Ⅱ 後篇(上)
もしやアルフォンシーナが帰ってきたのかと想い、俺は戸を開け放った。外は群青色にすっかり暮れて、雲が棚びく空には月が昇っていた。
「これは酷いな」
従者に角燈を持たせて戸口に現われたのは領主家の分家の遊蕩児、美男のシェラ・マドレ卿だった。今この時にいちばん逢いたくない奴だ。理由もなくこんな夜分に俺の家に来るとは想えない。シーナの誘拐に関わっているのならマジでぶち殺すぞ。
「この様子では、アルフォンシーナ嬢が攫われたのだな」
家の中を見廻してぬけぬけと卿は云った。シェラ・マドレ卿は身を屈めると、戸口の敷石に引っかかっていた黒い羽根を気障な仕草で摘まみ上げた。俺と師匠が魔都に出立する日の朝、玄関先で死んでいた鴉のものだ。
「鴉の羽根。これ、何をする」
俺が魔法杖を振り上げたからだ。慌ててブラシウスが俺の腕を抑える。
「卿、あなたが」
「違う」
「落ち着けテオ」
止め立てするブラシウスに俺は早口でまくし立てた。
「こいつは以前うちの師匠の留守を狙ってシーナを攫おうとした前科があるんだ」
「そうなのか」
ブラシウスまで魔法杖を出してきた。
「まあ待て。今は時間が惜しい。わたしはアルフォンシーナ嬢の行方が分かるとは云わないが、あてはある」
もったいぶった云い方をして、シェラ・マドレ卿は俺たちを外に誘った。そこには卿が乗って来た空中馬車があった。 空中馬車は、病人や幼児、空を飛べない魔法使いが利用する。外観は馬車と変わらない。馬の代わりに箒または鳥が沢山ついていて、手綱を制御する御者がおり、それで飛ぶのだ。
箒に乗れない。そんな魔法使いがたまにいる。二割近くはそうだ。シェラ・マドレ卿はそれだった。たいてい箒に乗れない代わりに別の能力が高かったりするのだが、箒乗りの俺たちからすれば、馬車を数段低い乗り物だと見做していることを否定できない。
「これはあなたの馬車ですか。卿」
「そうだ。早く乗れ」
「嫌だ」
俺とブラシウスは悲鳴のような声を上げた。こんなダサい箱に乗ってたまるか。
馬車にも利点がないわけではない。まず、魔法の敷布や箒に乗るよりは安全だ。悪天候でも濡れない。ティアティアーナ伯爵未亡人のように老齢のご婦人は箒で飛ぶよりも、飛行の安定した馬車を好む。空中馬車は箒を繋げば繋ぐほど馬力ならぬ箒力がつき速くなる。ただし限界があってあまりにも速いと、馬車の箱のほうが分解してしまう。
しかし結局、俺たちはシェラ・マドレ卿の紋章付きの立派な馬車に乗り込むことになった。シーナの行方に関して何かを知っている卿から話を聴きながら、シーナの目撃地点に戻るには、それがいちばん効率が良かったからだ。
「馬車なんてダサい。こんなものは赤子の揺り籠だ」
抵抗していたブラシウスも、それしかないと分かると箒を馬車の下に留めて、いやいやながらも乗り込んだ。空中馬車はすぐに地上を離れた。
星空を往く馬車は想ったよりもずっと快適で、速かった。
「乗り心地は悪くないだろう」
シェラ・マドレ卿が指を鳴らすと、飲み物も出てきた。箒だとどうしても風向きによっては声が聴き取り難いこともあるが、馬車ならば、食事をしたり会話をしながら飛べるのだ。
外観は四角でもシェラ・マドレ卿の馬車の内部は円形だった。椅子も壁に沿って輪になっている。内装も趣味がよく、宮殿の一室のようだ。天鵞絨張りの椅子の座り心地を確かめてブラシウスが悦んだ。
「人間の女の子と散歩に行く時には使えるな」
