表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

エクスパンデッド・パーセプション=拡張知覚

作者: 深水湖水
掲載日:2026/04/25

 エクスパンデッド・パーセプション=拡張知覚 深水湖水


 その日の午後、白鳥桂子は所属先である高エネルギー素粒子物理学研究所を早退した。首都圏に小さな台風が接近していて、天候が荒れ始める前に帰宅するよう指示が出たためだ。

 桂子が研究所を出たときにはモノレールがまだ動いていた。おかげで夕刻までに自宅のあるマンションにたどり着けた。エントランスへとつながるスロープを歩いている途中で桂子は立ち止まり、空を見上げる。

 雲が低く流れも速い。指先がぴりぴりしてきた。はやく屋内に入ろう。

 複合認証の自動ドアを抜けた桂子はくたびれたエレベータに乗り、部屋のある階で降りた。数時間前には後にしてきたドアの前に立ち、ノブに触れる。生体認証成功の電子音と、続いてガチャリと金属音がして解錠された。ドアを開けるといい匂いがする。

「ただいま」

「おかえり」

 玄関から声をかけると素っ気ない返事が返ってきた。十二歳下で高校生の妹、百合だった。先に帰っていて一人で夕食の支度を始めていたらしい。いい匂いの正体は百合の振るフライパンから立ち上る湯気だった。妹の料理の腕はいい。桂子は急に空腹を覚えた。

「今日のおかずはなにかな?」

「青椒肉絲」

 百合は素っ気ない。

 その後、桂子は百合と二人で早めの夕食を済ませた。


 バスルームを出た桂子は髪を乾かしてから自室に戻った。ベッドの上でタブレット端末を眺める。見ているのはネットニュースだ。

 今日は多くの企業や公官庁が早仕舞いしている。交通機関が動いているうちに社員や職員を帰すためだ。もう間もなく緩衝壁を備えた緊急車両以外は走行を規制されるだろう。台風の引き起こした大気と水の激しい循環は空間電位の擾乱を生み、首都圏で生活しているほとんどの人間の拡張知覚をかき乱しているに違いない。

 桂子は本棚から一冊の本を抜き取る。カバーは無く、表紙の角は擦り切れてまくれあがっている。購入してから十年にもなるだろうか。この本に出合ったことで研究者を志した。痺れを感じる指先でページをめくると気分が落ち着く。しおりは挟んでいない。開く場所は指が覚えている。読み始める。


 拡張知覚。

 それは大気中に存在する電荷の状態を人の五感でとらえる超感覚のことである。

 拡張知覚はこの本が出版される二十年前、桂子の時間で三十年前にもたらされた。

 一連の技術を開発した科学者グループは、無人機を使って地球全域にナノマシンを散布し、人々の脳と遺伝子に拡張知覚インターフェースとその発現機構を組み込んだのだ。

 当時の地球では気候変動と生物多様性の棄損によって環境の過激化が進んでいた。

 このまま放置すれば、そう遠くない将来に文明社会を維持できなくなると考えられていた。

 それを何とかしたい。思いつめた科学者グループは違法な手段を選んだ。

 その犯罪行為の結果として、ほぼすべての人間に拡張知覚が植えつけられた。

 拡張知覚とは大気中の電荷の状態をとらえることができる能力である。

 放電現象や空間電位の変動を知覚することで、大気の流れや水の循環を感じることができる。

 人間の生産活動の結果として過激化した環境は、拡張知覚を強く刺激し、それを身に着けた人間に酷い苦痛をもたらした。

 一度発現した拡張知覚は取り除くことができない。

 苦痛から逃れるように穏やかな自然環境を求めた人々は、気候変動や生物多様性の棄損を身近な問題としてとらえるようになった。

 やがて世界中の政府機関がそれらの対策に本腰を入れるようになってゆく。

 温室効果ガスの排出が厳しく制限されるとともに、衛星軌道上に幾つもの膜衛星が建造されて太陽光を遮った。都市は緑化され、湿地帯の再生が流行した。

 そんな対策が功を奏したのか、上昇の一途だった海面温度が下がり始める。熱帯低気圧が大型の嵐に成長することは少なくなり、突発的な豪雨も減少した。

 水と緑が溢れるようになったかつての大都市に、閉磁界型電動機によって駆動される公共交通機関が普及し、内燃機関で動く移動手段の個人所有は禁止されるようになった。

 これらの変化がわずか三十年の間に起きたのだ。

 まさに奇跡的な社会変革だった。

 とはいえ、なにもかもがうまくいったわけでもなかった。

 まだ何かが足りない。

 拡張知覚を開発した科学者グループはそう考えていたらしい。

 その何かとは何か――


 いつの間にか寝ていた桂子は背筋に衝撃を感じて目覚めた。

 目を開け、手をついて起き上がる。

 遮光カーテンの隙間から差し込む光が弱い。雨音が聞こえている。

 久しぶりに感じた強い衝撃だった。まだ手指の先がぴりぴりしている。たぶん、どこか近くに落雷したのだろう。妹の百合は大丈夫だろうか。

 ベッドから降りた桂子は廊下に出て隣の部屋のドアをノックする。

「百合?」

 桂子と百合の両親は三年前にバスの事故で亡くなっている。

 当時、百合はまだ中学生だった。大学院を出て働き始めていた桂子は半ば強引に百合を引き取った。

 以来、二人は一緒に暮らしている。

 桂子は東京湾岸にある高エネルギー素粒子物理学研究所に研究員として勤務し、百合は都内の高校に通っていた。

 ぐるぐると回る空間電荷のイメージに同期してしまい、回想に耽っていた桂子は雷鳴で我に返る。

「百合?」

 再度呼んでも返事はない。桂子は覚悟を決めてドアノブを回す。無断で部屋に入ると百合は激昂することがあるからだ。

 音をたてないように細くドアを開けて桂子は部屋を覗き込む。中は真っ暗だ。その闇の中にさらに影が見える。ベッドの上だ。桂子は部屋に入り、小声でささやく。

「常夜灯を点灯」

 天井のシーリングライトが常夜灯を灯す。その淡い光を浴びて、百合はベッドの上に座っていた。

 うつろな瞳が壁の向こうを見つめていた。


 *


 百合はベッドの上で放心状態だった。

 桂子は肩に触れようと手を伸ばす。あと数ミリで触れる。そこで小さな火花が飛んだ。静電気だ。慌てて手を引く。百合が気付く。

「姉さん……」

「大丈夫?」

「また夢をみてた……」

「夢?」

「一面真っ白で、平らで、青黒い空には雲一つなくて、すぐに夜になって、天の川がはっきり見えて……」

 語尾が消える。桂子は先を促す。

「それで?」

「すごく寒そうなんだけど、少しも寒くなくて……」

 そう語る百合の目は焦点が合っていない。桂子は百合を抱き寄せる。

 その腕の中で百合がもがく。桂子の腕をほどき、向かい合う。百合の目の焦点が急速に結ばれてゆく。

「わたし、何か喋った?」

「また夢を見たって……」

 そう、百合は「また」と言ったのだ。桂子は今気づいた。百合がつぶやく。

「夢……」

 突然、電子音が鳴った。桂子はあたりを見回す。百合が一瞬遅れて反応し、枕元の携帯端末を拾い上げると電子音を止めた。

「着替えるから出て行って」

 その口調はいつもの百合だった。

「百合?」

「もう大丈夫だから」

「でも……」

「お願い」

 廊下へと押し出された桂子の脳裏には、焦点の定まらない目をした百合の姿が焼きついていた。

 あんな姿を見たことはなかった。妹はいつもぴんと張った緊張を維持していて、それは寝起きでもそうなのだ。

 大丈夫だろうか。ただ寝ぼけていただけなのだろうか。桂子は一抹の不安を抱えたまま部屋に戻り、朝の身づくろいを始めた。


 朝食のテーブルで顔を合わせたとき、百合は普段通りの張り詰めた表情を浮かべていた。

 両親が亡くなって以来、桂子は百合の笑顔を見たことがない。いつになったら心を開いてくれるのだろうと思っていたが、今日はなんだか安心してしまう。

 二人で朝食を摂ったあと、定刻通りに桂子は百合を送り出す。百合は背中を向けたまま、手を振って出て行った。


 桂子と百合の暮らす集合住宅は都区部にある。築数十年の賃貸マンションだ。今流行の拡張知覚緩衝壁を備えていないため、天気が荒れると住人は直接的な影響を受ける。

 昨日から接近していた台風は、現在、房総半島の東の沖を遠ざかりつつあった。なのに、あいかわらず身体中のあちこちにひりつく感覚があるし、今飲んでいるコーヒーはひどく苦い。

 ああ、給料が良ければもっといい部屋に住めるのになあ……

 ため息を一つ吐いて桂子は壁の時計を見る。

「やばい!」

 出勤時刻だ。シンクにコーヒーを流してマグカップに水をためる。洗うのは帰ってからでいい、また百合の機嫌が悪くなるな。そう思いながら、桂子は部屋を出た。


 *


 近くに落雷があったあの日以来、たびたび百合の様子がおかしくなるようになった。

 夜中に廊下でたたずんでいたり、明かりも点けずにリビングのソファーに座っていたりする。その都度声をかけるのだが、すると百合はいつも夢の話をするのだ。

 百合の夢は、例えば――白黒の視野の中で大きな花が一面に咲いている様子だったり、暗黒の中にただ何かの輪郭だけが見えていて、それが蠢いていたり、あるいは赤い二つの太陽が照らす砂漠の風景だったりする。それらの夢を妙にリアルに語り、一通り話した後、心にシャッターを降ろすのだ。

