第3章
旅で疲れているであろう克安のことを気遣って、学然は翌日の朝食はいつもより遅めに作り始めた。
いつもどおり夜明け前に目を覚ましたらしい雲隠は、散歩に出かけるといったまま、まだ戻ってきていなかった。
今朝の食事は四角い形をした饅頭と、豆苗の湯だ。蒸篭から湯気がもうもうとあがってき始めたのを見て、学然はそろそろ克安を起こしてこようと厨房を出た。
「おはよう」
突然声をかけられて、声を呑む。
いつの間にか、ちゃっかりと身支度を整えた克安が居間に座っていた。その手には、学然が読みかけの書物がある。
「ああ、そうだ。ここにあった本を勝手に拝借していたが、よかったか?」
「別にかまわないけど」
彼が手にしているのは、薬草について書かれたものだ。
「興味あんの? あんたに必要そうには思えないけど」
「そうでもない。こういった知識はあれば役に立つ」
そういうと、克安は本を閉じた。
「何か手伝うことはあるか?」
「客は座ってな。もうあとはそっちに運ぶだけだから。雲隠も――」
がたり、と外で物音がする。
ちょうど雲隠が散歩から戻ってきたようだった。
「帰ってくる頃だから、な」
「なるほど」
克安は片頬笑んだ。
そうして、三人は食卓を囲む。
できたての饅頭はほかほかだった。かぶりつけば、ほんのりとした甘みが口の中に広がる。
(うん、上出来だ)
学然は自分で自分を褒める。
久しぶりに満足なできだった。
仙である雲隠は肉類を食べられないこともあり、ここでの食事はすべて肉類を使っていない。当然、現在出している食事の中にも一切肉類は使っていなかった。
竹林に囲まれた庵では、野菜などの種類もさして多く採れるわけではないため、食卓はとても質素なものだ。
さすがに客人がきているときくらい少しは豪華にしようと、学然は心持ち饅頭の数を多めに用意していた。中の餡もいつもは一種類しか作らないが、この日は二種類もの餡を作ってみた。
3個目の饅頭を学然がかぶりついたとき、克安がおもむろに口を開いた。
「――昨日の夜は、久しぶりに夢を見たよ。ここは不思議なのだな」
ぎくり、と学然と雲隠は顔を上げる。
「私は元来夢を見ない性質なのだよ」
二人の反応を見て、克安は補足する。
「なのに、ここでは夢を見た。ここまでの旅の間も、都にいたころも、私は夢なぞ見なかった。となれば、この場所に何かあると考えるのが自然だろう?」
(さすがだな……)
ここまで見抜かれるとは思いもしなかった。
確かにこの場所では、克安が言うように特殊な作用が働き、訪れた者の心の奥底に眠っている願い、不安といったものを夢として見せられることが多い。
より強く作用すると、場合によってはこれから未来に起こることを夢見ることもあるという。
二人はこれを「夢鏡」と呼んでいる。その者の心の内を映し出す鏡のようだからだ。
克安がみた夢は、彼にとっていいものだったのだろうか、それとも……。
克安と目が合う。
彼は瞳を伏せて、小さく呟く。
「夢に出てきてくれただけまし、ということか」
そうして、学然が入れたお茶を手にしながら、克安は静かに雲隠に問うた。
「私の願いは叶えてもらえるのだろうか?」
彼の質問に、雲隠は答えず、逆に質問で返す。
「あなたの願いは何ですか?」
「昨日言ったとおりだ」
雲隠は湯飲みを静かに置いた。
「もう一度問います。あなたの『本当の願い』は何ですか?」
「――雲隠……私の願いは最初から何も変わってはいないよ」
「『最も忌むべき者の命を奪ってほしい』ですか?」
克安は深く頷く。
「――それは……」
雲隠はひと呼吸おいて続ける。
「あなた自身のこと、ですか?」
彼の唐突な発言に意味がわからず、学然はただ克安と雲隠を交互に見やる。
克安はそれには答えず、ただ目を閉じた。
ここまできて、さすがの学然も、ようやく克安が言わんとしていることを理解した。
「おまえっ!」
次の瞬間、がたりと立ち上がる。
「自分の命を奪えってのか? それが願いなのか?」
ばん、と力いっぱい机を叩く。かちゃりと茶器が揺れた。
「学然」
雲隠が諌める。
「だっておかしいだろ? 自分の命を奪えだなんて。そんなの、おかしいだろ!」
「学然」
先ほどよりも強く、再度雲隠は名を呼ぶ。
「おやめなさい。学然」
いつもの雲隠からは考えられないような鋭い声。
学然は、「くそっ」と一言言い捨てると、そのまま席には着かず、扉へと向かった。
「学然!」
「――今の俺はここにいるべきじゃない。頭、冷やしてくる」
そう言葉を残すと、学然はそのまま部屋を出た。
むしゃくしゃした気持ちを抱えたまま、学然は庵を出た。その足は自然と庵の近くにある泉へと向けられていた。
「くそっ!」
学然は自分の中の嫌な気持ちを収めようと、泉に向かって大声を出した。
(何だって俺はこんなにいらついてんだ)
今までだって無茶苦茶な願いを持ったヤツはいくらだってきていた。そのたびに人間の影の部分を見せ付けられたような気がした。
もう、見慣れたはずだ。人間のそんな部分は。
それなのに、なぜ。なぜこんなにも心が乱されるのだろう。
なぜ、今回に限って……?