どんなにせがまれても、人間の女の子を箒に乗せるのは怖くて出来ない。ほんの少し上がっただけでも怖がって暴れてしまい、箒がぐらぐら揺れる。だがこんな馬車なら女の子たちを連れて空中散歩も出来そうだった。
それより、今はシーナのことだ。
痛い目に遭えばいい
棄子すてごのくせに
下賤者、痛い目に遭えばいい
泥棒猫め
懐中時計から流れてきたのは、並々ならぬ怨念だった。馬車内に流れた女の声をシェラ・マドレ卿はもう一度俺たちに聴かせて、懐中時計の蓋を閉めると俺に訊いた。
「聴き覚えはあるか、テオ」
「知らない声です」
一度も聴いたことがない。分かるのは女の声だというだけで、年齢も不詳だ。
「なんですかこれは」
「実は最近、近隣地方一帯の魔法使いに怪文書を廻す者がいたのだ。我が邸宅にも一通、届いた」
シェラ・マドレ卿は悪戯と見做してすぐに手紙を焼却しようとしたが、残留している強い念が気になり、声紋を摘出してみたのが今の声なのだという。
「手紙の文面は、卿」
「白紙だ。何の害もない。しかしこの怨念を向けられた相手がもし手紙を開けば、猛毒が体内に滲み込むようになっていた。白雪姫が口にした毒りんごのようなものだ」
「猛毒だって」
「その様子ではテオの家には不審な手紙は届かなかったようだな」
そんな話は聴いたこともないし、手紙も見ていない。
俺の隣りに座っているブラシウスが女の声を繰り返した。
「棄子すてごのくせに、痛い目に遭えばいい、泥棒猫め」
ブラシウスは俺を見た。
「棄子とは、テオと姉弟子のことを指すのかな。そして泥棒猫とは、女に向けて云うことが多いものだ。今回の誘拐に関連付けるならば、この地方の魔法使いに無造作に呪いの手紙を配っているようでいて、手紙はアルフォンシーナ嬢に向けられた呪詛なのかもしれない」
シーナは誰かの恨みでもかっているのか?
ブラシウスは腕組をした。
「手紙が届いたのはいつですか卿」
「三日前の早朝だ」
「狙いがアルフォンシーナ嬢だと仮定して、その頃はまだテオの家を知らなかったとも考えられる。あるいは、名誉を損なうことが目的だったのか。さらに云うなら、女を泥棒猫と罵る時は窃盗か、男を寝取られた時だ」
「シーナはそんな娘じゃないぞ」
「分かってる」
ブラシウスは俺の腕を引いて座らせると、向かいにいる卿に向き直った。
「シェラ・マドレ卿。怪文書は近隣一帯の魔法使いに配られているとおっしゃいましたね」
「左様」卿はブラシウスに頷いた。
「あの声の持ち主が、アルフォンシーナ嬢を狙って猛毒入りの手紙をばら撒いたとお考えですか」
「可能性の一つに入れている」
「そして卿は、その手紙の差出人に心当たりがあると仰る」
「そうは云っておらん」
ぬけぬけと卿は応えた。
「ただ、並々ならぬ怨念だと想った。そこでわたしは、手紙を配達してきた者どもを突き止めたのだ。手紙を配達したのは黒鴉だ。屋敷の前に鴉の黒羽根が落ちていた。鴉を使って怪文書を一帯に配達させた者と、同じ者が、アルフォンシーナ嬢を攫ったのだ。根拠はこれだ」
先刻、俺の家の戸口から拾い上げた鴉の羽根をシェラ・マドレ卿は取り出した。懐からは別の羽根を取り出して、卿は二枚の羽根を馬車の小卓に並べた。
「鴉の羽根には、たくさんの情報が詰まっているものだ」
俺とブラシウスは黒い羽根を見比べた。
「同じ鴉のものなのですか」
「特徴がある。品種改良された鴉だ」
魔都に出立する朝、家の前で死んでいた鴉。シーナは吉兆だと云って片付けたが、あれはもしかして。
シーナの性格なら、毒入りの手紙にたとえ気がついたとしても、旅立つ前の俺たちに心配をかけぬように処分しているはずだ。