 もちろんそれは続けてあることではなく、たびたびではあっても、毎日ではなかった。

 しかし、もしかすると部屋の中にずっとこもっているときにも何か妙な夢を見ていて、そのたびに、あの日のような放心状態になっているのかもしれない。桂子は気が気でなかった。


 ある雨の朝のこと――

 洗面所に行こうとした桂子はリビングのドアを開けた。そこで百合がぼうっと立っているのを見つける。

「百合……」

 桂子が声をかけると百合は半眼に閉じられた目を向けてくる。

「姉さん……」

 百合は語りだした。いつものように夢の話しを。

 百合によれば、自分は何もない空間を漂っていたのだそうだ。

 全天に見える星は瞬きもせず、その中の特別に明るい複数の星には発音できない名前がついていて、それらの星々の見え方を測位することで、自分の位置を把握していたのだと言う。

 一通り語り終えると「学校休む」と言って百合は部屋に戻ってしまった。

 リビングに一人取り残された桂子はただでさえ重い頭を抱える。今日は仕事を休むわけにはいかない日だったからだ。しかし百合をそのままにしてはおけない。どうするか――

 悩んだ挙句、桂子は出勤することを選んだ。何かあったらすぐに連絡するよう百合には言い聞かせた。

 後ろ髪を引かれる思いで家を出て、いつもの通りにモノレールに乗る。

 勤務先である高エネルギー素粒子物理学研究所に着き、所属しているラボのドアを開けると誰もいない。誰もいないはずなのに妙に人の気配を感じる。

 ときたま覚えるこの感じ、これも拡張知覚のなせるわざなのだろうか。生まれたときからその力をそなえている桂子にはわからない。

 桂子は人の気配をたどって部屋を見回す。奥のテーブルに見知らぬ装置が置かれていた。なんだろうと歩み寄り、身をかがめる。そのとき、後ろでドアが開いた。振り向く。

「おはよう」

 マグカップを片手に若い男性が入ってきた。同僚の研究者、村瀬誠一だ。彼はカップをデスクに置くと、例の装置を指さして言う。

「興味ある?」

 桂子はどう答えていいか迷った。だからとりあえず訊いてみる。

「なにこれ?」

「非侵襲型脳電子インターフェース」

 誠一はそう答えるとテーブルまで歩き、装置を取り上げた。ヘッドセットつきの網のような構造を広げて見せる。

 村瀬誠一、彼はこの研究所にいられるのが不思議なくらいの異端な存在だった。拡張知覚を開発した科学者グループの誰かの孫だとまことしやかに囁かれている。人間には重力波を感知できる能力があると主張していて、その仮説を証明するために、多くの人間の脳を同時にモニターする計画を提案していた。それに必要なデバイスが非侵襲型脳電子インターフェースと言うわけだ。桂子は訊く。

「完成したのね?」

「そうだよ、でもまだ一台しかない。計画には一万台以上が必要になる」

 桂子は彼の論文を読んでいた。やろうとしている計画の規模も知っている。だから訊く。

「これ一台でいくら?」

「二百万円」

「二百……」

「量産すれば二十万程度にはなるさ」

 それでも一万台揃えるには二十億円が必要だ。そんな予算が認められるとは思えない。世論に訴えるような何か効果的なアピールが必要だろう。そこまで考えたとき、桂子は思いつく。

「これってもしかして夢をモニターできる? 動画で記録できたりとか?」

「それはこの装置じゃなくて解析ソフトの能力次第だね」

「あ、そうか……」

 誠一に指摘されて桂子は納得する。当たり前のことだった。すると――

「できるよ」

 誠一がいきなり言った。

「ソフトは用意できている。夢を動画で記録できる」

「すごい……」

 桂子は素直に感嘆した。言っておいてなんだが、できるとは思っていなかったのだ。誠一が言う。

「使ってみたいんだよね?」

 図星だった。桂子の目論見は見抜かれている。

「誰の夢を記録したいの?」

 強い視線が桂子を射抜く。

「それは……」

 自分の夢を記録したいわけではないことまで見透かされていた。桂子は正直に言う。

「妹が妙な夢を見るの……」

「妙な?」

「すごくリアルっぽい夢」

「明晰夢?」

「そう言うんじゃなくて。目が覚めてもしばらくは心ここにあらずで……」

「何度も?」

「何度も」

 誠一は顎に手を当てて考え込んでいる。しばらくして言う。

「妹さんを実験台にするわけだけど、それはいいの?」

 今度は桂子が考え込む。誠一が言う。

「いいよ、使ってみよう。僕も興味がある」

「いいの?」

「量子コンピューターの予約が必要だ。そっちは妹さんの都合を聞いておいてくれないかな」

「わかった」

 あまりにもすんなりと事が運んでしまった。

 桂子はそこに何の疑問も感じていなかった。


 *


 桂子が誠一と非侵襲型脳電子インターフェースについて話した日はハードな一日となった。へとへとになって帰宅すると、今日もいい匂いがする。乱れた髪をそのままにリビングに入るとキッチンに立っている百合が振り向く。

「お疲れ様」

 桂子はソファーにバッグを投げ出すと言う。

「待たせてごめんね。おなかすいたでしょ?」

「そうでもないよ」

 百合との会話はいつも何かが張り詰めている。

「百合」

「なに?」

 距離を詰めたい。その思いを言葉にしたい。でもできない。傷つけたくないから。

 百合は両親の死後、ずっと殻に閉じこもっている。その殻を勝手に外から破って大丈夫なのだろうか。自分から外に出てくるまで待った方が良いのではないのだろうか。桂子は迷っていた。距離を詰める勇気が無いのだ。百合が言う。

「おかずが冷めるよ」

「そ、そうね……」

 その後、桂子と百合は無言で夕食をとった。片付けも一緒にしたが、あいかわらず会話は無かった。それでも自然と分担はできていて、今はこれで十分だと桂子は思った。


 入浴後、桂子は百合に声をかけてリビングに呼んだ。いつもならそれぞれの部屋でくつろいでいる時間だった。しかし今日は約束を取り付けないといけない。ソファーに対面して座ると桂子は切り出す。

「研究所に来てくれないかな?」

「就職の話?」

「え? いや、そうじゃなくて、日時は選んでいいから研究所に来てほしいの」

「見学? ちがうよね?」

 百合が身体の前で腕を組む。桂子は姿勢を正す。

「夢を記録する装置があるの。あなたの夢を記録したい」

 単刀直入に桂子が言うと、百合は桂子の視線をとらえた。

「姉さん」

「なに?」

「ハツカネズミはどんな気分かな?」

「え?」

「実験台にはならない」

 誠一の言ったことと同じ言葉を百合は口にした。彼女は続ける。

「新しい理論や装置の性能試験にわたしを使うつもりなんでしょう?」

 当たらずとも遠からずだった。桂子は何も言えなくなる。

「お断りします。話しはそれだけ? 他にないなら寝ます」

 百合はリビングを出て行った。取りつく島もなかった。


 *


 夢を記録したいと百合に言ったその日の深夜、天気が荒れだした。雷鳴が轟き、空間電位の乱れをとらえて指先が痺れる。

 そんな中、桂子はヘッドセットで雨音を遮断しながら論文を読んでいた。

 カフェインレスのお茶をおかわりしようとヘッドセットを外して廊下に出たそのとき、百合の部屋から悲鳴のような声が聞こえた。桂子は百合の部屋のドアをノックする。

「百合?」

 返事はない。また悲鳴があがる。

 桂子はマグカップを放り投げてドアを開けた。真っ暗だ。

「照明を点灯」

 明かりが点いた。

 ベッドの上で半身を起こした百合が悲鳴を上げている。桂子は百合の肩をつかんでゆする。

「百合!」

 悲鳴は止んだ。百合は肩で呼吸をしている。

「姉さん……」

 桂子は百合を抱きしめる。

「ゆ……め……」

「そう、夢よ。安心して」

「……怖かった……」

「それは夢よ」

「怖かった……」

 百合がすがりついてきた。震えている。桂子は百合の背中に回した腕に力を込めた。


 その日以来、百合はほとんど眠らなくなった。遅くまでリビングでネットテレビを見ている。

 昼間はずっとうとうとしていて、高校にも行かなくなってしまった。

 桂子は機会のあるごとに一緒に寝ようと提案するのだが、そのたびに必要ないと断られてしまう。

 そんな状態が二週間も続いた。

 困った桂子は百合の通っている高校に相談した。スクールカウンセラーからは精神科の受診をすすめられた。

 どうすべきか。安定剤や睡眠薬で百合の症状が改善するとは思えない。百合はカウンセリングを受け入れるだろうか。認知行動療法なら良くなるのだろうか。

 百合の見る夢はリアルだ。たぶん本人にとっては現実と同じなのだろう。だからこそ、一度恐ろしい夢を見ただけで眠ることが怖くなってしまった。

 なんとかしてあげたいが、どうにもできない。やはり精神科を受診させるべきだろうか。

 いや、あの装置を使えば百合の夢を見ることができる。百合の味わう恐怖の根源を確かめることができるのだ。治療の糸口が見つかるかもしれない。

 桂子は深夜、リビングでテレビを見ている百合に話しかけた。

「百合、いつかの話しなんだけど」

 百合はテレビから視線を外そうとしない。

「あなたの夢を記録したい。だめかな?」

 反応はない。

「あなたが怖い夢をみたらそれを記録できる。すぐに起こすこともできるし、記録されたデータを分析すれば、怖い夢を見ないで済む方法がわかるかもしれない」

 百合がこちらを向いた。

「気休めね」

「そうかもしれない」

「そうよ」

「やってみないとわからない」

 百合は再びテレビを見始めた。

「いいよ」

「え?」

「わたしを実験台に使って」

「いいの?」

「そのかわり、怖い夢だったらすぐに起こしてね」

「わかった」

「約束よ」

 念を押してくる百合の言葉には何の感情も感じられなかった。


 *


 高エネルギー素粒子物理学研究所の量子コンピューター操作室1号には大げさなリクライニングシートが設置されていた。歯科医院にあるような電動機で動かす椅子だ。

 それはこの研究所に勤務する白鳥桂子の妹、百合を量子コンピューターに接続し、彼女の見る夢を記録するために用意されたものだった。

 シートにはすでに百合が身をあずけている。かなり緊張しているようだ。頬が紅潮し、両手を握りしめている。

 そんな百合の傍らには桂子が立っていた。試験に影響を与える可能性をできるだけ低くし、なおかつ何かあったときには即座に百合をサポートできるよう立ち位置を指定されている。


