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なゆ  作者: ponzi
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第1話ポンジさん

元哲学者のポンジ、本名・小野寺光一は、47歳で新たな人生の扉を開いた。これまでを振り返ると、まるで長いトンネルの中を歩いてきたかのようだ。39歳から45歳までの6年間、群馬県の山間にある精神病院で過ごした日々は、ポンジにとって「無」の時間だった。哲学の世界に没頭し、論文を書き続けてきた彼の知性は、病という名の壁に阻まれ、思考の海で溺れることしかできなかった。白い壁、消毒液の匂い、規則正しい生活。閉ざされた空間で、彼はただ時間が過ぎるのを待っていた。

退院後、生まれ故郷の千葉県松戸市に戻り、グループホームに入居した。社会復帰への第一歩だった。そこで彼は、A型障害者就労として食品工場で働き始めた。流れ作業でプラスチックの容器に惣菜を詰める。哲学書を読み漁り、世界の真理を追求していたかつての自分からは想像もつかない仕事だった。それでも、黙々と手を動かす作業は、思考の渦から彼を解放してくれた。1年3ヶ月が経ち、ようやく社会とのつながりを少しずつ取り戻し始めた頃、行政から障害者区分の変更を指示された。より軽度な障害を持つ人々が暮らすグループホームへの転居が、彼に提示された次のステップだった。

47歳、ポンジは東京の東端、江戸川区に引っ越してきた。松戸からほど近いこの街は、荒川と旧江戸川に挟まれ、水と緑が豊かな場所だった。以前のグループホームよりも自由度が高く、入居者も活気に満ちていた。ポンジは新しい環境に戸惑いつつも、少しずつ順応しようと努めた。

失業保険を受給しながら、ポンジは江戸川区からほど近い、千葉県市川市本八幡のB型障害者就労の施設に通い始めた。そこでは、軽作業をしたり、レクリエーションに参加したり、人との交流が生まれる機会も多かった。しかし、ポンジは人と深く関わることを避けていた。哲学者の思考癖は、常に物事の本質を見抜こうとする。しかし、それは同時に、相手の言葉の裏にある感情や意図を読み取ろうとしすぎてしまう癖でもあった。だから、彼は無難な挨拶を交わすだけで、心を開くことはなかった。

そんなポンジに変化が訪れたのは、グループホームの相談員や訪問看護師からの勧めだった。

「ポンジさん、江戸川区には福祉の手厚い地域活動センターがあるんですよ。通称『地活』って呼ばれてて、みんな気軽に集まっておしゃべりしたり、趣味の活動をしたりしてるんです。行ってみませんか?」

初めは乗り気ではなかった。また、新しい人間関係を築くことへの億劫さが勝っていた。しかし、相談員の熱心な勧めに、彼は渋々頷いた。

地活の扉を開けると、そこは明るく賑やかな空間だった。おしゃべりの声、笑い声、時折聞こえるカラオケの歌声。ポンジは隅の席に座り、ただその様子を眺めていた。すると、一人の女性が彼の前にやってきた。

「はじめまして。私、地活のスタッフの鈴木です。ポンジさん、ですよね?よかったらコーヒーでもどうですか?」

差し出された温かいカップに、ポンジは久しぶりに人の温かさに触れた気がした。

地活に通い始めて数ヶ月。ポンジはたくさんの友達ができた。いつも明るく場を盛り上げるカズさん、聞き上手で穏やかなトミーさん、そして口数は少ないがポンジとよく本の話で盛り上がる川口さん。彼らとの会話は、哲学の議論とは全く違う、何気ない日常の断片だった。それは、ポンジにとって、長い孤独の果てに見つけた、ささやかな光のようだった。

そして、その光の中に、一際輝く存在がいた。それが、なゆちゃんだった。ポンジよりもはるかに若く、常に笑顔を絶やさない彼女は、ポンジにとって、まるで別世界から来た妖精のように見えた。

「ポンジさん、今日はどんな本を読んでるんですか?」

人懐っこい笑顔で話しかけてくるなゆに、ポンジは戸惑いながらも、少しずつ心を開いていくのだった。


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