「この鴉を使う悪党下級魔法使いの組織を知っている」
「それだ」
悪事を請け負っている者たちが、猛毒を仕込んだ手紙を撒き散らした。さいわいにも、シーナは手紙を怪しみ、開封しなかった。鴉が死んでいたのは、シーナが餌付けしている野生の猫が襲いかかりでもしたのだろう。
不運なことに、使い魔の鴉が戻って来なかったことで魔女のいる家が突き止められた。そして悪党たちはシーナを攫った。
「わたしはその悪党の巣も突き止めてある」
「素晴らしいです、卿」
「勝手ながら、お前たちの保護者である選帝侯にも急報を送っておいた。テオ。お前はザヴィエン侯爵のことをどこまで知っているのだ」
シェラ・マドレ卿の視線が俺に向けられた。
「侯爵、つまりお前たちの師匠マキシムのことだ」
この誘拐に師匠がなにか関わっているのだろうか。
「そっちの、ええと」
「ブラシウスです。正式名はあえて名乗りません。火急の時だ、爵位や身分などこの際忘れて下さい省略だ」
ブラシウスからみれば地方領主の分家の男など、はるか下位にあたるのだろうが、今は本気でどうでもよさそうだった。箒乗りの男たちにはそういうところがある。
「ブラシウス。君ならば少しはきいたことがあるのではないかな」
「わたしは部外者です。他家の問題には立ち入りません」
「テオは知りたいか」
俺は拒んだ。
「知りたくありません卿」
マキシムの事情。聴いていいものならば、いつか師匠が俺に教えてくれる。
「俺が知るべきことがあるのならば、それは師匠の口からききたいです」
「これだけは云っておこう」
ききたくないって云ってんだろうが。
しかしシェラ・マドレ卿は意外なことを云い出した。馬車の窓の外には音を立てて風が吹き、月明かりに染まった白銀の雲が流れている。
「テオ。なにもわたしがアルフォンシーナ嬢に関心を寄せたのは、好き心があったからだけではないぞ。わたしなりに彼女のことは昔から気にかけ、心配していたのだ」
分家の日蔭者らしい、深いものをのぞかせた声で卿は云った。
「あのままにはしておけないとな」
「大きなお世話です」
俺はかみついた。シーナを誘拐しようとしたことをまだ忘れてないからな。
「シーナには師匠と俺がついています」
「そうではない」
シェラ・マドレ卿は窓の外の夜景に視線を向けた。
「アルフォンシーナ嬢に問題があるわけではない。ただ、存在そのものが忌むべきものとなることもあるのだ。誰かにとってはな」
痛い目に遭えばいい
泥棒猫め
「魔女であることが問題なのだ。アルフォンシーナ嬢が人間の娘か、お前のように男子で、魔法使いであればまだ良かったのだろうが」
「もし師匠の実家の事情がそこに絡んでいるのだとしても」
俺は云い直した。
師匠の過去や背景に複雑なものがあろうが、俺の知っている師匠は師匠だ。
「師匠は絶対にシーナを悪いようにはしません。シーナの倖せをこの世で誰よりもねがっているのはマキシムです。シーナは絶対に大丈夫です」
「マキシム・フォン・ザヴィエン選帝侯。――『切り裂き魔マキシム』」
ブラシウスが呟いた。
師匠が箒で飛び過ぎると近くにいる者の膚から血が噴き出すというのは、あながち比喩ではなかったのかもしれない。おそらく師匠が本気で飛ぶとそのくらい速いのだ。『流星』『彗星』『流星群』の三冠と、『若鷲賞』『天馬杯』『カシニ間隙勲章』『十字金星』。七つの星冠を手にしていた師匠。
どうしてそんな晴れがましい栄誉を俺たちには隠していたんだろう。