 自分で提案したことなのに桂子は心配になってきた。

 誠一からの説明では、百合の頭部に装着されている非侵襲型脳電子インターフェースは正常に稼働している。何か問題が発生しても安全に接続を切ることができるはずだった。

 本当に大丈夫だろうか。百合に悪影響を与えたりしないだろうか。

 桂子は手のひらにかいた汗を白衣で拭った。するとイヤホンから声がする。

「大丈夫かな? 中止してもいいんだよ?」

 誠一からだった。心配しているようでもあり、今更中止はないよねと、念を押しているようにも聞こえた。

 誠一は量子コンピューター操作室2号にいて、こちらをモニターしている。この部屋には百合と桂子しかいない。誠一の側には看護師が待機している。

「OK?」

 誠一が訊いてきた。桂子は百合の顔を見る。目を閉じて浅い呼吸をしている。

「OK?」

 再び誠一が訊いてきた。百合が目を開く。その視線が桂子を捉えた。百合がうなずく。桂子も。

「OK」

「了解。睡眠誘導を開始する」

 打ち合わせにあった手順だ。百合のイヤホンには催眠音波が流される。この段階で、もし桂子まで眠くなったら試験は即座に中止される。そのために、百合だけでなく桂子にもバイタルセンシングデバイスが装着されていた。

「順調だ」

 誠一の言葉の通り、百合は眠りに落ちつつあるように見えた。目を閉じ、ゆっくりと呼吸している。握りしめていた両手が今は開かれていた。


 数分が経過した。

 イヤホンから誠一が言う。

「夢を見始めた」

 桂子は訊く。

「記録は?」

「記録中。打ち合わせ通り、内容はシート横のモニターに表示する。まだ映像も音声もない」

「了解」


 さらに数分が経過した。

「映像が出る」

 桂子はシート横のモニターを注視する。しかし百合からも目を離さない。

 モニターは暗い。よく見えない。するとイヤホンの向こうからどよめきが聞こえてきた。桂子は訊く。

「どうしたの?」

「そちらのモニターを別の視野に切り替える。百合さんから目を離さないように」

「了解」

 桂子がそう答えた瞬間、シート横のモニターに微細な光の集合が現れた。これは……

「天の川だよ。すごくリアルだ」

 誠一が言った。確かにリアルだ。これが今、百合の見ている夢なのか。桂子は百合の表情を確認する。穏やかに眠っている。が、頬を一粒の雫がつたった。

「百合が泣いています。試験の中止を要請します」

「了解」

 イヤホンから低くノイズが流れる。

「接続を切った。起こしても大丈夫だよ」

 桂子は百合の肩に触れた。話しかける。

「百合」

 目が開いた。そこから涙があふれる。

「さみしかった……」

「大丈夫よ」

 桂子は百合をゆっくりと抱え起こし、抱きしめた。


 *


 百合を量子コンピューターに接続した試験から一週間目の朝、桂子がラボに出勤すると、誠一が両手を広げて出迎えた。

「白鳥さん! すごいぞ!」

 そんな誠一の大音量に、桂子はこめかみを押さえながら答える。

「なにが?」

 桂子はこのところほとんど眠れていない。百合の症状が悪化していて、つきっきりになっていたのだ。

 夢の記録が影響を与えたのかもしれない。桂子は後悔し始めていた。誠一が言う。

「百合さんの夢の記録をネットで公開しているのは知っているよね?」

「やめてと言ったよね?」

 百合の夢の記録は研究者向けのネットワークで公開されていた。桂子は同意しなかったが、誠一が無断で公開してしまったのだ。

 自分の研究のためなら手段を選ばないところが誠一にはあった。そのことを桂子は思い知らされていた。誠一は言う。

「君もこれを見たら公開してよかったと思うよ」

 誠一は自分のデスクの端末を桂子に向け、説明する。

「あのときに記録した映像を、このレターを書いた天文学者が解析したんだ。それによると、あの映像は地球から銀河系中心方向に一〇〇〇光年ほど移動した宇宙空間における星空らしい。正確に言うと一〇〇〇年前の星空だけど」

 誠一の言葉が桂子の心に染み込むまで数秒が必要だった。桂子は訊く。

「実際の光景……? あの星空が……?」

「そう、実際の光景なんだよ」

 桂子は考え込む。あの星空が実際のものだとして、百合はどうしてそんな夢を見たのか。百合の見る夢はすべて実際の光景なのか。恐ろしい夢もそうなのか。研究者としての好奇心が頭をもたげてくる。そんな桂子に誠一は言う。

「もう一度百合さんの試験をしたい。できれば数回。いいかな?」

 もう一度ためしてみたい。桂子自身もそう思い始めていた。


 *


 桂子が決めかねているのをいいことに、誠一は強引に押し切ってきた。百合の再試験は六回実施され、それ以降は桂子の判断で中止となった。

 桂子は後悔していた。夢を記録することで百合の症状が悪化したように思えたからだ。


 晴天の深夜、静謐な空気と安定した空間電位は気分を落ち着かせる。

 桂子はネット上に公開されている論文を読んでいた。

 そろそろかな。桂子は端末の画面から目を離す。リビングでは百合がまだ起きているはずだ。まもなく睡眠薬を服用して眠りにつく。そのときにはそばにいないといけない。百合がいつ恐ろしい夢を見ても起こせるように。

 桂子は耳をそばだてた。静かな音楽が聞こえている。百合はヒーリングビデオでも見ているのだろう。

 カフェインレスのお茶を一口すすった桂子は画面に視線を戻す。そこにはこれまで実施されてきた百合の試験の記録が表示されていた。

 六回の試験のうち、四回の試験で星空が記録されていた。そのうちの三回で視点の位置が割り出されている。それらを試験日順に並べてゆくと、それぞれ地球から銀河系の中心方向へおよそ二〇〇〇光年のもの、三五〇〇光年のもの、四一〇〇光年のものと推定された。

 これは驚くべきことだった。百合は夢の中で銀河系の中心方向へと移動しているのだ。

 追加実施された試験では、記録された星空の全てで星が瞬いていた。どこかの地上から大気を通して眺めた星空だと思われる。

 それに太陽。夢の中の太陽は赤かったり連星だったりして、それが視点位置を特定する決め手の一つになったりもした。

 また、百合の夢には星空だけでなく生物も登場していた。異形の生き物の姿が映像に記録されていたのだ。

 百合の脳内には何かある。桂子を含め、この問題に取り組んでいる全ての研究者はそう考えるようになっていた。


 晩秋のある日、勤務先である高エネルギー素粒子物理学研究所の藤堂一朗所長が桂子の所属しているラボにやってきた。

 藤堂の専門は桂子と同じ統一場理論だった。この研究所では重力場の研究を推進している。

 そんなせいもあってか、藤堂は桂子の所属するラボによく顔を出してくれた。世間話しをして帰るのだ。今日もそんなところだろうと桂子は考えていた。ソファーに座った藤堂は対面に腰かける桂子に言う。

「この施設の隣、先進医療技術中央病院の院長を僕の弟が務めているのは知っているかな?」

 藤堂は右手の拳を左の手のひらで包むようなしぐさをしながら言った。それが言いにくいことを言うときの癖だと桂子は知っている。

「はい、知っています」

 素直に桂子は答えた。藤堂はなおも同じ動作を続けながら言う。

「弟は君の妹さんの件も知っていて、診てみたいと言っている。あそこには高エネルギー多重量子スキャナーがある。それを使いたいと言ってきた」

「高エネルギー多重量子スキャナー……ですか?」

「人体をいろんな粒子線で断層撮影できる装置だ。最高解像度は原子レベル。弟は妹さんについて公開されているデータは全て読んだと言っていた。それで言うんだ。妹さんの脳内には恒星間空間を超えて異星の生物と通信できる仕組みがあるのではないかとね」

