第4章4
克安たちは、3日後都を発ち、桂国との国境沿いへと赴いた。そこでは戦が行われていたが、ここ数ヶ月は膠着状態が続いていた。
この現状を打破すべく、克安たちの到着を待って、作戦が実行に移された。
喃国はまず、桂国に悟られぬよう軍を2つに分ける。2つのうちそのまま今の場所に残る部隊は少数とし、多くを移動させた。ちょうど桂国の軍が陣を張っている場所から桂国へ戻るために必ず通らねばならぬ場所に。
そこは細い山道が続いている。そして、その中でも難所といわれている場所は、両脇がそそりたった崖になっていた。
喃国の軍はまさにこの場所で、桂国軍を迎えうつつもりだった。
残された少数部隊は、2つにわけたことを悟られぬよう、今までと同じ数の松明を夜になると掲げた。
その数を翌日は500だけ増やした。その次の日はさらに千増やす。そうして5日後にはついに最初の倍にまで増やしていた。
桂国側が動き出したのは、その翌日のことだった。
こちらの思惑通り、退却し始めた桂国。
見事、桂国は勘違いをしたのだ。喃国の軍はまだまだ余力があるのだと。初めは均衡を保っていた兵士の数も、ここまで来ると、到底敵いはしない。一端、退くのが得策とでも思ったのだろう。
よし、と誰もが心の中で叫んだ。このまま行けば、一気に喃国が勝利できる。
次の作戦を実行に移す前夜。
見張りの兵士以外が眠りに着いた深夜のことだった。ふと、物音を聞いた気がして、克安は身体を起こす。
(いない……)
隣で寝ていたはずの蓮狼の姿が見えない。
しまった、と心の中で叫ぶ。
克安は他の兵士に気付かれぬよう、天幕の内から出ると、辺りを見渡した。
近くではパチパチと松明のはぜる音が聞こえた。
(自分だったら……)
見張りの兵士がいる方角へは間違っても行くまい。
行くとしたら、陣の東側。ちょうど崖になっているその下には川が流れている。
適度な暗闇。そして、陣からは見えない死角。
案の定、克安はそこで見つけたくはなかった人の影を見つけてしまった。
闇の中でほのかな灯が揺らめく松明を持ち、川の下流めがけてゆらりと松明を振る影。
「――蓮狼……」
声をかけると、ぎょっとしたように彼は振り向いた。
「克安……」
「――何をしていた」
裏切られた……信じていたのに、裏切られた。上官が言っていたことは本当だった。裏切り者はこんなにも身近にいた。
まさか、と思った。
絶対にありえないと思っていたのに。
それなのに――……。
「何をしていた?」
低く、再度克安は問い詰める。
それに対して、嘲りの色濃い笑みを浮かべ、蓮狼は言った。
「あんたの下なら機密情報も入りやすい。桂国にはずいぶん高値で買ってもらえたよ」
「お前は…何を……」
蓮狼は袂から紙切れを取り出す。
「情報を桂国に。気づいていたろ?」
「な……ぜ、なぜこんなことをした!」
「――甘い、な。昔からあんたはそうだった。人を信じて、決して疑うことをしない」
蓮狼は目を細めた。
次の瞬間、克安の左目に鋭い痛みが走る。
克安は己の身に何が起こったのか理解するまで、数秒を要した。
頬を伝う生温かい感触に、初めて蓮狼に斬られたことを知る。
「蓮…狼……」
「だから言っただろう? あんたは甘い、と」
「どうして……! 何があった!?」
「どこまでも……お人よしなんだな。そんなあんたが俺は……」
一瞬、蓮狼が浮かべたのは悲しげな笑み。だが、彼は最後まで言葉を続けることはなく、突如手にしていた松明を谷底へと落とした。辺りが一気に闇に包まれる。
それとほぼ同時に、再び蓮狼の剣が克安を襲った。それを、間一髪のところで受け止め、流す。
勢いあまった蓮狼が体勢を崩す。それを克安は見逃さなかった。剣を反すと、気配だけを頼りに突く。
確かな手ごたえ。
蓮狼の低いうなり声が聞こえた。
生温かい血が剣を伝って大地に落ちる。
ぐらり、と彼の身体が傾いた。それと同時に、彼は最期の力を振り絞り、懐から取り出した短剣を投げつける。が、それは克安を大きく外れて、背後の大樹の茂みへと消えた。ばさり、と何かが背後で落ちる音が聞こえたような気がした。
(何……だ?)
気にはなったが闇の中ではわからない。
続いて聞こえたのは、がらりと崖が崩れる音。はっとなって思わず手を伸ばしたが届かない。蓮狼の身体は――そのまま谷底へと姿を消した。
ひょおおおと淋しく風が鳴いた。
(なぜ……だ――)
克安はそのまま、蓮狼が消えていった谷の傍らから動けずにいた。
なぜ蓮狼は裏切った?
