Ⅳ 中篇(上)
天窓から差し込む細い光がルクレツィアさんの姿にあたっている。ただでさえ綺麗な人が天からの光を受けて、神々しい。
「ベルナルディ」
寝椅子に背を凭せ掛けたルクレツィアさんは眼を伏せていた。
「父親の名を明かせぬまま、これ以上あなたにご迷惑をおかけするわけには」
「何を云っているんだ」
ベルナルディは魔女の足許に崩れ落ちんばかりだった。
「こうして起き上がれるまでに快癒してくれて、それだけでどれほど嬉しいかルクレツィア」
「夜の間もあなたが付き添って下さったからだわ」
「あの赤子はわたしの子として育てる。この家で。だから君もこの家で、奥方となって暮らして欲しい」
ベルナルディがさらけ出しているのは本物の男の愛だ。魔女が行方不明になった時も気も狂わんばかりに捜していたが、ベルナルディの愛情はルクレツィアさんが一時、がくんと容体が悪くなった時に頂点を迎え、これでもし魔女が死にでもしたら後を追うのではないかと想うほどだった。
ベルナルディはルクレツィアさんに懇願した。
「結婚してくれ。どうかもう二度と、黙って何処かに行かないでくれ」
絶対に俺、このままこの室に居てはいけないと想うんだよな。ルクレツィアさんのお見舞いに来て、シーナからの見舞いの品の入った籠を渡し、日差しが強くなりそうだったから窓の鎧戸を少し下げて、ついでに後で母子が日光浴に出るであろう露台にも日除けをかけて、室に戻って来たら、何かが始まってしまっていたんだ。
隣室から赤子の泣き声がしている。男の子らしく、泣き声は以前に比べてずっと力強い。続き部屋の扉が叩かれて、アロイスが顔を出した。ルクレツィアさんが少年の名を呼んだ。
「アロイス」
「ルクレツィア。ハンスエリが起きた」
ハンスエリ。それが赤子の名だ。
「ありがとうアロイス。ハンスエリをこちらに連れて来て」
ベルナルディが眉を寄せる。ルクレツィアさんの身体のことが心配なのだ。それでなくとも貴族ならば、母親ではなく乳母が母乳を与えて育てるものらしい。
俺は今度こそ出て行こうとした。ベルナルディはともかく俺がルクレツィアさんの授乳場面を見てはいけない。邑の人間の女たちは、畠でも何所でも、赤子がぐずれば胸元をめくって赤子に乳を与えているから見慣れているといえば見慣れているけど、アスパシアの乳房なんか見たら、眼が潰れてしまうよきっと。
隣室からアロイスが赤子を連れてきた。母親は赤子を宝物のようにそっと胸に抱いた。聖母子を描いた画にそっくりだ。
ありがたく眼に焼き付けて、俺は素早く室の外に出た。
屋敷の前には造園が広がっている。そこで大きく深呼吸していると、アロイスが館から出て来るのがみえた。彼も遠慮したのだろう。俺に気が付くと、アロイスは軽く頭を下げた。
「子爵」
「テオでいいよ。みんなそう呼ぶんだ」
「先日は、地方競技場での優勝おめでとうございます」
「ありがとう」
爵位は長子だけが名乗ることもあれば、子息全員が等しく名乗ることもある。魔法界では後者を採択しているから養子の俺も一応子爵なんだ。
アロイスは堅苦しい性格のようで、少年らしく笑ったところをまだ一度も見ていない。俺は咳払いの代わりに喉を鳴らした。どうにもやりにくい。氷の彫刻のように整った面差しといい、昔の師匠を見ているような気がする。
「アロイス、俺はこの家の養子で、もとは棄子なんだ」
「そうですか」
「そうなんだ、君と同じ棄子の魔法使いさ」
アロイスは人間の医者に拾われて、その家で育てられたそうだ。
「路上で死にかかっているところを師匠に拾われたんだ。でも俺は棄子だったことを羞じてはいないよ。師匠やアルフォンシーナに逢えたしね」
「そうですか」
「アルフォンシーナは今日も、籠いっぱいの花と、ハンスエリのための小物を編んでルクレツィアさんに届けてくれたよ」
「アルフォンシーナ」
アロイスは想い出すような顔をした。
「ああ、あの魔女」
「シーナは俺の姉弟子なんだ」
「お礼を云っておいて下さい」
アロイスは素っ気なかった。シーナには何の興味もないようだった。
「アロイスは何処でルクレツィアさんと知り合ったんだい」
何か一つでも、赤子ハンスエリについての手掛かりを得ることが出来ないだろうか。父親が誰なのか。
「ハンスエリが生まれた時、君は近くにいたの」
「わたしの養父は、人間の医者です」
「うん、そうなんだってね」
「人間の医者なので、魔女の出産に立ち会うのは初めてでした。ルクレツィアは手出し無用だと最初は云っていたのですが、様子を見に行くと、廃墟の修道院の片隅で出血して倒れていたのです。駈けつけた父が赤子を取り上げました。ハンスエリは父がいなければ産声を上げぬまま死んだでしょう」
