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第2章1

 前日まで降り続いていた雨がやんだのを幸いに、学然(シュエラン)は家中の窓や戸を盛大に片っ端から開け放った。

 部屋の中の湿った空気を外に追い出さんとするかのように、ものすごい勢いで掃除を開始する。

 邪魔だ、と雲隠(ユンイン)は追い出してしまったため、家にいるのは学然だけだった。

 日が中天に差し掛かったころ、ようやく一通り掃除が終わり、今度は昼食をどうするかと考え出したときだった。

「すまない」

 外から声がした。

 雲隠に出てもらおうと口を開きかけたところで、そういえば自分が追い出してしまったことを思い出す。

「ったく、めんどーな」

 実に勝手なことを思いながら、学然は表へと出た。

「突然、すまない。道に迷ってしまって。主はいらっしゃるか?」

 戸の外には、一人の男が立っていた。

 年の頃は学然より若干上だろうか。二十五、六に見える。無造作に後ろに束ねた銀の髪、左の眉から頬にかけての傷。隻眼の男は、そんな外見には似つかわしくないほどの、穏やかな瞳で学然に問うた。

「主……ねえ……」

 やはりこういうときは、雲隠が主なんだろうか、と学然は考えた。

 自分と学然の関係は、主従ではない。だが、この庵の主は紛れもなく雲隠で、自分はただの――

(居候?)

 なんだか悔しい気がしないでもないが、それが事実なのだから、学然には文句をいう資格はない。

 それにしたって自分が居なければ、雲隠はまともにご飯を作ることも、部屋の掃除をすることもできないのだ。なのに――

「どうか…したのか?」

「ん、ああ」

 眉間に寄ったしわを右手でぐりぐりとほぐしながら、学然は答える。

「今は外に追っ払っている。まあ、もう少したったら昼だし、戻ってくると思うけど?」

「そうか……」

 男はふむ、と考え込んでいたが、直に顔を上げると学然に問うた。

「では、あなたに聞きたい。ここはどこだ?」

 ずるっと学然はずっこける。

「あんたね……。迷子か?」

「最初に言ったと思うが。道に迷ったと」

(またずいぶんとでかい迷子ですこと)

 学然は肩で息をつくと、手招きをし、この不思議な客人を居間へと導いた。

 彼は克安と名乗った。なんでも、都からわざわざやってきたのだそうだ。

 ここらをふらふら歩いていた理由は、主が戻ってくてから告げると言ったきり、彼は学然には何も話してはくれなかった。

 しかし、彼が語らずとも、この庵に人がたどり着く理由といったらひとつしかない。

(雲隠を訊ねてきたってことだよな)

 そして、その背後には、彼が雲隠に叶えてもらいたい強い願いを持っている、という事実がきっとあるに違いない。

 人間たちの間で広まっている噂――どんな願いでも叶えてくれる仙人が、日が昇る方向に行ったところに住んでいるという。ただし、そこには誰でも行き着けるわけではない。強い強い願いを持っている者。それを、仙人に認められた者だけが彼に会うことができるのだと、そう人々は信じていると聞いたことがある。

 その噂を信じた人々が今までに何人もここを訪れた。そのたびに雲隠は人々の言葉に耳を傾けた。

 台所で予定より一人分多い昼食の用意をしながら、学然はつぶやく。

「また泣くことになんなきゃいいんだけどな」

「誰が泣くんですか?」

「おわっ!」

 思わず大声を上げる。

「何ですか……」

 振り返ると、ものすごく不審そうな顔で雲隠が立っていた。

「帰ってきてたのか……」

「そろそろ昼食の時間かと思いまして」

 にっこりと笑顔で返す。

 雲隠には食事の準備を手伝おうという気など、さらさらないらしい。もちろん手伝おうと言われても、逆に妙なことになりそうな気がするので、丁重に断ることになるのだろうけれど。

 ここではたと学然は克安のことを思い出す。

「そういや、居間に客がいたはずなんだけど?」

「居間? どなたもいらっしゃいませんでしたが?」

「んー?」

 学然はおかしいな、と居間を覗く。が、雲隠が言ったとおり、そこには誰もいなかった。

「庭か?」

 扉を開けると、果たしてそのとおり、克安は庭にある石の腰掛に座っていた。そこから、庭に植えてある楓の木をじっと眺めていた。

 季節は秋。真っ赤に染まった楓はまるで燃え盛る炎のようだ。庭には楓以外にも竹がここかしこに植えてあり、竹の鮮やかな緑との対比がますます楓を美しく見せていた。

克安(クーアン)