昏い眼をした金星のマキシムも、鮮血のマキシムも、俺は知らない。
シーナを見かけた中央駅の上空が近くなってきた。車窓の灯りを並べた夜汽車が蛇のように駅舎に出入りしている。「ここで降りよう」ブラシウスが俺を促した。
「俺とテオとでアルフォンシーナ嬢を乗せた汽車を追跡します。卿は、選帝侯と落ち合って下さい」
「心得た」
「テオ、どうした。気分が悪いのか」
俺の蒼褪めた顔をブラシウスがのぞき込む。俺は窓の外を見ていた。頭の上にある天窓も。馬車を取り囲む夜空は静かだった。
何だろう。
何も見えないのに、月や星以外のものが見える気がする。この夜空の何処かに何かある。馬車の窓から見える範囲には何の異常もない。それでも。
魔女ほどではないが、こういう時の魔法使いの勘は信じたほうがいい。しかしそれではシーナの探索はどうなる。ここまで戻って来たのに。シーナを乗せた機関車を追うこと以上に急がなければならないことなどないはずだ。
でも、胸騒ぎがする。
流れる雲に隠れてそれは全く見えないが、星灯りのこの夜空の何処かに何かある。絶対に何かある。仕立て上がる直前の衣裳についた糸屑のような何か。
禍々しきもの。
「俺、ちょっと行ってくる」
「何だって。待て、テオ」
「ブラシウス、君は卿の指示で動いてくれ」
「どうしたのだ。何事だ」
「お前が機関車を追わないでどうするんだよテオ。おい」
馬車の扉を開けた。どっと夜風が吹きつける。反対側にも通風孔があるのか馬車の安定は崩れなかった。
床に這いつくばって腕を伸ばし、馬車の下に留めてある俺の箒を外す。街の灯りが下界に見えている。その灯りはまるで黒布に針の先で孔を開けて後ろから照らしたもののように見える。
「テオ」
「後から合流する」
箒を手にした俺は肩から転がるようにして馬車の床から跳び降りた。後方に流されてくるくると回りながら箒にまたがって体勢を立て直す。
見えない強い糸に引っ張られるようにして俺は暗い地平線に向かって箒を飛ばし、馬車を後にした。
あなたが来るまで、わたしはあちこちに預けられていたのよ、テオ。
若い男に女の子が育てられるわけがない、誰もがそう云ってわたしをマキシムから取り上げたわ。
あれは何処かの、遠い街。
わたしはいつもマキシムのことを心配していたの。
人間の女将さんたちはわたしに家畜の世話や針仕事を親切に教えてくれた。
「あんたは魔女だから、そのうち魔法で何でも出来るようになるんだろうけれど、覚えておいても損はないよ」
時々現れるマキシムはわたしを古城の址に連れて行ってくれた。そこでマキシムから魔法を学んだわ。
わたしは魔女だった。人間の中の魔女でいるよりは、海風の中に佇むマキシムの方が慕わしかった。その頃マキシムが暮らしていた、海辺のあの古い家。
そして或る日わたしは路上にいるあなたを見つけたの。あの男の子と一緒ならば、家族になって共に暮らせるのではないかとそう考えたわ。
大反対を受けたそうよ。
それまで、マキシムの親族の方々は、わたしの存在すら知らなかったから。
マキシムは彼らと絶縁して、わたしとテオを連れてこの辺境で暮らすことを選んだの。幸運ね、わたしとテオは。倖せね。
夜風の中、何かに導かれて飛んでいた俺は星空の合間にそれを見た。それは、宇宙に放たれた壊れた独楽のようだった。紙が真っ黒になるまで力任せに幼児が線を描いているような、無秩序で混乱した動きをしていた。
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