 桂子はあきれた。恒星間通信はまだ実用化されてもいない。ましてやそれが生物同士でとなればもうSFが扱う話題だ。

「ありえません」

 そう言ってから桂子は藤堂の表情をうかがう。そこには真剣な眼差しがあった。藤堂は言う。

「弟の思い付きはともかく、夢の原因がわかれば百合さんを治療できるかもしれない」

 その言葉が決定打となった。百合を楽にしてやりたい。それが今の桂子の思いだったからだ。

 だが、と桂子は思う。それは本心なのだろうか。研究者としての好奇心からくるものがあるのではないのだろうか。

 百合の脳を調査すれば学術的に重要な発見があるかもしれない。その考えがいつも頭から離れない。否定しても否定しても消えない。

 桂子の心は乱れた。また台風がくればいい。空間電位の擾乱で何も考えられなくなる。

 晴天続きの安定した気候が、桂子には恨めしかった。


 *


 結局、百合は先進医療技術中央病院を受診することになった。藤堂所長の弟、藤堂二郎院長が百合のかかりつけ病院と話しをつけてくれたのだ。

 一方、百合本人はと言うと、いつも白昼夢を見ているような状態で、桂子の言うことにいちいち反発することもなくなってしまっていた。


 百合の検査日がやってきた。

 その日は朝から弱い雨が降っていて、桂子の気分は重く沈んでいた。指のしびれは無い。比較的空間電位は安定している。

 桂子はEVタクシーを呼んで百合と一緒に自宅を出た。先進医療技術中央病院に到着すると、すでに事務手続きは済んでいて、看護師が放射線科の受付まで案内してくれた。この一番奥に高エネルギー多重量子スキャナー検査室が設置されていると言う。

 検査は全身麻酔で実施される。そのことはあらかじめ知らされていたし、予備検査でも問題は発見されていなかったが、やはり不安だった。

 高エネルギー多重量子スキャナーによる断層撮影では被検者に筋弛緩剤を投与し、人工呼吸器をつないで全身麻酔を施す。この装置が著しく高解像度であることがその理由だった。検査中に被検者が動くと撮影に支障がでるのだ。これは他の、たとえばロボット手術でも同じで、その場合は患者の安全確保を第一の目的として、患者が動かないように全身麻酔を施す。


 問診が終わり、廊下の長椅子に並んで待っていると百合が話しかけてくる。

「姉さん……」

 桂子は百合の頭を優しくなでながら答える。

「なに?」

「今は現実よね……?」

「そうよ」

 桂子の心が悲鳴を上げる。百合はさらに訊いてくる。

「これから検査するの……?」

「そうよ……怖い?」

「怖くない……最近、夢が怖くなくなってきたの……」

 桂子は百合を抱きしめる。

「百合……」

 涙が零れた。

 検査室のドアが開く。看護師が出てくる。

「白鳥百合さん。中へどうぞ」

 百合はゆっくりと立ち上がり、桂子を残して検査室へと入っていった。


 *


 高エネルギー多重量子スキャナーによる百合の検査は無事に終わった。結果の解析には二週間を要した。

 検査結果を聞くため、先進医療技術中央病院を訪れた桂子に藤堂二郎院長は語った。

「百合さんの脳内に、重力をのぞくどんな力場にも反応しない箇所が複数確認されました」

 桂子は訊く。

「それは?」

「あなたは物理学者だそうですね。ならば想像できるでしょう?」

「ダークマター……ですか?」

「おそらくそうです。百合さんの脳内にはダークマターがなんらかの仕組みで捕獲されている。それも複数」

「それが百合の見る夢と関係しているのですか?」

 桂子がそう問うと藤堂院長は腕を組んだ。

「かもしれません」

「かもしれない?」

「かもしれないし、そうでないかもしれない。ダークマターの正体はわかっていません。鏡像物質ではないか、などと言われています。その正体がなんであれ、重力以外に反応しない部位をこれ以上調べることはできません」

「そう……ですね……」

「この結果、公開してもいいですか? これまでと同じように研究者向けのネットワークに限定して公開します」

 桂子は迷った。百合の脳内にはダークマターが存在するかもしれない。これは大ニュースだ。研究者向けのネットワークに限定して公開しても、すぐにマスコミに漏れるだろう。

 しかし、夢の中の星空が実際に存在すると判明したのは情報を公開したからだ。集合知の力は大きい。でも――

「公開は……百合の状態が良くなるまで待ってもらえませんか?」

「わかりました」

 すんなりと藤堂院長は了承した。桂子は深々と頭を下げる。

「ありがとうございます」

 藤堂院長との面談はそこで終わった。

 百合のデータは公開されない。

 これでいいんだ。桂子はそう自分に言い聞かせた。


 高エネルギー多重量子スキャナーを使って行われた百合の検査結果は非公開となった。

 病院の情報管理は厳しく、先進医療技術中央病院の藤堂二郎院長から、その兄である高エネルギー素粒子物理学研究所の藤堂一郎所長に検査結果が伝わることもなかった。その徹底ぶりに桂子は感謝した。

 百合の方は月に一度、先進医療技術中央病院に通院することになった。なんとか治療方法がみつかるように桂子は祈った。そうやって日々は過ぎてゆく――はずだった。


 それは初冬のひどく冷え込んだ朝のことだった。

 桂子はインターフォンの呼び出し音に叩き起こされた。慌てて出ると、モニターには見知らぬ男が映っている。男は言う。

「週刊ラッシュです。白鳥百合さんを取材したいのですが、よろしいでしょうか?」

 桂子は悟った。情報が漏れたのだ。とっさに言う。

「後ほど代理人を通じてお知らせいたします。今はお引き取りください」

「代理人を通じて何を知らせてくれるんですか?」

「あらためて記者会見の場を設けます。その場所や日時です」

 桂子はそこまで言ってインターフォンの電源コードを引き抜いた。


 *


 桂子はマンションの周りにたむろしていた数人の記者を引き連れて高エネルギー素粒子物理学研究所に出勤した。研究所の中にまで彼らは入れない。ラボにたどり着くと同僚の物理学者、村瀬誠一が出迎えた。

「情報が漏れたね。僕も見た」

「どこで?」

「ネットニュースだよ。誰かが情報を売ったに違いない。先進医療技術中央病院のスタッフとか」

「いい迷惑」

 桂子は応接セットのソファーにどかっと腰を下ろした。誠一が訊いてくる。

「百合さんは?」

「家にいる」

「大丈夫なの?」

「管理人さんが警察を呼んでくれた。記者の中に不審者がいるって」

「そうか、それがいい。で、なんだけど」

「なに?」

「記者会見とか、するの?」

「するつもり」

「じゃあうちの所長と、あっちの院長に相談するといい」

「そうする」

「それとね、提案があるんだけど」

 桂子は誠一の相手をするのが面倒になってきた。

「まだ何か?」

「まあそう言うなよ。うちの実家が資産家なのは知ってるよね?」

「そうなの?」

「そうなんだよ。実家は敷地も広くて二十四時間警備員もいて、家政婦もいる。なんなら看護師も常駐できる」

「だから?」

「落ち着くまで百合さんをうちの実家に預けてみたらどうかな?」

「え……?」

「すぐに答えを出す必要は無いよ。でもこれからしばらくは騒々しくなる。百合さんの脳内には謎の物質、ダークマターがあるんだから。世界中の耳目が集まるよ。ことによったら国家規模で」

 うんざりだった。逃げたいと思った。でも、百合を赤の他人に預けるなんてできない。

「少し考えさせて」

「いいよ。君にとっても百合さんにとっても良い選択をするといい」

 そう言い残すと、誠一はラボから出て行った。


 *


 結局、誠一から百合を預かってもよいと提案のあったその日に、桂子はその申し出を断った。誠一は自分の研究のためなら手段を選ばない。桂子はどうしても彼を信用できなかったのだ。

 一方、今の百合はまるで起きながら眠っているとでも言うような状態で、常に誰かの手助けが必要だった。やむを得ず、桂子は福祉サービスの介入を受け入れた。そうすることで、どうにかこうにか出勤できている有様なのだった。


 情報が漏れた日から七日目の朝、新たなニュースはやはり誠一からもたらされた。

 ラボに入ると彼は言う。

「やっぱり僕の予想は正しかったよ」

 桂子は自分の席に座るとため息を吐く。誠一が訊いてくる。

「どうしたの?」

「気にしないで」

「気にしないわけにはいかないよ」

「いいから気にしないで!」

 桂子は思わず怒鳴ってしまった。百合の状態は相変わらずで、マンションには警官が巡回してくれるようになったが、それでも不審者が後を絶たない。

「ごめん……」

 桂子は素直に謝った。

「いいよ。謝りついでに僕の話を聞いてくれる?」

「どうぞ……」

 桂子はそう答えてデスクの端末を立ち上げる。

「聞くつもりないよね?」

「そんなことない」

「疲れてる?」

「当たり前です」

「そうか……」

 それまではしゃいでいた誠一が静かになった。桂子は訊く。

「それで、何があったの?」

 その問いに誠一は姿勢を正し、ゆっくりと答える。

「百合さんの脳内にあった謎の部位が何なのかわかった」

「えっ?」

 桂子は驚いた。百合の情報が洩れてからまだ一週間しか経っていない。

「これを見てほしい」

 誠一が自分のデスクの端末を桂子にも見えるように動かす。彼は続ける。

「百合さんの脳を高エネルギー多重量子スキャナーで走査して得られた全データだ。これを全て調べた猛者がいる。その結果、謎の部位について詳しい仮説が立てられた」

「仮説……」

「そうだよ」

「事実が判明したんじゃないの?」

「そうじゃない。百合さんの脳を実際に触るわけにはいかないからね」

 桂子は黙った。誠一が続ける。

「例の部位には鏡像粒子が捕獲されていると推定される。ダークマターの正体は鏡像粒子だったのさ」

「鏡像粒子? 鏡像粒子と通常物質は重力でしか相互作用しないよね?」

「たしかにそうだよね。でも、たてられた仮説はこうだ。鏡像粒子はそれを捕獲している通常粒子群の中の一つの素粒子とペアになる。そのペアになっている素粒子と重力子を交換して鏡像粒子は通常粒子に、通常粒子は鏡像粒子へと変わる。その逆のプロセスも起きる。仮説を立てた研究者は、これを鏡像粒子振動と名付けた。それが鏡像粒子を捕獲している通常粒子群の中の素粒子それぞれに起きることで鏡像粒子が捕獲されていると言うわけだ」

