薔薇園の密約 〜入れ替わった貴族と庭師の少年の物語〜
ヴァイス伯爵家の庭園には、初夏になると薔薇の香りが満ちる。
石畳の小径を挟んで左右に広がる花壇は、代々仕えてきた庭師の手によって几帳面に整えられ、緑の絨毯の上に宝石をちりばめたようだった。
その庭の片隅で、二人の八歳の少年が向かい合っていた。
一人は庭師の息子、リオ。
使い古した麻のシャツに土のついた膝当てをし、金色の髪はボサボサに荒れていた。
もう一人は、この屋敷の主であるヴァイス伯爵家の三男、エドガー。
仕立てのよい上着に真新しい革靴、丁寧に整えられた金色の髪。
どこから見ても、普通の庭師とその主人という関係だった。
けれど不思議なことに、その顔立ちは驚くほどよく似ている。
屋敷の使用人たちが、まるで双子のようだと囁き合っているほどだ。
「なあ見てくれよ、リオ。この靴ったら、歩くたびにキュッキュッて鳴くんだ。まるで僕が来たぞーって、靴が自慢してるみたいで恥ずかしいったらないよ」
エドガーが片足を持ち上げて器用に靴を鳴らして見せると、リオは剪定ばさみを放り出して腹を抱えて笑った。
「なんだよそれ! キュッキュッ言いながら礼儀作法の授業受けてるのか?」
「笑いごとじゃないんだって! 昨日なんか、子爵夫人との挨拶の最中に思いっきり鳴らしちまって、夫人が『あら、お可愛らしい鳴き声ですこと』ってニッコリされてさ……穴があったら入りたかったよ」
「貴族ってのも大変だな」
「大変なんてもんじゃないさ」
エドガーは石段にどさりと腰を下ろした。
「毎朝礼儀作法の教師が来て、剣術の稽古で木剣を持たされて死ぬほど素振りをさせられて、夜は晩餐の席で背筋伸ばして座ってなきゃいけない。この間なんて姿勢が悪いって、背中を真っ直ぐにして一時間、動くなって座らされたんだ。あれ、ただの罰ゲームだろって」
リオは涙が出るほど笑った。
「お前んち、地獄すぎてウケる」
「笑い事じゃないって。それに引き換えお前は、土いじって、花育てて、好きなだけ笑って……いいなあ、庭師は」
「いいなあって、こっちは毎日腰痛いんだぞ。でもまあ……」
リオは少し照れくさそうに頬をかいた。
「お前の暮らしにも、憧れるけどな。豪華な服も、美味そうな飯も、大きな屋敷も」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
「なあ、リオ」
しばらくして、エドガーが悪戯っぽい目をして言った。
「僕たちって似てるだろ。試しに、入れ替わってみないか?」
「入れ替わる?」
「ああ。僕がお前のふりして庭仕事して、お前が僕のふりして屋敷で暮らすんだ。きっと誰も気づかないぞ。面白そうじゃないか」
最初は軽い冗談のつもりだった。
けれども話しているうちに、二人ともすっかりその気になっていった。
「一日だけだぞ。バレたら大目玉だからな」
「わかってるって。よし、これは秘密の作戦だ。名付けて――貴族と庭師、こっそり交換大作戦!」
「ダサいネーミングだな、おい」
「そうかな。それなら薔薇園の密約ってどうだ?」
そんな他愛のないやり取りの末、二人はその日のうちに服を交換した。
エドガーはリオの粗末な麻のシャツに袖を通し、リオはエドガーの上等な上着をまとった。
「へへ、似合うだろ?」
「本当に! 僕の作業着もいい感じだろ?」
けれど、この『一日だけ』だったはずの遊びは、そのまま終わらなかった。
翌日になっても、その翌日になっても、二人は元に戻らなかった。
誰も入れ替わりに気づかないことが分かると、それはもはや悪戯ではなく、二人だけの秘密の願いに変わっていった。
エドガーは自由な庭師の暮らしを、リオは憧れの貴族の暮らしを、それぞれ手放したくなくなっていたのだ。
「なあエドガー――いや、これからはリオって呼ばないとな」
屋敷に戻ろうとするエドガーに、リオが声をかけた。
