第4章3
気づけば、蓮狼が姿を消してから5年の歳月が流れていた。
あのとき、都までやってきた桂国の軍を奇跡的に撃退してからも、桂国との間は相変わらずで、戦が繰り返されていた。
克安は施設から出たものの、刺客を辞めたわけではなく、王直属の刺客集団に組み入れられていた。
この集団は、その存在自体が極秘とされていたため、克安のような肉親がいない者には適任であった。
内外問わず、中央にとって都合の悪い者たちの命を奪う日々。
大切なものを失ってしまった克安にとって、もはや守るものは何もなく、以前にも増して、彼からは感情というものが失われてしまっていた。
もはや、何が正しく、何が悪いのかさえ、彼にはどうでもいいことだった。ただ言われた任務だけを淡々とこなす日々。
きっと自分にはそのうち天罰が下るだろう。そうして、儚くなってしまったとしても別に自分はかまわない――。むしろそのことを自分は強く望んでいる。
早く、早く連れて行って欲しい。あの温かな日々へ。あの穏やかな心が取り戻せるなら自分は……。
しかし、そんなある日、ひょっこりと蓮狼が都へと戻ってきた。
「お前……!」
あふれる想いに言葉を失った克安に、蓮狼は申し訳なさそうに笑った。
「あの時、翠蓮を守れなかった自分が不甲斐なくて――もっと自分の腕を上げるためには、このままじゃだめだって……そう思ったんだ」
そこにいるのは、もう昔の自分を頼ってくれていたかわいい蓮狼の姿はなかった。
立派に成長した彼のことを、心底うれしく思い、克安は再び自分の傍にいてくれないか、と頼む。
「――ありがとう、そうさせてもらうよ」
屈託なく笑う蓮狼を、克安はやはり昔の面影が残っていると懐かしく思うのだった。
失ってしまった大切なもの。
それが戻ってきたことで、克安の心には再び光が差し始めた。
以前のように、克安にべったりということはなくなっていたが、それでも蓮狼はいて欲しいときには、いつでも傍らにいてくれた。
克安は己が幸せになることは、もう決してなかろうと思っていた。
自分の手は、多くの人の血で染まっている。
どんなに洗っても洗っても、それが落ちることはない。
命じられれば命を奪う。
それが女であっても、子どもであっても。容赦なく。
心を凍らせて、克安は命を奪い続けた。
だが、任務を終えた後は、一気に張り詰めていた気持ちが緩み、それと共に後悔と悲しみが己を襲う。
今までであれば、克安は部屋に篭り、それらの感情が行過ぎるのをじっと待っていた。
だが、今は違う。
そういうときは、必ずそばには蓮狼がいてくれた。昔のように。
彼は何かを言うわけでもなく、ただ黙って克安の傍らにいてくれた。
克安はそれが何よりも嬉しかった。
己が幸せになることは許されない――けれど、このひとときが、克安にとっては何よりも幸福を感じるときだった。
だが、やはり幸せは長くは続かなかった。
「情報が漏れている」
上官に言われ、克安の顔がこわばる。
それは、蓮狼がこの国に戻ってきてから数ヵ月後のことだった。
桂国のとある要人の命を奪えという指令を受け、克安たちは桂国と喃国との国境に向かった。途中まではうまくいっていた。だが、あと少しでというところで、その要人はするりと逃げおおせてしまったのだ。
「そうとしか考えられん」
克安も心の内のどこかで思っていたことだった。
通常、自分たちの仕事は少人数・短期間で行うのが鉄則だ。
情報が外に漏れてしまってはまったく意味がなくなってしまうため、関わる人数も絞られていた。
今回の任に関わっていたのはわずか5名。これでも多いほうだった。
まずは目の前にいる上官、そして克安。共に施設で育った仲間の2名。そして――蓮狼。
今回の標的が逃げることができたのは、ただの偶然ではない。この中の誰かが、情報を敵方に流したとしか考えられなかった。
そして、この中で最も疑われるべき人物は……
「蓮狼の行動に注意しろ」
予想通りの上官の言葉が、克安の胸を深くえぐる。
「ですが、蓮狼は……」
彼はそのようなことをする人間ではない。
何よりも、桂国に情報を流して、蓮狼に何の得がある?
彼の姉、翠蓮は桂国に命を奪われたも同然だ。
そんな桂国に彼が力を貸すはずがない。
「克安!」
ぴしゃりと上官が鋭い声で彼の名を呼ぶ。
「任務に私情を挟むな。お前らしくもない」
克安はハッと顔を上げ、次いで「申し訳…ありません」と頭を下げた。
「克安……私はお前を信じている。次の――任務だ」
上官から渡された竹筒の中には、いつものように紙切れが数枚押し込められていた。
克安は中から丁寧に1枚ずつ取り出すと、その場で広げる。
薄明かりの中、それらに目を通した克安の表情がみるみるうちに変わっていった。
「これは……!」
それは、数年前に桂国に寝返り、喃国の情報と引き換えに桂国で取り立てられたある男の命を奪え、という命であった。
「これをもって蓮狼を試せ」
あくまでも淡々と上官は告げる。
「少しでも妙なそぶりを見せたらすぐに斬れ」
上官のその言葉は、重く克安に圧し掛かるのであった……。