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魔女とりんごの花  作者: 朝吹
Ⅱ.空から落ちます、見ててくれ
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Ⅱ 前篇(上)

 

 立会人の乗る箒の尾が上空の気流に少し上下している。俺の箒はやる気満々の闘志を秘めて落ち着いているが、箒の柄を握る俺の両手は、空の寒さに少しかじかんでいる。


 対戦相手の方はどうだろう。


 隣りにいるそいつは箒の上で上体を起こして両手を開けており、余裕綽々に風に身を晒して肩や首を回している。俺の方を見もしないでそいつは云った。

「びびって漏らすなよ」

「そん時はお前に向けてまき散らしてやる」

 俺は云い返した。

 魔界の象徴でもある紫水晶の尖塔が雲に隠れている。奇岩のように聳え立つ塔の狭間で風を受けた箒がゆらゆらと小刻みに揺れ動く。

 生身で上空に留まる経験をしたことがあるだろうか。軍隊の空挺兵なら知っているかも知れない。そこにあるのは吹きさらしの空白だ。

 沸き立つ雲、轟く雷鳴、刻々と形を変えていく白雲に映る太陽光のプリズム。目新しさが過ぎれば広がるのは無限の茫漠だ。見ているうちにこちらの意識までさらさらと崩れていく。がらんどうの世界。

 全てが遠く、はるか遠くまで続いていて、そこに静止する者は極限の孤独に晒される。やすりのように身を削る蒼い風。次第に肉体の輪郭を見失い、薄い大気の中で何処にいるのか分からなくなっていく。

 十歳になった時のことだ。単騎で飛べと師匠に云われてはじめて俺は独りで上空にあがった。初単独長距離飛行だ。

 首からぶら下げた地図を頼りに目的地を目指す、原始的な地紋航法。空の上は見渡す限り何もない。ただの白と青の境界を、地表の形状と地図を照らし合わせながら箒でおっかなびっくり独りきりで飛ぶ。そこへ前方から雲海が押し寄せてきた。

 雲の中を往くうちに天地を見失った。恐怖に駆られ、俺は早くこの霧から抜けようと藻搔いて焦りながら上昇しているつもりで下降していたらしい。全速力で雲から飛び出すと、いきなり山脈の岩肌が眼の前に迫ってきた。ものすごく怖かった。

「よく来た」

 指定された目的地のお屋敷の庭には師匠マキシムの学友が待っていた。師匠というと、よほどの年輩者のようだが、棄子だった俺や姉弟子のシーナが師匠に拾われたのは師匠がまだ学生の頃だったから、師匠の友人の魔法使いもまだ若い。

「迷わなかったかい」

 長時間冷たい風に晒された上に、初めての単独長距離飛行の緊張でがちがちに身体が強張っていた。師匠の友人はそんな俺を脇から抱えて箒から降ろしてくれると、「よくやった」俺の背中を強く叩き、屋敷に招き入れて蜂蜜入りの熱い紅茶を飲ませてくれた。

 師匠の友人のベルナルディ・フォン・長いから略はその後、俺を誘い、彼の領内を案内してくれた。田園のような広い庭で弓矢を教えてくれたり、釣りにも行った。

「一度飛んだ航路は忘れないものだ。これでいつでもうちに来れるな、テオ」

 どこか翳りのある師匠とは違い、ベルナルディの笑顔は太陽のようだった。


「ほら、あの方じゃないの。ネルネル、ネルネルディ……」

「ベルナルディよ。ベルナルディ・フォン・ホーエンツォレアン」

「何度か邑にも遊びに来ていたわね。ご友人のマキシムさんに逢いに来ているとばかり想っていたけど、あれってやっぱりそうなのよ。わざわざ豪華な馬車でやって来て、お土産を沢山載せておられたじゃない」

 戸一枚で仕切られた狭苦しい試着室にぎゅう詰めになっている仲間の視線が一斉に俺に向いていた。俺は首を横に動かした。何も知らないってば。

 だいたいなんで仕立て屋にまでお前たちは附いて来たんだ。

 俺には友だちが沢山いたが、ほとんどは人間の子どもだ。辺鄙な田舎の邑には魔法使いといえば俺の家だけだったし、近隣の街にまで出て、ようやくネロロや数名がいるくらいだ。

