第六話
「……はぁ、やってしまった」
灯香はまたも枕に顔を埋めていた。
またパニックに陥ってしまった。また失礼なことをしてしまった。どう考えても勝手に勘違いした自分が悪いだろうに、何様だ自分は。せっかく同年代の友達が出来そうだったのに、せっかくの機会をふにしてしまったかもしれないじゃないか。
灯香の後悔は今や海より深い。
錯乱した灯香は、またも鋭利なものを求め、窓に向かって椅子を振り上げた。
ぐーきゅるるるるごろごろごろ
何の擬音かと言えば、腹の音である。それも特大の。
あまりにも間抜けな自身の独奏を聞いて、灯香はすっかり脱力して崩れ落ちた。
なんだか今日はこんなのばっかだな、とため息をつきながら、椅子を元の位置に戻し、うるさいほどに鳴いている腹の虫を宥めるため、一階のキッチンへ。
チキンラーメンの袋を開けて、どんぶりに入れ、ケトルのお湯をなみなみ注ぎ、蓋をして三分。
その間テレビをつけてチャンネル巡りをしてみるけども、面白い番組が全くなかったので、録り溜めていたドラマを消化する。ちょうどヒロインが、前回のデートでやらかした不手際を悔いて自室で悶絶しているところだった。
「とりあえずメールも使って謝ればいいのに……あ」
思わず呟いたツッコミは、見事にUターンして灯香を小突いてきた。そうだ、せっかくIDを交換したのだから、メッセージでも何でも送ってみればいいのだ。
チキンラーメンを大急ぎで食べ切ってから、スマホでバーチャリアとの連携アプリを開き、登録したユイのユーザーデータを探し、メッセージを送ろうとする。
……灯香は恐ろしい事実に気づいてしまった。
「……んあぁ、帰ってきたー」
BBOからログアウト、更にVR空間からも抜け出したユイ……優衣は、朝の目覚めのように起き上がり、背伸びをする。それからバーチャリアを外し、首を回した。
当然そこは優衣の部屋。
勉強机が一つに、棚が大小二つ。小さい方は教科書と参考書がぎっしりで、大きい方はゲームソフトと漫画、小説。机の上にはPCが一台、そしてあちこちにぬいぐるみが転がっている。
いつもの部屋、いつもの匂い、いつもの感触。
そのはずなのに、今の今まで五感全てを機械にゆだねていたせいで、日常空間の方に違和感を覚えてしまっている。
手鏡で寝癖を確認しようとすると、のっぺりとした顔の日本人形が……葛城優衣が映りこむ。
真っ黒な髪、浅い顔、よくよく感情が読みづらいと言われる優衣の顔立ちは、感情が現れやすいユイのそれとは真逆と言っていい。
惨めだ。実に惨めな気分だ。けれどもゲーマー故、この惨めさには慣れっこだ。どんなゲームであっても、終了時には暗転した画面に映る自分の顔と対面しなければならないのだ。
それよりも、随分喉が渇いたし、少しお腹も減った。体がほとんど動かないVRゲームであっても、脳が動けば水分とエネルギーを消費する。
ジュースが台所の冷蔵庫にあったはず。優衣は立ち上がって部屋を出た。
直後、隣の兄の部屋から、何か大きなものが倒れる音がした。
兄の部屋の扉を開けると、そこには葛城優斗が床に張り付いてしまっていた。
「兄貴大丈夫? ……じゃないね、見た感じ」
「……痛い」
顔を上げた優斗は鼻血を流していた。
ついさっきまであんな小さな体だったのに、いきなり男子中学生の体になれば転びもするだろう。その上運動神経が壊滅している優斗であるから、受け身もまともにとれず顔面から着地したらしい。
笑ってやりたいところだが、鼻血の量がえげつないので少し引いてしまった。
「気を付けなよ。こっちで転んだらド事っ故じゃすまないんだから」
「じっくぁんしゅております」
優斗は鼻をつまみながら苦笑した。
「はいティッシュ」
優衣はキッチンに下り、サイダーとポテトチップスを用意して机の上に並べる。兄の分のコップもちゃんと用意してやる。
すると優斗も下りてくる。
「血、止まった?」
「なんとか」
「あの音でよく鼻折れなかったね」
「運がよかったよ」
「サイダー飲む? あとポテチ」
「うん、ありがと」
初回プレイの簡易打ち上げである。さぁ、自分たちの間抜けっぷりを大いに笑い合おうじゃないか、
という気分の優衣に対して、優斗はなんだか消沈してる様子。
「どしたの兄貴。さっき転んだのまだ痛い?」
「いや、それは平気…それじゃなくて、トーカちゃんどう思う?」
「どうって?」
「つまりだよ、俺はどの程度嫌われたかな、と」
「あー」
優衣は激怒して消える直前のトーカの顔を思い出す。
あれは相当深刻だ。怒っていたし、怯えてもいた。すっかり女の子だと思い込んで長時間至近に寄っていた相手が実際は男子であると知ったのだ。かなり驚くはずだし、ことによると傷を負ったかもしれない。
で、結論。
「二度と顔を合わせてくれないかも」
「そんなに嫌われた?」
「かなり」
「……」
優斗は頭を抱えてしまった。
「アタシ的には、正直関係修復はあきらめた方がよさげだね。それより今後に活かすことを考えるべきだよ。あのアバター使うにしても、もうちょい誤解を生まないように」