うわあ。そんなことになっていたのか。
「ルクレツィアは、父の家に運ばれました。彼女はうわごとでベルナルディの名を呼んでいました。失礼ながら荷物を検めさせてもらいました。ルクレツィアの外套の裏には、ホーエンツォレアン家の紋章と仕立て屋の印が入っていました。ぼくにはそれが何か分からなかったので、少し離れた街にいる老魔法使いに訊きに行きました。魔界への入り口を教えてくれたのもその老魔法使いです。老魔法使いは云いました。『これはホーエンツォレアン家の紋章で、この外套はお抱えの仕立て屋が仕立てたものだ』と。そこから調べて、現当主の名がベルナルディであると分かりました。ぼくはベルナルディに助けを求めるべきだと想いました。人間界で魔女の治療をするには、出来ることが限られていたからです」
そこだよ、聴きたいのは。俺は身を乗り出した。ルクレツィアさんがうわごとでベルナルディの名を呼んでいたのなら、赤子ハンスエリの父親はやっぱり、愛するベルナルディなんじゃないのか。
その期待を裏切り、アロイス少年はさらに云い出した。
「ルクレツィアは別の男の名も呼んでいました。マキシムと」
わああ。大変。
「マキシム、助けて。そう云っていました」
やっぱりこれは俺の手には余る事態なのかも知れない。大人の事情には首を突っ込まないほうがいいのかも。これが別件ならシーナに担当させたいけれど、マキシムが絡んでいるとなれば、きっとシーナも冷静ではいられないだろう。
さらに、アロイスは付け加えた。
「それからこの名もうわごとで呟いていました」
まだあるのか。
「アルバトロス」
俺は首をひねった。知らない名だ。
アルバトロス。
誰?
「アルバトロス、やめて。ベルナルディ。マキシム、助けて」
アロイスは睨むようにして俺の顔を見詰めながら、落ち着いた声で告げた。
「ルクレツィアはそう云っていました。泣きながら」
どうやら想像以上に込み入った背景があるようだ。ベルナルディ、マキシム、そして第三の男アルバトロス。
俺は気を取り直した。
「アロイス。君は魔法使いだ」
「そのようです」
「箒乗りの魔法使いだ。地方競技場でのあの疾走。素晴らしかった。君は天性のライダーだ」
それだけじゃない。俺の初単独長距離飛行の時なんて、今から振り返ると恐怖体験でしかなかったのに、アロイスはそれまでほとんど箒に乗ったこともないのに、いきなりそれよりも何倍もの長距離飛行を独りきりでやり遂げたのだ。凄いことだ。いや、凄いというよりは――。
ありえない。
「箒。箒の乗り方はどこで覚えたんだアロイス」
「最近。自分で」
「魔法は。君は誰に魔法を教えてもらったんだ」
そこでアロイスは俺に視線を向けた。うるさい。その眼は冷たくそう云っていた。
やはり師匠の面影がある。俺は黙った。
「ここか、テオ」
「パキケファロ」
そこにやって来た巻き毛のパキケファロが天使に見えた。パキケファロ・デュ・ルッジェーロの登場に、アロイスの態度はすこし和らいだ。ルクレツィアさんの危機を告げるために円形闘技場に現れたアロイスをベルナルディの許に送って行ったのはパキケファロだ。そのせいか、アロイスにとっては俺よりもパキケファロの方が親しみがあるようだ。
「やあ、アロイス」
「この前はありがとうございました。パキケファロさん」
優等生同士の組み合わせという感じだった。パキケファロとアロイスは気が合うのか、二人同時に俺に顔を向けた。何だよ。俺だって失礼な詮索なんかしたくないさ。だけど知る権利はあるぞ。ベルナルディは兄なんだから。
「ぼくは一度、父のいる郷里に戻ります」
俺を無視してアロイスはパキケファロに向かって云った。
「ルクレツィアとハンスエリのことは、もう子爵に任せておけばよさそうですから」
「人間界の君のお父上は、どう云っているのだい」
パキケファロは親切心からアロイスに言葉をかけた。
「家の近くに魔法使いが誰もいないのであれば、君は、魔法界で暮らした方がいいと想うよ」
アロイスは気にした風もなさそうだった。
「ぼくには父がいます。それでは」
「まさか箒で帰るつもりか」
俺は慌ててアロイスを引き止めた。
「遠いんだろう。空中馬車を出してもらえよ」
アロイスは振り返った。解せないという顔をしていた。そして立ち去る少年は心配している俺とパキケファロに会釈をして、
「ゆっくり飛ぶわけではないので」
と云った。
パキケファロは、俺に教科書を渡しに来たのだ。結局、俺は魔都の学校に行くことになりそうだったからだ。通信教育にはない学科があって、今のうちにやっておけと彼から云われていた。
