あんたはどうしようかな」
「…っ」
身動き出来ない僕を、此の村さんが舐めまわすように見る。拘束を振りほどこうとしても、体と心の疲弊でうまくいかない。
「はな…してっ、」
蘇芳君があんな状態で必死に僕に危機を教えようとしてくれていたのに、僕はもう捕まっている。情けなさに涙が出そうになる。
「良いね、その今にも泣きそうな顔。私女だけど、何かそそられるなぁ…」
「ひっ、」
首筋を生温い舌で舐められ、思わず悲鳴を上げた。膝が笑う。
「ひっ、だって。感情なんて知らなかった昔とは違うね。…蘇芳上総のせいかな?」
僕は恥ずかしくて居たたまれなくなる。救急車で運ばれ、僕より重傷の蘇芳君に、心の中で助けを求めてしまう。
「どうする?此の村。このまま拘束するか?」
救急隊員の格好をした“組織”の人間が、此の村さんに問う。その間も、僕を拘束する手の力は緩まない。此の村さんは頭から血を流したままで黙考する。…痛くないのかな、と僕は場違いにも相手の心配をしてしまう。
「う〜ん、それでも良いのだけどね」
此の村さんが行動に移る前に、何とかしてこの場から逃げ出さなければ。周囲にいる野次馬は“組織”の人間だとはすでに気づいているから、包囲網は強硬だ。だけど、このまま指をくわえて“組織”に連れ戻される訳にはいかない。僕は呼吸を整えて、行動するタイミングを狙う。が、
「解放してやれ」
「えっ、」
「何だ、嬉しくないのか。あ?」
「な、何で…」
此の村さんはふふんっ、と鼻を鳴らして僕を突き飛ばした。なすすべもなく地面に倒れた僕のお腹を無造作に蹴ってきた。
「うっ、ぐっ……!」
「弱ってるのをいたぶるのも好きだけど、今日は興醒めした。だからまた逃げる時間をやる。逃げて逃げて、…死ねば良い」
僕の心に、此の村さんの言葉が無慈悲に響く。
「七ヶ月前に蘇芳上総の前から逃げたみたいに…ねぇ」
「ちがっ、逃げた訳じゃっ……」
「黙れよ、卑怯者」
此の村さんは僕の言葉を一蹴し、途端に憑き物が落ちたかのように無表情になった。
「行くよ」
乾いてこびりついた瘡蓋を剥ぎながら、此の村さんは二人の部下を引き連れて立ち去る。その背中は二度と僕を振り返ることはなかった。
「ちが、僕は…逃げた訳じゃない……」
小さく呟きながら、僕は溢れる涙を止めることが出来なかった。