黒板に鯉は踊る
私立青松学園。
関西の地方都市にある、中高一貫の学校だ。
明治10年に私塾青松塾として開かれ、実に140年の歴史を持つ。
生徒の個性を尊び、伸ばす。
初代塾頭青柳鉄三郎の教えを守ってか、校風は実におおらかで、生徒の自主活動を重んじている。
だから、と言うべきか。
部活動未満の同好会の数は非常に多く、また学校側も、新規同好会の立ち上げを大いに奨励している。
その内のひとつに、青松学園高等部二年生、三島暦――僕の幼馴染が主催する同好会が存在する。
その名も「探偵研究会」。
特に探偵を研究したいわけではなく、ただのミステリー好きの同好会だ。
だったら名前を「ミステリー研究会」とかにすればいいと思うかもしれないが、それは不可能である。
なぜならば、三島暦が同好会の申請書類を出した昨年4月20日の時点で、すでに「ミステリー研究会」「推理小説研究会」「ミステリー小説研究会」など、お前らまとまって部を作れよと言いたくなるような類似の群小同好会が存在していたからだ。
既存の同好会に入るという協調性も社交性も、いや、発想自体なかったであろう三島暦は、僕の手をひっぱりながら、「探偵研究会」などという、探偵業でも始めるのかというような名前をつけて、担任教師に申請書類を突き出したのである。
「せっかく探偵研究会を名乗っているのだ。ひとつ探偵の真似ごとをやってみようじゃないか」
三島暦はそう主張したが、世の中探偵を必要とするような問題がごろごろと転がっているはずもなく、また、たまに小さな事件が起こったとしても、すでに校内にネットワークを構築している既存のミステリー系研究会の数寄者や、ヒーロー研究会、あるいは政治活動研究会など、いろんな問題に首を突っ込んで来る趣味人たちがたちまちのうちに事件を解決してしまうので、この一年というもの、三島暦の探偵業務は開店休業状態である。
青松学園高等部部活、同好会棟北館二階211。
ごく少人数の同好会が詰め込まれる、プレハブの縦長三畳間が、探偵研究会の部屋だ。
「探偵研究会」と書かれた表札の横には、几帳面な筆文字で「探偵業務承ります」のポップが貼り付けられているのだが、あまりに達筆すぎて、ミステリー系か暗号解読系、書道系の部員しか読めないのは、本人には秘密である。
部屋の中には、本棚ひとつ、ホワイトボードひとつ、テーブルひとつ、それにパイプ椅子が二つ。
僕が部屋に入ると、奥側の席には、決まって三島暦が座っていて、本棚のミステリー小説を広げている。
二年のクラス分けで別々になってからは、そんな光景が日常になってしまった。以前は同じクラスだったので、そろって部室に向かったものだけれど。
「やあ、暦」
「やあ、待ちかねたよ。陽太くん」
いつも通り。
僕が声をかけると、三島暦は本をかたわらに置き、首をほんの少し傾けて微笑んだ。
三島暦はバリバリの文系少女である。
視力こそ悪くはないが、手足はほっそりとしていて肌は白く、見るからに運動音痴。そのくせ反骨心の塊のような性格をしていて、教師や上級生などにもかまわず噛みつく。
噛みつく、といっても怒鳴るような事はせず、ただひたすら静かに反論し、不服従の態度を取り続けるだけだ。
しかし、それが意外にこたえるのか、どれだけ頑固な人間を相手にしても、最後には向こうが先に折れてしまう。
彼女が、一般的に評価されるところの、絶世の美少女であることが、その結果をもたらす原因の少なくない部分を占めているであろうことは、想像に難くないが、それを指摘すると彼女は照れ隠しに怒るか拗ねるかして非常にめんどうくさいので、実はまだ口にしたことはない。
「暦、実は今日は、君にとって良い報せがあるんだ」
「ほう? なんだい――いや、違うね。ここは探偵らしく、キミが持ってきてくれた報せというものを、当ててみようじゃないか」
暦はそう言って、僕を上から下まで観察し。
「ふむ」とうなずきながら、微笑んだ。
