茨の令嬢と灰の王子
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侯爵令嬢リシェル・ヴァルティエは、「悪役令嬢」と呼ばれるにふさわしい人生を歩んできた。
父と母は彼女を利用することしか考えていなかった。金と権力の道具として彼女を育て、彼女の心など見向きもしなかった。厳しい教育、容姿の維持、誰かに頭を下げることを禁じられ、心はすり減るばかりだった。
それでも、リシェルは婚約者――第一王子アリオス・ヴァン・ルクレールにすがっていた。彼だけは、少なくとも形式上は彼女の味方だったから。
だが、その幻想も無惨に砕かれた。
「僕は、侯爵令嬢エルセリアと真実の愛を育んでいる。リシェル、お前との婚約は破棄する」
舞踏会の真ん中で告げられた冷酷な宣言。まるで見世物のように、貴族たちがささやき合う。
その時、リシェルの中で何かが、ぽっきりと折れた。
彼女は微笑みながら膝を折り、アリオスに言った。
「ええ、そう……では、地獄で会いましょう、アリオス殿下」
その目は、笑っていなかった。
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それからのリシェルは変わった。従順な令嬢をやめた。仮面も外した。誰の命令も聞かず、好きな服を着て、夜会には出席せず、社交の場では一言も喋らなかった。
噂はすぐに広まった。「あのリシェルが、狂った」と。
だが誰も知らない。彼女がその裏で、周到に復讐を進めていたことを。
まず、両親。
父の不正会計を突き止め、証拠を第三王子派閥に流した。母の愛人との密会の記録も、あるパーティで「うっかり」落とした手帳に記されていた。やがて両親は爵位を剥奪され、失脚した。
次はアリオス。
彼の新たな婚約者、エルセリア嬢の実家が密かに禁忌魔術の研究に資金を出していた事実を、さりげなく中央審議会に届けた。王室に泥を塗る行為とされ、アリオスの地位は急落。ついには第二王子に次期王の座を譲ることとなった。
リシェルは笑わなかった。ただ静かに、淡々と、彼らの誇りを一つずつ削り落としていった。
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――そんな彼女が、隣国アルフレートに渡ったのは、それから半年後のことだった。
亡命ではない。ただの「避暑」と言い訳して、宰相を通して正式に許可を取った形だった。
そして、アルフレートの王子・ユリアン・クロード・アルフレートと出会う。
「君が、あの悪名高き令嬢か」
夕焼けの王宮庭園で、ユリアンは最初にそう言った。軽く、けれど真剣な眼差しで。
リシェルは眉一つ動かさず答える。
「ええ、それが何か?」
「……いい目をしている。毒と炎と孤独が混ざった、そんな色だ」
彼の声は低くて、心に染み込むようだった。
「君がどれほど酷い過去を背負っていても、僕は構わない。君を知りたい」
「どうして? 私に近づけば、火傷するわよ」
「望むところだ」
ユリアンは微笑む。どこか壊れかけた彼女の心に、その笑顔が入り込んだ。
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アルフレートでの生活は、リシェルにとって異質だった。
誰も彼女を悪役令嬢と呼ばない。ユリアンは日々花を贈り、詩を詠み、手ずから紅茶を淹れてくれる。
「……なぜ、私なんかに優しくするの?」
ある日、ついにリシェルは問うた。声は震えていた。
「君が傷ついているのが分かるから。君が、本当は泣きたくて仕方がないのを知っているからだ」
リシェルの目に涙が浮かんだ。自分でも驚くほど、簡単に、脆く崩れていく。
「私は……全部、壊したわ。両親も、家も、王子も。自分の手で……」
「よく頑張ったね」
ユリアンは彼女を抱きしめた。
「全部壊したなら、次は作ればいい。君だけの人生を。君の意志で」
その言葉に、リシェルの胸にあった氷が、少しずつ溶けていくのを感じた。
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日々、リシェルは少しずつ変わっていった。最初は戸惑い、警戒していたが、やがて彼女の笑顔が戻ってきた。
「君の笑顔は、世界で一番美しい」
「口が上手ね、王子様」
「君のためなら、嘘だって詠おう。だがこれは、真実だ」
ユリアンの溺愛は、リシェルを過去から解き放つ魔法のようだった。
だが、彼女は知っていた。
これは物語の「終わり」ではない。
彼の手を取り続けることはできても、「永遠」を誓うことはできない。結婚など、彼女にはまだ遠すぎる。自分の罪も傷も、すべてを癒やすには時間が必要だ。
「私は、あなたにふさわしくない」
そう言ったとき、ユリアンは微笑んだ。
「じゃあ、ふさわしい君になるまで、傍にいる。君が自分を許せる日まで」
その優しさが、リシェルの胸を締め付けた。
復讐の炎で焼き尽くした心に、新たな芽が根を張ろうとしている。
愛ではない。救いでもない。ただ、「生きていい」と思える気持ち。
それが、リシェルにとっての――初めての自由だった。
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数か月後。
リシェル・ヴァルティエはアルフレートの王宮を離れ、独立した小さな領地で自らの居城を持った。王子ユリアンはたびたび訪れるが、決して彼女の選択を強要しない。
彼女はようやく、自分の人生を、自分の手で紡ぎ始めたのだった。
そしていつか、過去を笑える日が来ると、信じている。