「本当に、このままでいいのか?」
エドガーは一瞬だけ表情を曇らせが、すぐにいつもの陽気な笑顔になった。
「もちろんさ。僕はもう、決めたんだ。お前ならきっと、うまくやれるよ」
その笑顔の裏に何かが隠されていることに、幼いリオはまるで気づかなかった。
☆
入れ替わりは、拍子抜けするほどうまくいった。
伯爵夫妻は我が子の些細な違いに気づかなかった。
多少ぎこちない振る舞いも不安定な成長だから、と片付ける。
『エドガー』となったリオは、最初こそ礼儀作法に四苦八苦し、フォークを落として給仕係を慌てさせたり、乗馬の授業で馬に振り落とされたりと失敗続きだったが、持ち前の負けん気で少しずつ様になっていった。
一方、本物のエドガーは『リオ』として庭師の弟子になり、水を得た魚のように土いじりに夢中になった。
時折、屋敷の隅で顔を合わせては、こっそり近況を報告し合う。
それは二人にとって、何よりも楽しい秘密の時間だった。
「見ろよ、剣術でついに一本取ったんだ」
「マジか! こっちも見てくれ、初めて自分だけで薔薇を挿し木で増やせたんだぜ」
そんな他愛のない自慢話をしながら、少年たちは青年へと成長していった。
☆
そして、リオが十八になったある日。
伯爵の書斎に呼び出された「エドガー」――すなわちリオは、思いもよらない言葉を告げられた。
「エドガー、お前の縁談が決まった。相手はグランディス侯爵未亡人だ。今年で四十九になられる」
リオは自分の耳を疑った。
「……聞き間違えたでしょうか、父上」
「いや、間違いではない。お前は三男だ。跡継ぎでもない三男の役目は、家格を上げるための縁組みを担うこと。これは、お前が生まれたときから決まっていたことだ。まさか、知らなかったとは言わせんぞ」
書斎を出たリオの足取りは、まるで氷の上を歩いているようだった。
頭の中で、幼い日にエドガーが浮かべた、あの一瞬の曇った表情がよみがえる。
――お前ならきっと、うまくやれるよ。
あの言葉の裏には、これがあったのか。
エドガーは、最初から知っていたのだ。
自分がこの残酷な運命から逃れるために、リオにすべてを押し付けたのだと。
その夜、リオは庭の隅でエドガーを問い詰めた。
「お前……知ってたのか。この結婚のこと」
エドガーは、初めて言葉に詰まった。
長い沈黙のあと、ようやく絞り出すように言った。
「……ああ、知っていた。すまない」
「なんで、言わなかった」
「言えば、お前が引き受けてくれないと思ったんだ」
リオは拳を握りしめた。
怒りと、裏切られた悲しみが胸の中でせめぎ合う。
だが、すでに三年もの間「エドガー」として生きてきた自分に、もはや後戻りの道はなかった。
「……もういい」
リオは短くそれだけ言うと、背を向けて屋敷に戻っていった。
エドガーは、何も言えずにその背中を見送ることしかできなかった。
その後、二人が言葉を交わすことは、ほとんどなくなった。
婚礼は静かに執り行われた。
花嫁のエレノアは、聡明で穏やかな女性だった。
年の差はあっても、彼女は決してリオを蔑ろにせず、長い年月をかけて二人の間には確かな絆が育まれていった。
リオは領地経営に打ち込み、「エドガー・ヴァイス伯爵」として、堅実で慕われる領主へと成長していった。
だが、その胸の奥には、幼馴染への複雑な感情が、消えることなく燻り続けていた。
一方、本物のエドガーは「リオ」として、庭師の道を歩み続けた。
彼は隣町の花屋の娘ミラと恋に落ち、同い年の彼女と結ばれた。
貧しいながらも温かい家庭を築き、三人の子どもに恵まれた。
日々の暮らしに幸せを感じるたび、エドガーの胸には小さな棘が刺さり続けた。
――僕は、リオに申し訳無い事をしてしまった。
その問いに、彼は三十年もの間、向き合うことができずにいた。
☆
事の発端は、些細な偶然だった。
エドガーの息子が、王都で開かれる園芸品評会に出品することになったのだ。