「待って。そんなプロセスが現実にあるのなら、そこからエネルギーを取り出すことも、与えることもできてしまう」

「その通りだよ。そこが最も重要なんだ。鏡像粒子振動を介することで電気エネルギーと重力エネルギーを相互に変換できる」

「それって……」

「そう。百合さんの脳内には重力・電磁力変換システム、すなわち重力波通信システムが存在すると推測される」

「じゃあ百合は……」

 桂子は言いかけてやめる。そこから先は誠一が引き継ぐ。

「百合さんは同じような能力のある異星生物から発信された信号を受信していた。それが百合さんの見ていた夢の正体だよ」

「そんな……」

 桂子は絶句した。それが何を意味しているのかわかったからだ。誠一は続ける。

「重力波を受信する部位は百合さんの脳内に点在している。除去はできない。普通の方法では重力波を遮断することもできない」

 百合を治療する方法はない。誠一はそう言っているのだ。桂子は眩暈がしてきた。デスクに両手をつく。誠一は言う。

「落胆することはないよ。だって素晴らしいことじゃないか」

 桂子は顔を上げる。誠一を睨みつける。

「どうして怖い顔をしてるんだい? 恒星間からの情報なんて雑音なんだよ。いずれは慣れるさ。わかるだろう? そんなことより大切なことがあるんだ。すべての人間が百合さんのようになればいい。そうすれば地球上にいる人間同士、すぐそばで会話するかのように一瞬でコミュニケーションをとれるようになる。これこそ真の拡張知覚じゃないか!」

 桂子は悟った。これが誠一の本心だったのだ。あの異端の学説も、夢の録画に力を貸してくれたのも、百合を実家にあずかると言ったのも、全ては今、本人が言った世界を実現するためのものだったのだ。桂子は言う。

「そんな世界は実現しない」

「理論的に可能ならばいずれは実現する」

「そんなことさせない!」

 許せなかった。誠一は百合の治療に手を貸すどころか人間すべてを彼女と同じ境遇にすると言っているのだ。怒りをあらわにする桂子に誠一はおどけてみせる。

「おお怖い」

「ふざけないで!」

 桂子は立ち上がる。すると誠一が真顔になった。

「そうだね。ふざけちゃいけない。僕は実現するよ。地球上の誰もが一瞬でコミュニケーションできる世界を」

 そう言うと誠一はラボから出て行った。

 それ以降、誠一の姿を見たものはいなかった。


 *


 やがて冬が終わった。三寒四温を経て菜種梅雨から本格的な春へ。

 拡張知覚保持者にとって、春から初夏にかけては一年で最も快適な季節だ。

 その快適な季節が始まったころ、桂子のもとに中学生の少年がやってきた。

 ネットニュースで百合のことを知り、どうしても会いたいと桂子の職場を訪れたのだ。

 もちろん、普段ならそんな訪問など断るし、桂子に達するずっと手前で阻止される。

 だが、彼、田所真二は違った。彼は高エネルギー素粒子物理学研究所の所長である藤堂一郎の親類で、真二の母親から相談を受けた藤堂が桂子に引き合わせたのだ。

 藤堂によれば、真二は物理学者を志望していると言う。いわゆるマニアではなくて堅実に積み上げてゆくタイプだそうだ。そのうえ共感能力も高いらしい。少し不安はあったが、桂子は会うことにした。研究所の応接室で真二は言う。

「聞いているとは思いますが、ぼくも百合さんと同じなんです」

 そう、桂子は藤堂から聞かされていた。彼も百合と同じような夢を見るのだと。桂子は尋ねる。

「どうして平気なの?」

 短い問いだった。だが真二は理解した。

「夢と現実を隔てるんです。夢に没入しない。それで平常心を保てるようになります」

 それはわかっている。簡単にできないから苦労しているのだ。桂子は訊く。

「あなたも最初は百合みたいだった?」

「いえ」

「最初から夢は夢、現実は現実と分けることができた?」

「はい」

「それで?」

「怒らないでくださいね」

 真二は前置きをした。

「ぼく、百合さんとあなたのお役に立てると思います」

「助けてくれると言うことかな?」

「はい」

「どうして助けてくれるの? 他人のわたしたちを?」

「僕の祖母が百合さんと同じだったんです」

「同じだった?」

「そうです。今は違います」

「今は違う?」

「はい」

「それは、百合のような状態から、あなたのような状態に改善したと言うこと? あなたの力で?」

「はい」

「どうやったの?」

「拡張知覚を使いました。夢と現実を隔てることができるように祖母の脳に働きかけたんです」

 驚くべき話だった。拡張知覚が全ての人に広まって以来、稀に特殊な能力を持った者が現れることがある。桂子もそれは知っていた。目の前の少年がそうなのか……

 真二は言う。

「信じられませんか?」

 桂子はもう一度問う。

「どうして助けてくれるの?」

「祖母と同じだから。祖母の状態が良くなったときの、あの笑顔が忘れられないんです」

 そうなのか。もしそうなら頼ることができるかもしれない。今の桂子は藁にもすがりたかった。だから訊く。

「……どうすれば……いいのかな……?」

「場所と時間を用意してください。できれば静かなところがいいです」

「わかった……所長に相談してみる……」

「お願いします。拡張知覚で百合さんとつながります。直接、夢への接し方を伝えます」

「……ありがとう……」

 期待と、不安と、なんだかわけのわからない思いの中で、桂子はやっとそう言った。


 数日後、再び真二がやってきた。場所は藤堂所長が用意してくれていた。偶然その日に空いていた全電波帯観測室だ。百合と真二との間にどのような物理的変化が現れるのか、電磁的に観測できればと藤堂は桂子に話した。


 全電波帯観測室の内部は特殊な壁面と照明で構成されていて、普段なら様々な実験装置がそこに収められている。しかし今日、そこにはベッドが二つ並べられ、一つには百合が、もう一つには真二が仰向けに横たわっていた。

 百合は今、静かな寝息を立てている。

 真二は頭だけ百合の方を向け、戻した。

 桂子はそんな二人のすぐそばで、何かあったら即座にサポートできるよう控えていた。

 天井のスピーカーから藤堂が言う。

「準備ができた。いつでもいいぞ」

 真二が仰向けのまま言う。

「始めます」


 数分後。

 まず百合が起き上がった。桂子は奇跡を見る思いだった。

「姉さん?」

 百合はあたりを見回す。桂子は彼女を支えてベッドから降ろした。確かな足取りで歩く様子を見て桂子は目を見張る。

「医療スタッフが入室する。そのままで待つように」

 天井から藤堂の声がした。桂子と百合はそのまま待つ。その時だった。

 すさまじい光があたりを照らし、同時に破裂音が響いた。桂子は百合を床に押し倒して覆いかぶさる。

 光と音は一瞬で消えた。かわって警報音が響く。放射線警報だ。

「入室待て!」

 天井から声がした。桂子はゆっくりと起き上がる。向かいのベッドを見る。

 そこには頭部の無い真二が横たわっていた。あたり一面に血と肉と骨が飛び散っている。

 放射線警報はまだ鳴り響いていた。桂子は自身と百合が被ばくしたことを悟った。


 *


 観測室で何が起きたのか、そのプロセスは記録されたデータからすぐに明らかとなった。

 センサー群がほぼ同時に硬ガンマ線から超長波にいたる電磁波を捉えていたのだ。

 ホーキング輻射だった。観測室の内部でマイクロブラックホールが発生し、真二はその蒸発に巻き込まれて死亡したと思われる。

 真二の死亡原因について説明を受けた彼の両親は激怒し、藤堂と同席していた桂子につかみかかった。

 研究所は警察の介入を受けた。

 亡くなった真二の力で目覚めた百合はまたもや時の人となった。

 桂子は高エネルギー素粒子物理学研究所を辞めた。


 初夏が終わろうとしていた。

 もう間もなく梅雨がやってくる。拡張知覚を持つ者にとってはつらい季節だ。

 スーパーマーケットに雇われた桂子は留年した百合とともにひっそりと暮らしていた。

 薄給でギリギリの生活だったが、百合に手がかからなくなった分だけ楽になったと桂子は感じていた。


 桂子が勤め先から帰ると、今日も百合が夕食の用意をして待っていた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 二人で小さな座卓を囲み、食事を摂る。桂子は言う。

「買い物とお料理いつもありがとう、学校があるのに」

「仕方ないよ。姉さん、仕事変わったんだし」

「きついな……」

「ごめん、そんなつもりで言ってないから」

「ん……」

「姉さん」

「なに……?」

「ありがとう」


 二人で食事をし、片づけた後、まず百合が最初に入浴を済ませた。

 桂子は百合のあとに入浴し、髪を乾かすとネット上に公開されている論文のチェックにかかる。

 今、様々なことが判明しつつあった。

 百合や真二のように、重力波通信能力を持った人間はごくまれに生まれてくるらしい。

 その能力の獲得過程には拡張知覚が影響を与えていると推定されている。

 真二の亡くなった原因についても仮説がたてられていた。

 百合や真二の脳内には重力波を感じる部位がある。そこに特定の波長の重力波が照射されると周囲の質量を巻き込んでマイクロブラックホールと化すことが推定された。

 あの時、真二は死に、百合は生き残った。真二は極度に指向性が強く、収束した重力波に曝されたと思われる。

 桂子は深く息をすって吐き出す。

 運がよかった。

 これからもその運が続くように桂子は祈った。


 *


 秋。

 ある日の夕刻、桂子が勤め先のスーパーマーケットから帰ってくると、ちょうど携帯端末に着信があった。

 高エネルギー素粒子物理学研究所、藤堂所長からの音声通話だった。今夜時間をとれるかと訊いてくる。大丈夫ですと答えると、すぐそこの最寄り駅まで来ていると言う。迎えに行きます、来ないでいいの言い合いをしばらく続けたあと、藤堂は桂子と百合の暮らすアパートまでやってきた。