「ハンスエリについてはいずれ分かるだろう。成長したらきっとね。赤ちゃんがベルナルディに似てきたら、隠すこともできない」
それもそうか。まるで似ていない可能性もあるけれど。
「テオ、赤子のことよりもアロイスの方が気になる。雰囲気のある子だ。大人びているというだけでなく、ちょっと他では見ない感じだ」
学業優秀のパキケファロはそう云うと、俺に宿題を出して、帰って行った。
入れ違いにブラシウスが遊びに来た。義兄は俺の交友関係に寛大なので、次第にホーエンツォレアン屋敷が仲間のたまり場になりつつある。到着したブラシウスは屋敷の屋上の発着場から箒を片手に持って階下に降りてきた。
「アロイスはそんなことを云ったのか。驚くな」
地方競技場の一件からアロイスに興味津々のブラシウスは感嘆を洩らした。それは俺もそう想う。俺が十歳の頃とは大違いだ。初飛行であんな長距離を単身で飛ぶのもすごい度胸なら、迷わないのも奇跡だ。
「子どもならば方角を確かめている間に気流に流されて迷子になるのが普通だぞ。棄子か。ちょっとその邑に行ってみようかな」
「どの邑」
「アロイスの郷里だよ。何か分かるかも知れない。アロイスの育ての親の人間の医者にも逢ってみたい。ハンスエリのことも、取り上げた医者に訊けばもう少し詳しく分かるだろう」
ブラシウスは悩むよりは動く。行動力抜群だ。
「アロイスは、さっき、邑に帰ったよ」
「彼の後を追いかけて俺たちも行こう」
「ブラシウス、それは明日の午後でもいいかな」
「なんで」
「明日は魔都で約束があるんだ」
エリーゼ・ルサージュとの。
エリーゼはとても忙しそうだった。したがって午前中の、短い時間しか逢瀬の時間が取れないとのことだった。俺はそれで一向に構わなかった。エリーゼに逢えるだけでいい。
「地方競技場に行ったら、あなたが飛んでいたのよ。愕いたわ」
魔都の郊外に出て、二人で箒を並べて花の咲く丘陵を雲雀のように駈け回った。高級な店でかしこまってお茶を飲むとかでなくて良かった。こういうところもエリーゼが好きだ。
「今日は外に出て、うんと走ってみたい気分だったの」
エリーゼは微笑んだ。リボンで束ねた髪を野原の風になびかせている彼女は、花の女神のようだ。
「二人乗りのお作法も練習したんだ」
「それなら、前に乗せてみて」
エリーゼは箒から降りると、前回とは違い、俺の箒の前に横座りした。
ブラシウスがシーナにそうしていたように、俺も一切女に触れることなく箒を走らせた。見本を見せてくれた師匠は片腕でシーナを支えていたっけ。難易度が高いのは、師匠のように片腕で女を支えて、片手で箒を操る方だろう。
いつ落っこちるか分からないので、女の沓先が草に触れるほど高度は低くした。慣れてきたので徐々に速度を上げて野原を廻った。エリーゼは飾り気のない笑い声を上げた。
「お上手。本当に箒乗りの申し子なのね」
「あの日はなんの用で地方競技場にいたの、ヘタイラ・エリーゼ」
「たまたまあそこにいたの」
エリーゼは詳しくは語ろうとはしなかった。
「そういえば、ヘタイラ・ルクレツィアが見つかったって本当」
「うん。屋敷にいるよ。元気になった」
「良かったわ。憧れの人。引退するわと以前から云っているところを、全員で引き止めているのよ。最高のアスパシア。華のようなあの人がいないとやっぱり締まらないわ。そう、子爵さまのお屋敷にいるのね。ルクレツィアもあれだけ一途に愛されたら、お倖せでしょうね」
アロイスから聴いた三人の男の名が俺の胸をしくしくさせた。
「ねえエリーゼ。その、ルクレツィアは他にも誰かと交際していたことはあるのかな。俺の兄と付き合う前に」
「ごめんなさい、そういうことは他言できないの」
彼女たちの守秘義務は堅いらしい。
考えた末に、俺はこれだけを訊いた。上流階級と付き合いのあるヘタイラは情報通なのだ。口が堅くてほとんど何も教えてはくれないが、差支えのないことならば教えてくれる。
「アルバトロス」
箒に横乗りしているエリーゼは笑顔を消して俺の方に顔を向けた。
「アルバトロス。知らないわ。その方が、どうかして」
「知らないならいいんだ」
いったい誰なんだろう。アルバトロス。
エリーゼを「ここでいいわ」という場所まで送り届けた。それから俺は急いで屋敷に帰ろうとした。午後からアロイスの邑にブラシウスと行くのだ。夕方になるまでには出立したい。
「痛い」
後ろから頭をこつんと叩かれた。魔都の通りを行きかう馬車の窓から伸びてきた杖が俺の頭を叩いたのだ。
「何をする」
後頭部を抑えて振り返ると、「見ていたぞ」と声がした。
「今の令嬢は誰だ。アルフォンシーナ嬢に云いつける」
馬車の窓からシェラ・マドレ卿が不機嫌な顔を出していた。
》幕間