「まず、ひとつ。それは今日――それも、学校が始まってから、ここに来るまでの間に起こったことに関する報せだろう?」
手を組み、自信たっぷりの表情で、暦は語る。
「なぜならば、キミが自信を持って“ボクが喜ぶ”と言う。そんな報せがあったならば、朝いっしょに登校する時に、待ち切れずに教えてくれていただろうからね」
「僕のことをよく知っている君らしい解き方だけど……それは推理なのかなあ?」
「立派な推理さ。小説の探偵なんかは、あれは残された数少ない材料から犯人を導き出さなきゃいけないから、論理立てて推理を積み重ねていくのであって、察するに足る材料が豊富にあるのなら、名探偵だって、そんなめんどうくさいことはしないさ」
暦はまるで悪びれない。
言われてみればたしかにそうで、明々白々な証拠や答えを導くに足る証拠があるならば、探偵だってもったいぶらずに事件を解決してしまうだろう。たんに言いくるめられただけって気もするけど。
「それで、キミがボクに知らせたいということだけど、それは外部からのもの――たとえばボクが好きなミステリー作家さんの新刊が出るとか、興味のありそうなドラマが放映されるとか、そういった類のものじゃない。キミは妙に真面目なところがあって、学校の中では、必要がない限りスマホを弄ったりはしないからね」
「……まあ、休み時間にラインの返事くらいはするけどね」
「ボクとはしてないよね!?」
つけ加えた情報に、暦が焦ったように食いついてきた。
そこを抗議されても困る。
僕が暦と昼休みにラインのやりとりが出来ないのは、僕ではなく、暦の方に原因があるからだ。
「だって暦、アナログだし、ガラケーだし」
「くっ……まあ、それにしても、キミの交友関係を考えれば、ボクが喜ぶ報せを持って来る類の人間は――居ない」
「断言したね」
「キミの男友達にミステリー好きは居ないし、ミス研の宮古とかヒーロー研の月夜その他諸々に関しては……あの娘たちからの話で、ボクが喜ぶことは、なにひとつないからね」
「断言したね」
「うん。ご承知の通り、ボクはあの娘たちがキミと関わることを快く思っていないからね。それを知っているキミが、彼女たちからの情報を、ボクが喜ぶ報せ、なんて言うはずがない……だったら、起こったんだろう? ほかの研究会たちが解決していない。あるいはまだ存在自体知らない、このボクが解くべき――事件が」
暦が告げた、迷いのない推理に。
「うん。当たりだよ」
僕は微笑んで、制服のポケットからスマートフォンを取りだし、操作する。
スマートフォンの小さな画面に映し出されたのは、教室の黒板に書かれた、無数の落書き。
「これは……」
「今朝もいっしょに登校したから知ってるだろうけど、僕は今日、日直だったろう? 暦と別れた後、教室に入ったら、黒板にびっちりと落書きがされていたんだ。そのままにしとくわけにもいかないから、消す前に写真を撮って残しておいたんだけど」
説明を聞いているのかいないのか、暦は食い入るように写真を見つめている。
「なんだろう。魚……かな? が泳いでるような……それにしても細かいね」
「画面が小さいからね。拡大すればわかるけど、君、スマホの操作苦手だろう? ノートに写してあるよ」
言いながら、僕は鞄から大学ノートを取り出した。
そこには、横向きにしたノートの半面をいっぱいに使って、黒板に描かれていた魚の落書きが、書き写してある。
「でかした。さすがボクの助手だよ」
「誰が助手だよ……まあ、そんなわけで、どう? ちょっと気になる謎だと思うけど」
「ありがとう。キミの言う通り、これはボクにとって素晴らしい報せだ。この問題、名探偵三島暦が解いて見せよう」
微笑んで、三島暦はノートの落書きに視線を落とす。
いまだ一件の事件も解決していない未解決探偵なのに、名探偵とはこれいかに。
と、思うけれど、日本語的には、“名”とは、元々は“有名”の意である。彼女は校内で評判の美少女なので、原義的には間違ってはいないのかもしれない。
ノートを食い入るように見つめること、しばし。
