"Quale"
「絶対に居なくならないでね」という言葉は、僕にとって過去を思い出させる力が有る
実のところ、つい先刻とても大切な存在である君から言われた言葉だ
暗いままの部屋の中
姿見の前で、シャツのボタンを外す
左胸の皮膚には、今でも醜く肉が盛り上がって居て
どんなに消えて欲しくても、傷は消えて居なかった
過去の話をしよう
弟は血が繋がって居なかったが、それでも僕の事が大好きだった
夜の一族には相応しくない、人間的な感覚なのかも知れないが、僕も弟を大切に思っていた
幼い頃には互いに友達も居なかったので、遊び相手といえば僕には弟しか居なかった
大人達は「いずれ、世継ぎの座を争う同士なのだから」と僕達を遠ざけようとして居たが、年齢の割には早くそれぞれの部屋を与えられ、英才教育等の建前でそれとなく遠ざけられて居ても、僕たちは時間があれば隠れて二人で遊んだ
ある時、二人で遊んでいると
不意に弟が正面から僕に駆け寄ってきて、突き飛ばされた
一瞬遅れて気付く
突き飛ばされたのではなく、僕は勢いを付けてナイフを左胸に突き刺されて居た
あの時の弟がどういう気持ちだったのかは、永遠に解らない
何故なら次の瞬間には、僕は庭にあった頭ほどの大きさの石で弟の顔を滅多打ちにして居たからだ
興奮して居たのか、途中の過程はほとんど記憶が無いが、春の日の眩しい陽光の下、庭園の土に弟の赤い血が染み込んで広がっていく景色だけは鮮明に覚えて居る
かつて「絶対に居なくならないでね」と僕の袖を握り、泣きそうな顔で訴えていた弟の表情と
同じくらい鮮明に
それから数年が経つ頃のある夜、僕は父を殺した
前後の流れは忘れたが、僕はもう眠るところだったのか、布団の中で仰向けで、父はベッドに腰掛けて僕と話して居た
どうした会話を辿ったのか
不意に父が黙り込んだ瞬間が有った
僕が「どうされましたか」と尋ねると、父は憔悴した眼で僕を視詰めて「お前の肌は」「綺麗だな」とだけ言った
僕は理由の解らない恐怖を感じて少し後ずさったが、後ろには直ぐ部屋の壁が在り、逃げる場所など無かった
父が湿った熱い息を僕の顔に吐き掛けながら、僕の寝間着のボタンを、焦るように外し始める
僕はベッドサイドから震える手で花瓶を引っ手繰ると、それで父の側頭部を殴打した
一番記憶に残っているのは、砕けた陶器の破片がゆっくりと宙に散らばる場面だ
無論、その程度で父は死ななかったが、即死しなかった事には何の意味も無かった
僕は、父がぴくりとも動かなくなるまでの間、部屋にある物を使って父を殴打し続けた
完全に絶命するまでの間、父は何度も「許してくれ」と言い続けて居た
事実として、家族想いの優しい父だった
その夜は眠れなかったが、心には恐怖も絶望も怒りも無かった
「父は、どういう気持ちだったのだろう」
答えは今でも出て居ない
当然の事として、数年後に僕は母も手に掛けた
よりによって、またしても晴れた日で、よりによって母も、庭を歩きながら僕に「絶対に居なくならないでね」と言った
それを聞きながら僕は、母の背を井戸へと蹴り落とした
もう、僕も「利益の為に他人を害する」必要の発生する歳になって居た
その為か、特にこれといった感想は湧いてこなかった
僕の計算が合って居れば、母は厳密には今も死んで居ない
ただし、居る場所は永遠に誰も掘り落とす事の無い、暗い井戸の中だが
───感傷に耽る事をやめて、僕は視線を姿見から、床に這いつくばって苦しむ君へと移した
君に害意は有ったのだろうか
結局、今回も僕は解って居ない
殺しても居ない内から背を向けたのは、君が人間だからだ
経験から言って、この状態になった人間が僕をどうにかする事は出来ない
───では
───何故、僕はまだ殺して居ないのだろう
「貴方様から拒まれてまで、生きようとは思いません」
「僅かでも哀れに思うなら」
「早く生命を奪って下さい」
君を蹴り転がして、仰向けにする
その時に視えた表情が、弟に似ている気がして
速やかに殺さねばならない様な考えに、僕は囚われた
───しかし、現実には僕はナイフで自分の指を裂き
流れ出た血を、君の口へと注ぎ落として居た
「どうして…………」
血が適合し、君の傷が視る間に塞がっていく
僕は「解らん」「でも………」
「もう、毅然とする事に疲れたのだろうな」と答えた




