第九話:過去と、焦燥と、
『浅葱って、最近よく笑うようになったよな』
俺は何気無い口調で、特に意図もなく言ったのだが、浅葱は眼を見開いて『え』と掠れた声を漏らした。てっきりそうかなぁ、と流されると思っていた俺は、予想外の反応に少々面食らった。
『俺、何か変なこと言ったか?』
浅葱は眼を伏せ、俺から視線をそらせた。憂いをまとった眼が、桜の木に向けられている。季節は春。遅咲きの桜がようやく咲き誇った頃。そうだ、確か高校入試の合否結果を高校まで見に行った帰りだった。
浅葱と出会ってから七ヶ月ほど経っていた。合格を確かめた俺たちは直ぐに帰宅する気にはなれずに、中学に行き担任に報告を済ませた後で中庭に居座っていたのだ。一本の桜の木が鎮座しているだけの、特に面白味もない庭と呼ぶのも烏滸がましいくらいの空間。春休みで部活に励む下級生くらいしかおらず、構内はひっそりと静まっていた。
『お、俺、何かまずいこと言ったか?』
浅葱はゆるゆると首を左右に振る。そういうのじゃない、ということか。俺はうぅむ、と唸り浅葱を見ていたが、不意に浅葱の瞼がほんのり腫れていることに気付いた。そういえば一週間くらい浅葱とは会わなかったが…。
『おい』
俺の声音の変化に気が付いたのか、浅葱が微かに肩を震わせた。
『また吉川たちに苛められたのか』
『……』
沈黙が全てを物語る。吉川というのは、転校したてだった浅葱を校舎裏に呼び出した不良のリーダーだった。俺の前では浅葱に暴力を振るったり、金銭を巻き上げたりすることはないようだが影では何をしているか分からなかった。でも浅葱に根掘りはほり聞くのはさすがに良くないと思って口出しはしなかったのだが。俺は顔を歪め、立ち上がった。尻についていた葉が地面に音もなく落ちた。
『ど、何処行くの』
笑うようになったとはいえ、口調は平坦なことが多い。今もそうだった。俺は浅葱に背を向けたまま怒りを圧し殺して答える。
『…いい加減吉川たちにはぶち切れそうなんだ。一回しめといてやる』
吉川たちがいそうな場所には幾つか心当たりがある。今日もどうせそのうちの何処かにいるはずだ。それに浅葱だけでなく、吉川のグループに酷い目に遭わされた知り合いが何人かいるし、腸のにえくりはピークに達していた。
『だ、駄目だよ喧嘩は』
『喧嘩じゃねえよ。分からせてやるんだ、他人を痛め付けた奴は痛い目に遭うものなんだってな』
俺は止める浅葱を振り払い、その場を去ろうとした。だが浅葱の発した言葉に、足を止めることになる。
『誤解されるから止めてよっ!!』
『は?』
浅葱は俺を睨み付け、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
『し、知ってる?僕と蘇芳君があの人たちに何て言われてるか。蘇芳君が僕を助けるたびに、何て思われてるか知ってる?』
『お、おい』
『あいつらは出来てるって…』
その言葉と浅葱の涙に、俺は立ち尽くす。ぐうの音も出ない。
『ホモだって。蘇芳は浅葱を誰にも触らせたくないんだって。浅葱はそれを喜んでるんだって』
『あさ、』
『あいつらは男同士で出来てるんだって!蘇芳で良くて俺らじゃ駄目な訳?って……』
『!まさか、』
浅葱が泣く。声を上げて、泣く。『…蘇芳君が家の都合で何日間か休みをとったことがあったでしょ?そのとき、無理矢理、とじっ、こめられ…てっ』
『浅葱!』
『された。い、一杯気持ち悪いことされた。止めてってお願いしても、止めてもらえなかった…!』
俺は居ても立ってもいられず、浅葱の肩を掴んだ。浅葱はしゃくりあげ、涙をぼろぼろと溢す。
『何で俺に言わなかった!』
『い、言えるわけないよ。そしたら、絶対蘇芳君はあの人たちを暴行すると思った。また、ホモだって思われるって、思ったから』
『…っ』
まさか吉川たちが俺たちのことをそんな風に思っているなど予想を遥かに越えていた。加えて、浅葱を襲っただとは。俺は、何も気付けていなかった。何が“最近笑うようになった”だ。平和ボケも甚だしい。二の句をつげず、俺は木偶の坊のように突っ立っているしかない。浅葱はしばらく顔を伏せて泣いていたが、やがては真っ赤になった眼で俺を見た。
『僕なら平気だから。多分僕たちが高校に行ったら、向こうも手を出して来ないと思う。…あぁいう人たちは、目の前に獲物がいなければ特になにもしないと思うし』
『で、でも』
『良いから。僕は、大丈夫だから』
俺は浅葱を見る。無理をしている風ではないが…。
『ごめん、僕、帰るね…』
こんなときまで浅葱の声音は平坦で。でも眼は今にも泣き出しそうに歪んでいる。浅葱は鞄を掴むと、駆け出した。
『……』
浅葱の足は決して早くはなかったが、俺は追うことが出来ず一人桜の下に佇んでいた。
「……っ!?」
そして、今の俺。夢の内容に、というよりは激しい頭痛で眼が醒めた。しばらくは何も考えられず、ぼぅっ、と天井を眺めていた。あぁ、隅に汚れがある。でも脚立を使っても届かないなあ。
「!真由理ちゃん」
意識を失う前のことを思いだし、俺は慌てて上体を起こした。どうやら自分は自室のベッドで横になっていたらしい。
「あ、上総起きたの?」
「姉貴!?」
ドアを開けた矢先、姉貴の鼻っ面が目前にあり俺は驚いた。姉貴はむっ、と眉をしかめる。
「何よその言い方。あんたを運んでやったのはあたしだっての」
背が小さく小柄な姉貴ではあるが、力は何故か強い。親父より強いかもしれない。
「っていうか何だって玄関で爆睡してたわけ?母さんが風邪ひくって怒ってたよ」
「…今何時?」
姉貴がぴくっ、と頬をひきつらせたがちゃんと答えてくれた。
「午後十時半ですよ、弟様?」
「十時半!?」
俺は驚愕する。だって真由理ちゃんが家にやって来たのは五時半くらいだ。
「どうしたのよ、上総。具合悪いんじゃないの」
「なぁ、真由理ちゃんいなかった?」
「真由理ちゃん?いなかったわよ。てか母さんに訊いたほうが良くない?」
「姉貴、俺今から出掛けてくるから」
「はぁ!?ちょっと上総、もう遅いし顔色悪いからやめときなさい!」
姉貴に腕を掴まれるが、焦燥感に苛まれている俺はそれを振り払った。階段を下りる。
「あら上総起きたの?」
風呂上がりのお袋と出くわしたが、それも無視する。玄関で靴を履く俺に、お袋が声をかけてくる。
「上総!あんた何処行くの!」
「うるさい!浅葱が危ないかもしれないんだよっ!!」
俺の剣幕に、お袋も姉貴も口をつむった。
「だから、ちょっと出てくる」
「か、上総!」
姉貴の最後の呼び声を無視して、俺は家を出た。まだぼんやりする頭を抱えたまま、淡雪の舞う世界へ足を踏み出す。親友に再び会うために。