暦は小さくうなずくと、口を開く。
「ふむ……10、か」
「10?」
「落書きされた魚の数だよ。一見無造作に書かれているけれど、魚は一匹だって重なっていない。ひとつの大きな落書きではなくて、これは10の落書きの集合体だ。そのうち、まったく同じ形の落書きが3組存在する……陽太くん、ひょっとしてこれは、文字、じゃないかな?」
「……文字?」
「そう、文字だ。ホームズの踊る人形事件を例に上げるまでもなく、落書きに見せかけた文字が、暗号として使われる、なんてことは、実によくある。これの解読は、まあ、暗号解読研究会なんかが専門分野なんだろうけど――陽太くん。キミのクラスには、その研究会の娘が居たね?」
「ああ。宗像さんだな。あの子ならこの暗号にすごく興味を持つだろうし、あるいは早々に解決しちゃったかもしれない。幸い、僕が暗号を消したのは彼女が来る前だったから、見られている心配はないけれど――」
僕が宗像さんに関して説明すると、ふいに、なにか閃いたのだろう、暦の表情が曇った。
「どうしたんだい暦?」
「……推論がある。悪い推論だ」
「悪い?」
「ボクにとってはね――説明しよう」
暦は眉をひそめてから、切り替えて口を開く。
言い方や表情を見れば、ものすごく気が進まないのがよくわかる。
「まず、この落書き――とりあえず“泳ぐ魚”とでも名づけようか――は、早くても昨日の放課後、おそらくは今朝早くに描かれたものだ。しかも、暗号でありながら、受け取り手は暗号の解き方を知らない可能性が高い」
「なぜ、というのを、聞いてもいいかい?」
「うん。明快な話で、もしこれが暗号を知る者同士のやりとりなら、暗号を受け取った者は、速やかに暗号を消すべきだからだ。間違っても不特定多数に見せていいものじゃない。暗号は、解読されるものだからね。特にこの学園では、趣味人たちのいい餌食だよ――だから、暗号の受け取り手は、なにか不測の事態があってメッセージを受け取っていないか、それかこの暗号が解読されることを願って送られた、一方的なメッセージ、と推測される……前者の可能性は低いかな?」
「なぜ?」
「単純な話で、それだったら黒板いっぱいに書いたりはしないから、かな。もちろん、可能性が皆無という話ではないけれどね」
「なるほど」
まあ普通に考えて、秘密の暗号のやりとりをするのに、目立つ黒板にデカデカと書いたりはしない。
「そして後者、これが誰かに対する一方的なメッセージであった場合、対象となるのはキミのクラスの誰か、ということになる。それも、暗号に興味を持ち、解こうと思う人間……というかもう、対象はキミに確定でいいんじゃないかな?」
「僕が対象? 同じクラスにミス研の宮古さんとかがいるけど……」
「彼女もこの“泳ぐ魚”の暗号を見ていないんだろう? キミが自信たっぷりに未解決だって言うんだ。ほかの御同輩はこの暗号を目にしなかった。すくなくともキミ自身は、そう確信しているはずだ」
暦の推理に、僕はうなずくしかない。
たしかに、この事件に興味を持ちそうな人間は、僕を除いて誰一人として、“泳ぐ魚”の暗号を見てはいない。
「偶然……」
「そうかな? 朝、日直が登校して、黒板に落書きがあったら、まず消そうと思うだろう。事実、キミはそうした。メッセージの対象は、それ以前に登校するであろう人間。その中で、暗号に興味を持ち、解こうと思うような人間は、キミ以外いないとは思わないかい?」
「なるほど、僕に……どんな内容だと思う?」
「さて、それは暗号を解読してみないと、わからないことだけど……気が進まないね」
「なぜ?」
首をかしげる。
ミステリ好き、推理好きの彼女が、この手の暗号解読に消極的だというのは、腑に落ちない。
「たとえばだ。これが、誰かがキミに対して書いた告白文だとしたら、キミはどう思う?」
「ずいぶん短い告白だと思うけど」
「……淡白だねえ。うれしいとか、つき合いたいとか……もっとほら、そういった色めいた感情はないのかい?」
