5 飛翔
私が牢屋の中で後退りをした直後、眩い一筋の光が、牢屋の窓の横の壁を貫いた。そして、大きなアーチを描くように壁を貫き終わると、牢屋の壁が崩れ落ちた。
土埃の中、ノアが牢屋の中に入って来た。
ノアが私の手を取った。
「時間がない、行こう!」
ノアはそう言うと、私を連れて牢屋の外に出た。
牢屋の内外には警備の兵士がいたはずだが、ノアの、天使の力を恐れ、逃げ出したようだった。
誰もいない月夜の下。ノアが無言で私を抱き締めた。
「少し怖いかもしれないけど、大丈夫だから」
ノアが私の耳元でそう言った。その直後、ノアの背中から天使の輝く翼が現れ、2人の体が宙に浮いた。
「頼む。もってくれよ……」
ノアの呟きが聞こえた。私とノアは、フラフラしながら少しずつ上昇していった。
私は、ノアに抱き締められたまま、チラリと下に目を向けた。
風も雨もない静かな夜。静かな海辺。沖では、神の御使いの巨船が月光を受けて銀色に輝いていた。
その直後、突然、巨船がゆっくりと宙に浮いたかと思うと、轟音とともに巨船の下の海の水が押し退けられ、海の底が見えた。
「う、海が割れた……」
「町を犠牲にして飛び立ったんだ」
私の呟きに、ノアが悔しそうにそう言った。
夜空の彼方へと上昇を続ける銀色の巨船。
そして、その下で押し退けられた大量の海水が、浜辺を襲った。
あっという間に、浜辺が、町が、領主の館が海に呑まれた。私は、ノアの腕の中で、フラフラと宙に浮きながら、呆然とその光景を見つめることしか出来なかった。
† † †
その後、隣町へ向かう途中の丘に何とか舞い降りたノアと私は、海に呑まれた町へ向かった。残念ながら、助かった者は誰もいなかった。
そして……
「ついに圏外か……」
そう呟いたノアは、白い兜と白い鞄を投げ捨てた。悲しそうな顔で、知らない言葉で私に何かを言った。
神の御使いの船が天に去り、ノアにはもう空を飛んだり言葉を操ったりする「神の力」は使えないようだった。
「私を助けるために、神の力を失ったのね。ノア……ありがとう!」
私は泣きながらノアの体に抱きついた。ノアは少し驚いていたが、優しく私を抱き締めてくれた。
それから、ノアは私と一緒に暮らし始めた。言葉を学び、畑を耕し、そして、私はノアの子を授かった。ノアは「奇跡だ!」と心の底から喜んでいるようだった……貧しかったが、幸せな生活だった。
ノアは、私と子ども達、そして孫達に見守られながら、昨年、天に召された。安らかな最期だった。
私も年を取り、体が言うことを聞かなくなってきた。子どもや孫達には「お前達の父、祖父は元々天使だったんだよ」と何度も言い聞かせているが、どうやら誰も本気で信じていないようだ。
例え誰も信じなくても、私と彼との思い出は、私の心の中にしっかりと残っている。
……ありがとう、堕天使ノア。私はあなたと出逢えて幸せでした。