「こんばんは、久しぶりだね」

「お久しぶりです」

 藤堂と桂子は座卓を挟んで座る。百合がお茶を運んできた。藤堂が百合に訊く。

「体調はどうかな?」

「ありがとうございます。すっかり元気になりました」

 明るい声で百合は答えた。それを確認したからなのか、単刀直入に藤堂は訊いてくる。

「まだあの夢は見るのかな?」

「見ます」

 百合の言葉には逡巡が無かった。藤堂はなおも訊く。

「怖い夢は?」

「たまに見ます」

 百合は目を伏せる。しかしそれは一瞬だった。

「でも姉さんがいてくれますから」

「怖くない?」

「はい」

 きっぱりと百合は答えた。続けて言う。

「わたしはキッチンにいます。何か用がありましたら呼んでください」

「わかった。ありがとう」

 百合は立ち上がり、部屋から出て行く。引き戸が閉まった。藤堂が口を開く。

「今日は天気が良くて気分がいいね」

「はい」

「雨の日はかなわんよ。特に雷雨の日は。手先どころか、わたしくらいの歳になると背筋がピリピリする」

 藤堂は肩をすくめた。その懐かしい仕草に桂子は少し笑う。藤堂は言う。

「仕事には慣れたかな?」

「まだ慣れないですね」

「すまないことをした」

「いえ、所長には感謝しています」

 そう、藤堂には感謝している。真二にも。その気持ちは伝わったようだ。

「そうか……」

 そこで藤堂は咳払いを一つし、続ける。

「この間、村瀬君のご両親が研究所に来られた」

「村瀬君の?」

 村瀬とは村瀬誠一のことだと桂子は理解した。研究所から姿を消した異端の研究者だ。彼は桂子に言った。地球上の誰もが一瞬でコミュニケーションできる世界を実現すると。それ以来、彼の姿は見ていない。藤堂は言う。

「今から話すことは君にもぜひ知っていてほしいとご両親から頼まれた。なにか心当たりがあれば教えてほしい」

 桂子は了解する。

「わかりました」

「では――まず最初に、例の噂のことだ」

 そう聞いて桂子はすぐに思い浮かんだ。あの噂だ。

「村瀬君の祖父は拡張知覚を開発した科学者グループの一人だった」

 やはりと桂子は思った。違法な手段で世界中の人間に拡張知覚を植え付けた科学者たち。そのうちの一人が誠一の祖父だったのだ。彼はきっとその祖父から強い影響を受けて育ったに違いない。藤堂は言う。

「村瀬君はご両親のもとで育った。祖父と会ったことはないそうだ」

「えっ?」

 意外だった。では、両親が祖父のしたことを偉業として誠一に話していたのか。

「ご両親は彼の祖父がやったことをとても強く非難しておられた。村瀬君にも、ことあるごとにそれを言い聞かせてきたそうだ」

「それじゃあ……」

「裏目に出たわけだ。村瀬君は長ずるにつれて祖父に心酔するようになったそうだ」

「そうだったんですね……」

「もう一つ。違法な手段で世界中の人間に拡張知覚を植え付けた科学者たちは、それだけでは足りないと考えていた。その足りないピースが、テレコミュニケーションだ。村瀬君の祖父は、それに重力波通信がつかえると考えていたらしい。生体重力波通信、ちょうど百合さんのような」

「だから……」

 桂子は思い出す。誠一は百合を預かると言ったり、勝手に百合のデータを公開したりした。週刊誌に情報を流したのも彼なのだろう。百合に執着していたのだ。それはたぶん、誠一は百合に重力波を感知する能力があると考えていたから。結局、その通りだったが。藤堂は言う。

「村瀬君は人間には重力波を感知する能力があると主張していた」

「祖父の研究を引き継いだのですね?」

「おそらくはね。だから、村瀬君は今後も君たちに接触してくる可能性がある。気をつけておいてほしい。こちらからも何ができるか探してみる」

「ありがとうございます」

 桂子は頭を下げた。藤堂が言う。

「それでなんだが……」

「なんですか?」

「君の専門は統一場理論だったね?」

「はい」

「それに関する最新の研究論文が今夜二十四時に発表される。注目しておいてくれ」

「どんな論文ですか?」

「すまん、今は話せないんだ。だが君の度肝を抜くことは保証する。楽しみにしていたまえ」

 そう言い残し、藤堂は帰っていった。

 二十四時まで、あと四時間だった。


 *


 夜。

 間もなく二十四時になろうとしていた。残すところあと数秒だ。

 外はきっと快晴なのだろう。桂子の気分は研ぎ澄まされている。

 百合の眠っている隣で桂子は端末を操作していた。

 そろそろ藤堂の言っていた論文が発表される時刻だ。

 桂子は瞬時論文検索システムを起動する。立ち上がった。ログインする。

 検索画面が表示された。

 unified field theory と入力して論文を検索する。

 無数の論文がヒットした。時系列の昇順にソートする。

 あった。

 Graviton sea 重力子の海?

 筆頭著者は藤堂所長だ。

 桂子はアブストラクトを読む。

 驚愕した。そこに書かれていたものは、世界を確実に変える理論だったからだ。

 桂子は論文を丁寧に最後まで読み、書かれている理論を自分の頭の中で展開してゆく。

 重力子の海とは、この宇宙が高エネルギーの重力子で満ち溢れているとし、その状態に対して著者らがつけた名前だった。

 高エネルギーの重力子とは、高い振動数の重力波とほぼ同義で、この重力波は極めて減衰しにくい。だからこそ、この宇宙の開闢以来、発生した高エネルギーの重力子は熱などに変換されることなく、ほとんどが宇宙空間に蓄積されてゆく。論文の著者らは、その状態を重力子の海と名付けたのだ。

 さらに、この論文は次の事実を指摘していた。

 宇宙空間が高エネルギーの重力子に満ち溢れているのなら、そこから鏡像粒子振動を利用して無限のエネルギーを取り出すことができる。

 鏡像粒子振動とは、百合の脳内にも見つかった、通常粒子群が鏡像粒子を捕獲するためのメカニズムである。この機構によって、生体重力波通信が実現されている。その詳細は次のようなものである。

 鏡像粒子はそれを捕獲している通常粒子群の中のどれかの素粒子とペアになる。そのペアになっている素粒子と重力子を交換して鏡像粒子は通常粒子に、通常粒子は鏡像粒子へと変わる。その逆のプロセスも起きる。これを鏡像粒子振動といい、これが鏡像粒子を捕獲している通常粒子群の中で次々と起きる。この過程によって重力エネルギーと電磁エネルギーを相互に変換できるのだ。


 桂子はほうっと息を吐きだす。

 無の空間から無限の電力エネルギーを取り出す。この理論は世界を一変させるだろう。

 これから世界は変わるのだ。

 その前線に自分がいないことを、桂子は少し寂しく感じるのだった。


 *


 深夜。

 論文の発表から数十分が過ぎていた。

 隣の布団では百合が穏やかに眠っている。

 桂子はニュースをチェックしていた。

 あらゆるメディアが騒乱状態となっている。

 なにしろ無限のエネルギー源が見つかったのだ。しかも、重力波発電所の第一号が長野県の野辺山で建造中だと言う。発電所は他にも計画されており、各地で着工を待つばかりの段階となっていた。

 桂子は次々と報道されるニュースに驚嘆するしかなかった。これほどのことが、ずっと秘密裏に進んでいたのだ。しかも国家プロジェクトとして。

 桂子はニュースを文字だけで追っていた。端末の音声をミュートしてテキスト部分だけをチェックしていたのだ。

 ところが、何かの拍子にそのミュートが外れてしまう。ニュースが大音量で流れ出る。慌ててミュートするが遅かった。隣の布団を見ると百合が目を開いていた。

「ごめん」

「こんな時間に何してるの?」

 意外とはっきりとした声で百合が訊いてきた。桂子は答える。

「新しい論文が発表されて、それが世界を変えると大騒動になってるの」

「そう……」

「起こしてごめん」

「今日一緒に出掛けるって約束したよね?」

「うん……」

「ずっと起きてて大丈夫なの?」

「大丈夫、必ず行くから」

「そうじゃないの!」

 百合が起き上がる。

「明日は仕事でしょ? 寝ずにいて昼間も遊んだら姉さんの身体が持たない」

「ごめん、もう寝るから」

「でも、眠れないほどのニュースなんだよね?」

「……うん……」

「わたしも起きてる」

「だめだったら」

「今日はどこにもいかない」

「そんなこと言わないで」

 桂子は困ってしまった。百合は言い出すと聞かないところがある。

「わかった……」

 仕方なく桂子は布団に入る。百合が訊いてくる。

「眠れるの?」

「眠れる」

「無理しないでね」

「うん」

 そして二人とも黙ってしまった。

 桂子はいつの間にか眠ってしまっていた。


 *


 朝。

 今日はいい天気だった。

 布団から出てカーテンを開けると、手指の先から足先まで新鮮な空気に満たされているような気分になった。

 桂子の勤めるスーパーマーケットは年中無休だが、今日の桂子は非番だった。そこに百合の通う高校の創立記念日が重なった。二人が同時に休める日は珍しい。だからどこかに出かけようと、前々から二人で決めていたのだ。


