第5章
「克安!」
久しぶりに宮中に顔を出すと、驚いた同僚が駆け寄ってきた。
「お前、傷はどうしたんだ?」
「ああ……どうしたもんだろうな」
「――お前、自分の顔だろ?」
克安は笑ってそれには答えなかった。
雲隠は「大切なものと引き換えに」と条件を出した。自分にはその「大切なもの」が何かはわからなかった。
もう守るべきものは何も残っていなかったから。
この傷がついたときに、大切なものはすべて失ってしまっていたはずだったから。
だから、雲隠にあの言葉を言われたときも、
「差し上げられるものは何もない」
と言ったのだ。
あの時、雲隠は大切なものはやがて自然と克安のもとから去るだろう、と言っていた。
(その結果が、これ……か――。本当に物好きなものだな)
だが、今の克安には、なぜ雲隠が傷を持っていったのかがなんとなくわかる気がした。
今の自分を形成しているのは、すべてはあの傷だった。
あの傷ができたからこそ、今の自分が存在している。
大切な友につけられた傷。あの時、傷つけられなかったならば、自分は刺客から足を洗うこともなかっただろう。
身体も、心も傷つき、人の心の怖さと脆さと、そして優しさを知った。
とてもとても――大切な……。
克安は傷があった場所に触れる。
そうして、思う。
傷がなくなったということは、願いの成就は近い――と。
「克安様、そろそろ時間です」
部下の言葉に、克安は手を上げる。
「ありがとう、今行く」
今日はこれから街を巡回しにいくことになっている。
宮中の警備が本来の仕事ではあったが、克安は自ら好んでよく街へと降りていっていた。
蓮狼が守ったこの国を、人々の笑顔をもっと身近に感じたいと、そう強く思っていたから。
「じゃあ、行くよ」
「ホント、お前、物好きだよな。そんなこと部下に任せておけばいいのに」
先ほど、雲隠に対して思っていたことを、まさに同僚に言われて、思わず笑いがこみ上げてきた。
「私がこんなことをしていられるのは、それだけ平和だってことさ」
「お前な……」
呆れたように言う同僚に「じゃあな」と別れの挨拶をすると、克安のことを待つ部下たちのもとへと足早に向かっていった。
「本当に我々だけでもいいんですよ?」
「いや――私も行くよ」
いつも交わされる同じ会話。
「君たちにも苦労かけるな……」
自分が部下たちと行動を共にするために、他の部隊の者たちからあれやこれやと言われていることを、克安は知っている。
だが、克安にとってこれだけは譲れない。
まったくもって自分はなんと頑固者だろうと思うのだが、それでも克安は城下へと降りる。
「いえ、私たちも諦めておりますから」
「言うな」
それでも自分についてきてくれる部下たちに感謝しながら、克安は笑った。
昼過ぎの街は、ゆったりとした時間が流れていた。
行き交う人も比較的まばらだ。
街角ではいすに腰掛けたまま、うとうとしている老人がいた。そのひざでは三毛猫が気持ちよさそうに背を丸めて眠っている。
(本当に、平和だ……)
もう、自分がここですることは何もない。
もう、何も――……。
そう思ったときだった。克安の視界に入ったのは、前方から走ってくる馬車。そして、そこに犬を追いかけて飛び込んでくる一人の幼き少女の姿。
彼女は追っている犬に気を取られて、馬車がやってくることに気づいていない。
(だめだ!)
このままでは間に合わない。
思うより先に克安の身体は動いていた。
激しい音を立てて近づいてくる馬車。少女がようやくそれに気づく。大きく目を見開き――……。
大きな音があたりに響き渡る。
わあ、という人々の声。
宙に舞ったのは――克安の身体。
克安が最期に見たのは、蒼くどこまでも広がる美しい空だった。