「よお、テオ。何処に行くんだよ」

「仕立て屋だよ」

「面白そう。俺たちも行く」 

 俺が仕立て屋の店主と話している間、巻いた布を整然と納めている棚や、切れ味抜群の鋏や、飾り彫りのある古めかしい作業台を物珍しそうに眺めまわしていた連中は、街のおばさんたちが連れ立ってこちらに向かってくるのを窓越しに見かけるや、

「やばい。家の手伝いをさぼっているのがバレる」

 全員が大挙して俺のいる試着室に逃げ込んできたのだ。

 邑の女将さんたちの噂話に耳を傾けるつもりなど毛頭なかったのだが、今さら出て行くわけにもいかない。そして女たちはおしゃべりで長居する。小部屋の中でぎゅうぎゅうしながら俺たちが息を殺していると、その話が始まったのだ。

 アルフォンシーナのお嫁入りが決まるのね。


 俺はテオ。魔法使いだ。アルフォンシーナ愛称シーナは俺の姉弟子。俺の家は雪冠の山脈を背後にひかえた邑はずれの丘の上にある。そこに師匠のマキシムと俺とシーナの三人で暮らしている。俺たちに血の繋がりはない。人間から見るとかなり奇妙な家族形態だろう。事情を知らない人が見れば、俺たちはきょうだいにみえるかもしれない。

 俺と姉弟子のシーナは師匠に拾われた棄子だ。俺たちとは違い、師匠のマキシムは相当な貴族の家の出で、本来ならば爵位をつけて呼ばなければならないらしい。ところが師匠がそういうことを極度に疎んじているせいで、一帯では師匠のことを貴公子扱いしながらも誰もがさん付で呼んでいた。

「暗かったわよね」

「マキシムさん。邑に棲みついた頃はね」

「アルフォンシーナは、マキシムさんの花嫁になるのだとばかり想っていたわ」

 俺もそう想っていた。

 仮縫いの途中だったので少し身じろぎするたびに針がちくちく刺さる。採寸から始まってこんなに何度も街の仕立て屋に通う羽目になるとは想わなった。その辺に吊るしてある出来合のものでいいのにな。

 試着室に潜んでいる俺たちは、街のおばさんたちの話の続きに耳を澄ました。

「あら、それは無理よ。家なき子は由緒正しい家系には入れないものよ。そこは人間界も魔法界も変わらないわ」

「それならネルネルディさんでも同じことじゃないの。領主ですもの」

「あなたたち一体いつの時代の話をしているの。昔ほど厳格じゃないわ。アルフォンシーナも一旦どなたかの家の養女になって家名をつければいいのよ。そうすればあの娘もベルナルディ・フォン・ホーエンツォレアンさまのところに御輿入れできるのよ」

「いいえ、やっぱり無理よ」

「そうよ。魔法界は伝統と血統を重んじるわ」

 大好きな姉弟子のことが話のつまみにされているのはあまりいい気分ではない。そして街のおばさんたちが魔法界の事情に通じていることにもびっくりだ。俺よりもよほど詳しい。

 アルフォンシーナは魔女だ。魔女はあまり人間と付き合わない。同じ魔法使いでも俺のほうは昔から人間の子どもたちと野山を駈け回って遊んでいたが、家族の他にシーナと付き合いのある者といえば、定期的に都からやって来るティアティアーナ伯爵未亡人くらいだ。

 夫の死後、有閑を持て余していた魔女のティアティアーナ未亡人は、マキシムから依頼を受けると張り切って淑女の行儀をシーナに仕込みに空中馬車に乗ってやって来た。

 頭の上に本を乗せて歩いたりスカートの襞をつまんだり扇で顔を隠したりして、淑女の嗜みとやらをシーナは田舎の鄙びた家の中で白髪の老婦人から躾けられたが、苦難はシーナだけではなく俺にも降りかかった。