自問自答する。
(あいつは、雲隠に……)
自分の命を奪ってほしいという願いを持ってきた。自分の命を差し出しに来たのだ。
それが、我慢ができなかった。
自分の命を粗末にするやつが。
生きていられるのに、自分の命を差し出そうとするやつが。
(生きて……)
常に頭の中にかかっている霧が一瞬、揺らいだように思えた。何かを思い出しそうになったが、やはり霧は深く、晴れることはなかった。
「学然」
声をかけられ振り返れば、そこには今回の元凶である克安が立っていた。
一瞬、彼を見て眉をひそめる。まだ、学然の心は乱れたままだ。ここで、彼に対して口を開けば、毒のある言葉しか出てこないような気がした。
克安だとて、己が原因で学然がかような行動をとってしまっていることは、千も承知のはずだ。なのに、なぜわざわざ来たのだろう。
文句を言いたいのをぐっとこらえて、学然はスッと克安から視線を逸らす。それが唯一自分ができることのような気がした。
これ以上、ひどいことを言って克安を傷つけたくもないし、自分が不快な思いをするのもごめんだ。
どかっと、泉の傍らにある大きな石に腰を下ろす。
すると、克安も歩み寄ってきた。
「――あのな……」
「すまない」
耐え切れずに、思わず文句を言おうとした学然の言葉を遮り、克安の口から出たものは、謝罪の言葉だった。
「学然の心を害してしまったこと、心から詫びる」
頭を下げる。
そんな克安を、呆気にとられた表情で見上げていた学然は、一気に毒気が抜かれてしまった。
大きく肩で息をつくと、克安に隣りに座るよう勧める。
「別にあんたが悪いわけじゃないよ」
そう口にしたことで、学然も先ほどまでの感情が静まる。それと同時に、今度は自分自身に対して呆れた感情が湧きあがって来た。
(ホント、俺、何やってんだろう。ガキだな、これじゃ)
「あ~!!」
堪らず叫んで立ち上がる。
「すまねえ!」
克安に向かって頭を下げた。
突然の学然の行動に目をぱちくりさせていた克安は、ぷっと吹き出すと盛大に笑い出した。照れくさくなって学然も笑う。
「私が何に見えるか?」
お互いの気が晴れたところで、克安がこんな質問を投げかけてきた。
「ん? 昨日も答えたと思ったけど? あんたは宮中勤めの兵士さんだな。しかも位はかなり上、だろ?」
克安は苦笑する。
「半分あっているが、半分は間違っているな」
「なんだそりゃ」
一瞬、躊躇った後、それでも克安は口を開いた。
「それは今の話だ。五年前の戦の時は、私は今の職にはなかった。いや…兵士ですらなかった。私は……刺客だったのだよ」
学然の顔がこわばる。
克安はぎゅっとこぶしを握り締めた。
「あの戦の中、私は刺客として数多くの命を奪った。その結果、今の職にある」
悲しそうな克安の笑み。
「だから…だから、あんたは自分を殺したいと願ったのか?」
学然の言葉に、克安は首を横に振った。
「いや。それも一因ではあるかもしれない。だが、戦で敵の命を奪うは避けられぬこと。私がこう願うのは……」
克安は空を見上げる。
「親友をこの手にかけたからだよ」
ざああと竹林が風に揺れた。