「いや、誰からの告白かもわからないのに、喜んだりつき合いたいとか思わないし……」
「じゃあキミは、相手によっては喜んだりつき合ったりするのかい?」
「そりゃあ、好きな人からの告白だったら――あいたっ!? なんで蹴るのさ!?」
いきなり机越しにスネを蹴られて、僕は全力で抗議する。
「ふーんだ。知るもんか」
なぜだか知らないが、暦はへそを曲げて、そっぽを向いてしまった。
「なんでいきなりスネるのさ」
「スネてなんかないよーだ」
どうも、よくない。
なんでこんな話になってしまったのか。
頭をかきながら、僕は暦の機嫌をとるため、隠していた手札を明かす。
「暦。実は、暗号解読のヒントになりそうなものを、教室で拾ってたんだ。ノートに挟んである紙、見てくれ」
「……紙?」
そっぽを向いていた暦は、落書きを写したノートをちらと見て……我慢できずに手に取ってぱらぱらと開いて、挟まっていた紙片を取り出した。
紙片には、ノートに描かれたものと酷似した細かな落書きが、びっしりと描いてある。チョロいというかなんというか、暦は顔を輝かせて食い入るように紙片を見はじめた。
「なんだ、こんなものがあるんじゃないか。これは黒板に描く時に使った一覧表かな? 対応する文字は書いてないけど、数は……47で、12、11、12、12……いろは歌かな? 落としたのか、わざとなのか、どっちにしろ脇が甘い。こんな大大大ヒントがあれば、ボクなら一瞬で解けるに決まってるじゃないか」
「そういえば、暦」
“泳ぐ魚”の暗号を、夢中で解きはじめた暦に、僕は話しかける。
「――君にはひとつ、見落としがあるんじゃないかな?」
「ん? ボクが? なにをだい?」
「黒板に描かれた踊る魚のメッセージが、誰から誰に向けられたものか……君は僕宛てに違いないと確信しているようだけど、ほかにも可能性があるんじゃないかな?」
「……聞き捨てならないね。ボクがなにを見落としているって言うんだい?」
挑むように問いただす暦に、僕はひとつの可能性を提示する。
すなわち。
「このメッセージが、僕に向けられたものじゃなく――暦、君に向けられたものである可能性さ」
「……ふむ」
僕の言葉に、暦は目を伏せて考え込んだ。
「……たしかに、その可能性は考えていなかった。謝罪しよう。キミの言う通りだ。キミのクラスで事件が起こったのなら、キミがそれをボクに伝えるであろうことは簡単に予測できる」
言って、暦はふたたびノートに目を落とす。
「あ・い・し・て・る・つ・き・あ・つ・て・く・れ……“愛してる、つき合ってくれ”か。それがボクに向けられたものだとしたら、面白くもない」
「面白くないかな?」
「ああ。キミとおなじさ。差出人のわからない愛の告白なんて、気味が悪いだけだよ」
まあ、そんなものだろう。
三島暦の性格ならば、告白するのに面と向かわないどころか名前も明かさない人間なんて、恋愛対象として論外に違いない。
「じゃあ、これが誰からのメッセージか、推理できるとしたら?」
「わかるわけがない。こんな性格だけど、顔のせいでボクはかなりモテるんだ。有象無象の犯人候補の中から、これだけの材料で特定できるわけが……」
気づいたのだろう。言いかけて、暦は凍りつく。
そう。これだけの材料で、たったひとつの可能性においてのみ、差出人は特定できる。
それは、差出人がこの暗号の提示者――僕であった場合。
黒板の落書きは、暗号にした告白文を三島暦に解かせるための、ただの自作自演だった可能性だ。
「えっ? そんな……その、そんな……キミが……女の子なら、他にもいっぱい……よりによってボクみたいなひねくれ者を……」
取り乱し、顔を真っ赤にして、あたふたする暦。
僕はにっこりとほほ笑んで、大学ノートの“泳ぐ魚”に、三文字、差出人の――自分の名前をつけ加える。ちなみにこれ、正確には鯉なんだけれど……まあ、いまさらである。
「さあ、名探偵。この謎を解いて――君の答えを、聞かせてくれないか?」