 己の名を呼ばれ、すっと顔を上げると雲隠の姿を確認し、立ち上がった。

「お待たせしてしまったようですね」

 雲隠のほうから彼に歩み寄る。

「失礼いたしました。わたくしは雲隠と申します」

「こちらこそ突然すまない。私は克安という」

 頭を下げて詫びた雲隠に、克安も同様に頭を下げた。

「とりあえず、食わない? 冷めるとまずくなる」

 学然の提案に、まずは昼食をとるために、居間に戻る。

 この日の昼食は湯麺(タンミェン)だった。さっぱり味の汁にねぎと麺だけというとても質素なものだ。だが、学然の自信作でもあったその麺を、都でもそうめぐり会えるものではない、と克安もほめてくれた。

「最近の都はどうですか?」

 克安は学然や雲隠の求めに応じて、克安は彼が知っている限りのことを二人に話してくれた。

「あなたたちはいつからここに?」

 都では当たり前のことにも、驚いたり感心したりしている二人を不思議に思ったのだろう。克安の問いに、二人は顔を見合わせてふっと笑った。

「どれくらいここにいるのかは、もうわからなくなってしまいました。それくらい昔からですね」

「ほう……」

 克安はそんな雲隠の言葉にかたんと箸を置くと、居ずまいを正し訊ねた。

「確認をしたい。私は願いを叶えてくれるという仙人を探している。それはあなたか?」

 突然の克安の問いにも、雲隠は動じなかった。それは、やはり彼がここにたどり着いたときからこうなることが予測できていたからだろう。

「そうです。あなたが探しているという者はわたくしです」

 雲隠ははっきりとした口調で答える。

「では……私の願いを叶えてほしい」

「あなたの願いは?」

 克安は少しだけ間をおいた後、口を開いた。

「――私が最も忌むべき者をこの世から消してほしい」

 げっと学然は克安を見た。

 彼が願いを持ってきているのだろうということまでは想像できた。だが、まさかこんな願いを持ってくるとは……。

 なんという男だ。他人の命を奪ってほしいなんてことを言うとは。そのような男には見えなかったのに……。

(人間ってのは恐ろしいもんだな)

 雲隠をちらりと見やる。

 人の命を奪う願いなど、雲隠が聞くわけなどない。事実、今まで雲隠はそういった類の願いは聞いたことが――……。

(なかったっけか……?)

 思い返してみたが、「聞き届けたことがない」というより、「そういう願いを持った者が来たことがない」ということに学然は気づいた。

(これも仙の力ってやつか? それとも偶然か?)

 どちらにしろ、この願いは無効に違いない。

 雲隠がこのような願いを叶えることは絶対にないはずだ。

 今まで長い年月、彼のそばにいたのだ。もう雲隠の性格は十分にわかっている。だからこそいえる。彼がこの願いを叶えることはありえない。

「では、あなたの願いと引き換えに、あなたの最も大切なものをいただきます」

 だが、学然の予想に反して、雲隠は、いつも庵にやってきた者たちにかける言葉を今回も口にした。

 学然は大きく瞳を見開き、言葉を失った。そして雲隠のこの言葉に驚いたのは、克安も同じようだった。

 目をぱちくりさせて、雲隠と学然を交互に見た。

「金、ではないのか?」

 ごもっともな反応だ。

 ここにくる者の八割はそのように反応する。

 法外な金を請求されるのではないかと、予め「私はそれほど裕福ではない」などと申告する者さえいる。

 だが、これまで雲隠が、訊ねてきた者に金を要求したことは一度だってなかった。結果的にその者の「大切なもの」が金だったことはあったかもしれないが、願いを叶える代償として、初めから金を請求したことはない。

「お金はいりません。あなたの最も大切なものを、わたくしはいただきたいのですから」

「だが……」

 克安は眉間にしわを寄せた。

「あいにく私には、大切なものがない。だから、大切なものを、といわれても差しあげることができないのだが」

 どうしたものだろうか、ときわめて真面目な顔で問うた。

 雲隠は珍しく声を立てて笑った。どうやら克安という男に好感を持ったようだ。

「大丈夫です。あなたが大切なものは、あなたがそれと意識していなくても、必ずあるのですから。わたくしはそれをいただきます。もちろん、痛みも何もありません。それがなくなっても……あなたは気づかないかもしれません」