 正午前。

 都内随一の神社に二人は来ていた。

 森の中のような参道を拝殿に向かって歩いているとき、百合が訊いてくる。

「どうしたの、姉さん? 何か変よ?」

 そうなのだ、桂子は最寄り駅を降りて以来、誰かの視線を感じていた。

 この感じ、覚えがある。ラボに出勤したら誰もいないのに誰かのいる感覚。そうだ……

「久しぶり」

 いきなり背後から声をかけられた。聞き覚えのある声だった。振り向く。

「怖い顔しているね? まだ怒ってる?」

 誠一だった。かつての同僚、村瀬誠一がそこにいた。

「あなた……」

 桂子が絶句していると百合が訊いてくる。

「この人、誰?」

 桂子は思い出す。百合と誠一が顔を合わせたのは夢を記録した数回の試験のときだけだ。あの当時、百合は夢と現実の区別ができない状態だった。だから覚えていないのだ。桂子は言う。

「昔の同僚よ」

「同僚?」

 そこに誠一が口をはさむ。

「そうだよ。百合さんも久しぶりだね」

「お会いしたことありますか?」

「何度かね」

「すいません。思い出せません」

 真面目に答えた百合に桂子は言う。

「いいのよ」

 誠一にも言う。

「あなたが失踪して研究所は大騒ぎになったのよ。ご両親も探してる」

「両親ね。あいつらのことなんてどうでもいいよ」

「酷い言い方をするのね。仕方ないかもしれないけど」

「仕方ない……か、君もそう思うよね?」

「親に対する思いは人それぞれよ」

「ほう……」

 誠一は感心したような声を出した。続ける。

「君はやっぱり現実主義者だね。ぼくの思った通りだ」

「だったらなに?」

「現実主義者の君には、計画が実行される前に教えてあげようと思ってね」

「計画?」

「内容は言えない」

「言えないようなことをするつもり?」

「まあ、そうだね」

「あなたの祖父がやったようなことね?」

 桂子のその言葉に、誠一の表情が変わる。低い声で彼は言う。

「よくわかるね? おやじたちに何を聞いた?」

「直接は会ってない」

「ふーん」

 誠一は一瞬、桂子から視線を離した。すぐに戻すと言う。

「君はもっと激しく非難すると思ってた。絶対にぼくを止めると思ってた」

「なにを言ってるの?」

「あのとき、君は言ったよね? そんなことさせないって」

 桂子は思い出す。誠一が失踪した日、確かにわたしは言った。彼が百合と同じ能力を全ての人間に与えると言ったからだ。誠一はなおも言う。

「止めないんだね。それは今、君が幸せだからだ」

 鋭い指摘だった。桂子は反論できない。自分の信念の勝手さに愕然とする。同時に、なぜ誠一が自分の前に現れたかを理解した。

「止めてほしいのね……」

 そう桂子が言うと、誠一の顔は真っ赤になった。そんな彼に桂子は語りかける。

「あなたのおじいさんも誰かに止めてほしかったかもしれない」

 それは一つの可能性だった。誠一の顔色が元に戻る。彼は言う。

「じいさんたちには、じいさんたちの都合があった」

「都合?」

「事前に許可を求めたとして、政府が認めるわけはないだろう? だから、誰かが汚れ役を引き受ける必要があったんだ。そうしないと大勢が死んでいた」

 一理ある。口には出さないが、桂子は誠一の主張を認めた。もし、違法行為によって強制付与された拡張知覚がなかったら、気候変動への対応や生物多様性の保全は進まなかっただろう。居住できる地域は狭まり、食料生産も激減していた。多くの命が失われていた可能性がある。桂子は言う。

「だから、今度はあなたが汚れ役になると言うの?」

 その桂子の問いに、誠一は唇の端を曲げて笑う。

「さあね」

「素直じゃないのね」

「じいさんに似たらしい」

「百合と同じ能力を広めてどうするつもり? あなたが汚れ役になる価値はあるの?」

「ある」

 きっぱりと誠一は言った。

「そう」

「止めないのか?」

「わたしが止めたらやめるの?」

「やめるわけがないだろう」

「そうよね。あなたは自己犠牲に陶酔している」

「なに!」

 誠一が気色ばんだ。そこに百合が割り込んでくる。

「警察を呼びました」

 誠一の眼前に携帯端末の画面をかざす。桂子からは見えないが、緊急通報済みであることが表示されているのだろう。誠一の表情に余裕が戻る。

「恩人にそんなことするんだ?」

「恩人?」

 百合の表情が徐々に驚愕に変わる。

「あのときの!」

「思い出したかい?」

 誠一の手が百合に向かって動いた。桂子は彼を突き飛ばす。尻もちをついた誠一が言う。

「ひどいな」

 起き上がる。

「それじゃあ、ぼくはいくね」

 服装に着いた土を払うと誠一は去っていった。

 警官が到着したのはそのあとだった。


 *


 晩秋。

 スーパーマーケットの勤務から帰った桂子は百合とともに食事を摂り、入浴を済ませていつものようにネットで論文をチェックしていた。

 静かな夜だった。

 窓の外には煌々と月が輝いている。

 今、空に雲は無い。しかし天気は下り坂で、その影響か桂子は眠くなってきていた。眠気を払うために伸びをする。

 そのとき、突然、サイレンが鳴り響いた。続いて合成音声が告げる。

「――空襲警報、空襲警報、シェルターか頑丈な建物に避難してください。繰り返します――」

 何が起きているのか。桂子は起きてきた百合とともに大急ぎで外出着に着替えた。

 着替え終わると同時に警報は止んだ。それっきりだった。


 翌朝、ネットニュースのトップは昨夜の空襲警報だった。桂子は詳細に目を通す。そこには驚くべきことが書かれていた。

 昨日の同時刻に、空襲警報は世界中で鳴り響いていた。犯行声明も出ていて全文が公開されている。

「全人類にテレコミュニケーション能力を与える。我々は無人機でナノマシンを散布した。このマシンを吸入した者の脳内には重力波を検知する能力が生まれる。これは遺伝する。除去はできない。一瞬で思考の伝わる世界が実現するのだ」

 これが誠一の言っていたことだったのだ。かつての科学者グループか、それに共鳴した者たちが、拡張知覚を全人類に植え付けた方法と同じ手段を使ったのだ。

 桂子は連日ネットに流れる情報を追った。

 だが、その日は何も起きなかった。

 次の日も。

 その次の日も。


 空襲警報から五日目、それは始まった。

 まず、機密情報とされるものが次々とSNSに書かれ始めた。

 そのほとんどはくだらない内容だったが、中には行政や企業によって削除要請が出されるものも出てきた。

 同時に、それまで未解決だった事件や事故の中から、突然解決するものが出始めた。

 そんな何かが始まってから三日目、あちこちで小競り合いが起きるようになった。

 それらのいくつかはゴシップサイトのネタとなり、当事者の声とされるものがネットに流された。曰く、相手が嘘をついている、それがわかるようになった。

 そんな騒動があちこちで起きているにもかかわらず、桂子とその周辺に大した変化は起きていなかった。静かな暮らしが維持されている。そのことに桂子は感謝した。

 だが――

 メディアが騒ぎ始めた。

 彼らは書いた。どうやら他人の思考を読むことができる者がいる、しかもそんな人々が増えつつあると。

 やがて事態を重く見た政府が動いた。いや、とっくに動いていたのだ。

 空襲警報から二週間が過ぎたとき、政府は全人類の七割に重力波通信能力が発現していることを認めた。

 発現した者同士では思考が筒抜けになる。面と向かって嘘を付けないのだ。

 政府の調査委員会はこの能力を重力波拡張知覚と名付けた。

 この事態の原因は、やはりあのマイクロマシンの散布だと考えられた。

 犯人は計画をよく練っていたのか、能力の発現した者のほとんどは、かつての真二のように重力波通信で取得されるイメージと現実とを自然に区別できていた。

 人類のほぼ七割がそういう状態にあり、瞬時に思考を共有できる状態だったが、混じり合う膨大な思考はもはやホワイトノイズと同じだった。結局、目の前にいる人の思考しか読むことはできなくなった。

 他人の思考を読んでもわからないふりをすることがマナーとして推奨され、普及していった。思考を読むことができるのは重力波拡張知覚の持ち主同士に限られるからだ。お互い様というわけだった。