いや、そもそも裏切るも何も、彼は初めから敵国の反間だったのだ。それに気付かず、己は何ということをしてしまったのだろう。
敵だとも……気付かず。
(いや、いや…違う……)
克安は闇の中でぐっと唇を強く噛み締める。
あのとき――翠蓮がこの世を去ったとき、すべての歯車は狂いだしたのだ。
自分が守ると決めていたのに。それなのに守ってやることができなかった。
あのとき、自分が二人を守ってやることができていたら。
せめて、蓮狼が喃国を出て行くのを止めることができていたら。
(そうしたら、蓮狼はこんなふうにはならなかった――)
蓮狼をこんなにも追い詰めることはなかった。
蓮狼はいったいどんな気持ちで、喃国に戻ってきたのだろう。反間としての命を受けて――。
かつての祖国。かつての――友。
それを前に、彼は何を思っていたのだろう。
昔受けた、自分への辛い仕打ちを思い出し、笑顔の下にある怒りを隠していたのかもしれない。
自分は、そんな蓮狼の気持ちに気付くこともせず――何をしていたのだろう。
強い強い自責の念に駆られる。
だが、どんなに己を責めても、蓮狼がなぜ祖国を裏切ったのかは理解できなかった。
あのときのことを恨んでいる、というのであれば、それは祖国喃だけではなく、桂にも向けられるべきものだろう。
だが、蓮狼は敢えて祖国と敵対することを選んだ。
喃国の中枢部の情報を得られる場所に近づき、桂へと流す。この行為は、今も昔も敵国である桂の利にはなるが、祖国喃の利にはまったくならない。
なぜ、蓮狼の恨みの念は、敵国桂ではなく、祖国に向けられてしまったのだろう。
(私への……恨み、か……)
守ってくれなかった克安への恨みの念がそうさせてしまったのかもしれない。
どんなに考えても、ことの真相はもうわからない。
わからないからこそ、克安は余計に己を責め続けてしまう。
なぜ――。
どうして――。
何度も何度も疑問を心の中で繰り返す。
疑問を、すでにいなくなった友に投げかけながら、答えを探し続けた。答えは決して見つからないとわかっているのに。
翌朝、克安の左目に包帯が巻かれているのを見て、何事かと周りの者たちは騒いだ。また、それと同時に蓮狼の姿が見えないことを不審に思った者たちから、彼の所在を訊ねられたが、克安は何も語らなかった。
克安のただならぬ様子に、何かあったのだと察したものもいたが、これ以上しつこく訊ねて、克安の怒りを買うことを恐れ、誰もそれ以上は突っ込んで聞いてはこなかった。
克安は、悶々とした気持ちを抱えたまま進軍を続けた。
そうしていよいよ、次の作戦実行まであとわずか、というところで、桂国の軍に異変が起きた。なんと、日が落ちるのと同時に次々と兵士たちが投降してきたのだ。
何が起こったのか、克安たちも理解できずにいた。
それはまったく考えてもいないことだった。
当初の予定では、ここから先にある山間の細い道で一気に桂国の軍を襲い、その混乱に乗じて裏切り者の首を取り、さらにそのまま桂国軍を壊滅させるはずだった。
捕まえた捕虜に理由を問い、それを聞いた克安たちは絶句した。
「喃国が朱国の後ろ盾を得た。直に援軍が到着する」
そんな馬鹿な、と誰もが息を飲んだ。
そんな事実は存在していない。
確かに、喃国の西には大国の朱がある。だが、朱国は資源も豊饒な大地もない小国のことなぞ眼中にない。今のこの国の現状を鑑みれば、喃国に手を出すことで負担が増えることはあったとしても、朱にとって利益となることは少ないはずだ。
そのような浅はかなことをする国ではない。
なのになぜこのような話が――?
不思議に思う者もいたが、恐らくこちらの作戦を勘違いして、桂国軍内部に混乱が生じたのだろうと、みな口々に言った。
だが、このとき、克安だけは周りのものとは異なる反応を示した。
(まさ……か……)
顔面蒼白で、陣を出る。
蓮狼がいなくなった今、ことの真相を知るものはいない。もはやどんなことをしても、彼の真意を知ることはできない。
だが、克安にはこのような結果になったことの背景には、蓮狼が絡んでいるとしか思えなかった。
彼は何をしていた?
桂国に……何をしていた?
本当に彼は喃国を裏切ったのか?
裏切っていたとすれば、どんな情報を桂国に提供していたのだ?
今までは喃国にとって不利益になることは、何も起こっていない。起こったことといえばそれは――。
どんなに考えても、克安の結論はひとつの方向へといってしまう。
(あいつは――……)
蓮狼がしようとしていたことは、この喃国に「負」となることではなく、むしろその逆――?
もしそうであったなら、自分は……
「うわああああ」
克安の叫びは、悲しげな紺碧の空に吸い込まれていった。