会場は、大貴族の庭園。そこで審査員として招かれていたのが、他ならぬヴァイス伯爵――リオその人だった。
初夏の陽射しが降り注ぐ庭園で、二人は三十年ぶりに顔を合わせた。
「……リオ、なのか」
伯爵の礼服をまとった男を見て、庭師の男が声を漏らした。
白髪の交じり始めた金髪、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていたが、少年の面影は残ったままだった。
「久しいな、エドガー」
リオの声は、静かで感情の読めないものだった。
二人は人目を避け、庭園の奥にある東屋へと移った。
「息子さんが賞を獲ったそうだな。おめでとう」
「ああ、ありがとう。……リオ、お前、ずっと僕を避けていたな」
「ああ、そうだな」
リオは短く答えた。
「あの時のこと……本当にすまなかった。ずっと、謝りたかった」
「三十年経って、ようやくか」
リオの声に、鋭い刺のようなものが混じった。
エドガーは息を呑んだ。
「私はな、エドガー。お前があの日『任せられる』と笑った顔を、三十年間、何度も思い出した。あれが、僕の運命を知った上での、精一杯の笑顔だったんだとな」
「リオ……」
「エレノアは、いい女性だった。年の差はあっても、私達はちゃんと夫婦として支え合って生きてきた。だが――」
リオはエドガーをまっすぐに見据えた。
「もし最初からすべてを知っていたら、私は違う選択をしたかもしれない。少なくとも、自分の意思で決めることができた。お前はそれを、私から奪って、自分だけ自由になった」
「……そうだな。本当に申し訳――」
「謝罪はいらない」
リオは立ち上がった。その目には、もう温かさの欠片もなかった。
「私はお前を、友人だと思っていた。だからこそ、この三十年、何度もお前を許そうとした。だが今、お前の口から直接聞いて、はっきり分かったよ。お前は私の人生を利用して、自分だけ幸せな家庭を手に入れた。そして私には、償いの言葉一つで済ませようとしている」
「そんなつもりじゃ……!」
「つもりじゃなくても、結果はそうだろう」
リオの声は静かだったが、エドガーの胸を鋭く貫いた。
「お前の息子が獲った賞には、私が正式に署名する。それは審査員としての、公正な仕事だ。だが――」
リオは一度だけ、エドガーの目を見た。そこにあったのは、怒りというよりも、深い悲しみを湛えた決別の色だった。
「今日限り、お前とは他人だ。二度と、私の前に姿を現すな」
「リオ、待ってくれ!」
エドガーが伸ばした手は、しかし虚しく空を切った。
リオは振り返ることなく、まっすぐに歩き去っていった。夕暮れの薔薇園に、エドガーただ一人が取り残された。
その夜、エドガーは家族の待つ我が家へと戻った。
妻のミラが、賞を獲った息子を囲んで祝いの食卓を囲んでいた。
「父さん、おかえり! 見て、審査員のヴァイス伯爵が直々に署名してくれたんだ!」
満面の笑みで賞状を掲げる息子を前に、エドガーは無理に笑顔を作った。
「……よかったな。お前の努力の証だ」
食卓は賑やかで、温かかった。
けれどエドガーの胸には、リオの最後の言葉が、いつまでも冷たく残り続けていた。
――今日限り、お前とは他人だ。
それは、幼い日に交わした秘密の約束が、三十年の歳月を経て迎えた、あまりに重い代償だった。
あの日、庭で無邪気に笑い合った二人の少年は、もう二度と、同じ場所には戻れない。
エドガーは窓の外に広がる、月明かりに照らされた小さな庭を見つめた。
そこに咲く一輪の薔薇が、遠い日のヴァイス伯爵家の庭園を思い出させた。
自分が築いた幸せな家庭。
その裏側で、かつての親友から永遠に失われたもの。
その両方を抱えながら、エドガーはこれからの人生を生きていかなければならなかった。
薔薇の香りだけが、静かに夜風に溶けていった。
お読み頂きましてありがとうございます。