 ただ、機密情報の扱いにはどこも困っていた。各国の政府や企業は重力波拡張知覚を持たない職員や社員を重用するようになっていった。

 世界は混乱しつつも、穏やかに変わってゆくかのように思われた。

 桂子は何歩も離れた位置から、そんな変わりゆく世界を見つめていた。

 桂子に重力波拡張知覚は発現しなかったし、百合にはもともとあったからだ。

 いつまでもこの静かな暮らしが続くように、桂子は祈った。


 *


 冬。

 外は雪が降っている。

 桂子には重力波拡張知覚が発現しなかった。しかしそれまでの拡張知覚は持っている。

 しんしんと降り積もる雪は、暖房の効いた部屋の中にいる桂子の指先にまで冷気を運んでくる。

 静かだ。

 隣の布団では、百合が寝息を立てている。

 そろそろ寝ようかな。

 桂子は端末を閉じ、布団の中に潜り込もうとした。そのとき――

 百合が悲鳴をあげた。あげ続けた。桂子は慌てて百合の肩をつかむ。

「百合!」

 百合はまだ叫んでいる。

 桂子は百合の肩をゆすりながら呼びかけ続ける。

 悲鳴が止んだ。

 百合が目を開いている。泣いている。

「姉さん……みんな死ぬわ……みんな死んでしまう!」

「深呼吸して、それは夢よ」

「夢じゃない。夢じゃないの」

 様子がおかしい。桂子は訊く。

「なにがあったの?」

「真二君が……真二君が言ったの……みんな死ぬって」

 百合は泣き出した。それでも語り続ける。

「真二君の言う通りだった……発電所が動くと同時にみんな死んだ……頭が破裂して……」

 そこから先は泣きじゃくって言葉にならなかった。桂子は百合を抱きしめる。百合の嗚咽がおさまってゆく。

 百合の言葉に桂子は直感した。発電所とは、野辺山に建造中の重力波発電所のことだろう。その起動は三ヶ月後に迫っている。百合にそのことを話しただろうか。たぶん、話した。だから百合はそんな夢を見たのだ。百合は不安なのだ。あの発電所によって世界が変わることが。

 桂子が抱きしめていると、その腕の中で百合は寝てしまった。桂子は動けなくなる。

「ま、いいか」

 百合を抱きしめたまま桂子は横になり、目を閉じる。

 睡魔はすぐにやってきた。


 *


 百合が悲鳴を上げるほど恐ろしい夢を見た夜から二日が過ぎた。

 冬晴れのその日、桂子が勤め先のスーパーから帰るとかつての上司、藤堂所長がアパートの部屋に来ていた。

「おじゃましてるよ」

 百合のすすめたお茶を一口すすって藤堂は言った。

「寒いがいい天気だね。積もった雪も消えたようだ。あれが残っていると指先が冷気を感じてかなわん」

 藤堂が手指をこすり合わせる。桂子はその仕草に思わず微笑んだ。

「ちょうどよかったです。こちらから伺おうと考えていたところなんです」

「ほう?」

 桂子は座卓を挟んで藤堂の正面に座る。

「実は二日ほど前、百合が怖い夢をみて……」

「どんな夢かな?」

 桂子は躊躇した。発電所が動くと人が死ぬ。それが今回百合の見た夢だったからだ。

 百合の夢に出てきた発電所は、おそらく藤堂が中心となって進めている重力子エネルギー開発の要、重力波発電所のことだろう。その発電所が動くと人が死ぬなんて、とても言えない。

 しかし、桂子は百合とのこの二年ほどを思い出す。百合は嘘をつかない。自分が百合を信じなくてどうする。桂子は自身に言い聞かせる。口を開く。

「発電所が動くと人が死ぬ」

 桂子は藤堂の反応を探る。藤堂は表情を変えずに言う。

「やはりか……」

「やはり?」

「百合君は重力波拡張知覚を持っている」

「はい……」

「百合君と同じ夢を見た人がいる。その人たちから連絡があった」

「人たち? 百合と同じ夢を?」

「そうだ。複数の能力者が百合君と同じ夢を見た」

「でも……」

「そう、ただの夢だ」

 だが藤堂はそうは思っていない。だからここに来た。桂子は訊く。

「所長はそうは思っていないんですね?」

「誰かが夢を見た。その夢が、重力波拡張知覚で他の人たちに伝わった」

「夢を見た人は一人で、他の人たちはその人の思考を共有しただけだと?」

「そうだ」

「最初に夢を見た人はどうしてそんな夢を見たんでしょう?」

「重力波拡張知覚は人間のコミュニケーション能力を空間的に拡張するものだ」

「そうですね」

「ならば時間的にはどうだろう? 気づいていないだけで時間方向にも拡張されているのではないだろうか?」

「その結果の一つが予知夢?」

「かもしれないと言うだけだが……ところで、真二君の死因は覚えているね?」

「はい……マイクロブラックホールの蒸発に巻き込まれた……」

「そのマイクロブラックホールの蒸発はどうやって起きた?」

「重力波拡張知覚の能力者の脳内には重力波を感じる部位があります。そこに特定の波長の重力波が照射されると周囲の質量を巻き込んでマイクロブラックホールになります。マイクロブラックホールは発生してすぐにホーキング輻射によって蒸発します」

「その通りだ」

「それが?」

「重力波発電機は、鏡像粒子振動を使って重力波から電気エネルギーを発生させる。それは重力子の海があるからできるのだ。しかし、重力子の海は普段観測できない。鏡像粒子振動を使わない限り、それは無いと同じなんだ。しかし、重力波発電機の内部ではそうじゃない。重力子の海はあり、そこに重力波は存在する」

「わかります。重力波発電機の外部では、重力子の海を構成する重力子は仮の粒子です。でも、重力波発電機の内部では実在の粒子となる」

「うむ」

「でも、それがどうだと言うんです?」

「重力波発電機の中心部、重力子・光子共振フィールドの内部に、もし重力波拡張知覚の能力者が入れば即死する」

「即死……」

「真二君のようにね」

「でも稼働中の発電機の内部に人が入ることなんてできないのでは?」

「そうだ。できない」

「だったら何が問題なんですか?」

 桂子は詰問した。藤堂が答える。

「問題は重力子・光子共振フィールドの発生する範囲だ。理論が正しければ発電機の内部に収まる。だが……」

「理論が間違っていれば?」

「発電機の外部に出てくるかもしれない」

「理論の検証は?」

「済んでいる」

「じゃあ……」

「なにも起きない」

 それっきり藤堂は黙ってしまった。そして帰っていった。

 桂子は考える。おそらく藤堂は理論の正しさに不安を感じているのではないだろうか。だから、それを吐き出しにきたのだ。

 自分は藤堂の思いを受け止めることができただろうか。

 桂子が気になったのはそこだった。

 恩人には報いたい。

 桂子はそう思っていた。


 *


 冬の終わり。

 太平洋岸を低気圧が通り、名残の雪が降る。

 夜、桂子は論文を検索していてなにか雰囲気のようなものに気づく。

 あとひと月ほどで人類初の重力波発電所が稼働を開始する。

 期待と不安が入り混じったような空気感が世間を支配している。

 だが、論文検索をしているとそれが感じられない。重力子の海理論を引用した論文がほぼ見当たらないのだ。査読待ちはありえる。しかしレターすらほとんど見ない。本来なら理論を引用した論文で溢れていてもおかしくは無いはずだ。

 なぜ、それが見当たらないのか。

 理論を応用したり、理論をさらに発展させたり、あるいは理論の間違いを指摘したり、そんな論文が見当たらないのはなぜか。

 その答えとして考えられることが一つある。

 それは多くの人が、重力子の海理論を理解できていないと言うことだ。だから応用することも、発展させることも、間違いを指摘することもできない。

 もし、引用論文の見当たらない理由がその通りだとするなら、これはとても危険なことだった。

 我々人類は、ほとんどの者が理解できていない理論を使って無限のエネルギーを手にしようとしていることになるからだ。

 桂子は背筋がぞくぞくするのを感じる。

 強い不安に駆られた。

 しかし翌朝、雪が止み、快晴となると、その不安は雲散霧消していた。


 *


 春。

 ついに野辺山に建造されていた重力波発電所の第一号が完成した。

 今日は試運転の日だ。ネットテレビによる生中継が予定されている。

 桂子は百合と一緒にその中継を見るつもりだった。

 しかし桂子に仕事が入ってしまった。スーパーマーケットのシフトに欠員が出て休めなくなってしまったのだ。

 百合も高校の休みをとっていたが、桂子が休めないと知って朝から学校に行ってしまった。


 その時がやってきた。

 正午、人類初の重力波発電機の起動時刻だ。

 桂子はそのとき、スーパーマーケットの売り場で品出しをしていた。そして見たのだ。すさまじい光を。

 ホーキング輻射だった。

 あっという間に、あたりは頭の無い死体だらけになった。

 桂子は呆然とする。

 何が起きたか気づく。

 百合!

 桂子は走った。

 百合の通う高校まで。

 長い長いマラソンだった。

 バスも、EVタクシーも、あちこちで縁石や分離帯に乗り上げ、停まっていた。

 呆然と立ち尽くす人がいる。座り込んで号泣する人がいる。

 誰かに声をかけられることは無かったし、誰かに声をかけることもなかった。

 桂子は走った。

 倒れこむ寸前、高校に着いた。

 阿鼻叫喚の校舎の中で、桂子は百合を探した。

 百合はどこにもいなかった。


 *


 晩夏の夕刻、桂子は小高い丘を登っていた。

 重力波発電機の暴走による惨劇から二年と数ヶ月、世界の人口は三十億を下回っていたが、社会は維持されている。


 遠雷が聞こえてきた。桂子は足を止める。何も感じない。

 起動した重力波発電機の内部から地球全域に広がった重力子・光子共振フィールドは多くの命を奪い、生き残った人々からも拡張知覚を奪い去っていた。

 あの日、何もかもが一瞬だった。

 百合は何が起きたのかもわからないうちに意識を失ったことだろう。

 苦しまなかったと信じたい。

 桂子は再び歩き始める。


 丘の頂に着いた。

 広場の中央には鎮魂の塔がそびえている。

 桂子はその前にひざまずく。

 バッグから一冊の本を取り出す。

 表紙ににじむ文字。

「エクスパンデッド・パーセプション」

 そっとそれを置き、立ち上がる。

 オレンジ色に染まる塔に背を向け、歩き出す。

 拡張知覚の消えた世界で、桂子は生きてゆくのだった。


 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