「それでは、『大切なもの』ではないのではないか?」

「いいのです、それでも」

「――あなたは変わっているのだな」

 納得いかない様子の克安を見て、雲隠は言葉を付け足した。

「そうですね……。説明が足りないかもしれません。わたくしがほしいのはあなたの大切なもの、それは、『あなたの』であると同時に、『わたくしにとって』価値あるもの、という意味にもなります」

「ほう……では、もっと難しいな。私にはそのようなもの、ないように思えるのだが」

 克安は袖を振って見せた。

「ほら、この通り。私は決して裕福ではない。宮中で仕えてはいるが、一介の兵士に過ぎない。見事な宝石も、いくつも部屋があるような家もない。毎日普通に生きていくだけで精一杯なのだが」

「『一介の兵士』ね」

 ようやくここで心を落ち着けた学然は、確信に満ちた声で言った。

「あんたは一介の兵士なんかじゃないよ」

「ん? なぜそう思う」

 克安の目が光る。

「一、その口調。ある程度上の位にいるだろ。一介の兵士はそんな話し方はあまりしないと思うぞ。二、気配。あんたのその気配は一介の兵士、なんていうもんじゃない」

「――鋭いな」

 彼は苦笑した。

「私の部下にもあなたほど観察眼が優れた者はいない」

「そりゃどうも」

 やはりな、と学然は内心思う。彼は都でも相当の地位にある者なのだろう。しかも彼はまだ若い。若いのに、そこまでの地位にいるということは、相当手柄を立てたか、または金で地位を買えるほど裕福かのどちらかだ。

(そんなお方が何で来るかね……)

 よくわからん、と学然は首を傾げた。

 彼はあまり裕福でないようなことを言ってはいたが、それでも普通の民よりはよほど裕福に違いない。

 そんな者がなぜここに来るほど強い願いを持っているのか、なぜあのような願いを心に抱いているのか理解できなかった。

「どちらにしろ、結果的に差し上げるものは何もないかもしれない。それでも願いは叶えてくれるか?」

「叶えましょう」

 躊躇いもせずに雲隠は即座に答えた。

「――では、頼む」

 克安のその言葉に呼応するかのように、克安の目の前に一枚の紙がふっと現れた。

 そうして、すぅっと文字が浮かび出る。そこには、克安の願いを叶える代わりに、克安がもっとも大切なものを雲隠に与えるという旨記載されていた。

「問題がなければ、その紙に触れてください。それで契約成立です」

 言われるままに、克安はその不思議な紙切れに触れる。とたん、紙は空気に溶けて消えた。

 初めて目にした仙の力に驚きを禁じえない様子の克安であったが、すぐにもとの冷静さを取り戻すと、軽く頭を下げた。そうして、窓の外に目をやった。

 ここにたどり着いたときはまだ日が空高くあった。が、ずいぶんと西に傾いている。

 青く晴れ渡っていた空も今では、うっすらと橙色に染まりつつあった。

「すまないが、このあたりに宿はないのか?」

 さすがにこの時間にここを発ち、都に戻るのは得策ではないと考えたのあろう。

「――あると思うか?」

「やはり……ないか」

 どうしたものかと、と克安はあごに手をやり、考え込む。

 それを見て、雲隠は助け舟を出した。

「もしよろしければ、客間があります。そちらを使ってください。今なら他に誰もいらっしゃらないので、使っていただいても大丈夫ですよ」

「それは……すまない。恩に着る」

 学然は、雲隠を居間に残したまま克安を客間へと案内する。

「普段は誰かが使っているのか?」

「ん?」

「いや、先ほど雲隠は『今なら』と言っていたから」

「ああ」

 学然はぽりぽりと鼻の頭を掻きながら答えた。

「あんたみたいな人が来たときは、ここを使ってもらっているからな。今はちょうどあんたしかいない。そういう意味だ」

 そうか、と克安は言うと、荷物を卓の横へと置いた。

「面倒をかけてすまないな」

「これも仕事みたいなもんだから気にすんな」

 学然は、部屋の中の備品や、この庵の周辺のことについて一通り説明をすると、夕飯になったら呼びに来るからと告げて、客間を後にした。

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