「テオさまも貴公子にならなければなりません」

 ティアティアーナ伯爵未亡人は厳しかった。お行儀が悪いと云っては扇で手の甲をぴしゃっと叩かれた。

「選帝侯にお恥をかかせてはなりませぬ」

 選帝侯というのはマキシムのことだ。

 時々マキシムの実家からお遣いが家に来た。執事のホルストさん。学校の先生みたいな執事のホルストさんは面を伏せ、静かな声で師匠のことを、「マキシムさま」と敬って呼ぶ。

「ねえマキシム。裏の樫の木に新しい鳥の巣を見つけたよ」

「マキシム、ねずみが裁縫箱からまた指ぬきを持って行ってしまったの。取り返して」

 長年、棄子の二人にまとわりつかれながら家長の役割をこなしていたマキシムだが、俺たちが成長するにつれて、特に俺などは背丈も伸びて、最近ではマキシムのことを、もっと歳の近い本当の兄のように想うようになっている。

 俺はまだ子どもの範疇だったけれど、十六歳になった俺は、子ども時代の最期を過ごしていた。

 先日、ベルナルディ・フォン・ホーエンツォレアンがいつものように魔法界から俺たちの家に遊びに来ていた。油絵具を重ねるようにして田舎の空があかく暮れてゆく。夕暮れの邑を見下ろしながら庭の柵に凭れて葉巻を吸っていたベルナルディとマキシムは俺を呼び止めた。俺は仲間と一緒に邑のちびたちを引き連れて森の樹の上に「隠れ家第三号」を築いた帰りで、ついでに拾い集めた薪を背負い、今晩の夕食はなんだろうと想いながら歩いていた。

 彼らは俺を近くに呼ぶと、葉巻を一本くれた。

「いいの、師匠」

「いいよ」

 夕陽から飛び火したような葉巻の火種。彼らからもらった葉巻は苦くて煙たくて吸えたものではなかったが、夕焼けに立ち昇る細い煙と口に残るその苦みは黄昏の中で俺に告げていた。そろそろお前も大人になる。

「クラウディウスの息子、ツォレルン家のバルトロメウスはどうだろう。丁度よいと想うが」

 その時にベルナルディが師匠に向かって口にしていたことを、俺は、小耳に挟んで憶えていた。

「ツォレルン家」

「それがなに。テオ」

「ベルナルディがそう云ったんだ。ツォレルン家のバルトロメウス」

 俺が訊いてみても、アルフォンシーナもそんな家名は全く知らなかった。

 でもあの時のあの話は、もしかしたら仕立て屋に集まっていた女将さんたちの噂話に繋がっているのかも知れない。


 高い処から渦巻く波頭や崖下を見下ろすと、人間ならば背中の皮が剥がれて内臓が吸い込まれていくような気分になるそうだ。魔法使いとして箒に乗って空を飛び、高みに慣れている俺たちであっても、突風が吹いて箒が跳ね上がったり傾くとひやりとする。

「勇気は認めてやる。テオ」

 視界の端っこに雪の山脈が見える。空の上で並びながら、箒に乗ったそいつは俺に云った。煌びやかな上着を脱ぎ捨てた貴族のそいつと俺は、今から塔と塔の壁面の合間を墜落していこうとしているのだ。

「地上で逢おう。命があることを君の為に祈るよ」

「ブラシウス」

 巻き毛をした立会人の若い魔法使いがブラシウスの挑発を咎めた。だが、俺には分かる。ブラシウスは俺を挑発しているわけじゃない。動揺させようと試みたわけでもない。むしろ俺を認めているのだ。

 風が下から吹き上がる。気流はあるが時折、無風になる。立会人の巻き毛の魔法使いが魔法の鏡を用いて、はるか下の地上と連絡を取り合っている。

 いつでもいいぜ。落ちてやる。

 なんでこうなったのか知りたいだろ?

 順を追って話すから待っててくれ。ちなみに俺とブラシウスは大親友になっていて、二人でいま、半泣きになりながら行方不明になったアルフォンシーナを探しているところだ。



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