「って言ってもどうすればいい?」
「髪短くするだけでも変わると思うよ」
「なるほど」
「あと声をもうちょい低めに」
「それは嫌だ」
「……また妙なこだわりを」
面倒な兄だ。
そんな話をしていると、優衣のスマホに電話がかかってきた
「ゲーム三昧してたのが学校にばれたかな?」
「そういやお前今日学校欠席してるのか。どうやったんだ?」
「仮病」
「おい!」
「いいじゃん。父さん母さんには許可取ったし」
「我が親ながらそれでいいのか」
「けどこれ番号出てない……あれだ、非通知ってやつだな……出ていいと思う?」
「こっちからかけない限り大丈夫だよ」
「そう? じゃあ失礼して」
通話ボタンをタッチ。一応廊下に出て、扉を閉めておく。
「はい葛城です」
『も、もしもし!』
裏返った高い声が、優衣の鼓膜に甚大なダメージを与えた。
「……あの、誰だか知んないけど、もうちょい声、落として」
『あ、す、す、すみません……』
その声はひどく焦って、落ち着きのない声、恐らく十代の少女……もしかすると幼い少年かもしれない、と思う程度に中性的だが、とりあえず大人の声ではない。
「あと落ち着きなよ。受験の面接じゃないんだから」
『そ、そうですね』
「深呼吸だよ、深呼吸」
『スー、ハー……』
向こうの少女は律儀に電話を当てたまま深呼吸を繰り返し、どうにか落ち着いたようだった。
『すみませんでした』
「いいよ。それでキミ誰?」
『トーカです』
「とーか……」
脳内で知り合いを探すが、そんな名前の人物に心当たりはなかった。
リアルに限っては。
『さっきまで話してたじゃないですか。ほら、BBOで。レバーアクションのトーカです』
しかし、優衣は彼女を確かに知っていた。その可能性がありえないからと、除外していただけだった。
「トーカちゃん?」
『はい』
「どうやってこの番号を?」
『す、すみません!』
無自覚の内に咎めるような口調になってしまったらしく、少女の声はまた震え始めてしまう。
「ああ、謝んなくていいよ。それで、どうしたの?」
『えっと、フレンドデータに載ってたので……電話番号と、住所も本名も載ってましたよ、ユイさんのデータ』
寒気が優衣の背中を撫でた。
葛城優衣、中学二年生の個人情報と呼べるものほぼ全てを、誰でも容易に検索できる場所に鍵もかけず放置してしまった。
「マジで!? やっばい公開設定確認してなかった! 設定し直さないと……」
『連携アプリ入れればスマホから設定できますよ』
「教えて!」
『は、はい。えーっと、』
優衣はトーカが言う通り速やかに連携アプリをインストール、大急ぎでプロフィールの個人情報を非公開に設定した。
優衣はほっと胸をなでおろす。
「ふぃいいぃ……助かった。危うく個人情報が世界デビューだよ……ああ、そういやカズノリさんにもID渡しちゃったんだよね」
『カズノリさんはばらまいたりしませんよ』
「でも公開設定してたわけだしさ、まいていいものと誤解しても仕方ないじゃん」
『それはそうですね……一応ボクから連絡しておきます。まぁ、もらった名刺ろくに読まない人ですし、多分ユイさんのデータもまだ見てないと思いますけど』
「へぇー」
どうやら二人、リアルでも親しい仲らしい。
……さて、諦めろとは兄に言ったものの、妹としては多少は努力をしてやらねばなるまい。
「ところでさ、兄貴が話したがってるんだけど、いいかな?」
『お兄さん、ですか?』
「ユートだよ。あの女装アバター。あれアタシの兄貴なんだ」
『その、えーっと、あの、ああああの、えー○×●▽▽●×』
「日本語喋んなよ」
予想はしていたが、なかなかに傷は深いようだ。
『あの、すみません』
「トーカちゃんは悪くないよ。ユートは紛らわしすぎたもん」
『ですが、ボクも男性に遭遇する可能性は想定しておくべきだったと思いますし』
「どっちが悪いかってんなら100%ユートだよ。あれはアタシでも間違う。仕方ないよ」
『……そんなものでしょうか』
「そんなもん。けど防犯的な話をするなら、確かにもちっと警戒した方が良いかもしんないね」
『そのようにします』
「うん、それがいい」
『お兄さんによろしくお願いします……あの、まだ直接は』
「りょーかい。ちゃんと言っとくよ」
『ありがとうございます』
「こちらこそ。本当に助かったよ。じゃあまた今度ね」
『はい』
トーカは電話を切った。
意外とまだまだ修復の可能性はありそうだ。
「……誰だったんだ?」
部屋に戻ると、優斗が尋ねてきた。
「トーカちゃん」
「電話番号教えてたのか?」
「まぁねー」
「俺のこと、何か言ってた?」
「んーとね、女装癖の変態野郎とは二度と会いたくないって」
「……」
優斗が衝動的に自殺しそうな顔になったので、慌てて取り繕う。
「冗談、冗談だって。よろしく言ってたよ。あの調子なら、意外とまた喋ってくれるんじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ」
優斗はとても分かりやすく大喜びしていた。
全く面倒な兄である。